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第3章 鎌倉の石
第45話 浩然の気
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と、庭から声がかかった。
「金剛、小弓で勝負よ」
八幡姫だった。
「私に勝てたら、前に美味しいと言っていた菓子を、またくすねて来てあげるわよ」
「わぁい、勝つぞー!」
金剛は叫んで庭に飛び降りた。
八幡姫はヒメコを見て軽く頷いた。ヒメコは頭を下げた。
「ところで、姫御前は何を書いたの?」
勝負がついて少しして部屋に戻れば、金剛がヒメコに手を差し出す。
何のことだろうと首を傾げたら、金剛はヒメコの胸元を指差した。
「何か書いた物を持ってるでしよ?何が書いてあるの?」
言われて思い出し、胸元から先程アサ姫に貰った「大丈夫」と書かれた紙を取り出す。
「オオマスラオという言葉だそうです」
「オオマスラオ?」
「はい、立派な男の人という意味です」
金剛がへえ、と目を輝かせる。続きを語ろうとして、ヒメコは言葉に詰まった。
あれ?立派な人というだけではなくて、もっと含蓄のある言葉だった筈。なのに色々ある内にうっかり忘れてしまった。ヒメコは懸命に思い出そうとする。
「え、えー、孟子が言ったそうです。本来、人は皆善人だと。でもたまに悪事を働いてしまうのは、その本性を忘れてしまうからで、そうならない為に常に学んで努力しなさいと」
「何を学んで努力すればいいの?」
「え?」
アサ姫は何て言ったっけ?
「え、えーと、えーと、四徳がどうのこうの」
「どうのこうの?」
「は、はい。仁義礼智の四つの徳が備わるとコウゲンの気が備わって」
と、プッと噴き出す声が聞こえた。続いて人の気配。
「金剛にいい加減なことを教えるな」
コシロ兄だった。
「父上、お帰りなさいませ」
金剛がきちんと手をついて挨拶をする。ヒメコも慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。御台さまに教えて頂いたのですが忘れてしまって」
コシロ兄は金剛の前に腰を下ろすと口を開いた。
「学ぶものは何でもいい。いや、周りの全てから学べ。どんな些細なことでも身近なことでも、興味を持ったらそれに真摯に向き合って真似べ。この世の全てがお前の師であり友であり仲間だ。
全てから学び、学んだことや感じたことを心と体に叩き込み、それをお前に与えてくれた相手に感謝をし、頂いた恩に報いる為に何か出来ることはないかと探す努力をしろ。
そうしていくうちに、惻隠、羞悪、辞譲、是非の四つの徳が身についてくる。それらを常に怠らずに実践していくと浩然の気が備わる。浩然の気とは、自らの行動を省みた時にその行いが常に正しいと確信していれば自ずと出てくる自信のことだ。勇気とも言える。勇気を持っていれば何事が起きようとも動じない立派な男となれる。そんな一人前の男のことを大丈夫というのだ」
「へえ」
ヒメコと金剛の声が重なった。コシロ兄がヒメコを睨む。
「人に教える時にはせめて復習をしてからにしろ」
ヒメコは身を縮めた。
「ごめんなさい」
八幡姫が笑い出した。
「姫御前ったら、権威無双の女房の名が泣くわよ」
「権威無双の女房?それ何ですか?」
ヒメコが問うたら八幡姫はニヤッと笑った。
「姫御前は当代権威無双の女房なりって二つ名が御所では付いてるわよ」
「権威無双?そんな馬鹿な。それもそんな大層な名前」
一体何でそんなことに。悪口を言われるのは別にいいけど、権威無双だなんて。でも、そう思われるようなことをしてしまっているんだろうか。そこまで出過ぎた真似をしてるのだろうか。
ハァ、とため息をつく。
御所に帰りたくない。そう思ってしまった時、
「名など何とでも言わせておけばいい」
低い声がして顔を上げる。
「浩然の気を養う訓練と思え。そうすればお前も立派なマスラオになれる」
コシロ兄がヒメコを見ていた。
もしかして慰めて励ましてくれているのだろうか?
はい、と頷きかけてハタと気付く。オオマスラオ?
「わ、私は女です。マスラオにはなれません!」
言い返したらコシロ兄の頰が緩んだ。
「いいんじゃないか?高原の涼しい気を養うのなら女のお前に打ってつけだろう」
え、もしかして、からかわれてる?
驚いてまじまじとコシロ兄を見つめてしまう。
ヒメコを見るその目は優しかった。胸がドキリと大きく高鳴る。
もっと見たいな。
コシロ兄の笑顔がもっと見たい。
今なら、もう少し話せるだろうか?その声が聞けるだろうか?笑って貰えるたろうか?
「あの」
勇気を出して話しかけた時だった。
「姫御前、帰るわよ」
八幡姫に引っ張られた。
後ろ髪を引かれる思いで振り返る。コシロ兄は此方を見たままだった。何も言えず、小さく頭を下げる。コシロ兄がそっと目を落とすのが見えた。
あーあ、と思う間もなく、小道に出るなり八幡姫がヒメコの顔を覗き込んできた。
「ヒメコ、金剛が言ってたスケドノのことについて聞きたいんだけど」
あ、忘れてた。
「そ、それは、あの」
ヒメコは目を彷徨わせた。
それはヒメコが漏らしていい話ではない。困って御所の方を見たら、八幡姫はじっとヒメコを見て問うた。
「母は、御台所は知ってるの?」
ヒメコは少しホッとした。
それなら答えられる。黙って頷いた。
すると八幡姫は、ならいいわ、と言って先に駆け去ってしまった。
「あ、大姫さま」
ヒメコは慌ててその後を追う。権威無双だなんて言われてると知って一人で御所に戻る勇気はない。でも八幡姫と一緒なら。姫の陰に隠れ、コソコソと入ろうとして思い出す。
「浩然の気を養う訓練だと思えばいい」
訓練。
ヒメコはクッと顔を上げると御所へと足を踏み入れた。呪文のように唱える。
「コウゼンノキ、コウゼンノキ、コウゲンノキ、あ、いや、コウゼンノキ」
言い間違いを正してからヒメコは自分で噴き出してしまった。
やだ、本当だ。ひどく間が抜けてる。恥ずかしいことこの上ない。
でも笑って貰えたから良かったのだ。コシロ兄の笑顔を見られたから良かったのだ。ヒメコは前向きにそう思って元気に御所の中に入った。
「金剛、小弓で勝負よ」
八幡姫だった。
「私に勝てたら、前に美味しいと言っていた菓子を、またくすねて来てあげるわよ」
「わぁい、勝つぞー!」
金剛は叫んで庭に飛び降りた。
八幡姫はヒメコを見て軽く頷いた。ヒメコは頭を下げた。
「ところで、姫御前は何を書いたの?」
勝負がついて少しして部屋に戻れば、金剛がヒメコに手を差し出す。
何のことだろうと首を傾げたら、金剛はヒメコの胸元を指差した。
「何か書いた物を持ってるでしよ?何が書いてあるの?」
言われて思い出し、胸元から先程アサ姫に貰った「大丈夫」と書かれた紙を取り出す。
「オオマスラオという言葉だそうです」
「オオマスラオ?」
「はい、立派な男の人という意味です」
金剛がへえ、と目を輝かせる。続きを語ろうとして、ヒメコは言葉に詰まった。
あれ?立派な人というだけではなくて、もっと含蓄のある言葉だった筈。なのに色々ある内にうっかり忘れてしまった。ヒメコは懸命に思い出そうとする。
「え、えー、孟子が言ったそうです。本来、人は皆善人だと。でもたまに悪事を働いてしまうのは、その本性を忘れてしまうからで、そうならない為に常に学んで努力しなさいと」
「何を学んで努力すればいいの?」
「え?」
アサ姫は何て言ったっけ?
「え、えーと、えーと、四徳がどうのこうの」
「どうのこうの?」
「は、はい。仁義礼智の四つの徳が備わるとコウゲンの気が備わって」
と、プッと噴き出す声が聞こえた。続いて人の気配。
「金剛にいい加減なことを教えるな」
コシロ兄だった。
「父上、お帰りなさいませ」
金剛がきちんと手をついて挨拶をする。ヒメコも慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。御台さまに教えて頂いたのですが忘れてしまって」
コシロ兄は金剛の前に腰を下ろすと口を開いた。
「学ぶものは何でもいい。いや、周りの全てから学べ。どんな些細なことでも身近なことでも、興味を持ったらそれに真摯に向き合って真似べ。この世の全てがお前の師であり友であり仲間だ。
全てから学び、学んだことや感じたことを心と体に叩き込み、それをお前に与えてくれた相手に感謝をし、頂いた恩に報いる為に何か出来ることはないかと探す努力をしろ。
そうしていくうちに、惻隠、羞悪、辞譲、是非の四つの徳が身についてくる。それらを常に怠らずに実践していくと浩然の気が備わる。浩然の気とは、自らの行動を省みた時にその行いが常に正しいと確信していれば自ずと出てくる自信のことだ。勇気とも言える。勇気を持っていれば何事が起きようとも動じない立派な男となれる。そんな一人前の男のことを大丈夫というのだ」
「へえ」
ヒメコと金剛の声が重なった。コシロ兄がヒメコを睨む。
「人に教える時にはせめて復習をしてからにしろ」
ヒメコは身を縮めた。
「ごめんなさい」
八幡姫が笑い出した。
「姫御前ったら、権威無双の女房の名が泣くわよ」
「権威無双の女房?それ何ですか?」
ヒメコが問うたら八幡姫はニヤッと笑った。
「姫御前は当代権威無双の女房なりって二つ名が御所では付いてるわよ」
「権威無双?そんな馬鹿な。それもそんな大層な名前」
一体何でそんなことに。悪口を言われるのは別にいいけど、権威無双だなんて。でも、そう思われるようなことをしてしまっているんだろうか。そこまで出過ぎた真似をしてるのだろうか。
ハァ、とため息をつく。
御所に帰りたくない。そう思ってしまった時、
「名など何とでも言わせておけばいい」
低い声がして顔を上げる。
「浩然の気を養う訓練と思え。そうすればお前も立派なマスラオになれる」
コシロ兄がヒメコを見ていた。
もしかして慰めて励ましてくれているのだろうか?
はい、と頷きかけてハタと気付く。オオマスラオ?
「わ、私は女です。マスラオにはなれません!」
言い返したらコシロ兄の頰が緩んだ。
「いいんじゃないか?高原の涼しい気を養うのなら女のお前に打ってつけだろう」
え、もしかして、からかわれてる?
驚いてまじまじとコシロ兄を見つめてしまう。
ヒメコを見るその目は優しかった。胸がドキリと大きく高鳴る。
もっと見たいな。
コシロ兄の笑顔がもっと見たい。
今なら、もう少し話せるだろうか?その声が聞けるだろうか?笑って貰えるたろうか?
「あの」
勇気を出して話しかけた時だった。
「姫御前、帰るわよ」
八幡姫に引っ張られた。
後ろ髪を引かれる思いで振り返る。コシロ兄は此方を見たままだった。何も言えず、小さく頭を下げる。コシロ兄がそっと目を落とすのが見えた。
あーあ、と思う間もなく、小道に出るなり八幡姫がヒメコの顔を覗き込んできた。
「ヒメコ、金剛が言ってたスケドノのことについて聞きたいんだけど」
あ、忘れてた。
「そ、それは、あの」
ヒメコは目を彷徨わせた。
それはヒメコが漏らしていい話ではない。困って御所の方を見たら、八幡姫はじっとヒメコを見て問うた。
「母は、御台所は知ってるの?」
ヒメコは少しホッとした。
それなら答えられる。黙って頷いた。
すると八幡姫は、ならいいわ、と言って先に駆け去ってしまった。
「あ、大姫さま」
ヒメコは慌ててその後を追う。権威無双だなんて言われてると知って一人で御所に戻る勇気はない。でも八幡姫と一緒なら。姫の陰に隠れ、コソコソと入ろうとして思い出す。
「浩然の気を養う訓練だと思えばいい」
訓練。
ヒメコはクッと顔を上げると御所へと足を踏み入れた。呪文のように唱える。
「コウゼンノキ、コウゼンノキ、コウゲンノキ、あ、いや、コウゼンノキ」
言い間違いを正してからヒメコは自分で噴き出してしまった。
やだ、本当だ。ひどく間が抜けてる。恥ずかしいことこの上ない。
でも笑って貰えたから良かったのだ。コシロ兄の笑顔を見られたから良かったのだ。ヒメコは前向きにそう思って元気に御所の中に入った。
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