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第3章 鎌倉の石
第16話 母と娘
しおりを挟むその年の九月の中旬、アサ姫は頼朝の嫡男たる万寿の君を産む。待望の男児の誕生に、鎌倉中が祝いに沸いた。
そんな中、ヒメコは新造された比企朝宗の屋敷にいた。
というのも頼朝から一時戻るように申し渡されていたからだった。
「食事は心配要らぬ。そなたも父母の元を出て久しい。御台所が戻るまで父の元に里帰りせよ」
八幡姫のことが気になったが、心配要らぬと重ねて言われては逆らえなかった。
まぁ、ヒミカ。大きくなったこと!」
父母が出迎えてくれる。母はヒミカが戻るというので一時的に比企庄から鎌倉に出て来ていた。
「お祖母様は?」
「義母上は比企庄を出るのはお嫌ですって」
母は伸び伸びした顔でそう言った。それから一頻り祖母とのやり取りなどの愚痴を聞かされたが、久々のせいか軽く聞き流せるようになっていた。
「母上さまもご健勝そうで何よりです」
そう言って頭を下げたら、母はボロボロと涙を零した。
「まぁ、随分立派になって。御所では辛い目に遭ってない?御台さまは恐いお方と聞いたけど虐められてはいなくて?何でしたら私が御台さまに直接申し上げますからね。何でも母さまに話すのよ」
自信たっぷりに話す母に苦笑しつつ、それでも久々に父母と過ごせる時間はホッと寛げた。
「ここは割と静かなのね」
そう呟いたら、母はいいえと首を横に振った。
「横の大路は人通りが激しくて騒がしいの。馬も駆けていくし。夜は夜でどこかで酒盛りをしてるから煩いしね。ただ北のお向かいさんはいつもひっそりしてて、挨拶に行ったけど下男が愛想なく立ってるばかりで、何だか無用心だわ」
そんな母の言葉を、ヒメコはへえと聞いた。
御家人屋敷は若宮大路沿いに並んでいたが、その入り口は全て大路から横に走る小路沿いに開けられていた。
きっとその北側のお向かいさんが江間の屋敷なのだろう。コシロ兄もたまには戻ってくるんだろうか。偶然でも会えないかと表に出ようとするヒメコだったが、母がいるとそうもいかない。
「母上、少し出かけましょう。素敵な小物が置いてありましたよ」
母の手を引いて外に出る。前に五郎に教えて貰った、市のある通りへ母を案内する。
「まぁ、本当。鎌倉は賑やかね。京の品もこんなに入るのね」
母は目をキラキラさせて小物を眺め尽くし、ある一つの物を手に取って求めた。それから次々に櫛や布、鞠に籠を指差し、
「これらを全て比企朝宗の屋敷まで届けて頂戴」
そう言って隣に移る。ヒメコは慌てて宋銭を取り出し交渉する。
「ああ、楽しかった」
母はそう言って、部屋いっぱいに広がった小物の中で歌を歌い出した。
「常に恋するは 空には七夕よばい星 野辺には山鳥秋は鹿 流れの君達 冬は鴦」
今様だった。母が歌う姿は初めて見る。
でもどこか懐かしい気がするのを不思議に思いながら、ヒメコは黙って母の歌を聴いた。
アサ姫が嫡男である万寿の君と共に大倉御所に戻るのは十月半ばと沙汰があった。その十月初め、荷を沢山抱えて賑やかに比企庄へ戻る母を見送り、ヒメコも御所へ戻ろうと戸口を出た時、向かいの屋敷の戸も開かれた。
「あ」
コシロ兄だった。白藍の少し華やかな直垂で腰に二つの剣を差している。
「コシロ兄も御所へ?」
尋ねたら、ああ、と返事があった。それからお前もかと問われた。はいと返事して横に並ぶ。
「姉上様の無事のご出産おめでとうございます」
頭を下げるが返事がない。不思議に思って顔を上げたら、コシロ兄はヒメコをじっと見下ろしていた。
「また姉上の所に戻るのだろう。頼む」
嬉しくてヒメコははしゃいだ。
「コシロ兄は、ずっと御所様のお側に付いてらしたんですか?御所様はご嫡男のお誕生をさぞお喜びだったでしょう」
そう明るく繋いだのに、コシロ兄は口を引き結んで浮かない顔をしている。
「あの。どうかしました?」
尋ねたら、コシロ兄はそっと腰を屈めてヒメコの肩口に顔を寄せた。急な接近に胸が高鳴る。
耳元で低い声が囁いた。
「御所と姉の間に何かあるかもしれんが、どうか二人の側についていてくれ」
「え、何か?」
聞き返したが、コシロ兄は足早に去って行ってしまった。
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