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第15話 藤英とけす宮の楽しいかもしれない日々、そして仲忠の昇進に伴う女房達の噂

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 正頼は更にもう一度辞表を送った。
 しかしまだ返される。
 仕方が無い、と今度は右大弁の藤英を呼んで、改めて作らせることにした。

 「これは殿、それはまた一体」

 この屋敷の婿住みとなっている藤英は驚いた。現在何と言っても政治の場には欠かせない存在である正頼が、一体何を。
 そう思うが早いが、無礼を顧みず彼は口にしてしまった。

「いや、正直こちらも少し疲れたと思っての」

 本心だろうか。藤英は最初の動揺を鎮めると、次の言葉には慎重になる。政治の駆け引きは決して得意ではないが、この屋敷に住む様になれば、自然、彼にも次第に理解できてくるものがある。
 正頼は続ける。

「これまでにも二度、帝に奏上したのだよ。だがどうしても受け入れていただけない。なあ藤英、この辞任によって、是非仲忠を中納言だけでなく、大将になって欲しいのだよ」
「仲忠どのを」

 成る程、と藤英は思った。思惑の行き先はそっちだったか。
 実際に左大将を辞任しなくても良い。ともかく仲忠の昇進を計ってもらいたい。
 その意が伝われば、と正頼は考えているのだ。

「私が辞任すれば、一族の誰かに大将の官は回って来るだろう」

 まずそれは仲忠に回るだろう。
 仲忠は一宮の婿として、この一族に入るから、全体の利益は変わるものではない。仲忠との結びつきがそれでより一層強くなれば、おつりが来るくらいだ、と。

「……と、そんな私の気持ちを汲んだ上で、帝を説得できる様な表文を書いて欲しいんだ。―――言葉一つにも注意してな」
「は」



 藤英はすぐに戻ると、正頼の意を汲んだ辞表を作ることに専念した。
 彼の集中力は凄まじいものである。目の前の紙と筆以外、次第に注意が行かなくなって来る。
 健康上の理由――― 年齢上の理由――― 朝廷への差し障り――― 仲忠を推すあたり―――
 茶番だよな、と思いつつも藤英は考える。考えることは仕事であれ何であれ、彼は好きだった。
 いや好きどころの騒ぎではない。それは既に彼の第二の本能と化していた。
 おかげで。

「わっ」

 机の向こうでじっと自分を見る目にも気付かないでいてしまった。
 視線が合う。
 うろたえた籐英は思わず尻餅をついてしまう。

「ななななななにをしているんですか、あなたは」

 そこに居たのは彼の若い妻、けす宮だった。

「うーん? いや、いつまで気付かないのかしらー、と思って」
「だいたいあなた一人で何やってるんですか! 女房達は」
「暇なんだもの。女房達って」

 そう言うと、何としゃんと立ち上がるではないか。姫君――― いや今は人妻である――― にしては有り得ない程機敏な動きで。

「暇って何ですか暇って」
「だってー」

 そう言ってまだ少女と言っていい程の歳の妻は頬を膨らませる。

「去年までだったら、暇ならお姉様の誰かのとこへ行けば何かしら面白いことがあったんだけど、皆お婿さまが来ちゃったじゃない」
「それはあなたも同じでしょ」
「そうなのよ!」

 どん、とけす宮は床を拳で打ち据える。

「あなた私のお婿さまなのよ。私は奥さんなのよ。だからもう少し一緒に何か楽しみたいとか書とか文とか教えてくれたっていいのに、あなたと来たら、連れてきた学生とばかり遊んで」
「……う、それは」
「別にいいわよ。あなたの得意の漢文は私にはさっぱりだし、あなたという男には全然面白み無いし」
「……それは散々な言い草」
「そうよ。散々な言い草だわ。だからそう思うんだったらちょっとは私のこと、叱ればいいのよ。父上のことなんか気にせずに」

 あ、成る程。
 そこまで言われてようやく藤英は気付いた。

「えー…… つまりあなたは構われたいと」
「そうよ。って言うか、そこまで言わないと気付かないから男ってやーよ」
「そうですか……」

 とほほ、と学問一筋でまるで女のことなど知らなかった秀才は肩を落とす。

「でもね、けす宮。今はちょっと困るんですよ」
「何が」
「今考えてるのは、あなたの父上の大切な書類なのですよ」
「どんな?」
「色々です」
「あー、そこではぐらかす。そこではぐらかしちゃいけないのよ」
「いけないのですか」
「そうよ。下手にはぐらかすと女は突っ込みたくなるのよ。こういう時はね、少しだけ本当のことを言うの。そうすると、ああ我が夫君はそういう大切なことをやっているのね、じゃあ私は引っ込んでいましょう、と素直に受け取れるじゃない」
「しかしけす宮」

 そこで反論するところが彼だった。

「そうやって言われるままに私が策を講じたところで、相手はあなたじゃないですか。あなたに教わった知識であなたを捲こうというのは無理な相談ではないですか」
「何言ってるの。言われた通りにしかできないんだったら、それはあなたの力不足というものよ」

 がん、と頭を殴られた様な衝撃を藤英は受けた。

「……で、えーと」

 彼女はそのまま藤英の斜め後ろにまでやって来て、周囲に書き散らされたものを見やる。

「あー、成る程」
「判るんですか、あなた」
「何となく」

 謎だ、とこの妻に関しては彼は思わずにはいられない。
 最年少の姫に彼は婿入りした訳なのだが、何やら時々少女というよりは、動作といい、言葉といい、少し華奢な少年を相手にしている様な気分になる。

「つまりお父様は、仲忠さまに恩を売ろうってことね」
「い、いやそこまでは」
「お父様ですもの。そのくらい考えそうなことだわ」
「……そんなあなた、はしたない」

 彼は思わずため息をつく。

「そんなこと言っていると、成り上がりのあなたなんか、すぐに潰されるわよ」

 再び、今度は横っ面を張り倒された様な衝撃を彼は覚える。

「あ、ごめんなさい。別にあなたが成り上がりってことを責めてる訳じゃないわよ」
「本当にそうですか?」

 腰砕けになりながら、藤英は妻の方を上目づかいで見る。
 三十男が娘ほどの歳の差がある少女にする態度ではない。だが、衝撃からなかなか立ち直れない彼には、自分を客観視することがなかなかできない。

「本当よ。そりゃお姉様達みたいに立派な出の婿君が来るんだと思ってたから、それなりに最初は私も落ち込んだんだけどね」
「落ち込んだんですか……」

 はあ、と大きくため息をつく。するとばん、と勢い良く背中を叩かれる。

「何聞いてるの、それは過去形よ!」
「過去形」
「今は面白いと思ってるわ。だってそうじゃない。いいとこの出の婿君達って、緊張感が無いのよね」
「緊張感」
「そーよ。それに皆何処か甘いわ。だってあなた聞いているでしょ。実忠さまのこと」
「ああ……」

 あて宮の恋に狂い、入内後かなりの期間が経つというのに、未だに人と交わるのが怖いのか、小野の里に閉じこもっていると聞く。

「私はそんな人は願い下げだわ。情けない!」
「……そうですか」

 頭が痛くなりそうだ、と藤英は思う。

「それに女房達は言うわよ」
「何を」

 下手なことを耳に入れない様に…… と一瞬彼の頭に考えがよぎった。だが彼は聡明だったので、それが徒労に終わることにすぐに気付く。

「あのね、どうしてそういう態度なのか、というと、確かにやる気が起きないっていうのもあるんだろうけど、あて宮に自分の思いが純粋だったと思わせるため、ってのもあるって言うじゃない。馬鹿みたい」
「……い、いやそこまで言うことは」

 その昔、一つの行事や示威行動として、思いは格別無くとも、あて宮へ歌を送ったことがある彼は、同じ男としてつい実忠を弁護したくなる。
 しかし彼の若い妻は容赦が無い。

「いいえ言います。馬鹿よそんなの。まあ私はあて宮のお姉様じゃないから何だけど、少なくとも今宮のお姉様や女一宮とかは呆れているわよ」
「呆れて……?」
「見え見えだって。まあその見え見えも含めて一つの作戦としているんだろうけど、と私達お話してたこともあったし。何自分に酔ってるのかしらね、って」

 三度目の衝撃が彼を襲った。嗚呼女というものは……

「い、今宮というと、確か涼どのの奥方で」
「そうよ。一番お話が面白いお姉様だったんだけど、何っか思った以上に結婚生活が面白いらしくって。……まああの今宮がそう思うくらいだし、おかげで私も結婚してもいいかなー、って気になったんだけど」
「……そ、そうなの?」
「そーよ。今宮のお姉様ってのは、うちの中でも並外れたおかしな姫だったらしいもの。簀子は走る髪は振り乱す。婿なんか要らないって言い出すんじゃないか、って、お父様も何処かひやひやしていたって噂だわ」
「けど涼どのには」
「そこよ」

 ぴっ、と彼女は藤英の目の前に人差し指を立て、顔を近づける。

「どうもあの二人、こっそり文を交わしていたんじゃないかって。今宮の方が好きだったんじゃないか、って女房からの情報では」
「そ、それは。女の方からなど」
「だから、そういうお姉様を涼さまは好きになったんじゃないの?」

 大物だ、と彼は涼について思う。

「今宮のお姉様は他のお姉様達の様な『しきたり』とか振り回さなかったもの。ずっと話が合ったわ」

 だとしたら、それは随分なものだと藤英は思う。

「と言っても、私は簀子をばたばた走ったりする様な度胸はなかったから、お父様に言われたらその通り、婿取りしなくちゃならないとは思っていたし。まあそれだったらできるだけ面白い方がいいわねと思ってたのよね」
「あなたそんなこと、婚礼の日にも言わなかったじゃないですか」
「あんな皆がじろじろ気にしている中でそんなこと言ったら、あなた退くでしょ! ただでさえ『身に余る何とやら』とばかりにしゃちほこばってたくせに! そしたらせっかくの婚礼は台無しだったじゃない!」

 それはそうだ。

「今だから言うのよ。なかなか私は面白い人と結婚したって」

 そう言って、けす宮はにこ、と笑った。
 その笑顔が非常に可愛らしいので、藤英は何も言えなかった。



 さて帝は、藤英が作った辞表に目を通すと、成る程、という表情になった。

「判った。これは受け取っておこう。そして」

 帝はとうとう正頼の思いを酌み取る格好となり、仲忠の元に使いを出した。中納言兼大将とする、という御文を持って。
 驚いた仲忠はすぐに正頼と大宮の元へ向かい、任官の準備のことを相談する。
 やがて内裏からは唐綾、絹をそれぞれ入れた唐櫃が一つづつ、妻である女一宮の元へ送られて来る。

「凄いじゃない!」

と、今にもお産が始まりそうな今宮からは、赤い唐衣、唐裳、摺裳、綾の細長に三重襲の袴を添えた女ものの衣装が五具贈られてきた。

「そちらも大変な時期なのに、嬉しいわ」

 一宮は喜ぶ。
 今宮――― 涼のところだけではない。そこかしこから、仲忠の昇進を聞いた者達は、この様な御祝いの品を贈って来る。
 正頼の処でも祝いの準備がされている。祝品の中には、花文綾などが皆添えられていた。



 さて右大将兼雅を左大将に、そして仲忠が右大将に、ということが公表された当日。
 めでたい折りということで、仲忠は珍しい薫炉に入れた香を焚きしめた蘇芳襲の装束と綾の上の袴を身につけた。
 そして一宮を拝み、仁寿殿女御に慶びを口にし、大宮の元へと向かう。
 お供には四位が八人、五位が十四人、六位が三十人ばかり。彼らは随身や前駆する者など、様々である。
 行列を眺める正頼の娘達は、その立派な様子にため息をつく。
 涼の住んでいるあたりを通った時など、主人の気質が気質だけに、その様子が顕著だった。
 その辺りは、薄い斜紋の絹で縁取りされている青い簾を掛け渡しているのだが、中には赤色の唐衣と濃い袿をまとった女性達がみっしりと、姿を見よう見ようと待ち構えている。
 簀子には青色に蘇芳襲の、綾の上の袴、濃い紅の袙を揃えて来た童が八人ばかり、高欄にのしかかる様に。
 仲忠は立ち止まると童の一人に訊ねた。

「涼さんは居るの?」
「今朝は内裏へいらっしゃいました」
「では北の方に伝えて欲しいな。昇進の慶びを伝えに来たって。でも今回は良い相手無しのままで残念だけど、って」

 わかりました、と童は上気した顔で答える。仲忠はそれににっこりと笑い掛けると、次へと進む。
 遣水の辺りから来て行き過ぎると、髫髮《うない》達が思わず扇を打ち、拍子をとって催馬楽の神楽歌を謡い出す。
 仲忠はそれを見て笑う。

「そう謡われても、僕には判らないよ」

 そのまま新左大将となった父の元へと出向き、更に母尚侍の元へと行く。

 続いて内裏へと向かう。
 近衛の陣に入るや否や、皆が群がって仲忠の姿を見ようとする。
 帝の常御殿へ向かうには、後宮の女御や更衣の局の前を進んで行かなくてはならない。
 女房達は仲忠の姿を見て何かと噂をする。

「もの凄くお久しぶりだわ。けど見ない間に何って立派になられたこと!」
「女一宮さまは幸せものだわ。ああもう、憎らしい程羨ましいってものよ! あんな素晴らしい仲忠さまにずっと尽くされていたなんて……」
「そうよね、誰とは言わないけど、あの方に言い寄らない女は居ないって程だったのにね……」
「そんな方を全く他の女に見向きもさせずに居るなんて、本当に羨ましいやら悔しいやら」
「やっぱり母君が素晴らしい方だからよね。仁寿殿女御さまは本当に立派な方だわ」
「そうよね。私達同様帝にお仕えしているという立場であるとはいえ、帝のご寵愛を一身に集められているのは、何と言ってもあの方ですもの」
「そうそう、それにご本人だけじゃないわ。娘の女一宮さまはこの通り、非の打ち所の無い様な婿君に、二人と無い女と思わせ……」
「ああでも、たった一つだけ…… ね」
「そうねえ。確かにご寵愛は誰よりも深いし、宮さまもたくさんお産みになられたけど、ご自身が中宮の座に上ることも無く、今の弾正宮さまも東宮には……」
「それに、確かに一番のご寵愛を受けているとは言っても、それでも時々は他の方も召されるでしょう?」
「そうよね。でもそれは帝のなされることだから仕方が無いでしょ?」
「でも東宮さまをごらんなさいよ。藤壺さまが入内してからというもの、他の妃さま達が居ることも忘れてしまったかの様じゃないの」
「そうよねえ。しかも世継ぎの君を二人も儲けているし……」
「おかけで嵯峨院の四宮さまはここのところずっとお泣きだということだわ。『やっと大人になったばかりの小娘に恥をかかされた。だけど父上にそのことを言って戻ったりしたら、ご心配なさるだろうし』って……」
「もともと性格は良い方だものね。昭陽殿の太政大臣の方は、何かもう、大声で夜昼神の助けを願い、神仏の御加護の無いことを呪って大変だそうよ」
「……まああんまり色々聞きすぎないことがいいわね」
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