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第3章 鎌倉の石
第75話 起請文
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翌、六月はコシロ兄は新しく造られる永福寺の造営で殊に忙しかった。全ての采配を任されてしまったのだ。北条の四の姫が嫁いで義弟となっていた畠山重忠らが手伝い、その剛力で梁から棟からあっという間に建ててしまう。頼朝は喜んで皆々に褒美を与えた。
そして七月、いよいよアサ姫の出産が近付き、アサ姫は浜御所と呼ばれる名越の北条館に入った。
直後、京から報せが届く。頼朝が征夷大将軍に任じられたという。やがて続々とやって来る京からの勅使。頼朝は念願だった大将軍の地位をやっと手に入れたのだ。鎌倉は喜びに沸いた。京からの使者と、それを迎えて丁重にもてなす御家人らの華やかな饗宴の応酬。その興奮さめやらぬ八月の九日、昼前にアサ姫は男児を産んだ。コシロ兄ら有力御家人六人が護り刀を献上し、阿波局が乳付け役となった。男児はその名を千幡と名付けられる。
重なる慶事に、鎌倉の町中至る所がお祭り騒ぎになった。
だが、それから少ししたある日、御所にいたヒメコの元に名越にて千幡君の乳母をしている阿波局から急ぎの文が届く。若君誕生の祝い事が一段落ついたところで、コシロ兄が姫御前を正室として迎える期日について時政に相談をした所、反対されたというのだ。
文によれば、
牧の方が「義時殿には京に縁ある姫を正室に」と言い出し、北条時政も「今更比企の姫を娶っても得なことはない」と答えたとのことだった。
昨年末、北条時政と牧の方は「比企の方々とは今後もよしなに」と、そう言っていたのに。
千幡君が産まれたからだろうか。ヒメコは背を何か冷たい物が走るのを感じた。
文には続けて、
小四郎兄は、父に「比企と事を構えるつもりか」と凄んで見せたけれど、父はのらりくらりでどうにも如何わしい。
こっそりと御所様に事の次第を伝えて何らかの対策を講じて貰うから覚悟しておいて、とあった。
覚悟と言われても何をどう覚悟していいのか分からずに幾日か経ったある晴れた日、ヒメコは大広間に呼ばれた。
その場にはコシロ兄や北条時政、比企能員、中原広元など、諸御家人、文官らがズラリと並んでいた。
頼朝はヒメコをじっと見て口を開いた。
「姫御前、こちらの江間義時が姫御前を妻にと願っているそうだ。聞けば、この義時はここ一、二年、そなたに懸想して文を送っていたとのこと。義時は私の側近で家の子筆頭。大恩ある比企尼君の孫姫を正室として迎えるに申し分ない身である。よって、征夷大将軍たるこの私の命により、そなたは今晩早速、江間義時の正室として江間へ嫁げ」
「え、今晩?」
いきなりの事にヒメコは絶句する。
「何か不服でもあるか?」
頼朝に問われ、いいえと首を横に振りつつ、
「あ、あの、実は母が江間様との結婚を渋っておりまして」
嘘は言えずに小さくそう答える。コシロ兄がヒメコを振り返るのを申し訳なく感じながら頼朝の言葉を待つ。
「渋る理由は何だ?」
頼朝に問われ、ヒメコは頭を下げた。
「はきとはわからないのですが、私が身体を壊して離縁されるのではないかと危惧していました」
すると頼朝は、ふぅんと相槌を打った後、それは丁度良いと呟いた。
「義時、比企の姫と離縁せぬという起請文を今すぐ書け」
「起請文?」
ヒメコは驚いて声を上げた。
起請文とは神仏への誓い。戦での合力などに用いられ、約束を違えぬ証として重んじられていた。でも単なる婚姻に起請文を書くなど聞いたことがない。
頼朝は頷いて続ける。
「そうだ。ここで今すぐ起請文を書け。誰か書くものを持て」
頼朝の声に中原広元が立ち上がり、コシロ兄に紙と筆を手渡す。コシロ兄はその場で筆を走らせ、サッと風を当てて乾かすと丁寧に折り畳んで両掌に乗せ、ゆっくりと額の前に捧げ上げた。
それを見た頼朝は立ち上がると段を下りてコシロ兄が掲げ上げた起請文を手に取り、北条時政の斜め前に立った。
「さて北条の舅殿、ご子息江間義時と比企の姫との縁組に異存は無かろうな?」
「はっ、無論で御座います」
時政は手をついて大仰に頭を下げた。
それからバッと顔を上げ、両の口の端を持ち上げて口を開く。
「将軍様直々のお声がかりとは誠に有り難き縁組。しかし今晩早速とは急なこと。急ぎ戻って支度を整えねばなりませぬ。では皆様方、私共はこれにて失礼致します」
そう挨拶してコシロ兄を急き立て、広間を出て行く北条時政。頼朝も用は済んだとばかりにさっさと広間を後にした。
残されたヒメコは呆然とする。
——え、今晩?そんなに急に?
暫し呆けたヒメコだが、御家人衆、文官らの視線を感じて慌てて立ち上がると広間を抜け出た。
——どうしよう?
フラつきかけるが、フラついてる場合でもない。頼朝が今晩と言ったのだから今晩なのだ。阿波局が言っていた覚悟とはこれのことかと思う。
どうしようもこうしようもない。自ら望んだことが、ただ思いの外急に進んだだけ。
ヒメコは与えられた部屋へと戻り、行李の中の文箱を取り出すと息を詰めてその蓋を開いた。中に収めてあった青の組紐を手に取り、固く握り締める。
あんなに待ち望んでいたというのに、いざ話が進むとまるで実感が湧かない。
でも結婚とはそういうものなのかも知れない。このようにして前へ進んでいくものなのだろう。ヒメコはそう自分を納得させた。
そして七月、いよいよアサ姫の出産が近付き、アサ姫は浜御所と呼ばれる名越の北条館に入った。
直後、京から報せが届く。頼朝が征夷大将軍に任じられたという。やがて続々とやって来る京からの勅使。頼朝は念願だった大将軍の地位をやっと手に入れたのだ。鎌倉は喜びに沸いた。京からの使者と、それを迎えて丁重にもてなす御家人らの華やかな饗宴の応酬。その興奮さめやらぬ八月の九日、昼前にアサ姫は男児を産んだ。コシロ兄ら有力御家人六人が護り刀を献上し、阿波局が乳付け役となった。男児はその名を千幡と名付けられる。
重なる慶事に、鎌倉の町中至る所がお祭り騒ぎになった。
だが、それから少ししたある日、御所にいたヒメコの元に名越にて千幡君の乳母をしている阿波局から急ぎの文が届く。若君誕生の祝い事が一段落ついたところで、コシロ兄が姫御前を正室として迎える期日について時政に相談をした所、反対されたというのだ。
文によれば、
牧の方が「義時殿には京に縁ある姫を正室に」と言い出し、北条時政も「今更比企の姫を娶っても得なことはない」と答えたとのことだった。
昨年末、北条時政と牧の方は「比企の方々とは今後もよしなに」と、そう言っていたのに。
千幡君が産まれたからだろうか。ヒメコは背を何か冷たい物が走るのを感じた。
文には続けて、
小四郎兄は、父に「比企と事を構えるつもりか」と凄んで見せたけれど、父はのらりくらりでどうにも如何わしい。
こっそりと御所様に事の次第を伝えて何らかの対策を講じて貰うから覚悟しておいて、とあった。
覚悟と言われても何をどう覚悟していいのか分からずに幾日か経ったある晴れた日、ヒメコは大広間に呼ばれた。
その場にはコシロ兄や北条時政、比企能員、中原広元など、諸御家人、文官らがズラリと並んでいた。
頼朝はヒメコをじっと見て口を開いた。
「姫御前、こちらの江間義時が姫御前を妻にと願っているそうだ。聞けば、この義時はここ一、二年、そなたに懸想して文を送っていたとのこと。義時は私の側近で家の子筆頭。大恩ある比企尼君の孫姫を正室として迎えるに申し分ない身である。よって、征夷大将軍たるこの私の命により、そなたは今晩早速、江間義時の正室として江間へ嫁げ」
「え、今晩?」
いきなりの事にヒメコは絶句する。
「何か不服でもあるか?」
頼朝に問われ、いいえと首を横に振りつつ、
「あ、あの、実は母が江間様との結婚を渋っておりまして」
嘘は言えずに小さくそう答える。コシロ兄がヒメコを振り返るのを申し訳なく感じながら頼朝の言葉を待つ。
「渋る理由は何だ?」
頼朝に問われ、ヒメコは頭を下げた。
「はきとはわからないのですが、私が身体を壊して離縁されるのではないかと危惧していました」
すると頼朝は、ふぅんと相槌を打った後、それは丁度良いと呟いた。
「義時、比企の姫と離縁せぬという起請文を今すぐ書け」
「起請文?」
ヒメコは驚いて声を上げた。
起請文とは神仏への誓い。戦での合力などに用いられ、約束を違えぬ証として重んじられていた。でも単なる婚姻に起請文を書くなど聞いたことがない。
頼朝は頷いて続ける。
「そうだ。ここで今すぐ起請文を書け。誰か書くものを持て」
頼朝の声に中原広元が立ち上がり、コシロ兄に紙と筆を手渡す。コシロ兄はその場で筆を走らせ、サッと風を当てて乾かすと丁寧に折り畳んで両掌に乗せ、ゆっくりと額の前に捧げ上げた。
それを見た頼朝は立ち上がると段を下りてコシロ兄が掲げ上げた起請文を手に取り、北条時政の斜め前に立った。
「さて北条の舅殿、ご子息江間義時と比企の姫との縁組に異存は無かろうな?」
「はっ、無論で御座います」
時政は手をついて大仰に頭を下げた。
それからバッと顔を上げ、両の口の端を持ち上げて口を開く。
「将軍様直々のお声がかりとは誠に有り難き縁組。しかし今晩早速とは急なこと。急ぎ戻って支度を整えねばなりませぬ。では皆様方、私共はこれにて失礼致します」
そう挨拶してコシロ兄を急き立て、広間を出て行く北条時政。頼朝も用は済んだとばかりにさっさと広間を後にした。
残されたヒメコは呆然とする。
——え、今晩?そんなに急に?
暫し呆けたヒメコだが、御家人衆、文官らの視線を感じて慌てて立ち上がると広間を抜け出た。
——どうしよう?
フラつきかけるが、フラついてる場合でもない。頼朝が今晩と言ったのだから今晩なのだ。阿波局が言っていた覚悟とはこれのことかと思う。
どうしようもこうしようもない。自ら望んだことが、ただ思いの外急に進んだだけ。
ヒメコは与えられた部屋へと戻り、行李の中の文箱を取り出すと息を詰めてその蓋を開いた。中に収めてあった青の組紐を手に取り、固く握り締める。
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