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夏の夜の祭り
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二五歳の八月、家族が消えた。
家と保険金と遺産だけが残った。
遺品の片づけをしようにも何を片づけたらいいのかわからない。どれも、俺には必要なものなのだ。
ソファに横になり目を閉じていると、五歳くらいの頃に爺ちゃん家の近くの夏祭りで、父さんに手を引かれながら歩いている時の事を思い出した。左右には屋台が並んで道を作っていて、目の高さにりんご飴が置かれてあって、それが宝石のように輝いて見えていた。
――どこか遠いところへ行こう。
テレビでは京都の鞍馬が涼しくて観光地だと紹介している。行けないわけではない京都くらいの距離がちょうど良かった。鞍馬で一番安い宿を探すと、駅からかなり離れたところの宿が空いていた。
翌日、適当に目が覚めたところで最低限の荷物だけで京都に向かった。
新幹線でも行けるがそんなに急ぐこともなし、特急電車をいくつか乗り継いだ。その方が遠いところに行っている感覚になる。
叡山電鉄に乗り鞍馬駅に着いてからバスに二十分乗りそこから十五分は歩いた。すっかり夜になっていた。
京都かどうかも関係ないような山奥に木造の古びた旅館が建っていた。看板には旅館の名前が書いてあったのだろうが薄れて読める文字がひとつとして無い。しかし地図はたしかにここを示している。
入ると着物を着たおばさんが笑顔で立っていた。女将だろうか。
「お待ちしておりました」と言う彼女はまるで今着いた事を知っていたみたいだ。
彼女が先に歩いて部屋を案内してくれている間、いくつかの部屋の前を通るたび賑やかな声が聞こえたが、誰ともすれ違うことはなかった。
部屋には羽根の生えた鼻の長い人間が描かれた掛け軸がかかっている以外は普通の旅館と同じだ。安いわりにはちゃんとしているらしい。
この掛け軸、と言って後ろを振り返ったが女将はもういなかった。掛け軸に描かれているのはきっと天狗だろう。鞍馬には天狗がいる、とバスの運転手が話してくれたから。
喉が渇いてお茶を買いに部屋を出るが、館内には自販機が見当たらず、外に出て探すことにした。その間やはり誰ともすれ違わない。
夏とは思えない乾いた風が吹いている。なるほど、市内はかなり蒸し暑かったから鞍馬に人が来るのも頷ける。
暗い道に等間隔に立つ電灯の灯りを頼りに来た道と別の道を歩いていくと、祭囃子の太鼓と笛の音色が聞こえてきた。祭りだろうか、それとも練習か。
音に近づくと赤い灯りが浮いているのが見えてきた。近づくとそれが提燈とわかる。
提燈の道を進むと大きな鳥居をくぐったところで、人だかりと屋台が賑わっている広場に出た。神社で祭りがやっているらしかった。
射的や金魚すくい、綿菓子を食べる子供、どれも祭りらしいものが飛び込んでくる。
一際賑わっている手押し車のような屋台が1つあった。屋台の中は暖簾で隠れて何屋かわからないが、カウンターが付いているらしく大体ラーメンかおでんだろうと踏んで暖簾をくぐる。
屋台の奥から頭全部が肌色に輝く坊主が「よー来なさった」と言う。カウンターに座るおじさんが「兄ちゃん、ここ座りや」と言って1人分空けてくれる。後に引けなくなった俺はそこに座った。
よく見ると、壁には金魚が飾られている。
ワイングラスには金魚すくいで使われる小さい金魚が泳いでいる。他にも尾ひれの長いやつがビアグラス、頬を膨らませているやつがタンブラーグラス、デメキンがロックグラスの中で泳いでいる。どれもグラスの下から泡がのぼっているが、酸素の管がついているようには見えない。まるで炭酸水の中で泳いでいるみたいだ。
ここは、居酒屋だろうか。
注文をする前に坊主がロックグラスに入った琥珀色の液体を出してくれた。屋台の電球に反射して輝くそれは子供の頃見ていたりんご飴を彷彿とさせる。
「これは?」坊主に訊く。
「この世で一番美味い酒や」席を空けてくれたおじさんが言う。
強い酒は飲めないのだが、どれほど美味いものなのかだけが気になってほんの少し口に入れた。
口いっぱいに草の臭いと泥のような味が広がる。
えずく俺をおじさんは笑っている。他のおじさんも全員笑っている。からかわれたのだろうか。
お水を貰おうとするが、おじさんがそれを止める。
「その酒を飲んでる間は他に何も飲んじゃいけない」
さっきまでの笑顔からは想像もつかない目つきで俺を見る。関西弁の訛りもない。
何を言っているんだこのおっさん。それとも、またからかわれているのだろうか。
「お兄さん、その人の言う通りなんだ。口に合わないのは悪い事をしたが、それを飲み干さなければ水もやれない」坊主が言う。
これだけ不快な味と臭いの液体を飲みきらなければならないだなんて、こいつらは鬼なのだろうか。ただの人間とは思えないその味覚は本当に鬼なのかもしれない。
何度か深呼吸をして鼻を摘まみ息を止め、一気に飲み干す。周りからは歓声が上がる。
坊主が水を入れたグラスを奪うように取ると一気に飲み干した。
一息つく間もなく、酒の味のせいか胃の辺りが気持ち悪くなり、何度か身体が波のように前後に動き、お腹から逆流するものを堪える。
もう無理、と思った時には口から噴水のように細長い水が弧を描いて的確に酒が入っていたグラスに入り、喉を詰まらせている塊がぽっと出てきた。
口から、ふくふくとした金魚が出てきたのだ。
金魚は綺麗にグラスに着水した。
周りの客全員がサーカスでも見るかのような大歓声を上げている声が聞こえる。
その声が遠のいていく。
「こりゃ立派だ」
「天狗様も喜ぶやろう」
「またひとつ増えたな、おやじさん」
体が後ろに倒れていくのがわかる。
まだ歓声や笑い声が聞こえている。
家と保険金と遺産だけが残った。
遺品の片づけをしようにも何を片づけたらいいのかわからない。どれも、俺には必要なものなのだ。
ソファに横になり目を閉じていると、五歳くらいの頃に爺ちゃん家の近くの夏祭りで、父さんに手を引かれながら歩いている時の事を思い出した。左右には屋台が並んで道を作っていて、目の高さにりんご飴が置かれてあって、それが宝石のように輝いて見えていた。
――どこか遠いところへ行こう。
テレビでは京都の鞍馬が涼しくて観光地だと紹介している。行けないわけではない京都くらいの距離がちょうど良かった。鞍馬で一番安い宿を探すと、駅からかなり離れたところの宿が空いていた。
翌日、適当に目が覚めたところで最低限の荷物だけで京都に向かった。
新幹線でも行けるがそんなに急ぐこともなし、特急電車をいくつか乗り継いだ。その方が遠いところに行っている感覚になる。
叡山電鉄に乗り鞍馬駅に着いてからバスに二十分乗りそこから十五分は歩いた。すっかり夜になっていた。
京都かどうかも関係ないような山奥に木造の古びた旅館が建っていた。看板には旅館の名前が書いてあったのだろうが薄れて読める文字がひとつとして無い。しかし地図はたしかにここを示している。
入ると着物を着たおばさんが笑顔で立っていた。女将だろうか。
「お待ちしておりました」と言う彼女はまるで今着いた事を知っていたみたいだ。
彼女が先に歩いて部屋を案内してくれている間、いくつかの部屋の前を通るたび賑やかな声が聞こえたが、誰ともすれ違うことはなかった。
部屋には羽根の生えた鼻の長い人間が描かれた掛け軸がかかっている以外は普通の旅館と同じだ。安いわりにはちゃんとしているらしい。
この掛け軸、と言って後ろを振り返ったが女将はもういなかった。掛け軸に描かれているのはきっと天狗だろう。鞍馬には天狗がいる、とバスの運転手が話してくれたから。
喉が渇いてお茶を買いに部屋を出るが、館内には自販機が見当たらず、外に出て探すことにした。その間やはり誰ともすれ違わない。
夏とは思えない乾いた風が吹いている。なるほど、市内はかなり蒸し暑かったから鞍馬に人が来るのも頷ける。
暗い道に等間隔に立つ電灯の灯りを頼りに来た道と別の道を歩いていくと、祭囃子の太鼓と笛の音色が聞こえてきた。祭りだろうか、それとも練習か。
音に近づくと赤い灯りが浮いているのが見えてきた。近づくとそれが提燈とわかる。
提燈の道を進むと大きな鳥居をくぐったところで、人だかりと屋台が賑わっている広場に出た。神社で祭りがやっているらしかった。
射的や金魚すくい、綿菓子を食べる子供、どれも祭りらしいものが飛び込んでくる。
一際賑わっている手押し車のような屋台が1つあった。屋台の中は暖簾で隠れて何屋かわからないが、カウンターが付いているらしく大体ラーメンかおでんだろうと踏んで暖簾をくぐる。
屋台の奥から頭全部が肌色に輝く坊主が「よー来なさった」と言う。カウンターに座るおじさんが「兄ちゃん、ここ座りや」と言って1人分空けてくれる。後に引けなくなった俺はそこに座った。
よく見ると、壁には金魚が飾られている。
ワイングラスには金魚すくいで使われる小さい金魚が泳いでいる。他にも尾ひれの長いやつがビアグラス、頬を膨らませているやつがタンブラーグラス、デメキンがロックグラスの中で泳いでいる。どれもグラスの下から泡がのぼっているが、酸素の管がついているようには見えない。まるで炭酸水の中で泳いでいるみたいだ。
ここは、居酒屋だろうか。
注文をする前に坊主がロックグラスに入った琥珀色の液体を出してくれた。屋台の電球に反射して輝くそれは子供の頃見ていたりんご飴を彷彿とさせる。
「これは?」坊主に訊く。
「この世で一番美味い酒や」席を空けてくれたおじさんが言う。
強い酒は飲めないのだが、どれほど美味いものなのかだけが気になってほんの少し口に入れた。
口いっぱいに草の臭いと泥のような味が広がる。
えずく俺をおじさんは笑っている。他のおじさんも全員笑っている。からかわれたのだろうか。
お水を貰おうとするが、おじさんがそれを止める。
「その酒を飲んでる間は他に何も飲んじゃいけない」
さっきまでの笑顔からは想像もつかない目つきで俺を見る。関西弁の訛りもない。
何を言っているんだこのおっさん。それとも、またからかわれているのだろうか。
「お兄さん、その人の言う通りなんだ。口に合わないのは悪い事をしたが、それを飲み干さなければ水もやれない」坊主が言う。
これだけ不快な味と臭いの液体を飲みきらなければならないだなんて、こいつらは鬼なのだろうか。ただの人間とは思えないその味覚は本当に鬼なのかもしれない。
何度か深呼吸をして鼻を摘まみ息を止め、一気に飲み干す。周りからは歓声が上がる。
坊主が水を入れたグラスを奪うように取ると一気に飲み干した。
一息つく間もなく、酒の味のせいか胃の辺りが気持ち悪くなり、何度か身体が波のように前後に動き、お腹から逆流するものを堪える。
もう無理、と思った時には口から噴水のように細長い水が弧を描いて的確に酒が入っていたグラスに入り、喉を詰まらせている塊がぽっと出てきた。
口から、ふくふくとした金魚が出てきたのだ。
金魚は綺麗にグラスに着水した。
周りの客全員がサーカスでも見るかのような大歓声を上げている声が聞こえる。
その声が遠のいていく。
「こりゃ立派だ」
「天狗様も喜ぶやろう」
「またひとつ増えたな、おやじさん」
体が後ろに倒れていくのがわかる。
まだ歓声や笑い声が聞こえている。
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