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青天の霹靂
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「う、うわああ!」勢いよく体を捻った所為でソファに頭をぶつけてしまったが、痛みを感じる暇はない。
今この瞬間、誰に一番会いたいかと言われたらそれはもう、八代さんだと答える。二度と会えない人物なのだから。
つまり、会えないと分かっているから答えているわけで、それなのに何故対峙しているのだろうか。混乱が混乱を呼び、叫びながら壁まで後ずさって首を振り続ける俺に、八代さんは優しく苦笑いした。
「ごめんな、驚かせて」
「え? え? 誰、八代さんにしか見えない!」
八代さんはこの世にいないのだから、八代さんによく似た別人だろうと頭が決めつける。大の大人が涙を必死に堪える姿は情けないことこの上ないが、それを咎める者は誰もいないため、盛大に狼狽え、目の前の存在を否定した。
「違う! 八代さんじゃない!」
「高田」
「俺を騙すな!」
「高田……」
瞳を伏せて呟いた声を残して、瞬間、彼は消えてしまった。そう、見てる前でしっかりと。
背中を、全身を薄ら寒いものが這い回る。いきなり現れた男が八代さんそっくりで、その男が一瞬で消えたとあれば、認めざるを得なかった。あれは、八代さんに似ている人間ではなく、八代さんそのものだ。
ともすれば、恐怖はすぐに遠のいて、代わりに焦りが心の内に生まれた。
俺は、八代さんに何を言った? 命に終わりを告げてもなお会いに来てくれた相手に、とんでもないことを言ってしまった。
謝りたくて部屋中を、果てはベランダやマンションの廊下まで探してみたが、八代さんの姿は見当たらなかった。いくら押し潰される絶望のあまりあり得ない幻覚を見たのだとしても、失礼な態度に他ならない。もう一度出てきてはくれまいか。やや汚れた一人きりの室内で、膝を付いた俺は両手握って天井へかざし、祈りのポーズで八代さんを望んだ。
――八代さん八代さん八代さん! すみません俺が悪かったです謝りたいです出てきてくださいッ! あ、でも怖くない感じで出てきてください!
「あれ!?」
瞬きをして、次に目を開けたら夜が明けていた。しっかりベッドで寝ており、薄手の毛布を羽織っていることが不思議で仕方がなかったが、時計を確認するとすでに昼に近く、のろのろ起き上がってみる。
「いつの間に寝ちゃってたんだろ……八代さんは!?」
見回すが、昨日の夜探し回って散らかしてしまった汚部屋しか視界に入ってこない。つまり、やはり“あれ”は俺の見間違いだったのだ。八代さんの急な死を受け止められない弱い俺が見た幻。とりあえず、今日の最優先はこの汚らしい光景を何とかすることだろう。
洗面所で顔を洗って、寝癖だらけの髪の毛を濡らして最低限の身支度をする。どうせ外に出るのも予定の無い休日などコンビニくらいなものだから、恰好は何でもいいと、ラフなTシャツに着替えて下はそのままパジャマのスウェットをだらしなく着た。残暑だが、今日は少々冷えているらしく、室内用にたまに使っている高校時代のジャージを羽織る。見る者が見れば分かるジャージだが、小さく名字が刺繍されている以外は色も紺色の地味目で、一見その辺のスーパーで売っているジャージと大差無いので重宝している。さすがに来客時に着ることはないが。
「へえ、懐かしいな。そのジャージ」
「やっぱ分かります? ……んん?」
時間が止まる。俺の妄想で決着がついたはずではなかったのか。昨日、微妙な距離で聞いた声が、今はすぐ真横で鳴っている。
ゆっくり顔だけ横に動かしていけば、こちらを向いた八代さんが微笑んでいた。数日前に見た笑顔と寸分変わらない様子が逆に怖い。会社で数日に一回襲ってくる片頭痛と眩暈が一気に襲ってきて、俺の思考回路は早々に白旗を上げた。
「えーと、八代さんで間違いないでしょうか」
全然落ち着かないまま、俺と八代さんはローテーブルを挟んで向かい合わせに座っている。一人暮らしの部屋にソファが複数あるわけもないので、お客さん(と言っていいのか疑問だが)の八代さんにソファを譲り、家主の俺はテレビ前の地べただ。お茶を出すわけにもいかず、膝の上に置かれた両手をもぞもぞ忙しなく動かしながら、質問を投げかける。すぐに肯定の返事が返ってきた。
「びっくりさせてごめんな。俺もちょっと、混乱してて」
「そりゃまあ、そう、ですよね」
この状況で混乱しない人間がいたら、きっとその人の頭の中はお花畑でも咲き誇っているに違いない。俺なんか脳が混乱を招きすぎて、二十代になった菜穂ちゃんが見知らぬ誰かと結婚する幻覚に襲われている。涙を流す前に妄想を追い出して、目の前の問題に背筋を伸ばした。
今この瞬間、誰に一番会いたいかと言われたらそれはもう、八代さんだと答える。二度と会えない人物なのだから。
つまり、会えないと分かっているから答えているわけで、それなのに何故対峙しているのだろうか。混乱が混乱を呼び、叫びながら壁まで後ずさって首を振り続ける俺に、八代さんは優しく苦笑いした。
「ごめんな、驚かせて」
「え? え? 誰、八代さんにしか見えない!」
八代さんはこの世にいないのだから、八代さんによく似た別人だろうと頭が決めつける。大の大人が涙を必死に堪える姿は情けないことこの上ないが、それを咎める者は誰もいないため、盛大に狼狽え、目の前の存在を否定した。
「違う! 八代さんじゃない!」
「高田」
「俺を騙すな!」
「高田……」
瞳を伏せて呟いた声を残して、瞬間、彼は消えてしまった。そう、見てる前でしっかりと。
背中を、全身を薄ら寒いものが這い回る。いきなり現れた男が八代さんそっくりで、その男が一瞬で消えたとあれば、認めざるを得なかった。あれは、八代さんに似ている人間ではなく、八代さんそのものだ。
ともすれば、恐怖はすぐに遠のいて、代わりに焦りが心の内に生まれた。
俺は、八代さんに何を言った? 命に終わりを告げてもなお会いに来てくれた相手に、とんでもないことを言ってしまった。
謝りたくて部屋中を、果てはベランダやマンションの廊下まで探してみたが、八代さんの姿は見当たらなかった。いくら押し潰される絶望のあまりあり得ない幻覚を見たのだとしても、失礼な態度に他ならない。もう一度出てきてはくれまいか。やや汚れた一人きりの室内で、膝を付いた俺は両手握って天井へかざし、祈りのポーズで八代さんを望んだ。
――八代さん八代さん八代さん! すみません俺が悪かったです謝りたいです出てきてくださいッ! あ、でも怖くない感じで出てきてください!
「あれ!?」
瞬きをして、次に目を開けたら夜が明けていた。しっかりベッドで寝ており、薄手の毛布を羽織っていることが不思議で仕方がなかったが、時計を確認するとすでに昼に近く、のろのろ起き上がってみる。
「いつの間に寝ちゃってたんだろ……八代さんは!?」
見回すが、昨日の夜探し回って散らかしてしまった汚部屋しか視界に入ってこない。つまり、やはり“あれ”は俺の見間違いだったのだ。八代さんの急な死を受け止められない弱い俺が見た幻。とりあえず、今日の最優先はこの汚らしい光景を何とかすることだろう。
洗面所で顔を洗って、寝癖だらけの髪の毛を濡らして最低限の身支度をする。どうせ外に出るのも予定の無い休日などコンビニくらいなものだから、恰好は何でもいいと、ラフなTシャツに着替えて下はそのままパジャマのスウェットをだらしなく着た。残暑だが、今日は少々冷えているらしく、室内用にたまに使っている高校時代のジャージを羽織る。見る者が見れば分かるジャージだが、小さく名字が刺繍されている以外は色も紺色の地味目で、一見その辺のスーパーで売っているジャージと大差無いので重宝している。さすがに来客時に着ることはないが。
「へえ、懐かしいな。そのジャージ」
「やっぱ分かります? ……んん?」
時間が止まる。俺の妄想で決着がついたはずではなかったのか。昨日、微妙な距離で聞いた声が、今はすぐ真横で鳴っている。
ゆっくり顔だけ横に動かしていけば、こちらを向いた八代さんが微笑んでいた。数日前に見た笑顔と寸分変わらない様子が逆に怖い。会社で数日に一回襲ってくる片頭痛と眩暈が一気に襲ってきて、俺の思考回路は早々に白旗を上げた。
「えーと、八代さんで間違いないでしょうか」
全然落ち着かないまま、俺と八代さんはローテーブルを挟んで向かい合わせに座っている。一人暮らしの部屋にソファが複数あるわけもないので、お客さん(と言っていいのか疑問だが)の八代さんにソファを譲り、家主の俺はテレビ前の地べただ。お茶を出すわけにもいかず、膝の上に置かれた両手をもぞもぞ忙しなく動かしながら、質問を投げかける。すぐに肯定の返事が返ってきた。
「びっくりさせてごめんな。俺もちょっと、混乱してて」
「そりゃまあ、そう、ですよね」
この状況で混乱しない人間がいたら、きっとその人の頭の中はお花畑でも咲き誇っているに違いない。俺なんか脳が混乱を招きすぎて、二十代になった菜穂ちゃんが見知らぬ誰かと結婚する幻覚に襲われている。涙を流す前に妄想を追い出して、目の前の問題に背筋を伸ばした。
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