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第1章 若紫の恋
第8話 ひふみ歌
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「ヒミカ、奇譚なく申せ」
真名で問われ、ヒメコはクッと唇を噛んで佐殿を睨み上げだ。佐殿のこういう所が嫌いだ。相手の意表を突いて、隠そう、偽ろうと迷う暇も与えずに真実を炙り出そうとする。
ヒメコはフウと一つ溜め息をついた。真名で問われた以上、ヒミカはその信条上、嘘偽りを口に出来ない。ただ、今この場で一の姫は観音さまだと答えるのは少し違う気がした。
「まだ、よく視えていません」
すると佐殿は、ふぅんと言って親指と人差し指で顎を摘んだ。
「前は一目見た瞬間に答えたではないか」
「あれは」
言葉に詰まる。前回、八重の時はよくわからないまま祖母の言う通りに着替えて広間でただ待っていた。ヒメコはまだ言葉も危ういくらい幼く、ただ祖母にどうかと促された瞬間に頭に響いた声を口から音にして出しただけだった。
ただヒミカが言葉を発した直後、顔を青ざめた二人の息をのむ音と、満足気に笑った祖母の声が耳に入り、ヒミカはそこから神の子ではなく人との子しての意識と記憶を持つようになった。
「あれは視る準備が整っていた為にすぐ神が降りられただけ。もう少し時を下さい」
佐殿は首を僅かに傾げてヒメコを見下ろし、ふうんと唸った。
「では、藤九郎は先に比企に戻そう。その準備とやらを進めよ」
ヒメコは頷いた。ホッと息をつく。これでもう少しここに居られる。父に会って話したいことが山ほどある。本当は、寂しいと心細いと泣き付きたい。抱きとめて頭を撫でて欲しい。でも何故かわからないけれど、ヒメコはまだここに居なくてはと思った。
「皆が待ってる。行くぞ」
歩き出した佐殿について外に出てみれば、子ども達が列をつくっていた。その先には裸馬が待っていて、子ども達は交替交替でその背に乗せて貰っている。
「あれ?」
馬の脇、子どもを抱え上げて馬に跨がせ、手綱を引いて庭を一巡りする少年の姿にヒメコは驚く。あれは先に盗っ人として縛られそうになっていた少年ではないだろうか。
盗人が混じっている、と声を上げようとしたヒメコを佐殿が首を横に振って静かに口を開く。
「ここでは生まれ育ちに関わりなく、各々得意なことを他の子に教えることで自らの知と技を深くし、世の為人の為に役立ち、独り立ち出来る子を育てたいと思っている。だから、この中には家や親兄弟も無く、盗っ人として生きてきた子もいる。だがそういう子も、知や技を身に付ければ職人として立派に働くことが出来るようになる。そうすれば二度と盗みなど働かずとも一人で生きていける」
静かな声。
死ぬ、死んでやる。殺せ、返せと喚いていたのが嘘のような穏やかな佇まい。
何が佐殿をそう変えたのか。それともこの人は元々こういう人だったのか。わからないけれど、ヒメコはふと祖母が命を張って佐殿を助けようとする理由が少しだけ視えたような気がした。この人は何かをやる為に生まれてきた人。だから死なせてはいけない人なのだ。
「ではヒメコ様、祝詞と巫女舞を教えてくださいませ」
唐突に請われ、前に立つ三の姫の顔を見返す。その後ろで四の姫が「くださいませ」と繰り返し、それを聞いた他の子らが「くださいませ、くださいませ」と連呼する。
確かに佐殿は祓詞と巫女舞の師になれと言っていたけれど、そう言われてもヒメコはまだ半人前とすら言えない修行中の身。自身分かっていないものをどう教えろというのか。
困惑して目を泳がせたヒメコの隣にアサ姫が並んだ。
「ここから少し北の廣田神社で次の月に御田植え神事と祭礼があるの。近隣の村人が豊作を願って行なうお祭りなのだけれど、今年は子ども達で舞を奉納したらどうかという話になったのよ。だからヒメコ様、お願い。皆にも出来るような簡単な祝詞と舞を教えて下さらない?」
掌を合わせて頭を下げるアサ姫。
どうしよう?失望させたくない。でも簡単な祝詞だなんて、そんなこと許されるのかしら?
逡巡したヒメコの耳にふと、ひいふうみいよ、と数え歌が聞こえ、二の姫が布を捩って作ったと思われる紐状のものをたくさん腕に抱えて外へと出て来るのが見えた。
「ほら、出来ましたよ。これだけあれば練習出来るでしょう」
「さ、皆。一本ずつ受け取って一列に並びなさい」
アサ姫の声に子どもたちはわぁっと群がると紐を受け取って列を作り始める。
「御田植え神事では、祝詞と舞を奉納した後に境内の大楠の枝に皆で早苗を投げ上げるのよ。早苗が沢山枝に乗れば乗っただけ、その年は豊作になると言われてるからその稽古よ」
そう言ってアサ姫はひいふうみいよ、と子どもの数を数え始めた。
その時、ヒメコは思い出した。ヒメコがまだろくに喋れない内から祖母は毎朝晩ヒミカを着替えさせ、神棚のある冷えた北の間に座らせて繰り返し繰り返し祓詞を唱え聴かせた。ヒミカが真似をしようと声をあげたらとても喜んで、それからゆっくり教えてくれた。
「ひと、ふた、みいよ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここの、たり」
それがヒミカが初めて口にした祝詞。そうだ、これなら子らにも唱えられる。
ヒメコは二の姫から紐を一本受け取ると、並んだ子ども達の隣に立ち、紐を左右にユラユラと揺らしながら唱え出した。
「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここの、たり」
唱えながら調子を合わせて地面を踏み固めていく。
「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここの、たり」
「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここの、たり」
「あれ?ひいふうみいよ、じゃないの?」
誰かが不思議そうに声をあげるのが聞こえたけど、ヒメコはそっと頷いて続けた。
「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここのぉ、たぁり」
真名で問われ、ヒメコはクッと唇を噛んで佐殿を睨み上げだ。佐殿のこういう所が嫌いだ。相手の意表を突いて、隠そう、偽ろうと迷う暇も与えずに真実を炙り出そうとする。
ヒメコはフウと一つ溜め息をついた。真名で問われた以上、ヒミカはその信条上、嘘偽りを口に出来ない。ただ、今この場で一の姫は観音さまだと答えるのは少し違う気がした。
「まだ、よく視えていません」
すると佐殿は、ふぅんと言って親指と人差し指で顎を摘んだ。
「前は一目見た瞬間に答えたではないか」
「あれは」
言葉に詰まる。前回、八重の時はよくわからないまま祖母の言う通りに着替えて広間でただ待っていた。ヒメコはまだ言葉も危ういくらい幼く、ただ祖母にどうかと促された瞬間に頭に響いた声を口から音にして出しただけだった。
ただヒミカが言葉を発した直後、顔を青ざめた二人の息をのむ音と、満足気に笑った祖母の声が耳に入り、ヒミカはそこから神の子ではなく人との子しての意識と記憶を持つようになった。
「あれは視る準備が整っていた為にすぐ神が降りられただけ。もう少し時を下さい」
佐殿は首を僅かに傾げてヒメコを見下ろし、ふうんと唸った。
「では、藤九郎は先に比企に戻そう。その準備とやらを進めよ」
ヒメコは頷いた。ホッと息をつく。これでもう少しここに居られる。父に会って話したいことが山ほどある。本当は、寂しいと心細いと泣き付きたい。抱きとめて頭を撫でて欲しい。でも何故かわからないけれど、ヒメコはまだここに居なくてはと思った。
「皆が待ってる。行くぞ」
歩き出した佐殿について外に出てみれば、子ども達が列をつくっていた。その先には裸馬が待っていて、子ども達は交替交替でその背に乗せて貰っている。
「あれ?」
馬の脇、子どもを抱え上げて馬に跨がせ、手綱を引いて庭を一巡りする少年の姿にヒメコは驚く。あれは先に盗っ人として縛られそうになっていた少年ではないだろうか。
盗人が混じっている、と声を上げようとしたヒメコを佐殿が首を横に振って静かに口を開く。
「ここでは生まれ育ちに関わりなく、各々得意なことを他の子に教えることで自らの知と技を深くし、世の為人の為に役立ち、独り立ち出来る子を育てたいと思っている。だから、この中には家や親兄弟も無く、盗っ人として生きてきた子もいる。だがそういう子も、知や技を身に付ければ職人として立派に働くことが出来るようになる。そうすれば二度と盗みなど働かずとも一人で生きていける」
静かな声。
死ぬ、死んでやる。殺せ、返せと喚いていたのが嘘のような穏やかな佇まい。
何が佐殿をそう変えたのか。それともこの人は元々こういう人だったのか。わからないけれど、ヒメコはふと祖母が命を張って佐殿を助けようとする理由が少しだけ視えたような気がした。この人は何かをやる為に生まれてきた人。だから死なせてはいけない人なのだ。
「ではヒメコ様、祝詞と巫女舞を教えてくださいませ」
唐突に請われ、前に立つ三の姫の顔を見返す。その後ろで四の姫が「くださいませ」と繰り返し、それを聞いた他の子らが「くださいませ、くださいませ」と連呼する。
確かに佐殿は祓詞と巫女舞の師になれと言っていたけれど、そう言われてもヒメコはまだ半人前とすら言えない修行中の身。自身分かっていないものをどう教えろというのか。
困惑して目を泳がせたヒメコの隣にアサ姫が並んだ。
「ここから少し北の廣田神社で次の月に御田植え神事と祭礼があるの。近隣の村人が豊作を願って行なうお祭りなのだけれど、今年は子ども達で舞を奉納したらどうかという話になったのよ。だからヒメコ様、お願い。皆にも出来るような簡単な祝詞と舞を教えて下さらない?」
掌を合わせて頭を下げるアサ姫。
どうしよう?失望させたくない。でも簡単な祝詞だなんて、そんなこと許されるのかしら?
逡巡したヒメコの耳にふと、ひいふうみいよ、と数え歌が聞こえ、二の姫が布を捩って作ったと思われる紐状のものをたくさん腕に抱えて外へと出て来るのが見えた。
「ほら、出来ましたよ。これだけあれば練習出来るでしょう」
「さ、皆。一本ずつ受け取って一列に並びなさい」
アサ姫の声に子どもたちはわぁっと群がると紐を受け取って列を作り始める。
「御田植え神事では、祝詞と舞を奉納した後に境内の大楠の枝に皆で早苗を投げ上げるのよ。早苗が沢山枝に乗れば乗っただけ、その年は豊作になると言われてるからその稽古よ」
そう言ってアサ姫はひいふうみいよ、と子どもの数を数え始めた。
その時、ヒメコは思い出した。ヒメコがまだろくに喋れない内から祖母は毎朝晩ヒミカを着替えさせ、神棚のある冷えた北の間に座らせて繰り返し繰り返し祓詞を唱え聴かせた。ヒミカが真似をしようと声をあげたらとても喜んで、それからゆっくり教えてくれた。
「ひと、ふた、みいよ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここの、たり」
それがヒミカが初めて口にした祝詞。そうだ、これなら子らにも唱えられる。
ヒメコは二の姫から紐を一本受け取ると、並んだ子ども達の隣に立ち、紐を左右にユラユラと揺らしながら唱え出した。
「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここの、たり」
唱えながら調子を合わせて地面を踏み固めていく。
「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここの、たり」
「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここの、たり」
「あれ?ひいふうみいよ、じゃないの?」
誰かが不思議そうに声をあげるのが聞こえたけど、ヒメコはそっと頷いて続けた。
「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、なな、や、ここのぉ、たぁり」
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