こころのみちしるべ

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ルクレティウス編

098.『嵐の前』2

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 オルフェは赤い織物と林檎を籠に入れてビュルクの住宅街の外れを歩いていた。そのプレゼントをもらってくれる人の喜ぶ顔が思い浮かんで彼の口元は自然と綻び、彼の足取りは軽くなった。彼女は寒さに無頓着で薄着でいることがあるが、綺麗な肩掛けをあげればきっと使ってくれるだろう。質の良い林檎が手に入ったから彼女はきっと喜んでくれるだろう。彼女は林檎をそのまま食べることはしないが、砂糖で香ばしく煮詰めてあげれば食べるため、彼は砂糖も用意して来ていた。油は持って来なかったが、まだ彼女の家にたくさん残っていることを知っていた。彼の長い髪は彼が勾配の激しいビュルクの階段や坂道を歩くたびにたなびき揺れた。風はほとんどなく、天気の良い日だった。
 彼は彼女の家に着くと戸を二つノックした。返事はなかったが彼女はいつも返事をしなかった。いきなり入ることをしないのは彼女が着替えたりしていたときのことを考慮してのことだった。少し待ってから彼は声を掛けた。
「レオナ、入るよ」
 彼は中の音に耳を澄まし、特に彼女が慌てて着替える様子もなさそうなことを確認した。彼は戸を開けた。レオナは椅子に腰掛けていた。彼女は壁の方をぼんやり眺めて穏やかに微笑んでいた。オルフェはそれを見て安心すると同時に少し不安になった。それは良くも悪くもいつものレオナの姿だった。オルフェはときどき彼女が何を見ているのか気になることがあった。実際彼女にそれを尋ねてみたこともあった。しかし問われた彼女は微笑んだりするばかりで明確な答えをくれたことは一度もなかった。彼は余計な思索をやめて明るく努めようと自身に言い聞かせた。彼はレオナに歩み寄り微笑んで声を掛けた。
「レオナ、元気かい?」
 彼女はその声を聞いてはじめてオルフェを見た。彼女は顔をくしゃっとさせて笑った。
「オルフェ、いつもありがとう」
 彼女が彼に礼を言うことはあったが、あらたまって「いつもありがとう」などと言うことはこれまで一度もなかったため彼は少し戸惑いを含む笑みを浮かべた。彼女がその日機嫌が良いことを見て取った彼は早速プレゼントを渡すことにした。彼は少し大げさに手にしている毛織物をレオナに見せた。
「レオナ、ほら、見てごらん」
 彼は赤い織物を彼女にそっと手渡した。彼女はそれを恐る恐る手に取って小首をかしげた。
「なあにこれ。マフラー?」
 彼女はそれを目の前に広げてしげしげと眺めた。オルフェは誇らしげに答えた。
「毛織物の肩掛けだよ。だいぶ寒くなってきたからね」
 レオナは上体を起こして嬉しそうにオルフェを見た。
「くれるの?」
 喜ぶレオナを見たオルフェは顔を綻ばせた。
「もちろん!」
 彼女は肩掛けを抱きしめ、眉根を寄せて泣きそうなくらい喜んでいた。
「ありがとう」
 オルフェは彼のほどこしに対しそれほど彼女が喜ぶのを見るのが初めてだったため少し違和感を覚えた。彼女は再びその織物を広げて見た。彼女は裏を見たり表を見たりした。やがて彼女はそれをマフラーのように首にぐるぐると巻き始めた。しかし肩掛けとして作られていたその織物はマフラーにしては大きすぎて彼女の首だけでなく顔までをも覆ってしまった。それを見て思わずふっと笑ってしまったオルフェは、見ていられなくなって毛織物をそっと摘み取ると彼女の肩にそれを正しく優しく掛けてあげた。
「ほら。どう? 暖かい?」
 しかし彼女はその質問には答えずにくすくす笑った。
「?」
 どこかくすぐったいところを触ってしまったのかとオルフェは戸惑った。すると彼女は言った。
「なんか変な感じ」
 彼は彼女が予想に反する反応をしたため少し戸惑ったが、ひとまず喜んでくれたものと解釈することにした。彼はもう一つのプレゼントも渡してしまうことにした。彼は床に置いた紙袋からそれを取り出した。
「ほら、林檎も持って来たよ」
 彼はそれを彼女に見せた。赤く熟した林檎だった。
「とてもおいしそうな林檎だろ?」
 彼女はそれをそっと手に取りしげしげと眺め始めた。角度を変えたりしながら模様をなぞるように眺めた。彼女は変わらず虚ろに微笑んでいた。彼女の視界の中で林檎はやはり林檎であった。眺めるばかりで喜ぶ様子もないため、オルフェは早速それを調理して食べさせてあげることにした。きっとそうすれば喜ぶだろう。
「どれ。煮詰めてあげよう」
 そう言ってオルフェは右手をレオナに差し出した。しかし彼女は彼の方を見もせずに少し小首を傾げたりしながら林檎を眺め続けていた。彼女の双眸は吸い込まれるようにそれに見入っていた。彼女の視界の中でそれはやはりただの赤い果実であった。オルフェはその様子に不安を覚えた。
「レオナ?」
 彼が声を掛けても彼女はそれをやめなかった。彼女の視界の中にある一つの丸くて赤い果実が何か別の意味をもち始めた。その直後、彼女の顔からはたと笑みが消えた。彼女は彼女の記憶の奥底にある別種の赤い果実をそこに重ねていた。彼女は慄然とし、突如悲鳴を上げた。
「きゃあああああああ!!」
 そのはずみで林檎は床に落ちた。オルフェは驚き戸惑った。レオナは頭を抱え、髪を振り乱した。普段運動をほとんどしない彼女にどうしてそんな力があるのかと思うほど彼女は強烈に首を振った。
「レオナ!」
 彼は彼女の両の手首を掴んだ。しかし彼女はまったく落ち着く様子を見せず、なおも床に落とした果実を凝視して首を振り、短い悲鳴を上げ続けた。彼は立ち上がって椅子の背もたれごと彼女を後ろから抱きしめた。それでも彼女が何のためか感じている「恐怖」や「戦慄」は微塵も収まらなかった。
「レオナどうした!」
 彼女はその言葉にもまったく反応しなかった。悲鳴を上げ、息を切らし、声が枯れた彼女は肩で息をして震え続けた。彼は彼女を抱く腕に力を込めた。震えだけはそれでだいぶ収まった。それでも彼女は恐怖に慄く目でその赤い果実を凝視し続けた。オルフェはレオナに耳元で言い聞かせた。
「ただの林檎だ! 大丈夫だ!」
「…」
 ふと彼はそのとき気付いた。彼女が何か声を発していることに。
「? どうしたレオナ」
 彼は耳を彼女の口元に近づけ、彼女が時折呟いている言葉に耳を澄ませた。
「…くない…」
「? 何だレオナ」
「あたしは悪くない…」
 ようやく少し聞き取れたオルフェは、しかし彼女のその言葉の意味を理解できずにいた。ともかく彼は彼女を落ち着かせる言葉を選んだ。
「そうだ、レオナは何も悪くないよ」
 オルフェは彼女が何に対して罪悪感を覚えているのか考えてみたが、林檎に結び付きそうなものは何もなかった。彼女がもっとも気に病んでいることといえばリサがこの家に戻って来ないことだが、林檎がそれを想起させるとは思えなかった。彼女はオルフェの言葉にも反応を示さず、代わりにこんなことを言った。
「学校に戻りたい…」
 オルフェはその突拍子もない言葉に戸惑いつつも「学校」をフラマリオンのアカデミーと解釈した。アカデミーに在籍したことのないはずの彼女が「戻りたい」と表現したことへの違和感はなお残るが、彼は彼女をなだめるべく調子を合わせた。
「そうだな。いつか学校に行こうな」
 レオナはしかしその言葉にも反応せず、なおも意味のわからない言葉を漏らした。
「お家に帰りたい…」
 オルフェは今度こそ返す言葉を失い戸惑った。「お家」とはどこのことだろう? オルフェの知る限り彼女の家はこの家だけだった。オルフェが何と返そうか迷っていると、彼女は涙をこぼしてこう呟いた。
「月見が丘に帰りたい…」
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