こころのみちしるべ

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アーケルシア編

058.『陽動』2

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「痛てててて…」
 その直後そんな呻き声を上げてグレンは立ち上がった。スレッダはそれを見て皮肉を飛ばした。
「ようやくお目覚めか」
 皮肉をよそにグレンは尋ねた。
「ん? あの女はどこだ?」
 スレッダは言った。
「逃げたよ。他のヤツと一緒に。大将もレオが倒した。戦いは終わった」
 するとグレンはつかの間呆然としたあと、騒ぎ出した。
「何だよそれ! 俺全然戦ってねえじゃん!」
 スレッダは呆れたように言った。
「お前が油断して一発喰らって気絶するから悪いんだろ」
 グレンはもっともな指摘に頭を抱えた。
「ああくっそ! 最初から全力出しときゃよかった!」



 ふと、マリアの声が聞こえた気がした。
「リヒト」
 そう名前を呼ぶ声。リヒトは優しい笑みで自身の名を呼ぶ彼女の顔を記憶に見た。その笑みに、その声にリヒトは遠ざかった意識を優しく揺すぶられた。
「マリア…」
 それは倒れるリヒトの口からぽつりと漏れ出た声であった。リヒトに背を向けて歩いていたレオの耳にそれは辛うじて届き、彼は立ち止まった。スレッダは呆然としていた。レオは振り向いた。その視線の先に捉えた男の姿を見てレオもまたスレッダと同じ顔をした。そこには肩で息をしながら立ち、レオに視線を向けるリヒトの姿があった。その目に宿る闘志は戦う前に比べて衰えるどころかむしろ強まってすらいた。スレッダが呟いた。
「あれを食らってまだ立つのか…」
 レオもまた呟いた。
「リヒト…流石アーケルシア最強の騎士だ…」
 リヒトは胸に手をあてた。白い光が紫電のごとく閃いた。しかしそれは平時のように安定することはなかった。胸の前に光は創出されず、日本刀は姿を現さなかった。
 リュウガも座ってリヒトへと視線を向けていた。グレンはようやく自分の本気が出せる好機が訪れたと考えているらしく、笑みを浮かべて今にもリヒトに斬りかからんとしていた。リヒトはルクレティウスの精鋭四人を前に満身創痍の状態だった。リヒトは胸に当てていた手をだらりと垂らし、大きなため息をつき、笑った。
「さて、どうしたもんかね」
 レオが諭すように言った。
「降伏しろ。四対一で勝てるわけねえだろ」
「ははははは…」
 リヒトは乾いた笑い声をこぼした。
「そりゃまあ、そうだよな…」
 彼は口の端を吊り上げ不敵に笑った。
「だがな、俺は一人じゃねえ」
 レオはそれを聞いて訝し気な顔をした。リヒトは相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。そこでレオがはたと気付いた。同時にスレッダも気付き舌打ちした。
「陽動作戦か!」
 リヒトは顔に刻んだ笑いの皺を深くした。すると西の方から鬨の声が聞こえてきた。
「うおおおおおおおおお」
 リヒトは嘯いた。
「さあ来たぞ。ムーングロウ最大最強のアーケルシア軍が」



「進めぇ!」
 馬を駆りながらユスティファは叫んだ。彼の背後には約九千のアーケルシア騎兵が隊列を成して続いていた。夥しい数の蹄が砂埃を巻き上げ、その音は地鳴りのように響き、その疾駆は風を起こして街道と平原の草木を揺らした。
 アーケルシアとルクレティウスとの戦闘の記録を見直したリヒトは六大騎士こそがルクレティウスの絶対的な戦力の要であることに気付いた。それを打破するためにリヒトは大胆な作戦を立案した。精鋭部隊により六大騎士を引き付け、その間に防衛のため本国に残した千の兵を除くアーケルシア全軍九千の騎兵でルクレティウス本国へ突撃を決行する。数で勝るアーケルシア軍の強みを最大限に活かす作戦だ。
 フラマリオンとルクレティウスとの間の街道を駆けるユスティファの視線の先にはもうすでにルクレティウスの西の城壁と城門が見えていた。
 アーケルシア軍の士気は高くその疾駆は勇ましかった。その源泉は三つあった。一つはこれがアーケルシアとルクレティウスとの長きに渡る戦いの決着戦であること。一つはルクレティウス六大騎士をリヒト率いる精鋭たちが引き付けていること。もう一つは彼らがフラマリオン奪還作戦を成功させたことによる自信。
 当初リヒトは全軍突撃の指揮をケーニッヒに託すつもりだった。しかしユスティファの意気を酌み、リヒトはその大役を彼に預けた。ユスティファはリヒトに託された信頼を絶対に裏切らないという気持ちを新たにし、胸中で呟いた。
(リヒトさん、必ず期待に応えてみせます…!)
 大役を預けられたユスティファだが当初彼は貧民街出身の新兵である自分に先輩の騎士たちが素直に付き従うかどうか不安だった。しかし適材適所の作戦で虎狼会討滅とフラマリオン奪還を成し遂げた騎士王リヒトの人材配置への信頼は厚く、元よりどこかでユスティファの実力を認めていた先輩や同輩の九千の騎士はユスティファに付き従い、その指揮に応え動くことを選んだ。ユスティファは万感の思いを込めて剣を抜き、それをルクレティウスの門扉に向け、叫んだ。
「六大騎士は精鋭部隊が引き付けている! これは好機! 六大騎士さえいなければルクレティウス軍など怖れるに足らぬ! 機は熟し、時は満ちた。雌伏のときは今ここに終わる。猛ろ誉れ高きアーケルシアの騎士よ! 駆けよ最後の戦場を! 伝説に名を刻め! 勝利は目の前だ!」
 アーケルシア全軍は高らかに鬨の声を上げた。街道を駆ける約九千の騎馬は順調にルクレティウス城門との距離を詰めていた。



 しかしリヒトの策略はそれだけではなかった。彼にはもう一つ切札があったのだ。
 その男はルクレティウスの東の門の正面にいた。そこはアーケルシアの反対側にあり、敵が攻め込んで来る危険性の最も薄い場所であり、もっとも警備が手薄な場所だった。わけても今はルクレティウス軍がフラマリオン奪還のために準備を進めており、とりわけ警備は薄かった。彼はリヒトが特別な作戦を託した人物だった。そして何より、ルクレティウスを転覆させる宝物・聖剣を誰よりも欲している人物だった。彼はニヤリと嗤いながら嘯いた。
「俺の夢を叶えるためにどいつもこいつもご苦労なことだ」
 彼は東門へと悠然と歩を進めながら続けた。
「この世のすべては俺がいただく。勝つのはルクレティウスでもアーケルシアでもない」
 ゼロアは緋色の双眸を欲望に歪めた。
「この俺だ」



 ルクレティウス強襲作戦が決行される数日前、リヒトは暗がりの中を歩いていた。そこは先日まで剣闘士の控室だった場所だ。コロシアムはすでにただのがらんどうと化している。しかしその裏にある剣闘士たちの控室は牢獄として新たな役割を与えられ健在だった。その入口で身分を告げ中に立ち入ったリヒトは薄暗い通路をひたすら奥へ奥へと進んだ。そこにはかつてクライスをはじめとする剣闘士たちが収監されていた檻があった。今その最奥の檻には別の男が収監されていた。その中に彼の姿を視認するとリヒトは言った。
「よお、元気そうだな」
 実際に男はやせ細ってもいなければ虚ろな顔をしているわけでもなかった。ゼロアが苦しんでいる姿を拝んでやろうという気持ちもあったリヒトは少し残念に思った。ゼロアはその言葉に反応を示さずに相変わらず壁の方を見ていた。正確には壁とも空間ともつかない一点を見ていた。いや、何かを見ていたというのも正確かどうかわからない。
「何だ無視かよ」
 リヒトはまったく残念ではなさそうに笑って言った。するとゼロアはぽつりと言った。
「戦場は楽しくなかった」
 それはリヒトの言葉への返答だったかどうかさえ定かではない言葉だった。また、リヒトへ向けた言葉かどうかさえ疑わしかった。ゼロアはリヒトを見た。ゼロアの顔には感情がなかった。
「だが戦場で何をするかを考えている瞬間だけは楽しかった」
 リヒトは笑いながらその話を聞いた。その実社交的な笑みの向こう側でゼロアの心理と次に自身が口にすべき言葉を冷静に見極めようとしていた。リヒトは今しばらくの沈黙を選んだ。
「アストラも多分そうだっただろうな」
 リヒトは尋ねてみた。
「なぜそう思う?」
 ゼロアは少しだけ笑った。それが嘲弄からくる笑いなのか、単純な思い出し笑いなのか見極めるのは難しかった。
「あいつは戦いが好きじゃなかった」
 リヒトは少し迷ったが思い切って尋ねてみることにした。
「なぜ殺した」
 ゼロアの表情は少しだけ変化したように見えた。しかし実のところそこに変化があったのか、あったとしてその変化をどう名状すべきかリヒトには判じかねた。彼の口は少しだけ動いた。おそらく何かを答えようとしたのだろう。しかしわずかな逡巡ののちそれをやめた。代わりに彼は冷淡に笑いながらこう答えた。
「さあな」
 リヒトはゼロアがいつもの彼であることになぜか少し安心を覚えた。
「ここの暮らしに少しは慣れたか?」
 ゼロアはほとんど表情を変えずに応じた。
「皮肉はやめろ。時間の無駄だ。本題に入れ」
 リヒトは早くも本題に入れることをありがたく思った。
「頼みがある」
「断る」
 しかしゼロアはあっさりとそう言い放った。すげなく断られたリヒトだが、それでも彼の自信は揺るがなかった。
「なぜ?」
「ここの暮らしに慣れてきたところだ。住めば都って言うだろ?」
 リヒトはむしろゼロアのユーモアを歓迎した。
「俺と交渉する気はないということか?」
「ないな。お前は憎むべき相手であって交渉の相手ではない」
「まあそう言うなよ。俺はお前のことが気に入ってんだ」
 ゼロアはぼんやりとリヒトを眺めた。食えぬ相手だと思ったのか、それとも叩きがいのない相手だと思ったのか、いずれにせよこれ以上の駆け引きに意味はないと悟ったらしい。
「用件を言え。聞くだけ聞いてやる」
 リヒトはゆっくりと一歩檻に近づいた。彼の顔は檻と触れるほど近くなり、逆光の作る影に覆われた。ゼロアは壁をぼんやり眺めながらリヒトの話を聞いた。
「お前に仕事を頼みたい」
 ゼロアは反応を示さなかった。リヒトは少し間を置いてから続けた。
「盗みの仕事だ」
「俺は盗みはしない。そんなものはあのコソドロ女にでもやらせろ」
「騎士団から武器を盗んだだろ?」
「あれはビュルクの狩人にやらせた。俺は命じただけで手を下してはいない」
「お前が欲しがってるものだ」
 ゼロアはつまらなさそうにリヒトの言葉を待った。リヒトはためらわずに人参をぶら下げて見せた。
「聖剣」
 ゼロアは表情を変えずにその言葉を聞いていた。だがリヒトは手応えを感じていた。ゼロアはリヒトを横目で見た。
「お前が場所を知っているわけがないだろ」
「禁書を読んだ。一部だがな。あれは今俺が持ってる。アストラ殿にもらった。聖剣の場所は俺しか知らない」
 リヒトは懐から禁書を取り出して見せた。ゼロアは目を眇めたが大きな表情の変化は見せなかった。さすがにポーカーフェイスだなとリヒトは感心した。ゼロアは尋ねた。
「どこにある」
「ルクレティウス」
 ゼロアは鼻で笑った。
「お前らごときがルクレティウスに勝てるわけないだろ」
「それに関しては心配しなくていい。お前は盗みに専念しろ」
「俺がそのまま聖剣を奪い去ったらどうするつもりだ?」
「最初からそのつもりだ」
「何?」
 ゼロアはこの日初めて大きく表情を変えた。彼は目を眇め訝し気にリヒトを見た。リヒトは交渉の成功を確信した。魚は餌に食いついた。
「お前はそのまま聖剣を所有していい」
 まだ要領の得ないゼロアは問うた。
「どういうつもりだ?」
 リヒトはニヤリと笑った。
「それだけじゃない。お前はそのまま自由だ。こんな狭い檻の中に戻って来なくていい」
 ゼロアは逆光の影に黒く塗りこめられたリヒトの目の奥を見た。
「何を考えている?」
 リヒトは少し神妙になった。
「戦争を終わらせる。聖剣には世界を統べる力があるという。ルクレティウスの原動力であり切札、それが聖剣だ」
 少し間を置いてからリヒトは言った。
「それがルクレティウスの配下になければいい」
 呆れたという風にゼロアは笑った。
「要するに混乱を起こせということか」
 リヒトは皮肉交じりに笑った。
「得意だろ?」
 しかしゼロアの懐疑心はまだ晴れなかった。
「だいたいどう奪えってんだ? 相手は堅固だぞ」
「俺たちがルクレティウス六大騎士を引き付ける」
「お前たちが陽動に失敗したらどうする?」
「俺たちの強さはお前が一番よく知ってるだろ? それにもう一つ奥の手を考えてある」
 ゼロアは頭を掻いてつまらなさそうに言った。
「俺を安く見るなよ。お前の口車には乗らない」
「なら一生そこで臭い飯を食い続けろ」
 リヒトは平然と吐き捨てた。ゼロアは相変わらずつまらなさそうにリヒトを見ていた。するとリヒトはおもむろに懐から何かを取り出し、牢のドアの鍵穴のあたりにそれを据えた。ゼロアは引き込まれるようにそれを見た。それはリヒトがあらかじめ看守から預かっておいた牢の鍵だった。リヒトはそれをためらいもなく回した。がちゃり、と冷たく重い音がして牢の扉が薄く開いた。リヒトは眉を上げ涼しい顔であっさりと言い放った。
「さあ出ろ。お前は自由だ」
 ゼロアはその声で我に返った。顔を上げるとリヒトと目が合った。
「どういうつもりだ」
 ゼロアは警戒していた。
「お前が聖剣を欲していることは知っている。そしてこれはお前が聖剣を手にする最初で最後のチャンスだ」
 リヒトは少し間を置いた。
「作戦の開始時刻は俺だけが知ってる。俺に協力するなら一枚お前にも噛ませてやる。あとはお前が決めろ」
 そう言うとリヒトは鍵を地面に落とした。じゃらり、と重く高い音がした。その音はゼロアの耳朶を打ち、ゼロアの心のどこかに反響して鳴り止まなかった。あとは何も言わずにリヒトは立ち去った。扉は半開きのままだった。ゼロアは扉と鉄格子の隙間を見ていた。それは広いようにも見えたし、狭いようにも見えた。



 アーケルシアが攻めて来るとしたら十中八九西からであるため、ルクレティウスの東の門は安全な通用口として運用されており、農家や商人や漁師の通行のために常時開かれている。そこから悠然と街に入ろうとしたゼロアは案の定門番の兵士に呼び止められた。
「すみません、通行証はお持ちですか?」
 ゼロアは笑顔のままそちらを見た。しかし門番に一瞥だけくれるとゼロアは正面を向いてそのまま真っ直ぐ街へと歩を進めた。兵士は慌てて詰所から出て来た。
「おい! 通行証を見せろ!」
「はいよ」
 ゼロアは何かを守衛の兵に向かって放った。彼は慌ててそれを受け取るべく両手を構えた。ゼロアが投げたものは彼の両手に収まった。彼が訝し気にその手の中にある物を覗き込むとそれは黒くて小さな筐体だった。とても通行証と呼べるようなものではない。門番は悠然と歩を進めるゼロアへ向かって彼を呼び止める一声を投げようとした。
「ちょっと君こ——
 しかしそのとき爆発が起こり彼の手と首から上は吹き飛んだ。首から下はどさりと音を立てて仰向けに倒れた。その爆発音と爆風に驚いた通行人はみな驚愕し、守衛の死骸を見た彼らは一様に恐慌に陥り辺りは騒然となった。ゼロアは表情も変えずただ真っ直ぐに歩き続けた。すると横の通りから馬車が向かって来るのが見えた。ゼロアは両手でその進路を遮った。すでに両者の距離は十メートルを切っていた。御者は慌てて馬車を止めた。馬は嘶いて地に蹄を滑らせながら歩を止めた。驚き慄いた御者はゼロアを咎めた。
「君、一体——
 しかしそれを聞こうともせずにゼロアは客車の脇へと歩を進め、そのドアを勝手に開けた。中には貴族と思しき紳士がいた。ゼロアは胸から抜いたダガーでその客の胸を一突きし、その腕を引いて客席から引きずり下ろした。ゼロアは入れ替わるように客車に乗り込んだ。紳士は心臓を一突きされていたため地に落ちて伏せたまま動かなくなった。それを見ていた複数の通行人から悲鳴が上がった。
「象牙の塔へ行け」
 そう告げたゼロアに対し御者は大きく何度も首肯してそれに従った。後に残された貴族の胸からは血の海が漏れ出て広がっていた。
 ゼロアは馬車の窓から眼前に広がり流れゆく街並みに目を向けた。初めてルクレティウスの街並みを目にする彼はその美しさに目を奪われた。建物は整然と並び、その多くが庭をもつ一軒家だった。家の屋根は鮮やかに塗装され、軒先には鉢植えの花が彩を添えていた。人々は清潔で色鮮やかな服に身を包んでいた。ほとんどの道は広く、石畳で舗装されていた。外壁や物見櫓は強固に作られ、そこで働く兵は快適に任務にあたることができるように見えた。そのすべてがアーケルシアとは対照的だった。アーケルシアの貧民街にはなく、アーケルシアの貧民街の人々が憧れるもののすべてがその景色にはあった。ゼロアは心の中で独りごちた。
(もうすぐこのすべてが俺のものになる)
 彼の目は欲望に輝いた。ルクレティウス兵たちの大多数がフラマリオン奪還作戦の準備に駆り出されているためか、街に彼らの姿はなくゼロアを侵入者として見咎める者は誰もいなかった。まさにゼロアにとって絶好の機会だった。
 馬車がしばらく走ると彼の前方にルクレティウスの学問と政治の最高機関である象牙の塔が見えてきた。聖剣が安置されているとされる場所はまさにそこだった。その白い尖塔を視界に入れたゼロアは、聖剣を奪い取った先にある栄光を思い浮かべて邪な笑みに顔を歪ませた。
「いよいよだぜ…世界が手に入る…」



 それから数十分後、ゼロアは象牙の塔の入口に停まった馬車から降りた。駄賃は払わなかったが、代わりに御者の命は奪わずにおいた。御者はゼロアが降りると馬車を慌てて出発させた。塔の前の門の入口を通り過ぎようとすると守衛が用件を尋ねてきた。ゼロアがそのまま塔に入ろうとすると守衛は慌てて立ち上がった。しかし守衛は立ち上がろうとした姿勢のまま硬直した。その原因は彼の喉に刺さったダガーだった。ダガーは深々と脊髄まで達していたため守衛は呻くことさえできずに絶命し倒れた。塔の内部にはある程度の数の兵が駐在しているはずだがやはりフラマリオン奪還作戦に対応するためか、多くは出払っていた。ゼロアは塔に入るとその正面の階段を悠然と上って行った。彼の足音はコツコツと小気味よく鳴り響いた。それはまるで自身の願望の成就を祝う拍手のような響きに彼には聞こえ、彼はそれに陶酔した。象牙の塔は十三階から成っていた。一階はロビー、二階は兵士の詰所、三階以降は研究機関となっていた。もともと細い塔だが昇るにつれてフロアは狭くなっていった。ゼロアに出くわした賢者たちは彼の体に付着した返り血を見てみな唖然とし、みなゼロアから無言で距離を取った。らせん状に造られた階段はゼロアにとってまさに天国への階段だった。ちょうど十階に差しかかったときにゼロアは足を停めた。ゼロアはその階の造りが他の階と明らかに違うことに気付いた。どの階にも階段の脇に部屋があった。それについてはこの階も同じだったが、この階の扉だけやけに装飾が派手だった。おそらく中に安置しているものとの格調を吊り合わせるため。犯罪集団のリーダーとしての勘がそう告げていた。同時に他の階に比べてこの階だけ壁が質素だ。おそらく他の階と材質や厚みが違うため。ここにだけ壁を破って奪われたくない何かがあるのだろう。そしてそれはおそらく——
 ゼロアは胸から爆弾を取り出し、扉に向かってそれを放り、素早く階段に身を隠した。爆弾は間もなく炸裂し爆音と粉塵をあげた。しばらくしてゼロアが確認すると扉は崩れ落ち、それに比して周囲の壁は焦げ跡こそあるものの健在だった。やはりこの部屋の壁には何かを守るため強い素材が使われている。ゼロアは何かに吸い寄せられるように悠然と部屋の中に入って行った。
 部屋に踏み入った彼は目を見開き、口元に笑みを浮かべた。部屋の中はシンプルな造りになっていた。窓はなく、床は金の刺繍を施した赤い絨毯で覆われていた。壁にはほとんど装飾がなく、天井にはシャンデリアがひとつ、そして——
——その真下の床には刀身も柄も紅い剣があった。
 それは噂に聞く聖剣の姿そのものであった。ゼロアはそれに近づいた。彼の顔貌は狂気と喜悦の色に染まった。



 満身創痍のリヒトは四人の騎士と対峙していた。リュウガはまだ動けそうになかったが、他の三人は健在だった。絶体絶命。中でもほとんど活躍できずに真っ先に気を失ったグレンはリヒトと一戦交えたくて飢えた獣のようにリヒトの首を狙っていた。スレッダはリヒトに言った。
「いくら陽動を仕掛けようと今のあんたの状況は変わらねえ。四対一で勝てるわけねえだろ。降参しろ」
 リヒトは肩で大きく息をしながら虚ろな目で笑うばかりでそれには答えなかった。
 ふとそのとき、グレンはその天性の勘で何かの気配に気付いた。
(何だ…? この気配は…)
 彼は目を見開き、慌てて後ろを振り向いた。だがすでに遅かった。一つの影が後方に迫り来ていた。それは目にも止まらぬ素早さで移動し、グレンの両の足首に一本の太刀筋を閃かせた。急に脚の力が抜けるのを感じた彼は、そのままバランスを崩し仰け反るように倒れた。その場にいた誰もが驚愕に目を見開いた。影はそのままの速度で風を巻き起こしながら六大騎士たちの間隙を縫って移動した。六大騎士は目で必死にそれを追った。影はリヒトの隣で立ち止まり、風は唐突に止んだ。身をかがめ、風に目を眇めていたリヒトは隣に立つその男の姿を見て愕然とした。背が低く、無駄のない小さな体を黒衣に包む。あどけない少年のような白い顔貌に冷ややかな目つき。左手には飾り気のないダガー。その刃にはグレンのものであろう鮮血。あれほどの疾走をしていながら息一つ切らさず汗一つかいていない。男は言い放った。かすれるような、しかし耳朶に染み込んでくるような声で。
「三対二ならどうだ?」
 シェイドだった。
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