十年目に咲く花

栗木 妙

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 一日のうちに何だかんだと起こったことで……私も、相当疲れていたらしい。
 ただでさえ慣れていない旅の疲れも重なって、焚火の前で身体が温まってくるにつれ、次第に瞼が重くなってきた。
 うつらうつらと船を漕ぎ始めた私に気付き、シャルハ殿下が『眠いなら寝ていいぞ、アリー』と声をかけてくれ、そのお言葉に甘えて『はい、おやすみなさいシャルハ様』と返した。
 ――そこまでは覚えてる。


 それからどのくらい時間が経ったのだろう。
 ふと気が付くと、頭の上の方で、何かぼそぼそと話し声が聞こえていた。
「――それでカシムに手配を任せていたんだが、どうやら、それを嗅ぎ回られていたらしくてな……」
「あのカシム副官がボロを出すとは思えないんだけど?」
「ああ、だから、よっぽど執念深く嗅ぎ回ってくれたんだろうよ」
 シャルハ殿下とアクス騎士の声。
 どうやら私は、知らないうちに座る殿下の膝を枕にして眠り込んでいたようだ。
 ああ何ていう無礼な真似を、すぐに起きなきゃ…! とは思ったものの、身体が重くて動かない。瞼さえ持ち上げられない。まだ頭が完全に起きていない所為だろうか。
 ――だって、聞こえてくる低い殿下の声が、とても耳に心地いい……。
「考えてみれば辻褄は合う。私に小姓が付いたという噂が立ったのが、アリーシアの失踪とほぼ入れ違いだからな。あの狸、やはり目の付けどころだけは良いとみえる」
「…なんだよ、結局アンタの堪え性の無さが全部の原因じゃねえか」
「そこは仕方ないだろう。あまり大事にし過ぎて、またどこかの馬の骨に横からカッ攫われてしまうのもつまらないしな」
「はいはい、どーもすみませんね馬の骨で」
 言ってることはよくわからないが、なんとなく気安い二人の会話がどうしてか楽しくて、知らず知らず口許に笑みが洩れる。
「ともかく、それで……? じゃあ、つまり、ああやって襲撃されることを、アンタは予想してたってことか……?」
「あのカシムが尻尾を掴まれるくらいなら、そういうこともあるかもしれないと、あくまで可能性の一つとして考えていただけだ」
「だからといって、それを当のカシム副官にまで言わないでおいとくのは、どうなのよ?」
「こちらが気付いているということを、相手にられたくはなかったからな。念には念を入れたまでだ。――だから勿論、こうなった以上は隠しておいても意味はないし、ちゃんとカシム宛てに書き置きを残してきたぞ。こういう事情だから行ってくるが他に人など寄越すなよ、と。誰かを寄越せば、それこそ相手に気取られるからな」
「それで俺にとばっちりが来たってワケかい……」
「ついでに、私は病床に伏せっていることにでもしておけと指示もしておいた。さすがに、私が王宮を不在にするのは外聞も悪いし、ましてやアリーシアに付いていると知られれば、敵をあぶり出すことも出来なくなるだろう?」
「どうだろうね……アンタ自身も相当ヤツの恨みを買ってそうだし、ここぞとばかりに一緒に始末されるのがオチじゃない?」
「それならそれで、こちらも容赦をしなくて助かるというものだ。死んでから、私を敵に回すことの愚かさを充分に反省してもらおう」
「相変わらず、口ばっかりデカイよねアンタは。――つか、一人くらいは生かしておけよ? 黒幕を割らせるんならさ」
「それはアクス、おまえに任せる」
「えーヤダ、そんな手加減、難しくて出来なーい。全部ぶった斬る方がラクー」
「そんなもの、私だって同じだ」
「じゃあ……まあ、上手いこと生きてるヤツが残ってたらいいね、ってことでいいんじゃね? あまりティアトリード侯爵を追い詰めすぎても、後が厄介かもしれないし?」
「そうだな……あれはあれで、居たら居たなりに他の貴族の牽制役にはなっているからな……居なくなったらなったで、それこそアレクの胃が壊れそうではある……」
「したら、かかってきたヤツら遠慮なく全員ぶった斬る方向で」
「いいだろう。黒幕は泳がせておくという案も悪くは無い」
 ――なんか会話の内容がものすごく物騒な方向に曲がっていってやしないだろうか……。
 とは思いつつも、やはり何だか気持ちが妙にふわふわと浮いているようで楽しくて仕方なくて、思わずふふふと声に出して笑ってしまった。
「――アリー? 起きたのか?」
 そんな声が上から自分へと降ってきたのがわかったが、それに返事は返せなかった。
 ただ楽しくて……その声が耳に気持ちよくて……そして眠い。
 笑いながら、でも間もなく睡魔に抗えなくなって、そのまま私の意識は闇に沈んだ。


 次に目を覚ました時は、すっかり夜は明けていて。
 とはいえ、まだ陽は昇ってはおらず、早朝特有のしらじらとした明るさの中、寒いくらいの冷気が肌の剥き出しの部分に突き刺さってくる。
「…喉、かわいたな」
 ぼんやりと呟くと、ゆっくり身体を起こす。
 すぐ目の前ではシャルハ殿下が寝息をたてており、その向かいでは、やはりアクス騎士が眠っている。
 まだ起きるには早すぎるし、せっかく身体を休めているところを迂闊に起こしてしまうのも申し訳ないと、私はそおっと音を立てないよう立ち上がった。
 そういえば昨日、薪を集めに行ったアクス騎士が、近くに小川があったと言ってたっけ。喉も乾いてるし顔も洗いたい。そうだ、もう水も残り少ないし、ついでだから補充してこよう。
 やはり音を立てないように、自分の分と、ついでにシャルハ殿下のカラッポになっている水筒も一緒に抱えると、足を忍ばせて歩き出した。


「うひゃー冷たーい!」
 さすが山の恵みの天然水、ちょろちょろしている流れを見つけて何気なく手を浸した途端、ぶるっと全身にまで冷気が走る。
「はー、でも、気持ちいいー……」
 ちょっとだけ掌に水を掬うと、まるで舐めるように一口だけ口に含んでみた。
 それだけで、震えがくるくらいまで全身が冷え切ってしまうみたいに感じる。
「うーんと……顔は、後から手ぬぐい持ってきて、それ濡らして拭くだけにしとこうかな……」
 さすがに今ここで顔を洗うのは寒い。ちょー寒過ぎる。
 諦めて、今度は持ってきた水筒を水の流れの中に浸すと、その中身を補充した。
 ちょろちょろ小さいくせに以外と流れだけは速くて、うっかり気を抜くと水筒ごと流されてしまいそうになる。


 ――だから私は気が付かなかったのだ。
 手元に夢中になるあまり、せせらぎの音に紛れて、下草を踏みしめる足音が徐々に自分の背後へと迫ってきていたことを―――。


「…よし、出来たっと」
 持ってきた二つの水筒を満タンに満たしてから、ようやく私は立ち上がる。
 ずっしりと重量を増した水筒を両腕の中に抱き込むようにして抱え、元いた場所に戻ろうと踵を返した途端、そこに大きな人影が在ることに気が付いた。まさに私の目の前、行く手に立ち塞がるかのようにして。
 それが、シャルハ殿下でもアクス騎士でもないことは、一目でわかった。
 驚きに息を飲み、咄嗟に声を上げようとした矢先。
 すかさず大きな手が伸びてきて、私の口許を押さえ付け塞いでくる。
 思わず抱えていた水筒を取り落とし、空いた私の両腕の、その重なっていた両手首を、もう一つの大きな手が絡め取った。
 まるで吊るされるかのようにして、束ねられた両手が頭の上まで持ち上げられ、そこでようやく口を塞いでいた手が離される。
「――ティアトリード侯爵の娘、アリーシアだな?」
 私を拘束する男が、それを尋ねた。
 すかさず私は「違います!」と、叫ぶように答えていた。
「人違いです、私は男だ!」
「嘘を吐くな」
「嘘じゃない! 疑うなら、身体でも何でも好きに調べてみればいいだろう!」
「…わかった、そうさせてもらおうか」
 まだ疑わしい眼差しを引っ込めはしなかったものの、そこで男は、懐から短刀を取り出した。
「痛い思いをしたくないのなら、動くなよ」
 言いながら短刀の鞘を取り払うと、その剥き出しの刃を、おもむろに私の襟元に当てる。
 そのまま、ザッと嫌な音を立てながら、下ろされた刃が私の服の布を縦に大きく斬り裂いた。
 朝の冷気が、剥き出しになった胸と腹に、ひんやりと襲いかかる。
 だが男は、それだけでは足りないとみたのか、そのまま私のベルトにまで、短刀の刃を掛けたのだ。
 下着ごと腰紐を斬られ、穿いていたズボンがずるずると太腿を伝って下へ落ちてゆくのが、感覚だけでわかる。
 人目になど曝すことのないそこが、やはり朝の冷気に撫でられて、あまりの羞恥で思わず唇を噛み締めた。
「…確かに、男だな。本当にシャルハ殿下の小姓だったか」
「だから言っただろう、私はアリーシアなどではない、と!」
 わかったならサッサと手を放せ! とがなり立てた私を見下ろして、見下ろす男が、おもむろにニヤリと笑う。
「男なら男で、それなりの使いようはある」
「なんだと……?」
「さすが、シャルハ殿下のお気に入りなだけはあるな。おまえのような美しい男をみすみす手放すなどと、そんな惜しいことが出来るか」
 私を掴む手に力を籠めたと思うと、ふいに男が足を掛けてくる。
 バランスを崩して地面に投げ出された私の上に、まさに覆い被さるかのようにして、続いて男が膝を突いた。
「王宮で、もっぱらの評判だってな? 殿下のお手がついて、おまえはユリサナの皇太子宮でのお勤めを命じられた、と。一時の遊び相手から、晴れて囲い者に昇格とは、あの移り気な殿下相手に、よくもそこまで気に入られたものだ」
 ――そうなんだ……私のユリサナ行きは、そういう理由でカモフラージュされたんだ……。
「だからこそ俺の主は、おまえがアリーシアだと信じて疑っていない様子だったが……違うなら違うで好都合、ユリサナへ行くよりも、ずっと楽しいお勤めをさせてやるよ。俺の主は、綺麗な男も大好きだからな」
「私を、どうするつもりだ……?」
「まずは、主へ献上するさ。結局は人違いだったと、解ってもらわなければならんしな。それからどうなるかは、主の気分次第、ってところか。――その前に、俺が存分に可愛がってやるよ。このくらいの役得がなければ、やってられん」
 そして男は、ふいに私へと顔を近付けてくる。それから逃れようと咄嗟に顔を背けたが、べろりと首筋を舐め上げられた。
「ひっ……!!」
 一瞬にして全身に鳥肌が走る。――嫌だ、ものすごく気持ちが悪い。
「なんだ、初めてでもあるまいし。シャルハ殿下に、さんざん可愛がられてきたんだろう?」
 ――シャルハ殿下は、こんなことしない! おまえと一緒にするな!
 どんなにそう言ってやりたかったか……でも、言わずにそれはぐっと堪えた。噂通りに振る舞うなら、私に殿下のお手が付いていないなどと、覚られるわけにはいかない。
 しかし、そういえば一度だけ、戯れに殿下が同じような真似をしてきたことならあった。
 同じように首筋を舐められて……でも、こんなに気持ち悪くなんてなかった。こんなにおぞましくなんて思えなかった。
「おまえと殿下は違う……!」
「違わないさ。どんな男でも、やることは同じだ」
「違う! いいから放せ!」
 相変わらず拘束されたまま動かせずにいる両腕を、なんとか振りほどけないかと、とにかくむちゃくちゃに暴れてやる。
 ばたばたと動かした足が男の身体にごつごつとぶつかった感触がし、それで奴の苛々に火が点いたのかもしれない、突然「大人しくしろ!」と怒鳴りつけられるや、バシンと頬を張られた。
 あまりに不意を突かれた突然の痛みと衝撃に、思わず呆然として動きを止めてしまった。
「どんなに暴れたって、どうせ助けなんか来やしねえよ!」
 その隙に、底意地の悪い表情でニヤリと笑った男が、さも面白いと言わんばかりの口調で、それを告げる。
「今頃は俺の部下たちが、おまえの護衛どもを始末している頃だろうさ。どんなに腕が立とうと、多勢に無勢ではひとたまりもあるまい」
「なんだって……?」
「都合よく、おまえ一人が奴らから離れてくれたからな。丁度よかった」
「私の…所為で……?」
「だから観念しろ。おまえを助けてくれる人間など、もうどこにも居ないんだ」
「なんて、ことを……!」
 思わず愕然として、全身から力が抜けた。
 ――私の所為で、殿下が……!
 この国に、ユリサナに、なくてはならない人なのに……それを、私の所為で、喪ってしまった……?
「シャルハ殿下……!」
 その名を口に出した途端、涙が溢れた。
 いやだ、堪えられない。あのひとを喪うなんて。
「殿下……シャルハ殿下……シャルハ様……!」
 ただ殿下の名を呼び続けるしか出来ない私に、男は下卑た笑いを洩らす。
「そんなに殿下が恋しいか。――あの『金色こんじきの魔物』が」
「魔物……?」
「有名な話じゃないか。我が国を攻めてきた際の、あの御方の戦場での情け容赦も無い采配と苛烈なまでの戦いぶりは、まさしく金の鬣を持った美しい魔物の所業だと、当時ずいぶん恐れられていたものだ。今となっては、そんな呼び名は不敬に当たるってんで、誰も口になど出せやしないが」
「そんな……そんなの、知らない……シャルハ殿下は、いつも優しくて……」
「はっ、魔物もとんだ腑抜けになり下がったな! こんな優男一人に尻の毛まで残らず抜かれっちまったと見える」
 おもむろに、男の手が私の脚を掴んで持ち上げた。
「しかし、そうだな……その魔物すら手懐けるほどの男であれば、是非とも味わってみたいもんだ」
 目の当たりにした、軽く舌舐めずりをする男の表情に、ゾッとするほどの怖ろしさを感じ、即座に全身が硬直する。
 小さくかちゃりとした音に視線をやれば、男の手が自分のベルトの留め具を外している。
 何をする気なのかを覚った私は、「やだ!」と叫ぶや、身体をよじって、何とか男から逃れようとした。
 しかし、動けない。――もう力が入らない。
「シャルハ殿下……!」
 泣きながら、その名前を呼ぶしか出来ない。
「死んじゃやだ……やだよ、殿下……私だけ置いていかないでよ……!」
 そして、心の底から絶叫した。
「助けてよう、シャルハ様あっっ……!」


「――いま助けてやるから、少し待ってろ」


 そこで、ふいに響いてきたそんな声に、思わず私は耳を疑う。
 それは目の前の男も同じであったらしく、咄嗟にその動きが止まった。
「なぜ……!」
 そちらに視線をやった男が、そうひとことだけ呻くや、にわかに驚愕の表情を浮かべる。
「なぜ殿下が、ここに……!」
 その瞳に映ったのは、髪も瞳も、何一つとして隠すことをしていない、ありのままのシャルハ殿下の姿だったから。
 たとえ顔を知らなかったとしても、その金色の髪と緑色の瞳を持った姿を目にすれば、この国の民なら誰だって理解する。――この御方こそ、ユリサナ帝国皇太子シャルハ殿下だと。
 スッと伸びた真っ直ぐなまでの姿勢で堂々と屹立するその姿は、全身いたるところに返り血らしきものを浴びていた。




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