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35.協定

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「僕は早々に諦めた。でも、尚人なおとは…………」

 聞き馴染みのある声。留持るもちさん? まぶたは――上がりそうにない。でも、光は感じる。

「……隣にいたのが君だったから。…………して。……部分もあったと思う。けど……だ。……認めてあげてほしい」

「っは、アンタに言われるまでもねえよ」

 相手は奏人かなとか? 思うように聞き取れない。

「ナオのこと頼みましたよ」

「君は? 本当に…………の?」

「……あんなふうに……で、……正直……。だから……」

「……、…………。…………」

 ダメだ。聞こえない。意識が遠のいていく。

「ぶっちゃけどう思う?」

「ははっ、何だよ改まって」

 また声が聞こえてきた。今度のは……奏人と兄さんか?

 瞼に力を込める。開いた。壁掛け灯が見える。幅はベッドと同程度。暖色のやわらかな光がチョコレート色の木壁を照らしている。

 その下には――コンセントの穴? オレンジ色のコードがベッドに向かって伸びている。辿った先にはリモコンがあった。オレンジ色の丸いボタンには『呼出』とある。

「話すべきだった? ……アニキの意見も聞かせてほしい」

 奏人だ。灰色がかった白のハイネックタイプのジャージに、オリーブ色のカーゴパンツを合わせている。垢抜けてる。すごく似合ってると思う。けど、見覚えがない。あんな服、家にあったっけ……?

「ん? ああ……」

 一方の兄さんは白いヌーピーのロングTシャツに、黒のゆるっとしたズボンを合わせている。ものすごくカジュアルだ。

 かまぼこ型の目に、たわわに実った涙袋。鼻筋は細く通っていて、唇は薄い。

 纏う雰囲気は温和なようでいて、勇壮無比な印象も抱かせる。稀有な人だなと改めて思う。

「入れ替わりのこと?」

「ああ」

「っ! ……っ」

 縮こまった心臓に喝を入れた。きちんと受け止める。これも大事な責務だ。

「事が事だからハッキリ言うぞ?」

「ああ。頼む」

 兄さんは一息ついた後で、真っ直ぐに奏人を見据えた。その目には見覚えがあった。遥か昔に道場で。かかる圧はあの頃の比じゃない。だけど、奏人は一切引かなかった。相応の覚悟をもって臨んでるんだろう。

「それは間違いなくエゴだ」

「……………」

 一蹴してみせた。苦笑交じりに。あり得ないと、呆れすら滲ませて。

なんだ。それぞれがいなくなったことで受けた悔しさ、怒り、寂しさ、やるせなさ……。そういうのを全部乗り越えて、あるいは抱えたまま【今】を生きてる」

「……そうだな」

「となると」

「………………自己満だな」

 同感だ。これ以上、僕らの都合で振り回すべきじゃない。

「そういうこと」

 兄さんの手が奏人の肩に触れる。

「辛いな」

「……因果応報だ」

「……そうだな」

 後悔の念が押し寄せてくる。この悔いを抱えることもまた罰なんだろう。

「……兄さん、ありがとう」

「…………」

 兄さんは驚かなかった。僕と目を合わせて、首を横に振る。

「それと、ごめんなさい」

「~~っ、ナオッ!!」

 奏人が覆い被さってくる。ベッドが音を立てて軋んだ。

「大丈夫か? 脚は? 痛まないか??」

「うっ、うん。大丈夫」

 嘘じゃない。薬が効いてるんだろう。鈍い痺れこそあるものの痛みらしい痛みは感じられなかった。

「……そうか」

「っ! そうだ。奏人の怪我は?」

 僕が負わせたものだ。一時は立って歩くことすらままならなかった。

「平気だ。軽い打撲だった」

「……っ、兄さん、本当?」

「あ゛? おい」

 奏人が苛立つ。兄さんはそんな奏人の肩に手を乗せて、顔を覗かせた。

「本当だよ。ヒビも入ってなかった」

「そう……」

 深く息をつく。それと同時に我に返った。

「ごめんね」

 口にして後悔した。これじゃ赦しを乞うているのと同じだ。

「ごめん。今のは――」

「お前の方がずっとしんどかっただろ」

「っ!」

 心臓が嫌な音を立てた。目尻が熱い。ダメだ。堪えないと。

「ひでぇ顔してた」

「~~っ……」

『ばか……やろ、……う……っ』

 あの時――奏人はそう言って僕の足を掴んだ。

「……今もだな」

 頭を撫でるような声音。優しくて、あたたかくて。

「……っ」

 涙が頬を伝う。喉の奥が引き攣って、みっともなく跳ねた。

「……バカ」

 奏人は苦笑しつつティッシュ箱を差し出した。僕はそれを受け取って力任せに涙を拭う。

「……先生を呼ぶのはナオが落ち着いてからにしよ――え~?」

 奏人は僕から身体を離すなり、問答無用でナースコールを押した。数コールの後に看護師さんが応答する。

武澤たけざわです。……はい、今ほど兄が。……はい…………」 

 奏人が淡々とこなしていく。その傍らで、兄さんが顔を寄せてきた。茶目っ気たっぷりに、内緒話をするように。

「昨日、カナを泊めたんだ♪」

「えっ? 一緒に住んでる人……高貫たかぬきさんだっけ? 迷惑じゃなかった?」

 兄さんは大学進学を機に、男の先輩とルームシェアをするようになった。職業は弁護士。兄さんに負けず劣らずの美男であるらしく、社会人になった今も女除けの名目で一緒に住み続けている。

「昨日も帰らなかったから」

「そっか……。弁護士さんって大変なんだね」

「みんながみんなそうじゃないとは思うんだけどな~……」

 兄さんはどこか寂し気だ。仲良しなんだろうな。思いがけず後輩で年下な兄さんを見ることが出来た。何だか得した気分だ。

「じゃあ、その服も兄さんが……?」

「これしかなかったんだ」

 奏人は言う。酷く苦々しい態度で。やっぱり不本意だったんだ。

「いい歳してキャラもんばっか集めやがって」

「えぇー? かわい~じゃんか」

「失礼します。間宮まみやです」

 白衣姿の男の人が入ってきた。奏人が「主治医だ」と耳打ちしてくれる。

「お世話になります」

「いえいえ。それでは、お身体の調子を診させていただきますね」

 僕が頷いたのと同時に診察が始まった。

「……………」

 手持ち無沙汰になる。堪らなくなった僕は、邪魔にならない程度に部屋を見回すことにした。

「っ!」

 ここにきてようやく気付く。病室がやたらと豪華であることに。出入口横にある扉。あれはたぶんトイレに繋がるものだ。もしかするとシャワーも付いているのかもしれない。

 僕の家は裕福じゃない。言わずもがな原因は僕らにある。備品や遠征代で家計を圧迫してるんだ。だから、質素倹約が基本になっている――はずなのに。

「安定されているようですね」

「ホントですか!? 良かった~」

 兄さんに続いて奏人も息をつく。先生はそんな2人を微笑まし気に見つめると、そのまま怪我の具合を説明し始めた。

 傷は思いの外浅かったらしく、筋肉や腱はほぼ無傷。リハビリも含めて1週間程度で復帰出来るとのことだった。

 運が良かったと先生は言う。けど、僕にはそうは思えなかった。これはたぶんだ。

 カラカラと笑う谷原さんの顔が目に浮かぶ。あの後どうなったんだろう。気になるけど、先生がいる間は聞けない。

「それでは」

 先生の背中が扉の向こうに消える。肩の力を抜くのと同時に扉が開いた。

「尚人!! 良かったぁ~!!」

 滋田しげたさんだ。部屋がパァッと華やかになる。白いハイネックのセーターに、黒いズボン。足元は赤みがかった茶色の革靴で彩っていた。

「すみません。ご迷惑をおかけしてしまって」

「役得役得♪ お陰様で天使みたいに可愛い寝顔をた~んと拝ませていただきましたよんっ♡♡」

 和ませようとしてくれてるんだろう。ありがたい。ありがたいけど、返し方が分からない。

「尚人」

「っ!」

 留持さんの声。どこだ。目を走らせて探す。いた。滋田さんの斜め後ろ、横の壁にもたれかかるような恰好で立っていた。灰色のセーターに黒いズボン。上にはラクダ色のPコートを羽織っている。表情はどこか固いように思う。

「…………」

 奏人と留持さんの会話が過る。ほとんど聞こえなかったけど、あれはたぶん夢じゃない。現実にあったやり取りなんだろうと思う。

 留持さんが僕を擁護。

 奏人は留持さんに僕を託していた。

 何かしらなを下したから。

『話すべき? ……アニキの意見も聞かせてほしい』

 兄さんとのやり取りの中で聞こえてきた会話。のように話していたことがすごく気になる。

「……よし。これで役者も揃った。イチから全部話してやるからちゃんと聞けよ」

 室内に緊張が走る。

「あっ……」

 ああ、そうか。父さんは機密性を考慮してこの部屋を手配してくれたんだ。話す内容は勿論、集まる人達もまた人目を避ける必要があるから。

 いつか必ず見える形で返そう。そんな決意を胸に奏人に目を向けた――。


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