【完結】姫の前

やまの龍

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第1章 若紫の恋

第10話 馬

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「佐殿!どこですか?佐殿!」

屋敷内に入り、佐殿を探す。
「おや、どうした?そんなに濡れ鼠になって。ヒメコはドンくさいな。もっと身体を鍛えんと生きていけんぞ」
 へらりと笑う佐殿の袖を引っ張って、どこか空いてる部屋はないかと迫る。
佐殿は手前の角の部屋を指差し、まずは着替えてこいと言って先にそちらへ向かった。


「それで?そなたはどう視たのだ」
  座ってすぐ切り出され、ヒメコは唇を引き結んだ。
「一の姫を選ばぬのが佐殿の為と私は思います」
 佐殿はヒメコから目を離さずに胡座の膝の上に乗せていた文をそっと床へと下ろした」
「何故そう思う。此度は誰かの声がそなたにそう言わせているのではないのだな?」
ヒメコは頭の中を探った。
「いいえ、声は聴こえません。ただ、一の姫の背後に龍を見ました。大きな龍が光を吸い込むのを。あの龍は恐ろしい。佐殿の命も吸い取られてしまうかもしれません。だから」
言い繋ごうとしたヒメコの前で佐殿は突如笑い出した。膝先に落とした文を拾い上げて、ほくそ笑む。
「そうか、龍か。それは幸先の良い」

幸先がいい? 耳を疑う。
「今、京では平家一門と院近臣、山門の諍いが増し、嵐が起きようとしている。届いた文にそう書いてあった。嵐を起こすのは龍の役目。おまえの視た龍はその顕れではないのか」
「でもあの龍は光を吸い込みました。佐殿のお命も吸い込むかも知れません」
「吸い込まれるならその時はその時のこと。どうせ何度も死にかけた命。今更ジタバタしても始まらん」


 薄く笑う佐殿に、ヒメコは気分が悪くなって立ち上がった。
「とにかく比企に戻って祖母に視えたことを話さないと。藤九郎叔父を呼んでください」
「藤九郎は、この文と共に京から来た客人をもてなしてる。動けん」
「でも、急がないと!」
「何故そんなに急ぐ?」
「だって、佐殿は死んでもいいの?」
「死なぬ者など、どこにいる?」
穏やかに返され、過去には「死ぬ」「死んでやる」と口では言いながら生き永らえた癖にと悪態をつきたくなる。
「とにかくすぐ祖母に話したいんです。何でもいいから早く比企に戻してください!」
 すると佐殿は立ち上がった。先の雨で閉じられていた蔀戸を上げて外を眺める。
「雨は止んでるな。わかった。では、ついて来い」
 外へ出た佐殿を追いかけて草履を履いたヒメコの両脇を佐殿は「よいせ」と持ち上げると、まっすぐ馬屋に向かい、鞍の上へと乗せた。馬屋の脇にいた下男らしき男に声をかける。
「小四郎、比企庄は前に共に行ったから覚えているだろう?あそこまでこの子を送って行け。急ぐそうだ。しっかり頼むぞ」
 そう言って、佐殿は馬屋を出て行こうとする。
「佐殿が送ってくれるんじゃないの?」
慌てて声をあげたヒメコに、佐殿はいいやと首を横に振った。
「言ったろう。京から客人が来ていると。案じるな、日が暮れる頃には比企に戻れる」
そのまま去る佐殿。その背中を見たら不安が芽生えた。やっぱり明日か明後日に。そう言いかけたヒメコの隣に、ヌッと誰かが立つ。布の束をドサッとヒメコの後ろに投げかけると前へ回って馬の首に手を当て、その鼻先の手綱に手をかけた。カッポカッポと蹄の音がして馬屋の外に出る。外はよく晴れて日が燦々と照り注ぎ、濡れた枝葉から滴れる雨粒が辺りを光り輝かせていた。
「あ、虹!」
 空に大きくかかる虹に目を奪われる。虹は吉兆。祈りを捧げようと掌を合わせる。

 でも、馬の鼻先がグイと強く引かれて目を戻したヒメコは、手綱を握っているのが盗っ人の少年だということに初めて気付いた。

——え、どうして、盗みをしていた子に自分を送らせるの?
 ヒメコは困惑する。
『中には盗っ人として生きてきた子もいる。だがそういう子も、知や技を身に付ければ職人として立派に働くことが出来るようになる。そうすれば二度と盗みなど働かずとも一人で生きていける』
佐殿はそう言ってたけど、だからって、こんな急に仕事を与えなくてもいいじゃない。途中で気が変わって、馬ごと盗まれたらどうするのか。自分も売り払われるかもしれない。
やっぱり叔父を待とう。
鞍から飛び降りようと身を乗り出した途端、馬が走り出し、少年がヒメコの後ろにサッと跨った。先程後ろに投げ上げた布の片端がメコのへその前に回され、ヒメコの身体を固定するように鞍と馬の背との間に挟み込まれる。
ヒメコの両足はがっちりと鞍に固定され、身体は手綱を握る少年の両腕に抱え込まれ、身動きも出来ない。

——逃げられない。
悲壮な気分で北条館を振り返る。庭にいた子らが驚いた顔でこちらを見ている。何か言葉をかけられるけど聞こえない。あっという間に庭も館も見えなくなる。

アサ姫や妹姫たちに挨拶も出来なかった。もう二度と会えないかもしれない。泣きたい気分で後ろを振り返ろうとするが、身体ががっちり固定されていて身動きがとれない。
それに、何より馬の駆ける速さが尋常でなかった。
藤九郎叔父や佐殿の馬は景色を眺められるくらいゆっくりで縦揺れも少ないのに、この馬は飛ぶように速くて景色を見るどころか、吹きすさぶ風の強さに目を開けることすら出来ない。宙に浮くような感覚と地にぶつかるような感覚が交互に来て、頭がガクガク揺さぶられてとても気分が悪い。でも下を見たら戻してしまいそうで、ヒメコは歯を食いしばって顎を上げ、前方を睨むようにしてひたすら強風と振動に耐えた。足腰を固定してくれている布のおかげで振り落とされる心配は無さそうだったが、そのせいで逃げることも出来ない。
でも馬も人も途中で休みを入れる筈。その時こそ。
 そう思った時、急に風が止んだ。揺れが穏やかになる。カッポカッポと歩く速さになって、ヒメコの耳に音が戻ってくる。
鳥の鳴き声、枝の掠れる音。どこか水の流れる音。そんな自然の音なのに、何故か安らぎを感じない。どうしてだろう?
固く閉じていたまぶたまぶたを恐る恐る持ち上げる。
 そこは山の外れ、林の入り口で、脇の崖から湧き水がチョロチョロと流れ落ちる穏やかな山道。
でもちっとも心が落ち着かない。空気が尖っている。

 パシリ、と乾いた音に目を向ければ、三人の男たちが棒やら槍やらを手に馬の前に立ちはだかっていた。
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