【完結】姫の前

やまの龍

文字の大きさ
上 下
95 / 225
第3章 鎌倉の石

第47話 御田植祭

しおりを挟む
 翌月末、奥州の覇者、鎮守府将軍陸奥守、藤原秀衡が病死した。

 秀衡は死の前に嫡男泰衡に自分の死後は義経を大将に陸奥の国務にあたるよう遺言したという。

 翌年、頼朝は京に働きかけて、泰衡に対して義経を引き渡せという勅命を出させた。でも泰衡はなかなか従わない。その内に季節は移り変わり夏になった。大姫の部屋の前庭で田植神事が行われる。
 女官らが普段の重い衣装を脱いで長い髪を後ろに括り、身軽な、というより手足を剥き出しにした田植女の恰好で苗を植えていく。ヒメコも襷掛けに裾を高く上げて折り込んだ田植女の格好で参加した。泥の中に足を入れる。
ズブズブと沈んでいく足。

「わぁ、気持ちいい」

 華やいだ声に顔を上げれば、八幡姫がいつの間にか同じ格好になって列に並んで手足を出して泥に足を突っ込んでいた。

「あ、お、おお」

 大姫さまとは呼べずに

「おお、重いですね。足がとられます」
誤魔化す。

 チラと邸の縁に目を飛ばせば、頼朝とアサ姫がこちらを見つつ諦め顔で座っていた。乙姫はおとなしくアサ姫の膝の上にいる。
 田植唄を歌いながら並んで苗を植えていく。その歌に合わせて御家人らの中でも腕に覚えのある者らが鼓や笛を奏でる。明るく楽しげな雰囲気に、ヒメコは伊豆北条の廣田神社での神事を思い出していた。あの時は田植前の苗を楠に投げ上げたんだっけ。アサ姫が大姫を懐妊した頃だった。もうあれから十年経ったなんて、と感慨深くなる。

「あ、蛙!」

八幡姫の声に顔を上げれば中くらいの蛙がピョンと飛んだ。その先でノタノタゆっくり歩いていく小さな子もいる。

「まぁ、本当に。夜はきっと賑やかになるでしょうね」

「そうなの?、嫌だ。眠れるかしら」

 八幡姫が顔を顰めるのに、すぐ慣れますよと返す。

 伊豆北条にまだいた頃、大姫が夜泣きをするとヒメコがおぶって外を歩いた。一緒に蛙の大合唱を聴きながらそぞろ歩いた。人の気配と大姫の鳴き声で蛙達は一瞬鳴き止むけれど、またすぐに鳴き始めてその声は耳をつんざくばかり。大姫の泣き声と蛙の鳴き声、どちらが大きいかと思った程だった。懐かしい北条の日々を思い出してヒメコは頬を緩ませる。

 また伊豆に行きたいな。

 苗を植えながら心の中で歌い出す。

「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、ななや、ここの、たり」

 あの時は龍が出て来たっけ。

「ああ、もう。歩きにくいたら!」

文句を言った八幡姫がきゃあと悲鳴を上げて前につんのめる。

「あああ。何よ、これぇ」
八幡姫の手は肘まで泥々になっていた。ヒメコは笑うのを堪えて言う。

「泥はお肌にいいんですよ。肌を綺麗に真っ白にしてくれるんです」

 そう言ったら周りの女官達が振り返った。

「肌が真っ白?」

「ええ。泥を肌に塗って暫くしてから洗い流すと肌の汚れを一緒に持って行ってくれるので透き通るような白い肌になるそうです」

へぇ、と興味津々で聞く女官達。それに泥のこの包み込むような滑らかな触感は気持ちも癒してくれるようだとヒメコは思った。
 実際、田植前には田植なんてとあからさまに不機嫌な顔をしていた女官達が今は皆笑顔で気持ち良さそうに泥を掬って自らの手足を擦っている。ヒメコも泥の中に手を入れた。

 蛙がピョンと飛ぶのを目で追って頬を緩ませる。

 と、泥の水を通して何か違う思念が飛んで来た。

——けっして許すものか。殺してやる。

 殺気。でもどこ?誰に?

 縁へと目を飛ばす。縁の間際で田植をのんびりと見物している頼朝。その隣に腰を下ろすアサ姫。そしてその脇に控えているコシロ兄。
 その手前に田から上がった女の背中が見えた。

 ヒメコは咄嗟に田の畦に置かれていた麻袋に手を伸ばすと引っ張り上げ、縁に向かって投げつける。


 麻袋から苗がバラバラと落ちて田に落ちて泥水を跳ね返したが、麻袋は狙い通り、縁ににじり寄っていた一人の女の背を直撃し、女は前のめりに倒れた。

「コシロ兄、彼女を捕縛して!」

 ヒメコの叫びに楽が止まり、女達は悲鳴を上げて田から這い出て行く。

 ヒメコも八幡姫を助けながらあぜに上がった。

「今のは何?彼女がどうかしたの?」

 問われてヒメコは捕縛されて連れて行かれる女に目を送った。女官仲間ではなかった。いつの間に紛れ込んだのか。頼朝の命を狙っていた。

「わかりません。ただ何となく怪しいと思ったので麻袋を投げたら偶然当たったのです」

 「何となくで麻袋を投げた?あれ、とても重くて男二人でえっちら抱えて来てたのに。おまけに捕縛まで指示して、何か見えたの?」

「見えたわけでなくて聴こえたのです、と答えかけてヒメコは止めた。耳に聞こえる声ではなかった。ただ、ああしないと斬られて死んでしまうと思ったのだ。

 ヒメコはその夜から高熱を出して伏した。それに左腕の付け根が軋むように痛い。麻袋を投げたのは左腕だった。重かったらしいし無理がたたったのも知れない。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

戦国の華と徒花

三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。 付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。 そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。 二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。 しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。 悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。 ※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません 【他サイト掲載:NOVEL DAYS】

そらっこと吾妻語り

やまの龍
歴史・時代
大姫と開耶姫。共に源氏の血を引く二人の姫の恋物語。実在の歴史人物をモチーフにしつつ、改変した和風ファンタジーです。

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

処理中です...