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第3章 鎌倉の石
第9話 恋と愛
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やがて八幡姫とヒメコは何度か馬に跨がり、馬の世話にも大分慣れてきた。
「お、やっておるな」
その日、内庭に珍しく顔を出したのは頼朝だった。
「父さま、見てみて!姫、筋がいいって褒められたのよ!」
そう言って、得意げに馬の手綱を握って内庭をカッポカッポと歩かせて見せる八幡姫。その姿を笑顔で見た頼朝は、そっと手を挙げた。奥の戸が開いて、そこから真っ白な子馬が入ってくる。わぁ、と歓声をあげて子馬に駆け寄り、その首筋を撫で始める八幡姫。
「姫への贈り物だ。名をつけて可愛がってやれよ」
八幡姫は駆けて行って頼朝に抱きついた。
「父さま大好き。うん、いっぱい可愛がるからね」
頼朝は姫の言葉に嬉しそうに頷いた後、そっとヒメコに目配せした。ヒメコは波中太に軽く会釈して頼朝の後を追う。
「北条の二の姫の縁談話があるるのだが、アサが頷かぬのだ。どうしたものかな」
「お相手は?」
足利義兼だ。私の母と彼の母が姉妹だから従兄弟になる。二の姫の五つ上で年回りもいい。顔もいいし、武も立つ。気に入ると思ったんだが」
「御台さまが反対される理由は?」
「既に男児が一人居るのだ。母は分からんが、義兼は引き取って新田氏の元で育てていると聞く。それでだろうか?」
ヒメコは答えられずに頼朝を見返した。三の姫は、二の姫は恋煩いだと言っていた。でもアサ姫がそれを知っているかどうかもわからない。
「御台さまのお心をそれとなく伺ってみます」
そう答えたら、頼朝はホッとした顔をして去って行った。
とは言ったものの、頼朝が具体的に名を出したということは、二の姫の縁談はほぼ決定事項でそうそう覆せるものではないのだろう。
どうしよう?
ヒメコは手足を洗い清めて部屋に戻ると、白い装束を纏って丁寧に祝詞をあげる。何度か繰り返すが何も良い案など浮かんでこない。ヒメコは諦めて顔を上げた。これは考えても祓っても仕方ない。素直に御台さまに聞いてみよう。
「御台さま、宜しいでしょうか?」
声をかけたら、どうぞと答えがあった。失礼しますと中に入る。と、先客がいた。波中太だった。
「あ、後で参ります」
去ろうとしたが呼び止められる。
「いいから入ってちょうだい。あなた
の意見も聞きたいわ」
そろそろと入り、入り口近くに控える。だが、もっと近くに寄れと言われ、ヒメコは波中太の隣に座した。
「私よすぐ下の妹のことなのだけど、縁談の話が出てるの」
ヒメコは悩んだ。先程頼朝に相談されたことを言うべきだろうか?でもヒメコが口を開く前にアサ姫は喋り始めた。
「お相手は足利義兼殿ですって。殿の従兄弟にあたるし、家柄も男ぶりも問題のないお相手ではあるのだけれど、既に男児が一人居るらしいの」
「御台さまは反対なのですか?」
「男児が居るのは仕方ないとして、問題は妹自身のこと。この所ずっと元気がなく、食も細くなってるようなの。だから縁談の話が持ち上がってることを話していいものか悩んでいるのよ」
と、黙って聞いていた羽中太が口を開いた。
「御台さまはその昔、佐殿をお射止めなさった」
唐突な言葉に二人はギョッと目を見開く。アサ姫が怒りの声をあげた。
「ちょっとやめてちょうだい。その、鹿狩りでもしたような言い方は!」
でも波中太は意に介さず淡々と続ける。
「あの時、私は一の姫さまに尋ねた。何を犠牲にしてでも佐殿と添いたいか、と。すぐに強く頷かれたので私は方法をお知らせした。二の姫が見た夢を買い取れと」
アサ姫はハッと口を噤んで俯いた。
「佐殿は妹のことを気にしていた。妹も。私も気付いていたわ。でも私は妹より佐殿に振り向いて貰う方を優先してしまった。妹が欲しがっていた櫛を譲る代わりに、悪夢でいいから私に夢を譲ってくれと強いたのよ」
「今、二の姫さまはどなたかに恋をしている」
波中太の言葉に、アサ姫はえっと声をあげた。
「一体誰に?まさか、まだ」
波中太は、さあと肩を竦めた後、ヒメコに紙と筆を持って来いと言った。ヒメコが急いで用意すると、羽中太はそれに『恋』という漢字を書いた。
「恋はその漢字が示す通り、心が下にある。これは下心、つまり自分の欲が一番大事で、それ次第でコロコロと移り変わる可能性を示している」
そこで波中太は言葉を止めると、次に『愛』という漢字を書いた。
「対して愛は字の中心に心があり、その下には足がついている。これは心を自分の肚、中心に据えつつ、足をもって自ら動くことを示している。恋の心は下心。時と状況次第でいかようにもフラフラと移ろうが、愛の心は身体の中心にあって不変。また、その心の力は外に向かって大きく動き出す。例えば母が子を守るように。夫が妻を守るように」
ヒメコはホゥとため息をついた。確かに心の位置が違う。漢字には深い意味が込められてるのだと感心する。
同じように感心して聞いていたアサ姫が呟いた。
「波中太、本当に字が上達したわね」
波中太がガクリと肩を落とす。ヒメコも驚いて顔を上げた。
「え、感心したのってそこですか?」
アサ姫はプッと噴き出した。
「だって、昔の波中太は字もろくに書けなかったのよ。その彼から漢字の意味を聞く日が来るとは思わなかったの。からかってごめんなさいね。分かってるわよ。妹は今誰かに恋をしている。でもそれはまだやり方によっては移ろう可能性もあるということでいいかしら?」
波中太は頷いた。
「御台さまは恐らく妹姫さまにずっとどこか後ろめたい気持ちをお持ちだった筈。だから出来れば二の姫さまの恋心は大切にしてあげたい。でも殿や北条殿のご意向もあるだろうから迷う。うんうん、そりゃさぞかしお辛いでしょうなぁ」
そうなのよ、と頷いたアサ姫がふと波中太を睨む。
「あなた、なんだか楽しんでない?」
波中太がカラリと笑う。
「え、楽しむ?そんなわけございませぬ」
ヒメコもじっと羽中太を見つめた。波中太は目線を逸らし、右上の方を見て口元をムグムグと動かしている。
この口調にこの顔。何か隠してる。
「波中太?包み隠さず全てお話しなさい。でないと、殿が準備しているあなたのお屋敷、取り上げるわよ!」
波中太は、いやいやと手を振った。
「何も知りはしませんよ。ただ想像をしただけです。二の姫さまの初恋の君が佐殿とすると、此度のお相手が従兄弟なら多少似てらっしゃるだろうな、と。そして年が二の姫より五つばかり上なら、きっと昔の佐殿を見ているように感じて、また恋に落ちることもあるのではないかなとね」
「あ!」
ヒメコは思わず声をあげてしまった。
「三の姫様が仰ってました。小姉上は駿河で会った武者に一目惚れしたのだと」
「駿河で一目惚れ?」
ふうん、とアサ姫は唸って、ニイと口の端を上げた。
「確かにね。それは恋に落ちやすい状況だわ」
「ただ、恋を愛に変化させることは自身で動くのでないと、なかなか難しいですぞ」
「そうなのですか?」
「自分の手で掴んだという責任と自負あって初めて、人は覚悟を決めるのでしょうな」
のほほんと笑って波中太はそう言った。
「波中太。あなた、随分経験豊かそうに喋ってるけど、結婚してたの?」
アサ姫の問いに波中太はガハハと笑った。
「お陰様で男児がおりますよ」
「お、やっておるな」
その日、内庭に珍しく顔を出したのは頼朝だった。
「父さま、見てみて!姫、筋がいいって褒められたのよ!」
そう言って、得意げに馬の手綱を握って内庭をカッポカッポと歩かせて見せる八幡姫。その姿を笑顔で見た頼朝は、そっと手を挙げた。奥の戸が開いて、そこから真っ白な子馬が入ってくる。わぁ、と歓声をあげて子馬に駆け寄り、その首筋を撫で始める八幡姫。
「姫への贈り物だ。名をつけて可愛がってやれよ」
八幡姫は駆けて行って頼朝に抱きついた。
「父さま大好き。うん、いっぱい可愛がるからね」
頼朝は姫の言葉に嬉しそうに頷いた後、そっとヒメコに目配せした。ヒメコは波中太に軽く会釈して頼朝の後を追う。
「北条の二の姫の縁談話があるるのだが、アサが頷かぬのだ。どうしたものかな」
「お相手は?」
足利義兼だ。私の母と彼の母が姉妹だから従兄弟になる。二の姫の五つ上で年回りもいい。顔もいいし、武も立つ。気に入ると思ったんだが」
「御台さまが反対される理由は?」
「既に男児が一人居るのだ。母は分からんが、義兼は引き取って新田氏の元で育てていると聞く。それでだろうか?」
ヒメコは答えられずに頼朝を見返した。三の姫は、二の姫は恋煩いだと言っていた。でもアサ姫がそれを知っているかどうかもわからない。
「御台さまのお心をそれとなく伺ってみます」
そう答えたら、頼朝はホッとした顔をして去って行った。
とは言ったものの、頼朝が具体的に名を出したということは、二の姫の縁談はほぼ決定事項でそうそう覆せるものではないのだろう。
どうしよう?
ヒメコは手足を洗い清めて部屋に戻ると、白い装束を纏って丁寧に祝詞をあげる。何度か繰り返すが何も良い案など浮かんでこない。ヒメコは諦めて顔を上げた。これは考えても祓っても仕方ない。素直に御台さまに聞いてみよう。
「御台さま、宜しいでしょうか?」
声をかけたら、どうぞと答えがあった。失礼しますと中に入る。と、先客がいた。波中太だった。
「あ、後で参ります」
去ろうとしたが呼び止められる。
「いいから入ってちょうだい。あなた
の意見も聞きたいわ」
そろそろと入り、入り口近くに控える。だが、もっと近くに寄れと言われ、ヒメコは波中太の隣に座した。
「私よすぐ下の妹のことなのだけど、縁談の話が出てるの」
ヒメコは悩んだ。先程頼朝に相談されたことを言うべきだろうか?でもヒメコが口を開く前にアサ姫は喋り始めた。
「お相手は足利義兼殿ですって。殿の従兄弟にあたるし、家柄も男ぶりも問題のないお相手ではあるのだけれど、既に男児が一人居るらしいの」
「御台さまは反対なのですか?」
「男児が居るのは仕方ないとして、問題は妹自身のこと。この所ずっと元気がなく、食も細くなってるようなの。だから縁談の話が持ち上がってることを話していいものか悩んでいるのよ」
と、黙って聞いていた羽中太が口を開いた。
「御台さまはその昔、佐殿をお射止めなさった」
唐突な言葉に二人はギョッと目を見開く。アサ姫が怒りの声をあげた。
「ちょっとやめてちょうだい。その、鹿狩りでもしたような言い方は!」
でも波中太は意に介さず淡々と続ける。
「あの時、私は一の姫さまに尋ねた。何を犠牲にしてでも佐殿と添いたいか、と。すぐに強く頷かれたので私は方法をお知らせした。二の姫が見た夢を買い取れと」
アサ姫はハッと口を噤んで俯いた。
「佐殿は妹のことを気にしていた。妹も。私も気付いていたわ。でも私は妹より佐殿に振り向いて貰う方を優先してしまった。妹が欲しがっていた櫛を譲る代わりに、悪夢でいいから私に夢を譲ってくれと強いたのよ」
「今、二の姫さまはどなたかに恋をしている」
波中太の言葉に、アサ姫はえっと声をあげた。
「一体誰に?まさか、まだ」
波中太は、さあと肩を竦めた後、ヒメコに紙と筆を持って来いと言った。ヒメコが急いで用意すると、羽中太はそれに『恋』という漢字を書いた。
「恋はその漢字が示す通り、心が下にある。これは下心、つまり自分の欲が一番大事で、それ次第でコロコロと移り変わる可能性を示している」
そこで波中太は言葉を止めると、次に『愛』という漢字を書いた。
「対して愛は字の中心に心があり、その下には足がついている。これは心を自分の肚、中心に据えつつ、足をもって自ら動くことを示している。恋の心は下心。時と状況次第でいかようにもフラフラと移ろうが、愛の心は身体の中心にあって不変。また、その心の力は外に向かって大きく動き出す。例えば母が子を守るように。夫が妻を守るように」
ヒメコはホゥとため息をついた。確かに心の位置が違う。漢字には深い意味が込められてるのだと感心する。
同じように感心して聞いていたアサ姫が呟いた。
「波中太、本当に字が上達したわね」
波中太がガクリと肩を落とす。ヒメコも驚いて顔を上げた。
「え、感心したのってそこですか?」
アサ姫はプッと噴き出した。
「だって、昔の波中太は字もろくに書けなかったのよ。その彼から漢字の意味を聞く日が来るとは思わなかったの。からかってごめんなさいね。分かってるわよ。妹は今誰かに恋をしている。でもそれはまだやり方によっては移ろう可能性もあるということでいいかしら?」
波中太は頷いた。
「御台さまは恐らく妹姫さまにずっとどこか後ろめたい気持ちをお持ちだった筈。だから出来れば二の姫さまの恋心は大切にしてあげたい。でも殿や北条殿のご意向もあるだろうから迷う。うんうん、そりゃさぞかしお辛いでしょうなぁ」
そうなのよ、と頷いたアサ姫がふと波中太を睨む。
「あなた、なんだか楽しんでない?」
波中太がカラリと笑う。
「え、楽しむ?そんなわけございませぬ」
ヒメコもじっと羽中太を見つめた。波中太は目線を逸らし、右上の方を見て口元をムグムグと動かしている。
この口調にこの顔。何か隠してる。
「波中太?包み隠さず全てお話しなさい。でないと、殿が準備しているあなたのお屋敷、取り上げるわよ!」
波中太は、いやいやと手を振った。
「何も知りはしませんよ。ただ想像をしただけです。二の姫さまの初恋の君が佐殿とすると、此度のお相手が従兄弟なら多少似てらっしゃるだろうな、と。そして年が二の姫より五つばかり上なら、きっと昔の佐殿を見ているように感じて、また恋に落ちることもあるのではないかなとね」
「あ!」
ヒメコは思わず声をあげてしまった。
「三の姫様が仰ってました。小姉上は駿河で会った武者に一目惚れしたのだと」
「駿河で一目惚れ?」
ふうん、とアサ姫は唸って、ニイと口の端を上げた。
「確かにね。それは恋に落ちやすい状況だわ」
「ただ、恋を愛に変化させることは自身で動くのでないと、なかなか難しいですぞ」
「そうなのですか?」
「自分の手で掴んだという責任と自負あって初めて、人は覚悟を決めるのでしょうな」
のほほんと笑って波中太はそう言った。
「波中太。あなた、随分経験豊かそうに喋ってるけど、結婚してたの?」
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