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第3章 鎌倉の石
第17話 後妻打ち
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十月半ば、アサ姫は万寿の君を胸に抱き、朱塗りの輿に乗せられて華々しく大蔵御所へと戻ってきた。それから連日続く祝いの儀式と訪れる御家人達の仰々しい祝いの挨拶。アサ姫はそれらにうんざりしているようだった。胸には万寿の君を抱いていたが、若君が少しでもむずかると乳母がすぐやってきて若君を取り上げて奥へと下がっていく。それを忌々しげに見やるアサ姫の様子がヒメコには気がかりだった。
「御台様、お疲れでしょう。床を用意しましたのでどうぞ」
アサ姫の手を引いて広間を辞す。奥の間へと戻ったアサ姫は色鮮やかな袿を脱ぎ捨てて、もう嫌だ、と鋭く吐き出した。
「万寿に乳すらあげられず、ただ座っているだけ。お飾りの御台所なんてもう嫌!御所様は殆ど比企に顔を出さなかったし、戻ってきたってゆっくり言葉を交わす間もないのよ。いい加減にしてよ、もう!」
と、戸が開いて侍女を従えた女性が入って来た。
「まぁ、御台所ともあろう方が、そない声を荒げては恥ずかしいこと。もっと慎まれませ。ほら、侍女達も怯えてます。御台所というものは全てを下々の者に任せて、はんなりとしているのが務め。京の都でもそれが当たり前。子に自らの乳をやるなど下賤の女のすること。これを機に御台さまも京の習わしをその身にしっかりと叩き込まれませ。なぁ?」
言って、後ろに控える侍女に同意を求める。
対し、アサ姫はキッと眦を吊り上げて応戦した。
「生憎ですが、ここは鎌倉。東国です。牧の方が京風をお好みなのはご勝手ですが、それは伊豆の北条か名越の屋敷でどうぞご存分に。ですが御所内のことには口を出さないで下さいませ。以前にお互いに関わらぬ約束をした筈」
牧の方。北条時政の後妻だった。牧の方はアサ姫が脱ぎ捨てた赤紅色の袿を手に取って広げた。
「まぁ、見事な織り。それに鮮やかな色合い。やはり京の品はこちらのとまるでちゃいますなぁ。美しこと。こない美し物を手荒に扱うなんて女の器量が疑われますえ。なぁ?」
言ってまた後ろの侍女達を振り返る。京言葉なのだろうか。悪意があるのかないのかわからない調子にヒメコは戸惑う。
「そんなにその着物が気に入ったのでしたらどうぞお持ち帰りください。でも二度と私の物には触れないで!着物の無心なら父になさればいいでしょう。今の北条にどれだけの蓄えがあるのか私は知りませんけれど。ただ、牧の方が財を使い込んでいるとの噂は耳にしてますよ。贅沢が過ぎて父や家人に愛想を尽かされぬようお気を付けなさいませ!」
アサ姫はぴしゃりと言って床に伏せた。牧の方は手にしていた袿をグッと握りしめ、その場に叩きつけた。それからゆっくりと顔を上げ、引き攣った笑顔を見せる。
「まぁ、なんて酷い言い様。私はあなたの母なのですよ。母として何か手伝えることがあればと、わざわざ出向きましたのに貴女は相変わらず頑なお人やなぁ。そんなやから御所様も気苦労が絶えないとか。お気の毒なことやわ。北条の殿も案じてらっしゃいますよ。あんな態度では、いつ御所様に愛想を尽かされてもおかしくないと。ほんにねぇ。御所様も選び間違えたと悔やんでおられるのではないかと私も心配が尽きませんわ」
アサ姫は伏せてた顔を上げて牧の方を睨みつけた。
「年の変わらぬ、それもまだ子を産んだことのない継母に何の手伝いが出来ましょうか」
その瞬間、牧の方の顔がサッと青ざめた。
言い過ぎだ。興奮して、つい口走ってしまったのだろうが、出た言葉は戻らない。
牧の方はアサ姫を睨み据えるとゆっくりと口を開いた。
「そうね。手伝いなど私には出来ませんわ。どうせ子がありませんから」
凍る空気。身を竦めるしか出来ずにいたヒメコの横から阿波局が飛び出て来て頭を下げた。
「母上さま、お許しを。姉は少し気が立っていたのです」
牧の方はそうね、と答えて片方の口の端を持ち上げると阿波局の肩に手を置いて親しげに話しかけた。
「ああ、あんたはんも嫁ぎ先の決まった身。まだ子はないけど夫を持つ身として、また京にゆかりある者として一つ忠告しておいて差し上げましょう。あなたの姉上のように常に居丈高だと、男の方、それも京にゆかりのある方は恐れをなして愛想を尽かして逃げて行きますよ。風雅を解さない女など話相手にもなりませんからね」
「嫁ぎ先が決まった?」
アサ姫が繰り返す。すると牧の方は目を細めて薄く笑った。
「あら、お聞きでありませんの?御所様はそない大事な話ももう貴女とはなさらないのかしら。貴女の妹君は御所様の弟君の阿野全成様に嫁ぐことにならはりましたんよ。阿野様も京の生まれ育ち。ま、貴女の妹君は賢いし身だしなみも振る舞いも私が仕込みましたよって、こなたはんと違って何も心配おまへんけど」
あからさまな嫌味にアサ姫が噛みついた。
「七重八重とどんなに華やかに着飾っても、実のならぬ山吹では歌は読めても家は続きませんがね」
「姉上、それは母上に失礼ですわ。母上ももうおよしなさいませ。折角お祝いにいらしたのですから」
阿波局がとりなすがアサ姫は返事をせずそっぽを向いた。
牧の方は俯いて肩を震わせていたが、突然和歌を口ずさみだした。
「山吹の花色衣 ぬしや誰
問えどこたえずくちなしにして」
皆がキョトンとした顔をする。
「あら、秘密の恋の歌ですよ。この山吹の衣の主は誰かと問うけれど、山吹の色はクチナシから取るので口が無く答えられない。
「伊豆でも御所様がご執心されていた亀の方は山吹の着物が似合う京生まれのおとなしやかな方でしたわね。口さがない、いずこの暴れ馬とは比べものにならぬと御所は昔の情を忘れられずに鎌倉の伏見の辺りに囲ってそこに通い詰めておられるとか。それでは妹君の縁組の話を知らぬも不思議あらしませんなぁ。実はもう成って無事に獲り終えたことですし、華もなく口喧しいばかりの貴女は用なしということでしょうか。同じ無いでも、貴女様も山吹の衣でも纏って、くちなしの美徳を身に付けられた方がええのんとちゃいますやろか、なぁ?」
ホホホと笑い、牧の方は部屋を出て行った。
「亀の方が伏見に」
アサ姫がゆっくりと繰り返した。
残されたヒメコと阿波局はそっと顔を見合わせる。よくある女の口喧嘩だ。売り言葉に買い言葉でつい過熱する。祖母と母も、母とヒメコもよくやっている。互いに言い合って泣き尽くして、それから時を置いて互いに謝罪して、またそっと寄り添う。それが母と娘。
でもそれは血の繋がりや距離的繋がりがあって、切って繋いでを繰り返さざるを得ない女同士の間でのみ成り立つ話。でもアサ姫と牧の方の間ではその繋がりがあまりに希薄だった。
アサ姫はじっと床の木目を目でなぞっていたが、ふと顔を上げた。
「そう、伏見ね。わかったわ。お望み通り、無し崩しにゆっくりとその立場を追い詰めて差し上げましょう。牧宗親を呼びなさい。今すぐここに!」
即日、御台所の命によって、牧の方の父である牧宗親は鎌倉の伏見広綱の屋敷を打ち壊し、中に隠されていた亀殿を暴き出して恥辱を与えた。
藤原道長が記した『御堂関白記』に、うはなりうちと載る、後妻、妾打ち。鎌倉においての亀の前事件の発生であった。
「御台様、お疲れでしょう。床を用意しましたのでどうぞ」
アサ姫の手を引いて広間を辞す。奥の間へと戻ったアサ姫は色鮮やかな袿を脱ぎ捨てて、もう嫌だ、と鋭く吐き出した。
「万寿に乳すらあげられず、ただ座っているだけ。お飾りの御台所なんてもう嫌!御所様は殆ど比企に顔を出さなかったし、戻ってきたってゆっくり言葉を交わす間もないのよ。いい加減にしてよ、もう!」
と、戸が開いて侍女を従えた女性が入って来た。
「まぁ、御台所ともあろう方が、そない声を荒げては恥ずかしいこと。もっと慎まれませ。ほら、侍女達も怯えてます。御台所というものは全てを下々の者に任せて、はんなりとしているのが務め。京の都でもそれが当たり前。子に自らの乳をやるなど下賤の女のすること。これを機に御台さまも京の習わしをその身にしっかりと叩き込まれませ。なぁ?」
言って、後ろに控える侍女に同意を求める。
対し、アサ姫はキッと眦を吊り上げて応戦した。
「生憎ですが、ここは鎌倉。東国です。牧の方が京風をお好みなのはご勝手ですが、それは伊豆の北条か名越の屋敷でどうぞご存分に。ですが御所内のことには口を出さないで下さいませ。以前にお互いに関わらぬ約束をした筈」
牧の方。北条時政の後妻だった。牧の方はアサ姫が脱ぎ捨てた赤紅色の袿を手に取って広げた。
「まぁ、見事な織り。それに鮮やかな色合い。やはり京の品はこちらのとまるでちゃいますなぁ。美しこと。こない美し物を手荒に扱うなんて女の器量が疑われますえ。なぁ?」
言ってまた後ろの侍女達を振り返る。京言葉なのだろうか。悪意があるのかないのかわからない調子にヒメコは戸惑う。
「そんなにその着物が気に入ったのでしたらどうぞお持ち帰りください。でも二度と私の物には触れないで!着物の無心なら父になさればいいでしょう。今の北条にどれだけの蓄えがあるのか私は知りませんけれど。ただ、牧の方が財を使い込んでいるとの噂は耳にしてますよ。贅沢が過ぎて父や家人に愛想を尽かされぬようお気を付けなさいませ!」
アサ姫はぴしゃりと言って床に伏せた。牧の方は手にしていた袿をグッと握りしめ、その場に叩きつけた。それからゆっくりと顔を上げ、引き攣った笑顔を見せる。
「まぁ、なんて酷い言い様。私はあなたの母なのですよ。母として何か手伝えることがあればと、わざわざ出向きましたのに貴女は相変わらず頑なお人やなぁ。そんなやから御所様も気苦労が絶えないとか。お気の毒なことやわ。北条の殿も案じてらっしゃいますよ。あんな態度では、いつ御所様に愛想を尽かされてもおかしくないと。ほんにねぇ。御所様も選び間違えたと悔やんでおられるのではないかと私も心配が尽きませんわ」
アサ姫は伏せてた顔を上げて牧の方を睨みつけた。
「年の変わらぬ、それもまだ子を産んだことのない継母に何の手伝いが出来ましょうか」
その瞬間、牧の方の顔がサッと青ざめた。
言い過ぎだ。興奮して、つい口走ってしまったのだろうが、出た言葉は戻らない。
牧の方はアサ姫を睨み据えるとゆっくりと口を開いた。
「そうね。手伝いなど私には出来ませんわ。どうせ子がありませんから」
凍る空気。身を竦めるしか出来ずにいたヒメコの横から阿波局が飛び出て来て頭を下げた。
「母上さま、お許しを。姉は少し気が立っていたのです」
牧の方はそうね、と答えて片方の口の端を持ち上げると阿波局の肩に手を置いて親しげに話しかけた。
「ああ、あんたはんも嫁ぎ先の決まった身。まだ子はないけど夫を持つ身として、また京にゆかりある者として一つ忠告しておいて差し上げましょう。あなたの姉上のように常に居丈高だと、男の方、それも京にゆかりのある方は恐れをなして愛想を尽かして逃げて行きますよ。風雅を解さない女など話相手にもなりませんからね」
「嫁ぎ先が決まった?」
アサ姫が繰り返す。すると牧の方は目を細めて薄く笑った。
「あら、お聞きでありませんの?御所様はそない大事な話ももう貴女とはなさらないのかしら。貴女の妹君は御所様の弟君の阿野全成様に嫁ぐことにならはりましたんよ。阿野様も京の生まれ育ち。ま、貴女の妹君は賢いし身だしなみも振る舞いも私が仕込みましたよって、こなたはんと違って何も心配おまへんけど」
あからさまな嫌味にアサ姫が噛みついた。
「七重八重とどんなに華やかに着飾っても、実のならぬ山吹では歌は読めても家は続きませんがね」
「姉上、それは母上に失礼ですわ。母上ももうおよしなさいませ。折角お祝いにいらしたのですから」
阿波局がとりなすがアサ姫は返事をせずそっぽを向いた。
牧の方は俯いて肩を震わせていたが、突然和歌を口ずさみだした。
「山吹の花色衣 ぬしや誰
問えどこたえずくちなしにして」
皆がキョトンとした顔をする。
「あら、秘密の恋の歌ですよ。この山吹の衣の主は誰かと問うけれど、山吹の色はクチナシから取るので口が無く答えられない。
「伊豆でも御所様がご執心されていた亀の方は山吹の着物が似合う京生まれのおとなしやかな方でしたわね。口さがない、いずこの暴れ馬とは比べものにならぬと御所は昔の情を忘れられずに鎌倉の伏見の辺りに囲ってそこに通い詰めておられるとか。それでは妹君の縁組の話を知らぬも不思議あらしませんなぁ。実はもう成って無事に獲り終えたことですし、華もなく口喧しいばかりの貴女は用なしということでしょうか。同じ無いでも、貴女様も山吹の衣でも纏って、くちなしの美徳を身に付けられた方がええのんとちゃいますやろか、なぁ?」
ホホホと笑い、牧の方は部屋を出て行った。
「亀の方が伏見に」
アサ姫がゆっくりと繰り返した。
残されたヒメコと阿波局はそっと顔を見合わせる。よくある女の口喧嘩だ。売り言葉に買い言葉でつい過熱する。祖母と母も、母とヒメコもよくやっている。互いに言い合って泣き尽くして、それから時を置いて互いに謝罪して、またそっと寄り添う。それが母と娘。
でもそれは血の繋がりや距離的繋がりがあって、切って繋いでを繰り返さざるを得ない女同士の間でのみ成り立つ話。でもアサ姫と牧の方の間ではその繋がりがあまりに希薄だった。
アサ姫はじっと床の木目を目でなぞっていたが、ふと顔を上げた。
「そう、伏見ね。わかったわ。お望み通り、無し崩しにゆっくりとその立場を追い詰めて差し上げましょう。牧宗親を呼びなさい。今すぐここに!」
即日、御台所の命によって、牧の方の父である牧宗親は鎌倉の伏見広綱の屋敷を打ち壊し、中に隠されていた亀殿を暴き出して恥辱を与えた。
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