こころのみちしるべ

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アーケルシア編

053.『ルクレティウス強襲作戦』1

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 その数時間後、アーケルシアの中央の通りをリヒトは一人で歩いていた。彼はフラマリオン奪還の一報に活気づく通りを見て違う国に来たかのような印象を受けていた。オーガが現れる前のフラマリオンも活気をもっていたが、それとは別種のものを感じた。フラマリオンのそれは穏やかで上品で恒久的な賑わいだったが、アーケルシアのそれは騒々しくて下品で一時的な賑わいだった。通りでは食べ物の露店や日用品店が立ち並び割引セールを行っていたが、その傍らで白昼の大通りであるにも関わらず詐欺や違法取引や売春の臭いのする商店も割引を謳っていた。それでも自分の守る国が自信と活気を取り戻していることをリヒトは誇らしく思った。
「あなた」
 リヒトは声のした方を見た。そこには見知った女の姿があってリヒトを驚かせた。肌の露出は多いがそれでいてどこか品のある衣装に身を包む華奢な美しい女性。それは四年ぶりに見るルナだった。アーケルシアの通りに似つかわしくない彼女にはこんなところにいたら犯罪に巻き込まれそうだと感じさせるほどの危うさがあった。リヒトは驚きつつその名を呼んだ。
「ルナ!」
「お久しぶりね、リヒトさん」
 リヒトはまだ幽霊と話している気分だった。
「よかった、生きていたのか…」
 彼女はそれには答えずに爽やかに微笑んだ。
「せっかく久しぶりに会えたんだし、どこかでお茶でもしましょうよ」
 奇襲作戦を控えたリヒトは一人で考え事をしながらお茶をしたかったため、用事があると言って断ろうか迷った。
「少しくらいいいでしょ?」
 ルナが念を押すのでリヒトは逡巡する内心を見透かされたかのように感じ、思わず首肯してしまった。
「ああ、そうだね」
 ルナは戸惑うリヒトをよそに通りに視線を巡らせた。
「あ」
 彼女は良い店を見つけたらしく、口元を綻ばせてどこかを指差した。
「あそこなんてどうかしら? すごく雰囲気が良さそうじゃない?」
 リヒトは彼女の視線を追った。そこには彼のよく知る店があった。
「そうだね。あそこのキッシュはおいしいよ」
 ルナは肩をすくめて嬉しそうに笑った。
「よかった。あたしキッシュ好きなの」
 そう言うとルナは先を歩き始めた。その背中を見て不思議な人だなと感じつつリヒトは彼女に続いた。



 店に移動した二人は窓際のテーブル席についた。窓からは先ほどのアーケルシアの通りがよく見えた。窓から見るそれは先ほどより不思議と落ち着いて見えた。あるいはそれはフラマリオンの街の賑わいに近いものかもしれないとリヒトは思った。リヒトはキッシュを注文したが、ルナは先ほどの言葉とは裏腹にチキンサラダと飲み物を注文した。彼女は均整のとれた美しい体を保つためにやはりチキンサラダのような脂質の少ないものをいつも食べているのだろうかとリヒトは想像した。
「君が生きていてよかった」
「ありがとう。あなたもね」
 「まあ、死にかけたけどね」と冗談めかして言おうか迷ったがリヒトは思いとどまった。彼は話頭を転じることにした。
「まだ踊ってるの?」とリヒトが聞くと一瞬驚いた彼女はすぐに目を細めて笑い「この格好を見ればわかるでしょう?」と応じた。たしかに踊らなければ踊り子の格好はしない。そう言えば彼女が踊り子の衣装以外の格好をしているのを見たことがなかった。さらに思い起こすと彼女は髪の長さも常に一定だった。リヒトはルナがどのように均整のとれた体つきと髪の長さを保っているのか想像してみたが、それはうまくできなかった。
「この街にも踊りに?」
 彼女は運ばれてきた紅茶のカップを傾けたり直したりしながら答えた。
「ええそうよ」
 そう言うと彼女は何かを思い出したらしく紅茶を飲むのをやめてリヒトに尋ねた。
「そうなの! ねえ、この街の楽団を知らない?」
 リヒトは唖然とした。
「楽団?」
「ええ、楽団でも何でも踊りに合わせて音楽ができる方がいればいいんだけど…。いつもアーケルシアに来たらお願いする楽団が戦争のせいで経営が難しくなって解散しちゃったの」
 彼は彼女が音楽に合わせて踊っていたのを思い出した。それを失った彼女は活動の機会を失っている状態にあるらしい。
「そうか…」
 リヒトは考えてみたが騎士団や知人に楽器に詳しそうな人物はなかった。
「楽器ができそうな知り合いは…うーん…」
「そう。残念だけど仕方ないわ」
 そういう彼女は言葉とは裏腹にまったく残念そうには見えなかった。実際のところ仕事のない彼女はどのように生活しているのだろうかとリヒトは想像してみた。彼女の色艶を見ると苦労をしているようには見えなかった。きっとこれまでの貯えがあるのだろうと推測した。
「ところで、あなたは最近どうしてるの?」
 リヒトは一瞬彼女の質問の意図が掴めなかった。「戦っている」と答えるべきだろうか? それならフラマリオンでの彼の役職を知っていて、今リヒトが帯剣している姿を見ている彼女なら気付きそうなものだ。各地を転々としている彼女でもアーケルシア騎士王の名くらい知っていても良さそうだし、いやむしろ転々としているからこそ小耳にはさみそうなものだ。騎士としてどのように働いているかを聞かれているのかとも思ったが、それについてもアーケルシアがフラマリオンを奪還したことを知らない彼女ではなさそうだ。彼は先ほど自身が「まだ踊ってるの?」と尋ねたことを思い出した。彼はルナの質問もそれと同種のものと解釈した。
「騎士をしてるよ」
「それは知ってるわ」
 そう言ってルナはくすくす笑った。
「フラマリオンでルクレティウスに勝ったことも知ってるわ。これで地元に帰れるわね。おめでとう」
「ありがとう」
 そう応じつつ、リヒトはルナの質問の真意がまだわからず戸惑っていた。
「マリアは元気?」
 質問は変わってしまった。今度の質問は意図を理解するのも答えるのも容易だった。
「元気だよ」
 リヒトはマリアの名さえ覚えていたルナに感心した。もしかして旅先で会う人の名をすべて覚えているのだろうかとさえ考えた。もしそうだとしたら、それはどこか不気味なことのように思えた。
「不思議な子よね」
 リヒトはルナの発言の真意をまたも掴み損ねた。マリアは「不思議な子」だろうか? たしかに少し何を考えているのかわからないところはあった。
「そうだね」
 リヒトは何となくそう答えた。
「ええ。何をしてても幸せそうなの。きっとあなたがいるからね」
「そうかな」
 ルナは微笑を返事とした。彼女はカップを傾けながら質問を重ねた。
「まだ戦うの?」
 それはルクレティウスとまだ戦争をするか、という意味だろうか? それともまだ騎士という仕事を続けるか、という意味だろうか? それとも…。彼はもっとも当たり障りのなさそうな答えを選んだ。ルクレティウスとの戦争は続くし、騎士としての仕事も続ける。
「戦うよ」
 ルナはカップに注いでいた視線を上げてリヒトを見た。彼女はいつも笑っていた。彼女が笑顔以外の表情を浮かべているのを彼はほとんど覚えていなかった。
「何と戦うの?」
 リヒトは「ルクレティウス」と答えかけてやめた。「誰」ではなく「何」と尋ねた点に質問の奥深さを感じたためだ。しかしあまり相手を待たせるのも失礼に思えた彼はもっとも無難な答えを選んだ。
「ルクレティウスだよ」
「そう」
 ルナはそれ以上何も言葉を返してこなかった。代わりに彼女はフォークでチキンをいじっていた。リヒトは少しルナに興味をもった。
「君が戦いに興味をもつなんて意外だな」
 ルナはリヒトを見て言った。
「当然よ。踊りでは戦いを表現することもあるのよ」
 リヒトはルナのダンスに情熱的な振り付けがあることを思い出した。それらは恋愛を表現しているものとばかり思っていたが、そうではなかったのかもしれない。
「それに、人生は戦いなの」
 それは彼女に似つかわしくない言葉に思えた。彼は質問を重ねてみたくなった。
「君は何と戦ってるの?」
 ルナは少し挑発的な笑みを浮かべた。
「自分よ」
 リヒトはルナの答えの意図を判じ損ねた。たとえば自分に当てはめた場合、それは何に当たるのだろう。
「自分の弱さ?」
 それはまるで自分に向けた質問のようだなとリヒトは思った。彼女は少し神妙になった。
「弱さだけとは限らないわ。強さも弱さも含めて、今の自分を超えたいの。それには自分を尊敬する心も必要なのよ」
「なるほど」
 肘をついて壁を向いていたルナは横目でリヒトを見た。
「あなたの敵は何?」
 リヒトはまたも返答に時間を要した。もしかしたら先刻「何」と聞いた意図はここにあったのかも知れないと思った。ルクレティウス、シェイド、オーガ。いろいろと考えと記憶を巡らせたが適切と思える答えは一つしかなかった。彼は遠い目をして言った。
「あの日の自分」
 それはフラマリオンがオーガに襲われた日の自分だった。
「許せないの?」
 リヒトは視線を落として笑った。
「ああ」
「でももうどこにもいないのよ?」
 リヒトは意表を突かれたようにルナを見た。
「あの日の自分はもうどこにも存在しないの」
「でもあの日の俺と今の俺は同一人物だし、あの日の俺の弱さはまだ消えてない」
 ルナは目を細めて口元を綻ばせた。
「あなたは一生あなたのことを許さないわ」
 リヒトは今度こそ返す言葉を見出せずにいた。ルナは席を立った。
「素敵なランチだったわ」
 ルナはいつの間にか食事をほとんど平らげていた。一方リヒトはほとんど手を付けていなかった。
「今日は私におごらせて」
 そう言うと彼女はテーブルの上に紙幣を置き、唖然とするリヒトを残して去って行った。ルナが去った後もリヒトはそれを食べ続けたが、不思議と食欲がわかず、結局ほとんど食べずに店を出た。



 その後リヒトは執務室に戻り、早速ルクレティウス強襲用の作戦を練り始めた。といっても手札は限られており、やることもまた明白だった。正確にいえばそれは作戦を練るというよりそこに穴がないかを確かめる作業に他ならなかった。先刻大まかな作戦はメンバーに伝えたが、その詳細はまだ伏せてある。今日までの間に巡らせてきたその内容に不備や見落としはないだろうか。時間は限られる。それまでに可能な限り思索の時間を設けたかった。彼は何気なく窓の外の景色に目をやった。もうすっかり日が暮れていた。遠くにはいつもと同じアーケルシアの街があった。その薄ぼんやりとした景色は戦争とはおよそ縁のなさそうな街の人々の日常の生活を映していた。そこにいる人々は間もなく大規模な戦火が上がることを知らない。この景色を守るために自分が戦っているのか、それともこの景色を地獄に変えるリスクを生じせしめているのはそもそも自分たち軍人なのか、リヒトにはそれを人に尋ねられて断言できる自信がなかった。
——コンコン。
 入口の扉をノックする音が聞こえて、リヒトは益体のない思索から現実に立ち戻ることができた。ノックの音である程度来訪者の判別ができるようになってきていたリヒトだが、この日はそれが誰なのかよくわからなかった。
「どうぞ」
 扉は一拍置いてから開いた。その向こうから姿を現したのはユスティファであった。リヒトは彼の姿に驚き、親しみの笑みを一瞬浮かべたが、その笑みはすぐに曇った。リヒトにはユスティファが何の話をしに来たのかおおよそ察しがついたからだ。ユスティファはリヒトへの敬意を示すために笑みを浮かべた。しかしその笑みも内から滲み出る彼の「覚悟」によって歪んでいた。
「失礼します。お忙しいところすみません」
 リヒトもまた腹を決めた。
「座ってくれ」
 そのまま放っておけば立ったまま話し出しそうな生真面目なユスティファをリヒトは座らせた。そうやって懐柔すれば話が簡単に済むと思ったわけではない。
「ありがとうございます。失礼します」
 ユスティファはいつになく緊張を見せていた。リヒトは「話があるんだろ?」と機先を制することでペースを握ることも考えたが、ずるいような気がしてやめた。この実直な騎士の前で、自分もせめて実直であろうと彼は思った。
「リヒトさん、あの…」
 リヒトは笑顔で先を促した。
「お話したいことがありまして…」
「何だ?」
 ユスティファは意を決した目をリヒトに向けた。
「俺もルクレティウス強襲作戦精鋭部隊に加えてください」
 「やはりか」と思ったがそれは表情に出さないようにした。リヒトは自身も自身の心に素直であろうとした。
「実はそう言われるだろうと思ってた」
 リヒトはそう言いながら噴き出したように笑った。それに釣られてユスティファの表情も緩んだ。
 だがすぐにユスティファは神妙な顔になった。
「お願いします。俺は役に立てます」
 リヒトは答え方を再び迷った。
「ユスティファ、お前の実力はまさに精鋭班に相応しい」
 ユスティファの表情には頑なな意志が表れていた。だがリヒトは非情な通告をユスティファにしなくてはならなかった。
「だが作戦は少数で行いたい。四人が今回は妥当だと考えた」
「決して邪魔にはなりません。…いえ、むしろ役に立って見せます!」
 リヒトは一つため息をついた。
「ユスティファ、作戦は最少人数で行う。お前には本国の防衛にあたってもらいたい」
 ユスティファは表情を変えなかった。
「虎狼会との戦いでも俺は役に立ちました」
「それは本当にそうだ。お前がいなけれ——
「だったら! 俺を連れてってください。俺は役に立ちます…!!」
 ユスティファがリヒトの言葉を遮るのは初めてのことだった。リヒトは今一度覚悟を決めた。
「では本国防衛は誰が務める」
 ユスティファは少し答えに詰まりながら言った。
「それはケーニッヒとタルカスが——
「奴らは沽券に塗れた老害だ」
 ユスティファは言い淀んだ。しかし彼は諦めきれなかった。
「アーケルシアの兵士が全員束になれば勝てます!」
「誰が指揮する」
 ユスティファは答えられなかった。彼の記憶の中に防衛の指揮をとれる人物はいなかった。それに遠回しに「お前しかいない」と言われていることがユスティファは内心少し嬉しかった。リヒトはそこで「お前を精鋭から外したんじゃない。お前にしか防衛の指揮を任せられないんだ」と言えばユスティファを懐柔できそうな気がしたが、正直な彼はそれを避けた。
「いつかお前には騎士団を任せるときがくる」
 ユスティファは揺れていた。それでも精鋭班に入りたいと言うか、リヒトの計画を尊重するか。
「お前の実力は認めてる」
 ユスティファはリヒトを困らせたくないと思った。彼は苦渋の決断の末に後者を選んだ。
「いえ、俺はまだまだです」
 リヒトはそれにも本音で応じた。
「お前は才能もあるしこの数日で成長した」
「俺は精鋭班の誰にも遠く及んでいません」
「だが必ずお前がこの国で最高の騎士になるときがくる」
 ユスティファはリヒトの目を見た。リヒトも目を逸らさなかった。
「強くなってみせます。アーケルシア騎士団のために」
「違うだろ」
 リヒトはアーケルシアの修練場でユスティファに二刀流で演武するように指導した日のことを思い出して言った。
「お前のために、お前らしく強くなれ」
 ユスティファも同じ日の光景を思い出した。思い詰めていた彼の表情に笑みが戻った。それはしばらくぶりに彼が見せる心からの笑顔のように思えた。
「はい!」



 その二日後、ついに作戦の刻は訪れた。
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