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「――そろそろ時間ですね」
 言いながら、書類の束を手にカシムが立ち上がった。
「アリーシア様のお見送りに行かないと」
 書類をこちらの机の上に置き、見下ろす視線で私を促すが……それには気付かないフリをする。
「殿下……?」
「後から行く。先に行っててくれ」
 手元に広げた書類から顔を上げずに素っ気ない返事を返した、そんな私は、カシムの目にどう映ったのだろうか。
 少しの沈黙の後、「わかりました」というタメ息混じりの言葉が、頭の上から降ってくる。
「馬車の出る時間はご存知ですよね? くれぐれも遅れませんようになさってくださいね」
「わかっている」
「拗ねたくなるお気持ちもわかりますが……」
「別に、拗ねてなど……!」
「ここが本当にラストチャンスなんですからね? ――せっかくの贈り物、渡し損ねたなんてシャレにもなりませんよ?」


 カシムが出て行った後、執務室に一人きりになった私は、大きく深く息を吐く。
 そして、机の引き出しから、一つの小さな箱を取り出した。
 これこそ、カシムの言った『贈り物』――数日前、古くからの馴染みであるユリサナの商人から手に入れたものだった。


『――翡翠の耳飾り、でございますか……?』


 私の言葉を聞くなり目を丸くした、その商人――ラジールの顔が、まだありありと思い出せる。
『そうだ、以前おまえが道楽で作ったと言っていただろう? どうだ、売れたか?』
『…いいえ、残念ながら、まだ』


 ユリサナでは、翡翠は皇族所有の印として奴隷へ与えられるものだ。寵愛のほどを示す手段として与える者もいれば、自身の権力・財力の誇示として与える者もいる、その方法は人それぞれだろう。
 そして耳飾りは既婚の証。一般的には、夫が妻へ贈るものとされている。
 ゆえに、奴隷に翡翠の耳飾りを与える主人などは、まず居ない。――それこそ、この奴隷は己の伴侶にも等しい存在である、と公言するにも等しいのだから。
 ましてや皇族の婚姻には常に、真名を捧げた誓いが取り交わされる。つまり男は、自身の名を捧げた者をこそ、公私にわたる己の伴侶であると認めなければならない。――たとえ、どんなに心惹かれる者が他に居ようとも。
 ユリサナの皇族にとって、それほど真名にかける誓いは絶対的なものなのだ。
 売れる見込みも無い商品を扱う、などという、そんなラジールの遊び心は、彼曰く『男のロマン』なのだそうだ。
 というのも、その昔ユリサナ大陸統一を成し遂げ、大帝との誉れも高いユリサナ帝国初代皇帝の逸話に、それは基づいている。
 彼の大帝のもとには、後の世にまで名を残すような有能な臣下が数多くいた。その中に唯だ一人、大帝から贈られた翡翠の耳飾りを纏う者がいた、と―――。
『皇帝と奴隷、という、決して結ばれるはずもない身分差という溝を、その翡翠の耳飾りが埋めたのです。さすが、大帝と誉れ高き御方、やることも剛毅で、かつ、ロマンティックじゃありませんか。そのような御方と、もし今の世でお目にかかれたとしたならば、このラジール、末代までそれを誇りましょうぞ』
『…年寄りは、言う事がいちいち懐古趣味だな』
 それこそ道楽以外の何物でもないと、その言葉を耳にした時の私は、一笑に付したものだった。


『なんだ、まだ売れていなかったのか。モノは確かなのだろう?』
『当然にございます。最高の職人に磨かせた最上級の翡翠を使っておりますし、装飾も、いま最もユリサナで人気のある金細工師に誂えさせました。まさしく皇族の御方々にお使いいただくに相応しい出来栄えにございますれば』
『そうか、ならば私がそれを買おう』
『――は……? いま、何とおっしゃられましたかな……?』
『その翡翠の耳飾り、私が買うと言ったのだ』
 そう繰り返して言ってやった時のラジールのポカンとした間抜け面は、しばらく忘れられそうもない。
 しばし口を開けたまま絶句していた彼だったが、やおら気を取り直したようにハッと姿勢を正すと、まるで気持ちを落ち付けようとでもするかのような深い息を吐いた。
『まさか、シャルハ殿下からそのようなお言葉をうかがおうとは……』
 私も自分の評判のことくらい知っている。寵奴の一人も置こうとせぬ生来の浮気者が、何を血迷ったのかと、思われてもおかしくはないかもしれないな。
 案の定、『御冗談でしょう?』と続けられ、ラジールにすら全く信用されてないことが見てとれる。
 それをこそ、私は一笑に付した。
『冗談でこんなこと言うものか。――ところで、現物はないのか? よもや、当の商品を見せぬまま売り付ける気じゃあるまいな?』


 そしてラジールが出してきたのが、この小箱だった。


 あの場に同席していたカシムも、ゆえにこれを知っていたのだ。
 後になってから問われた。――『その翡翠は、アリーシア様へ贈られるのですか?』と。


 おもむろに、その蓋を開ける。
 真っ先に目を射るように飛び込んでくる、翡翠独特の鮮やかな緑色と、それを縁取る繊細かつ精緻な金細工。さすがラジールがああも自慢するだけのことはある、これは見事な逸品だ。
 しかし、そこに私の紋は無い。
 奴隷に下げ渡される翡翠には普通、その所有者がわかるよう、紋章などが意匠のうちに入れられている。当然、ラジールからもその申し出はあった。『殿下の御紋をお入れするにあたり、お日取りをいただきたい』と。
 だが、私はそれを断った。
 当然ながら、紋を入れ込む細工に費やす日数を待ってはいられない、という事情もあったが、それよりも……、


「――君を、奴隷として扱うつもりはないからな」


 翡翠はアリーシアに贈る、と……私は、カシムに肯定の返事を返した。
 纏う翡翠が耳飾りともなれば、主である者からどれだけの寵愛と信頼を受けているのか、その証明ともなる。
 身に着けられた翡翠は、ユリサナにおいて彼を護ってくれることだろう。――ユリサナという国の民である以上、何人たりとも、皇族の所有物を害することは許されない。
 それを告げた私に、カシムも『確かに、これ以上は無いほどの護符となるでしょうね』と同意してくれた。
 しかし、そんなのはどこまでも建前だった。
 護符代わりとして、だけでなく、彼にこの耳飾りを贈りたかった。そして、彼の意志で受け取って欲しいと願った。
 だから、そのために私は……、


 ――ゆっくりと、その場を立ち上がる。
 手にした小箱に元のとおり蓋をし、懐中に仕舞うと、手早く身支度を整えた。
 そうして、机の引き出しの中こっそり用意しておいた荷物一式を抱え、窓へと向かう。


 今頃アリーシアは、カシムに連れられ、王宮の外へと向かっている頃だろうか。
 王宮前の広場から出る乗合馬車には、彼には知られぬよう密かに手配した護衛の者が、同乗するべく既に待機しているはずだ。
 敵の目も、今はそちらに向けられているに違いない。
 私から皆の目が逸れる、まさに今が好機というものではないか。


 結局、こちらを嗅ぎ回る鼠の尻尾をウルフィが掴んでいることを、私はカシムに何も伝えなかった。
 庭園でウルフィと会っていたことなら、おおかた護衛の者からの報告でもあったのだろう、こちらから切り出す前から既に知っていた。『珍しいこともあるものですね』とだけは言われたが、何を話していたのか、と問い詰められることも無かった。私がウルフィを苦手としていることをよく知る彼のことだから、大した話もせずにとっとと逃げ出してきた、とでも受け取っているに違いない。――と思うと何だかシャクに障らないでもないが、まあ今回に限っては、それはそれで好都合だ。
 そして当然ながら鼠の存在に気付いていたカシムから、駆逐するより泳がせておいてもいいか、という許可を求められたが、それに対しても『好きにしろ』と肯いただけに止めた。
 つまるところ、そのカシムこそを好きに泳がせ撒き餌にしておくほうが、やはり効率がいいかもしれない、という、私なりの計算のもとでのことだ。
 餌に誘き寄せられた鼠どもの鼻先で、私がその狙う宝を掻っ攫ってやろう。
 鼠の親玉の慌てふためく様が目に浮かぶようだ。…それを実際に見ることが出来ないのは、とても残念な限りだがな。


 アリーシアは、決して貴様らの手には渡さない――他の誰の手にだって渡さない。
 必ず護ってみせる。
 私自身の、この手で。


 開けた窓から執務室を脱け出した私を、見咎める者は誰もいなかった。
 地面を踏み締めたその足で、早々にその場を去る。
 身なりを窶し、髪と瞳を隠せば、誰も私が『シャルハ殿下』だとは気付かない。――それこそ、私の姿を見慣れている者でもない限りは、絶対にだ。
 もう手筈は整えてある。
 まず向かうのは厩舎。足がなければ何事も始まらない。


 ――いつまでも『聞き分けのいいお坊ちゃん』で、いてたまるか。


 我がことながら、自分では気が付いていなかった――それを、先日ウルフィに指摘されたのだと、感じた。
 知らず知らずのうちに、私は自分の立場に委縮してしまっていたのかもしれない。
 年齢を経るごとに大きく重くなっていく自身の立場は、まるで鎖で全身を雁字搦めに縛り付けるかの如くして、いつしか私の心から、思うがままに振る舞う自由を奪っていったのかもしれない。
 皇太子にまで上り詰めたことで、私は自身の心に従うことよりも、他の何をおいてさえ、その立場に見合う自分であることを優先して、己に課した。
 ――つまりそれは、『聞き分けのいいお坊ちゃん』として生きることを優先してきたに等しいこと。
 だからこそ、何よりも得難いものを、この手から取りこぼしてしまった。
 自分の手から大事なものが永遠に失われてしまう――あの耐え難い苦痛を、そして悲痛を、もう二度と味わうなんて真っ平ゴメンだ。
 だが、たとえ二度目のチャンスを得たところで、今の自分のままでは、また同じ結果を招くだけだ。
 次は絶対に間違わない。今度こそ、この手の中から逃さない。逃してたまるものか。


 そのためには……私自身が変わらなければ。


 一度の失敗で、想い破れ傷付くことの痛みを知り……一歩を踏み込むことに躊躇いを覚えるようになった。
 そう臆病に成り下がった自分を、これまで見て見ぬフリをしてきた。
 しかし、もう目を逸らさない。
 弱い自分を受け入れて……そのうえで、私は変わろう。


 今の私のこの歩みこそが、その第一歩となる。


 そう……諦めきれないならば、諦めなければいいだけのこと。
 欲しいものは、自分自身の手で奪いにいく。それこそ『図々しい』までに。
 もちろん、自身の立場とその重みも、重々理解しているが……それでも一生に一度くらい、どうしても譲れないもののためになら、己の心に従ってみてもいいだろう?
 それくらいしなければ、心を開いてなぞもらえない。
 私の欲しいもの――アリーシアを、手に入れたいならば、まずはそこから。


「さて、と……お姫様を攫いにいくとするか」


 軽快に馬を駆り、幾つもある王宮の門をくぐり抜けて開けた視界のその先に。
 見えたのは、こちらを振り返る彼の姿。
 そして私は手を伸ばす。自身の望みを叶えるために。
 今度は必ず掴み取ってやる、擦り抜ける隙など無いよう確実に―――。




〈終〉
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