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18.影法師
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「いた……」
イチョウ並木を駆けること3分。目的地に辿り着いた。周囲をイチョウの木で囲まれたその場所には屋根付きの休憩場がある。4人掛けのベンチが向かい合わせに2脚。その間にはテーブルが置かれていた。
「お待たせしました」
奏人の表情がふっと和らいだ。頬がじんわりと温まっていくのを感じながら隣に腰かける。
「おや。眼鏡ですか」
谷原さんとは半年ほどの付き合いになる。けど、こうして眼鏡をかけて会うのは初めてのことだった。これまでは試合会場でしか会うことがなかったから。
「いや~、実に素晴らしい。美男に磨きがかかりますなぁ~」
正解が分からない。開きかけた口を閉じて眼鏡のブリッジを押し上げた。全体的に黒っぽいけどブリッジから目尻にかけてグラデーションがかかっていて、端の方は濃い緑色になっている。見立ててくれたのは兄さんだ。思い出もセットで大切にしている。
「あっ! でも……ちょっと待ってください。これから練習に入られるのですよね? なぜコンタクトを……」
「ああ、これダテなんですよ」
代わって奏人が答えた。開きかけた口をきゅっと閉じる。
「かけさせているのですか?」
「コイツが嫌がるんですよ。俺と間違われンの」
「…………」
奏人にはそう伝えてる。真意を告げるつもりはない。
「お察し致します。さぞ煩わしいことでしょう」
「俺は別に構わないんですけどね」
顔を俯かせてブリッジを押し上げる。谷原さんの眼差しが痛い。
「本題に入っていただけますか。先にお伝えしている通り時間がないので」
威圧的に。ひどく面倒くさそうな態度を取る。けれど、谷原さんはまるで動じない。それだけ自信があるということか。唇を引き結んで、顎に力を込める。
「すみませんね。どうにも浮かれてしまって」
軽薄な態度。横からも強い苛立ちを感じる。
「……転向のきっかけを今一度お話いただけますか? 『自分の気持ちに正直に』……でしたっけ?」
「ええ。俺達には人並以上の才能がありました。けど、気持ちは伴わなかった」
「ああ、そうでした。確か……言い出せなかったのですよね? 体験会で現コーチのお二方と、お父様から期待を寄せられてしまって」
「……奏人だけです。僕は全然」
更に言えば、言い出せなかった――わけじゃない。奏人は喜んでいた。嬉しかったんだ。空手をしていた頃は兄さんの影を追わされるばかりで、褒められることがほとんどなかったから。
「ご自分の意思だったと?」
「……逃避です」
先生が優しかったから。それに、兄さんを、父さんを、あれ以上がっかりさせたくなかったから。不純極まりない動機だ。
「なるほど」
「まぁ、そんな感じでのっけから流されてしまったんでね。上を目指せば目指すほど、気持ちで負けることが増えていったんですよ」
「それで転向を。自分の気持ちに正直に……となったわけですね?」
「羨ましさが過ぎたんですよ。なっ? ナオ」
僕は頷き返す。
「……勝手、ですよね」
「いえいえ! 勇気ある選択だと思います。なかなか出来ることじゃありませんよ」
谷原さんは笑顔を向けてくれる。けど、その目はまるで笑っていなかった。谷原さんに限ったことじゃない。大半の人達がそうだった。
「しかし、そうですか……。ん~……やはりどうにも引っかかりますね」
「……っ」
「何か?」
「尚人君はともかくとして、奏人君……アナタは少し縛られているといいますか、傍から見るとお辛そうに見えます」
「縛られてる? ……早撃ちのことですか?」
「おっしゃる通りです」
背に嫌な汗が伝う。ああ、やっぱり僕のせいなんだ。
「単純に俺に合っているからですよ」
「国内ランク120人中45位。2年前からこの位置に留まっていらっしゃる。不躾ですが、伸び悩んでいると言わざるを得ないのではないでしょうか?」
「言ってくれますね。これでも神鳥先生からお墨付きをいただいているんですよ」
「ふふっ、神鳥先生では……ねぇ?」
奏人の眉間に皺が寄る。一方の僕は体温が急激に下がっていくのを感じていた。悟ってしまったからだ。谷原さんが本気であると。
「確かに先生は大変ご立派な方だ。他の追随を許さない輝かしいキャリア。お人柄も相まって堅物な協会役員からも、曲者揃いなトップシューター達からも絶大な信頼を得ておられる。言ってしまえばそう……射撃界の影のドンだ」
悪意が滲み出ている。許せなかった。挑発に違いない。理解しながらも谷原さんを睨みつける。痛くも痒くもないようだ。そればかりか一層調子づかせてしまったらしい。谷原さんの口角が上向いていく。
「が、先生は大変な選手至上主義でもあらせられる。それも過剰なレベルの」
「……っ」
返す言葉もない。僕もまた、神鳥先生のそういった主義主張に救われた側の人間だから。
「選手が望むのなら、それがたとえ勝利を遠ざけ、ひいては射撃界全体の不利益に繋がるものであったとしても容認してしまう」
「何を根拠に」
「尚人君、1つお尋ねしたいのですが……」
不意に話を振られた。声が出ない。目すら合わせられず、ただ頷くことしか出来なかった。
「協会はアナタに10mエアピストル、ひいては50mピストルへの転向を熱望されていたようですが」
「は……っ?」
声が震えた。まったく身に覚えがない。初耳だった。
「やはりご存知ない。揉み消されていたのですね。神鳥先生が」
本当にそんな話が。いや、揺さぶりの可能性もある。
「既知の通り、50mピストルには精密射撃の他、速射射撃と呼ばれる種目があります。速射の才能を開花させたアナタに熱視線が注がれるのは、至極当然の流れかと」
「なら……どうして……? どうして先生は僕に――」
「ナオ!」
考えなしに疑問を口にしてしまった。後悔したところでもう遅い。谷原さんの唇から黒ずんだ歯が覗く。
「ご存知だったからですよ。アナタの夢を」
「っ!」
「トップシューター・留持 涼の好敵手となり、共にエア男子を支える。そんな夢を抱いておいでだったのでしょう?」
「何……で……?」
事実だ。けど、先生には一切明かしていなかった。信頼していなかったわけじゃない。ただ、あまりにも遠大で口にするのも烏滸がましいような夢だったから。
ただ留持さんには――勢い余って、それに近い思いを打ち明けてしまったことがある。留持さんから先生に伝えたのか。あるいは、聞き耳を立てていたのかもしれない。盗み聞きは先生の十八番だから。そうして結果的に先生から他の誰かへ、そして谷原さんへと伝えられた。
「何だよそれ……」
夢の話は、奏人には伝えていなかった。知る必要のないこと。もっと言えば知らずにおいてほしかったから。
「極めつけは、アナタの転向です。その分だと、協会が猛反発されていたことすらご存知ないのでしょうね」
反発なんてされなかった。ただの一度も。むしろ歓迎されているとさえ思っていた。暴力事件を犯した問題児。そんな僕が消えれば頭痛の種も消える。惜しむ気持ちなんて微塵もないのだと。
「交渉のテーブルで先生が切ったのが、留持選手の留学のカードです」
心が、体が震える。首が勝手に横に振れる。何度も、何度も。
「僅かも疑問に思われなかったのですか? アナタが転向の意思を語った途端に、4年にも及ぶ長期留学を快諾なさったのですよ? 短期留学すら固辞されていたというのに」
「それは……っ」
「『自分の気持ちに正直に』……アナタ方の勇気に感化されたと? まさか、真に受けてらっしゃったのですか? おめでたい方だ」
唇を噛み締める。口の中に血が広がっていく。
「胸は痛まないのですか? アナタはそんな先生と留持さんのお気持ちを踏みにじったのですよ」
固く目を閉じる。許されるのならこのまま消えてしまいたい。
「踏みにじる? 何を言ってるんですか。ナオはちゃんと応えてるじゃないですか」
「尚人君。認めなさい。懺悔なさい。本当に悪いと思っているのなら」
「あっ……~~っ」
頭の後ろに重さを感じる。僕はどうしたら。
「いい加減にしてください。これ以上続けるようなら名誉棄損で――」
「まったく、尚人君への同情を禁じ得ませんよ。最初から1人であったのなら。……今ほど自身の境遇を呪う瞬間はないでしょうね」
「…………」
笑みが零れる。谷原さんはご満悦だ。同調されている。そう取ったんだろう。
「……逆ですよ」
「はい?」
「奏人は必要。僕は不要。憐れむべきは奏人の方――っ!?」
不意に痛みが走った。腕のあたり。横の壁に身体を打ち付けたらしい。
「かっ、かな……と?」
目を開けるとそこには、奥歯を噛み締めながら僕を睨む奏人の姿があった――。
イチョウ並木を駆けること3分。目的地に辿り着いた。周囲をイチョウの木で囲まれたその場所には屋根付きの休憩場がある。4人掛けのベンチが向かい合わせに2脚。その間にはテーブルが置かれていた。
「お待たせしました」
奏人の表情がふっと和らいだ。頬がじんわりと温まっていくのを感じながら隣に腰かける。
「おや。眼鏡ですか」
谷原さんとは半年ほどの付き合いになる。けど、こうして眼鏡をかけて会うのは初めてのことだった。これまでは試合会場でしか会うことがなかったから。
「いや~、実に素晴らしい。美男に磨きがかかりますなぁ~」
正解が分からない。開きかけた口を閉じて眼鏡のブリッジを押し上げた。全体的に黒っぽいけどブリッジから目尻にかけてグラデーションがかかっていて、端の方は濃い緑色になっている。見立ててくれたのは兄さんだ。思い出もセットで大切にしている。
「あっ! でも……ちょっと待ってください。これから練習に入られるのですよね? なぜコンタクトを……」
「ああ、これダテなんですよ」
代わって奏人が答えた。開きかけた口をきゅっと閉じる。
「かけさせているのですか?」
「コイツが嫌がるんですよ。俺と間違われンの」
「…………」
奏人にはそう伝えてる。真意を告げるつもりはない。
「お察し致します。さぞ煩わしいことでしょう」
「俺は別に構わないんですけどね」
顔を俯かせてブリッジを押し上げる。谷原さんの眼差しが痛い。
「本題に入っていただけますか。先にお伝えしている通り時間がないので」
威圧的に。ひどく面倒くさそうな態度を取る。けれど、谷原さんはまるで動じない。それだけ自信があるということか。唇を引き結んで、顎に力を込める。
「すみませんね。どうにも浮かれてしまって」
軽薄な態度。横からも強い苛立ちを感じる。
「……転向のきっかけを今一度お話いただけますか? 『自分の気持ちに正直に』……でしたっけ?」
「ええ。俺達には人並以上の才能がありました。けど、気持ちは伴わなかった」
「ああ、そうでした。確か……言い出せなかったのですよね? 体験会で現コーチのお二方と、お父様から期待を寄せられてしまって」
「……奏人だけです。僕は全然」
更に言えば、言い出せなかった――わけじゃない。奏人は喜んでいた。嬉しかったんだ。空手をしていた頃は兄さんの影を追わされるばかりで、褒められることがほとんどなかったから。
「ご自分の意思だったと?」
「……逃避です」
先生が優しかったから。それに、兄さんを、父さんを、あれ以上がっかりさせたくなかったから。不純極まりない動機だ。
「なるほど」
「まぁ、そんな感じでのっけから流されてしまったんでね。上を目指せば目指すほど、気持ちで負けることが増えていったんですよ」
「それで転向を。自分の気持ちに正直に……となったわけですね?」
「羨ましさが過ぎたんですよ。なっ? ナオ」
僕は頷き返す。
「……勝手、ですよね」
「いえいえ! 勇気ある選択だと思います。なかなか出来ることじゃありませんよ」
谷原さんは笑顔を向けてくれる。けど、その目はまるで笑っていなかった。谷原さんに限ったことじゃない。大半の人達がそうだった。
「しかし、そうですか……。ん~……やはりどうにも引っかかりますね」
「……っ」
「何か?」
「尚人君はともかくとして、奏人君……アナタは少し縛られているといいますか、傍から見るとお辛そうに見えます」
「縛られてる? ……早撃ちのことですか?」
「おっしゃる通りです」
背に嫌な汗が伝う。ああ、やっぱり僕のせいなんだ。
「単純に俺に合っているからですよ」
「国内ランク120人中45位。2年前からこの位置に留まっていらっしゃる。不躾ですが、伸び悩んでいると言わざるを得ないのではないでしょうか?」
「言ってくれますね。これでも神鳥先生からお墨付きをいただいているんですよ」
「ふふっ、神鳥先生では……ねぇ?」
奏人の眉間に皺が寄る。一方の僕は体温が急激に下がっていくのを感じていた。悟ってしまったからだ。谷原さんが本気であると。
「確かに先生は大変ご立派な方だ。他の追随を許さない輝かしいキャリア。お人柄も相まって堅物な協会役員からも、曲者揃いなトップシューター達からも絶大な信頼を得ておられる。言ってしまえばそう……射撃界の影のドンだ」
悪意が滲み出ている。許せなかった。挑発に違いない。理解しながらも谷原さんを睨みつける。痛くも痒くもないようだ。そればかりか一層調子づかせてしまったらしい。谷原さんの口角が上向いていく。
「が、先生は大変な選手至上主義でもあらせられる。それも過剰なレベルの」
「……っ」
返す言葉もない。僕もまた、神鳥先生のそういった主義主張に救われた側の人間だから。
「選手が望むのなら、それがたとえ勝利を遠ざけ、ひいては射撃界全体の不利益に繋がるものであったとしても容認してしまう」
「何を根拠に」
「尚人君、1つお尋ねしたいのですが……」
不意に話を振られた。声が出ない。目すら合わせられず、ただ頷くことしか出来なかった。
「協会はアナタに10mエアピストル、ひいては50mピストルへの転向を熱望されていたようですが」
「は……っ?」
声が震えた。まったく身に覚えがない。初耳だった。
「やはりご存知ない。揉み消されていたのですね。神鳥先生が」
本当にそんな話が。いや、揺さぶりの可能性もある。
「既知の通り、50mピストルには精密射撃の他、速射射撃と呼ばれる種目があります。速射の才能を開花させたアナタに熱視線が注がれるのは、至極当然の流れかと」
「なら……どうして……? どうして先生は僕に――」
「ナオ!」
考えなしに疑問を口にしてしまった。後悔したところでもう遅い。谷原さんの唇から黒ずんだ歯が覗く。
「ご存知だったからですよ。アナタの夢を」
「っ!」
「トップシューター・留持 涼の好敵手となり、共にエア男子を支える。そんな夢を抱いておいでだったのでしょう?」
「何……で……?」
事実だ。けど、先生には一切明かしていなかった。信頼していなかったわけじゃない。ただ、あまりにも遠大で口にするのも烏滸がましいような夢だったから。
ただ留持さんには――勢い余って、それに近い思いを打ち明けてしまったことがある。留持さんから先生に伝えたのか。あるいは、聞き耳を立てていたのかもしれない。盗み聞きは先生の十八番だから。そうして結果的に先生から他の誰かへ、そして谷原さんへと伝えられた。
「何だよそれ……」
夢の話は、奏人には伝えていなかった。知る必要のないこと。もっと言えば知らずにおいてほしかったから。
「極めつけは、アナタの転向です。その分だと、協会が猛反発されていたことすらご存知ないのでしょうね」
反発なんてされなかった。ただの一度も。むしろ歓迎されているとさえ思っていた。暴力事件を犯した問題児。そんな僕が消えれば頭痛の種も消える。惜しむ気持ちなんて微塵もないのだと。
「交渉のテーブルで先生が切ったのが、留持選手の留学のカードです」
心が、体が震える。首が勝手に横に振れる。何度も、何度も。
「僅かも疑問に思われなかったのですか? アナタが転向の意思を語った途端に、4年にも及ぶ長期留学を快諾なさったのですよ? 短期留学すら固辞されていたというのに」
「それは……っ」
「『自分の気持ちに正直に』……アナタ方の勇気に感化されたと? まさか、真に受けてらっしゃったのですか? おめでたい方だ」
唇を噛み締める。口の中に血が広がっていく。
「胸は痛まないのですか? アナタはそんな先生と留持さんのお気持ちを踏みにじったのですよ」
固く目を閉じる。許されるのならこのまま消えてしまいたい。
「踏みにじる? 何を言ってるんですか。ナオはちゃんと応えてるじゃないですか」
「尚人君。認めなさい。懺悔なさい。本当に悪いと思っているのなら」
「あっ……~~っ」
頭の後ろに重さを感じる。僕はどうしたら。
「いい加減にしてください。これ以上続けるようなら名誉棄損で――」
「まったく、尚人君への同情を禁じ得ませんよ。最初から1人であったのなら。……今ほど自身の境遇を呪う瞬間はないでしょうね」
「…………」
笑みが零れる。谷原さんはご満悦だ。同調されている。そう取ったんだろう。
「……逆ですよ」
「はい?」
「奏人は必要。僕は不要。憐れむべきは奏人の方――っ!?」
不意に痛みが走った。腕のあたり。横の壁に身体を打ち付けたらしい。
「かっ、かな……と?」
目を開けるとそこには、奥歯を噛み締めながら僕を睨む奏人の姿があった――。
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