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第1章 鎌倉
第7話 唄
しおりを挟むやがて夏が過ぎ、秋が近付く。夕暮れ時、虫の音が寂しげに聴こえ始めると中将の君の表情も寂しげになってくる気がして、千寿は努めて明るげな曲を奏でるようにした。でも、生来の気性が地味な上に、奏でるのが琵琶。華やかな明るい場をつくるには向かない。父母の言う通りに琴も習っておくのだったと悔やむが、今更どうにもならない。夜は女官部屋に下がっていたが、ふと気になって渡戸の近くまで行けば、笛の音が聴こえてきた。やはり寝付けないのだろう。
自分ではなんの慰めにもならないのだと申し訳ない気持ちになる。前にお日さまの匂いがすると喜んでくれ、千寿の上で寝入ってくれたことはあったけれど、夜ではお日さまの光はない。兵らに囲まれ、眠れぬ夜はいかに長く感じることか。
千寿は渡戸の上にそっと腰を下ろすと、琵琶の丸い腹を指の腹でトントンと優しく叩いた。鼻から静かに息を吸い込み、小さく口を開いて静かに言葉を紡ぐ。幼い頃に母がよく歌ってくれた子守唄。兵らに聞こえぬ程度の声で祈るように小さく小さく唱える。
——どうか、中将様の苦しみが少しでも和らぎますように。
翌朝、朝餉を持って中将の君の小部屋を訪れた千寿は、彼が部屋の中央で胡座をかき、じっと此方を睨んでいるのに気付いて、思わず後退さる。
「千手殿」
低い声で呼びかけられ、恐る恐る顔を上げれば、中将の君は千寿を手招きしていた。呼ばれるままに前に進み、朝餉の膳を中将の君の傍らに置いたら、手を引っ張られて彼の膝の上に転がされた。
「あの。朝餉の支度を」
言って起きあがろうとするが抵抗出来ない。
「目の下に隈が出来てますよ。昨晩は眠れていないのでしょう?」
「いえ、そんなことは」
否定するが、中将の君は首を横に振った。
「昨晩どこからか聴こえてきた子守唄のおかげで私はよく眠れました。でも唄い手が寝不足になってしまうのでは、おちおち眠ってもおられない。それに」
そう言って中将の君は不意に千寿の胸に手を伸ばして揉み出した。千寿はゴクリと唾を呑み込むと
「あ、あの、朝なのですが」
辛うじてそれだけを言う。中将の君は澄ました顔で
「おや、こちらはそんなに減っていないですね」
そう言って今度は横腹の肉を摘み、
いや、やはり痩せている」
口を曲げた。千寿は慌てて起き上がった。
「か、からかわないでください」
摘まれた横腹が感じた妙なくすぐったさ。それに揉まれた胸からジワジワと広がった甘い熱のような疼き。千寿は彼に気付かれないように小さくホゥと息をついた。
——あなたに触れたい。触れられたい。
ただひと時の慰めでいいから。
愛されたいなどと不相応な望みを抱いているわけではない。身体だけでいい。白拍子のように美しく男性を魅了出来るわけでもない自分だから、鬱屈した気持ちを吐き出す対象でいい。乱暴に扱って貰って構わない。なのに中将の君はどこまでも優しく丁寧だった。いつも朗らかで大人びていて、場が落ち込みかけるとこのように悪戯を仕掛けて煙に巻き、それ以上は求めて来ない。
ふと思い至る。自分など、捌け口にもならないということではないだろうか。目の前が真っ暗になる。
——どうしよう。御台様に相談して、役を代えて貰った方がいいのかも知れない。琴の出来る美しい女性に。そうだ、琵琶の音にもそろそろ飽きた頃だろう。自分なんかよりも、もっと中将の君を慰めるに相応しい人に任せた方がいいのだ。
息が詰まり、頭がクラクラするけれど、何より大切なのは中将の君が少しでも心安らかなこと。そうだ。そうしなくては……。
——パン。
音にハッと顔を上げれば、中将の君が千寿の目の前で手を打ったようだった。
「何を考えていました?」
「あ、申し訳ありません。琴のことを考えておりました」
「琴?」
「はい。そろそろ琵琶にも飽いた頃かと。琴でも召したらいかがかと思って」
「千手殿は琴もされるのですか?」
「いいえ、私は琵琶しか出来ません。だから誰か琴の出来る人を代わりに」
そう言って立ち上がりかけたら、手首を掴まれた。
「代わり?誰が貴女の代わりになると言うのです」
言葉と共に引き倒され、顔の横に両の手を付かれ、囲われた。鋭い眼差しに射竦められ、声が出ない。
気分を害してしまった。怯える千寿を中将の君は暫し黙って見た後、その瞳の色を僅かにくすませて続けた。
私の傍に居るのは、もう嫌なのですね」
「いいえ、違います!そんなことあるわけございません!私は中将様の為でしたら何でもしたい。何でもいたします!」
——そう、何でも。死ねと言われたら死ねる。逃げたいと仰るなら、どんな手を使ってでも逃してみせる。だから……。
真っ直ぐ彼の瞳を見つめ返す。
すると中将の君は、ふっと目を逸らして言った。
「ならば、代わりだなんて言わないでください。貴女が心から尽くして下さっていることは分かっています。ほら、そんな真剣な顔しないで。まろやかな顔が四角くなってしまってますよ」
そう言って、千寿の頬を掠める長い指。ひんやりとした感触にピクリと身体が応じてしまう。胸の内の卑しさが身から飛び出てしまったように感じて千寿は恥ずかしさに消え入りたい気分だった。
「あ、あの、火桶を持って参ります」
そう言って動こうとするが、中将の君の腕は千寿を囲ったまま。千寿の言葉が聞こえなかったのか、どこか遠くをみるような目をして考え事をしている。
「中将様、手が冷えてます。火桶を取って参りますので少々お待ちください」
少しずり下がって、中将の君の腕の下を無理矢理に掻い潜ろうとするが、その腰が彼の膝によって留められた。
そして耳元近くで囁かれる。
「そうですか。それでは、そうですね。何でもと仰るなら願ってみましょうか」
「え?」
「折角、何でもすると言ってくれたのです。甘えてみましょうか」
斜めに見つめられ、息を詰める。コクリと鳴ってしまう咽。千寿は一瞬唇を噛み締め、覚悟を決めてから頷いた。
「はい」
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