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第5話 蔵を開けたらお宝が、そして女一宮の懐妊、孫王の君の姉妹の三条殿出仕
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四、五日後、兼雅邸の家司がやってきて、幄を拵えた。
やがて大徳や陰陽師などもやってきて、読経やお祓いをし始めた。
老夫婦とその孫達はその様子をぽかんとして見ていた。
そしてそのうちに、彼らにしてみれば、目の覚める様な素晴らしい殿――― 仲忠が、やってきた。
前駆けや供人を大勢と、蔵を開けさせる者と共に。
*
「駄目です。さっぱり」
供人達が次々に仲忠に報告をしていく。
「もう何日も陰陽師には祭文を読ませ、大徳にはお経をあげさせましたが、まるで変化はありません」
「職人達も皆何とかして錠を開けようとしていますが、何と言いましても、鍵が無いので」
「鍵か」
ふむ、と仲忠は首を傾げた。
「そのまま続けてくれ。僕はちょっと行くところがある」
仲忠さま、と供人が止める間もなく、彼は側にあった馬に乗ると、一人駆け出していった。
*
やがて彼が戻ると、供人は青ざめた顔で彼に報告する。
「何処へ行ってらしたのですか! 大変だったのですよ」
「ちょっと三条の母上の所へ。で、何がどうしたって?」
呑気な顔の主人に、供人達は低い声で返す。
「先程、錠を開けようとした者が、怪我をしまして……」
何、と仲忠はその怪我人の元へと向かう。青ざめ、腕から血をだらだらと流している様に仲忠は顔をしかめた。
「大丈夫か?」
「ああ殿、はい、どうしてもこの錠が開かないので、いっそ壊そうとしたのですが、どうにも堅すぎて」
見ると、そばに壊れた道具が転がっている。なるほど、と仲忠はうなづく。
そして次に、周囲の者が驚く程大きな声で、蔵に向かい、こう言い放った。
「この蔵は、承るところによると、我が先祖の所有である! 御封にはその御名が彫ってある! この世では我を置いて子孫は無い! 母も居るがこれは女である。どうか御先祖の霊よ、この蔵を開けさせ給え!」
よく通る声が、周囲の者達全ての耳に飛び込む。
彼らは仲忠の幼少時の奇跡、そして神泉苑での琴のことも聞いている。
もしかしたら、という期待が彼らの中に高まった。
「僕が行ってみる」
仲忠は蔵の扉へと近づこうとする。だが怪我をした職人が駄目だ、と叫ぶ。
「あの錠は駄目です。どうしても開きません。私の様な者はともかく、あなた様に何かのことがあったら」
「僕なら大丈夫」
そう言うと仲忠は周囲に微笑みかけた。その顔に周囲の者は思わず何も言えなくなる。ここは身体を呈しても止めなくてはならないのに。
だがその一方で、このひとならやってくれるかもしれない、という奇妙な予感が彼らの中にはあった。
仲忠は蔵へと上ると、錠を確かめる様にしてじっと見た。確かに頑丈だ、と彼はつぶやく。
そのまま身体全体で覆う様にし、何やら一心に祈り始める。
供人も、大徳や陰陽師達も、固唾を呑んで見守る。
と。
「開いた」
仲忠の声が周囲に響く。
「あ、開いた!?」
「若様!」
「開いたよ、皆」
そう言って、彼自身の手で、大きく蔵の扉を開いた。
「きっと御先祖の霊が、僕を守ってくれたんだね」
「そうです、きっとそう…… しかし仲忠さま、何と危険な」
「でもこうやって開いたじゃない」
そうは言われても、と供人は皆ぶつぶつとつぶやく。
「さて、僕はしばらくこの中を調べようと思うんだ。そなた達は、一生懸命やってくれた者達に充分な礼をして返してやってくれ」
「幄の方はどう致しましょうか」
「片付けておくれ。それと、今日は三条の方へ戻るから、と伝えておいてくれないか」
は、と供人は言われた通りに動く。
仲忠はそのまま古い蔵へと入って行く。
すると中にもう一つ「文殿」と書かれた扉と、やはり厳重に掛けられた錠がある。
彼は懐に隠した手から、小さな鍵を出すと、そっとその錠に差し込む。
「母上のおかげだな」
文殿の中を見る。
机には、五色の糸で編まれた紐のついた美しい帙簀《ちす》に包まれた書が、沢山積まれていた。
奥の方には、手頃な柱くらいの大きさで、赤い丸いものが積んである。
どうしようか、という様に彼はぐるりと辺りを見渡す。
すると入口の側に「目録」とある書が目に入った。
彼はそれを取ると、元の通りに錠をかけた。
「あ、もう宜しいのでございますか?」
「うん、だいたい中のことは判ったから、帰るよ」
満足そうな主人の顔に、供人は安心する。
*
三条の屋敷に戻ると、彼は早速母の元へと向かった。
「……ということなのです」
「あなたがいきなり、私にあんなこと言うから、何だと思ったら」
母尚侍は、くす、と笑った。
鍵は彼女が持っていた。
「なん風」「はし風」という最も大切な二つの琴を納めた袋。それを締める紐の先に付けられた飾り。
それが何なのか、彼には判らなかった。彼女にも判らなかった。
ただ最も大切な琴だから、その二つだけは決して手放さなかった。
長じてから、様々な知識を得た仲忠はそれが何か錠の鍵ではないか、とは気付いていた。
だが何処に使うものなのかまでは。
「あなたは祟りを信じなかったの? 話を聞くと、あちこちに屍が転がっていたというのに」
母は苦笑する。
「老夫婦は別に、そこで直接錠に触れたから死んだ、という姿を見た訳ではないでしょ。そもそもお祖父様もお祖母様も、亡くなられたのは流行病でしょ。だったら、たまたま病にかかった人達がうじゃうじゃやってきて、そこで死んだとも限らない。母上はたまたま塗籠に居たので助かったのでしょうね」
「確かに私は誰とも顔を合わせない様にしていましたからね。でも、何でも供人達は、あなたがまた奇跡を起こした、と大騒ぎよ」
「言わせておけばいいんです」
仲忠はそう言って笑った。
*
蔵騒ぎが落ち着いてから、仲忠は持ち帰った目録を母の前で開いた。
「やあ、これはなかなか凄いものが入っていますよ、母上」
「凄いもの?」
「漢詩・漢書・和書は勿論、唐土にもそうそう今では見られない宝物まで入っている様です」
まあ、と母は驚き、口に手を当てる。
「ええと、医師書、陰陽師書、人相に関する書、それに妊娠してお産する時の心得や、その手当の方法などという貴重な書も入っている様です」
「それはまた、凄いわ。父上はそんな貴重なものの在処を私には教えなかったなんて、わざわざ私を困らせようとしたのかしら……」
母は扇を開き、その陰にうつむく。
「いえ、お祖父様は賢い方だったそうですから、そんなことは無かったでしょう。何か深いお考えがあったのですよ」
「でも」
「それに母上、もし母上がこれらのものをあの頃持っていたとして、どうお使いになりましたか?」
「きついことを言うわね、仲忠。確かに私が持っていたなら、今の今まで残っていることは無かったわ。だけど、少しね……」
だったらもっと、娘のその後についても考えておいてくれても良かったのに、と思うのは彼女の我が儘だろうか。
「でも結局は全て良い方向に進んできています。あの頃があったから今がある。そうでも思わないことには、僕や母上はやって来れませんでしたし、これからも。そうでしょう? 尚侍どの」
「母をからかうのですか。でもまあ仕方ないと言えば仕方ないわ。もう過ぎたことだし。ともかくそれは開けたあなたのものだから、きちんと管理なさいね」
「判っております」
大きく仲忠はうなづいた。
*
その後、仲忠はこの文殿の保存には、自分の所領である国々の長官の中でも、土木や建築のことを心得ている者に管理を頼むことにした。
対屋一棟を割り当てて、引き受ける義務のある人々に課して、あの荒れ果てた寝殿の周囲の造営を命じた。
土の垣は二、三百人の男達に命じて、その年の内に拵えさせてしまう。
全てがあっという間のことだった。
その様にして荒廃していた京極をすっかり改めて新築すると、かつて周囲に棲んでいた者達も、当時の殿の子孫が立派になられて戻ってきた、とばかりに改めて集ってきた。
ちなみに、仲忠に蔵のことを説明したあの翁と媼は、政所に召して、布や絹などを多く与えられたそうである。
*
その様に家と町作りが進む中、仲忠は蔵の中身を時々持ち出しては、家族への贈り物としている。
「あら、いい薫り」
そうでしょう、と仲忠は一宮に向かって笑う。
「今度見つけた家の古い蔵の唐櫃に入ってたんだ。一宮、あなたに」
「あら嬉しい」
ふふ、とこれも笑顔で一宮は受け取る。
「ああいい薫り。きっと御所のあて宮もこんな薫き物は持っていないでしょうね。差し上げればどぉ?」
「またそんな意地悪を……」
仲忠はやや頼りなさげな表情になる。何かとこの妻は軽い冗談で、夫を困らせるのだ。
だがそれを夫はむしろ喜んでいることを妻は知っている。知っていて可愛い悪態をつく。
そんな様子を一宮の乳人子は不思議そうな顔で見ている。それが彼らの日常だった。
「でも私だけじゃなくて、尚侍さまにも差し上げたの?」
「それは勿論。これは我が家の香だもの。あなたと母上にだけだよ。他の誰にも渡さない」
ふふ、と一宮は笑う。
仲忠は結婚以来、一宮を本当に宝物の様に扱う。
それまでは宮中の女房達にはそれなりにお愛想も言ったし、失礼でない程度に相手もしたが、それも全く途絶えている。
周囲は妻になったのが帝の最愛の娘だから、ということで遠慮があるのだろう、と噂する。
それを聞いた彼女は、彼は「女一宮」との結婚で、それまで仕方なしにやってきた煩わしい人間関係から解放されたのではないか、と推測している。
それだけではない。彼は自分をただ大切にするのではなく、何処か甘えている様子が見られる。
彼女が我が儘を言い、それを叶えているのは仲忠である。
だがその我が儘自体、仲忠がそれを望んでいるのだろう、という見込みあってのものだ。
結果として、言いたいことをずけずけという、身分の割には風通しの良い家庭を築きつつあると言って良かった。
*
そんな二人の様子を聞いた帝が、ある日仲忠を呼び、こう言った。
「実はな、二条に私が譲位した後住もうと手入れしておいた家があるのだが、そなた、この二条院を書斎にしないか?」
突然の申し出に、無論仲忠は驚いた。
「……しかし」
「いや、そなた最近色々とあの俊蔭の残した書物とか見つけたとか。秘曲などもあるのではないか? そういうものを練習するのにいい場所だぞ。その時にはぜひ一宮にも聞かせて欲しいものだしな」
成る程、とばかりに仲忠は苦笑した。帝は本当に一宮が愛しいのだ。
「その南に、それよりは多少小さい家があるのだが、そっちを一宮に与えようと思う」
「しかし他の方々は」
女宮は一人ではない。仁寿殿女御の生んだ二宮、四宮、そして中宮腹の三宮もあるのだ。
「いやいや、それはそなたの心配することではない。私にも考えがある。女御腹の女宮達は、それぞれ然るべきところに御殿を作らせて、そこに住まわせよう」
仲忠はさすがに感謝し、拝舞して頂戴して退出した。
*
その様に仲忠にとってとんとん拍子に事が進む中、翌年の正月、一宮が懐妊していることが判った。
仲忠の喜びようときたら尋常ではなかった。
会う人会う人に言わずに居られない様で、話が出ると、皆が皆「そら来た」とい表情になる程である。
その中でも一番その被害が大きかったのは、今では同じ屋根の下に住む涼だろう。
「聞いてよ涼さん、一宮に子供ができたって! 僕の子だよ! ああ何をしてあげよう。まず生まれたらお祝いも色々あるし、いずれ袴着の時には沢山人を呼んで……」
いや皆、君が呼ばなくとも祝いに来るとは思うが、という涼の内心はこのあたり無視される。
「でも何より男か女かってのはまず大問題だよね。うーんどうしよう」
そこでやっと涼は口をはさむことができる。
「ねえ、君が最近見つけたという蔵には、そういうことを書いてある書は無いのかい?」
「ああ! そうだ!」
ぽん、と手を打つ。視線は涼ではなく、そのやや斜め上を眺めている。
「確か最初に目録を見つけた時にもも妊娠した時に読むといい書とかあったんだ。そうだそうだ、女の子を生むにはどうしたらいいのかの書もきっとあるよね。ありがと、今からちょっと京極まで行って来るよ」
そう言って、一瞬ぎゅっと涼の両手を握ると、慌ただしく仲忠は馬でもって京極へ駆けて行き、またあっという間に戻ってくる。
その様子があまりにもそれまでの彼とは大違いなので、皆唖然とする。
「仲忠さまってああいう方でしたっけ」
「いやまあ…… でも男って結婚すると変わるというし……」
*
藤壺であて宮に仕えている孫王の君も、そんな彼の様子を伝え聞いていた。
やや寂しく思いつつも、幸せそうに甲斐甲斐しく動き回る姿を嬉しく思う。
自分のものにならないなら、せめて幸せであって欲しい。彼女はそう考える女だった。
そして彼女には、この時もう一つ考え事があった。妹達の処遇だ。
「何処かにいい勤め口は無いかしら」
同僚達にもそう漏らす。
「そうね。それこそ仲忠さまにお尋ねしてはどう?」
木工の君などはそう言う。それもいいかもしれない、と彼女は思う。
身体の付き合いは無くなっても、あて宮を心配に思う者同士の付き合いはこの先もずっと続くだろう。
その縁を自分の身内の仕事に利用するのも何だとは思うが、背に腹は変えられない、という事情も確かに見逃せないのだ。
「何人居るの?」
藤壺に一宮の懐妊を伝えに来た仲忠は、孫王の君に早速相談される。
「二人です」
ふうん、と仲忠は少し考える様子を見せると。
「それじゃ、一人は僕付きの女房にしよう。もう一人は、涼さんに頼んでみるよ」
「それでいいのですか?」
「いいも何も。あなたが最近僕に疎々しいから、嫌われたのかと思ってたよ、孫王の君」
「あなた様に限ってそんなことは」
うん、と彼はうなづく。
「あなたの言った通りだったね。僕は結婚して良かった。一宮は一緒に居て楽しい。あなたに僕は甘えるばかりだったけど、あのひとは、僕がしたいと思うことをさせてくれる」
それはそれで甘えているということかもしれないけど、と仲忠は少し照れ混じりに笑う。今まで見たことの無い表情だ、と孫王の君は思う。
「お子様ができれば、もっともっと可愛がることができますわ。もしその時に私の妹が少しでも手助けになったら嬉しいですのよ」
「あなたに似ている?」
「どうでしょう」
くすくす、と彼女は笑う。
「少しおっちょこちょいな所があるかも。下の妹の方が大人しいですわ。上の妹の方がやや勝ち気ですの」
「うーん…… じゃあ、下の方を涼さんに奨めよう。上の妹さんを僕のところで女房にしよう」
ありがとうございます、と孫王の君は頭を下げた。
「でも孫王の君」
仲忠は彼女の手を取る。
「あなたはあなたで、ずっと僕と仲良くしていてくれる?」
「今までの様なおつき合いでなく、お話相手としてなら」
「充分だよ」
彼はそう言って彼女の両手をぐっと握る。
「あなたは僕の母であり姉だったんだ。……母君が僕にはくれなかったものを、僕はあなたから無理にでも貰おうとした…… 御免ね」
いいえ、と孫王の君は首を横に振る。
「私には勿体ないお言葉ですわ」
「あなたにも誰か、いいひとが通うといいんだけど」
「それは無いですわ。私はずっと、藤壺の御方様にお仕えします。それが一番私に合っているのです。あなた様もおっしゃられたでしょう? あの方の力になって欲しい、と。私はそれが今では生き甲斐なのです。あなた様が幸せを感じている今、私はただ、あの方にも幸せを味わっていただきたいのです」
ありがとう、と仲忠は彼女の手を握りしめたまま、それを額に押し当てた。
「近いうちに、二人を三条殿に寄越してくれる? 話を通しておくよ」
*
孫王の君の妹達は、すぐに三条殿に女房として迎えられた。
やや勝ち気な姉の方は仲忠付きに。
大人しい妹の方は涼の女房として。
この辺りの人選には、仲忠の意志が働いたことを、当の本人達は知る由も無い。
どちらも「孫王の君」と呼ばれたので、こののち三人が三条殿で会うことがあると、皆呼び方に実に苦労したというが、それはまた後の話である。
*
さてそんな三条殿では、もう一人懐妊した女性が居た。
今宮である。
一宮に二ヶ月遅れて彼女も妊娠に気付いた。
それはさておき、一宮に関しては、何かと甲斐甲斐しく仲忠が世話をしている。
そのせいか、彼女はさほどに気分の悪くなることもなく、割合穏やかな日々を過ごしていた。
仲忠は彼女には、蔵から出した「産経」という書物を片手に、まな板と包丁をもう片方に、食事も手づから用意していた。
周囲も感心を通り越して唖然としていた。
彼にしてみれば、母の食事を用意した以来のことで、大した問題は無い。
だが周囲から見ると驚きの連続である。
確かに最愛の奥方のためなのだろうし、「見目麗しい女の子を生んで欲しいから」という努力なのだから、と言われれば納得はできる。
だがそれでも気持ちは別なのだ。彼を良く知る人々は皆口を揃えて「仲忠は変わった……」とつぶやく。つぶやかずにはいられないのだ。
この年はともかく妊婦である一宮の側を離れず、仕事の他はひたすら彼女の側で世話をやいたり、書を読んだりして三条殿から離れることはなかった。
*
「愛されてるわねえ」
くっくっく、と現在は涼の北の方となっている今宮が扇をばたばたとはためかせながら笑う。
「それはお互い様でしょ。年末じゃなかった? あなたの方は」
「まあね」
二人はにんまりと顔を見合わせる。
「けど本当に久しぶりだわ。ねえ一宮、私何度も何度もあなたのところ、来ようと思ったのよ。でもそのたびに言われるんだから。今旦那様がいらっしゃいますので、って」
「そんなのいいからいらっしゃいよ。あのひとは止めないから」
少しせり出したお腹を休める様にゆったりと一宮は脇息にもたれている。
一方、今宮は、ようやくつわりの時期が治まったということで、床から起きられる様になったばかりらしい。
一宮と違って、彼女は常日頃、女房程度に動いていたので、回復も早かったのだろう。
「おかげで今年は宴という宴に仲忠さまが出てこない、って皆嘆いていたそうよ」
「あらそれは、あのひとがしたくてしていることだもの。私のせいじゃないもの」
ふふん、と一宮は笑う。
今宮は手の中でぽんぽんと扇を叩き、辺りを見渡す。
不思議な薫りが辺りに漂い、あちこちに古めかしい書が積まれている。書の中にはここを、というところに別の紙がはさまれている。何度も何度も繰り返し読む所なのだろう。
つまりこれが涼が噂していた「産経」なのか、と今宮は思う。
「でも祈祷とか読経とはあんまりさせて無いようね」
思わず今宮は自分のところと比較する。ええ、と一宮はうなづく。
「何かあまりあのひと、その効果を気にしていない様なのよ」
「あらら」
「あなたの方でずいぶんと沢山の僧を集めているのとは大違い。さすがにお祖父様が心配して、忘れているんじゃないか、って手配しようか、とあのひとに切り出していたわ」
「それで?」
今宮は身を乗り出す。
「考えがあるので、しばらくは好きにさせて下さいって。私もその方が静かでいいから、放っておいたけど、女房達が不思議がっちゃって」
「だってそうですよぉ」
乳人子が口を挟む。
「折角の最初のお子様ではないですか。それこそ盛大に読経の声が鳴り響く中、ご出産! というのがやはり素晴らしいではないですか」
乳人子はそう言いながら床をぱんぱんと叩く。まあまあ、と別の女房が彼女をなだめる。
「見ない顔ね」
だが何処かで見た顔だ、とも今宮は思う。
「今宮さまには、妹がお世話になっております。私はこちらで孫王と呼ばれております」
ああ、と今宮はぽん、と扇を一つ打つ。
「そう言えば似てるわね」
「はい。でも私は何と言うか早口で落ち着かないと昔から言われておりまして何処かに勤め口が無いかと言ってもお前のその早口ではどうにもならないがねなんて言われて参りまして。姉の伝で宮様にお仕えできるということが決まった時には思わず嬉しさのあまり飛び上がって踊ってしまいました。あ、でも今宮さまご安心下さい。妹のほうは大人しいですから。昔からあの子は我々三人姉妹の中でも実にいい子でいい子でいい子で」
「た、確かにうちの孫王もいい子だと思うわ」
その勢いには、今宮ですらたじたじとする。
「ありがとうございます。そのうちにそちらに挨拶に向かうからと出来ればそちらの殿さまにもよろしくお願い致します。ああ妹が何か粗相致しましたら、遠慮なくびしびしと叱ってやって下さいな」
いやそれはそなたにだろう、と女主人達は言いたかったが、そこは女主人ゆえ、黙っていた。
やがて大徳や陰陽師などもやってきて、読経やお祓いをし始めた。
老夫婦とその孫達はその様子をぽかんとして見ていた。
そしてそのうちに、彼らにしてみれば、目の覚める様な素晴らしい殿――― 仲忠が、やってきた。
前駆けや供人を大勢と、蔵を開けさせる者と共に。
*
「駄目です。さっぱり」
供人達が次々に仲忠に報告をしていく。
「もう何日も陰陽師には祭文を読ませ、大徳にはお経をあげさせましたが、まるで変化はありません」
「職人達も皆何とかして錠を開けようとしていますが、何と言いましても、鍵が無いので」
「鍵か」
ふむ、と仲忠は首を傾げた。
「そのまま続けてくれ。僕はちょっと行くところがある」
仲忠さま、と供人が止める間もなく、彼は側にあった馬に乗ると、一人駆け出していった。
*
やがて彼が戻ると、供人は青ざめた顔で彼に報告する。
「何処へ行ってらしたのですか! 大変だったのですよ」
「ちょっと三条の母上の所へ。で、何がどうしたって?」
呑気な顔の主人に、供人達は低い声で返す。
「先程、錠を開けようとした者が、怪我をしまして……」
何、と仲忠はその怪我人の元へと向かう。青ざめ、腕から血をだらだらと流している様に仲忠は顔をしかめた。
「大丈夫か?」
「ああ殿、はい、どうしてもこの錠が開かないので、いっそ壊そうとしたのですが、どうにも堅すぎて」
見ると、そばに壊れた道具が転がっている。なるほど、と仲忠はうなづく。
そして次に、周囲の者が驚く程大きな声で、蔵に向かい、こう言い放った。
「この蔵は、承るところによると、我が先祖の所有である! 御封にはその御名が彫ってある! この世では我を置いて子孫は無い! 母も居るがこれは女である。どうか御先祖の霊よ、この蔵を開けさせ給え!」
よく通る声が、周囲の者達全ての耳に飛び込む。
彼らは仲忠の幼少時の奇跡、そして神泉苑での琴のことも聞いている。
もしかしたら、という期待が彼らの中に高まった。
「僕が行ってみる」
仲忠は蔵の扉へと近づこうとする。だが怪我をした職人が駄目だ、と叫ぶ。
「あの錠は駄目です。どうしても開きません。私の様な者はともかく、あなた様に何かのことがあったら」
「僕なら大丈夫」
そう言うと仲忠は周囲に微笑みかけた。その顔に周囲の者は思わず何も言えなくなる。ここは身体を呈しても止めなくてはならないのに。
だがその一方で、このひとならやってくれるかもしれない、という奇妙な予感が彼らの中にはあった。
仲忠は蔵へと上ると、錠を確かめる様にしてじっと見た。確かに頑丈だ、と彼はつぶやく。
そのまま身体全体で覆う様にし、何やら一心に祈り始める。
供人も、大徳や陰陽師達も、固唾を呑んで見守る。
と。
「開いた」
仲忠の声が周囲に響く。
「あ、開いた!?」
「若様!」
「開いたよ、皆」
そう言って、彼自身の手で、大きく蔵の扉を開いた。
「きっと御先祖の霊が、僕を守ってくれたんだね」
「そうです、きっとそう…… しかし仲忠さま、何と危険な」
「でもこうやって開いたじゃない」
そうは言われても、と供人は皆ぶつぶつとつぶやく。
「さて、僕はしばらくこの中を調べようと思うんだ。そなた達は、一生懸命やってくれた者達に充分な礼をして返してやってくれ」
「幄の方はどう致しましょうか」
「片付けておくれ。それと、今日は三条の方へ戻るから、と伝えておいてくれないか」
は、と供人は言われた通りに動く。
仲忠はそのまま古い蔵へと入って行く。
すると中にもう一つ「文殿」と書かれた扉と、やはり厳重に掛けられた錠がある。
彼は懐に隠した手から、小さな鍵を出すと、そっとその錠に差し込む。
「母上のおかげだな」
文殿の中を見る。
机には、五色の糸で編まれた紐のついた美しい帙簀《ちす》に包まれた書が、沢山積まれていた。
奥の方には、手頃な柱くらいの大きさで、赤い丸いものが積んである。
どうしようか、という様に彼はぐるりと辺りを見渡す。
すると入口の側に「目録」とある書が目に入った。
彼はそれを取ると、元の通りに錠をかけた。
「あ、もう宜しいのでございますか?」
「うん、だいたい中のことは判ったから、帰るよ」
満足そうな主人の顔に、供人は安心する。
*
三条の屋敷に戻ると、彼は早速母の元へと向かった。
「……ということなのです」
「あなたがいきなり、私にあんなこと言うから、何だと思ったら」
母尚侍は、くす、と笑った。
鍵は彼女が持っていた。
「なん風」「はし風」という最も大切な二つの琴を納めた袋。それを締める紐の先に付けられた飾り。
それが何なのか、彼には判らなかった。彼女にも判らなかった。
ただ最も大切な琴だから、その二つだけは決して手放さなかった。
長じてから、様々な知識を得た仲忠はそれが何か錠の鍵ではないか、とは気付いていた。
だが何処に使うものなのかまでは。
「あなたは祟りを信じなかったの? 話を聞くと、あちこちに屍が転がっていたというのに」
母は苦笑する。
「老夫婦は別に、そこで直接錠に触れたから死んだ、という姿を見た訳ではないでしょ。そもそもお祖父様もお祖母様も、亡くなられたのは流行病でしょ。だったら、たまたま病にかかった人達がうじゃうじゃやってきて、そこで死んだとも限らない。母上はたまたま塗籠に居たので助かったのでしょうね」
「確かに私は誰とも顔を合わせない様にしていましたからね。でも、何でも供人達は、あなたがまた奇跡を起こした、と大騒ぎよ」
「言わせておけばいいんです」
仲忠はそう言って笑った。
*
蔵騒ぎが落ち着いてから、仲忠は持ち帰った目録を母の前で開いた。
「やあ、これはなかなか凄いものが入っていますよ、母上」
「凄いもの?」
「漢詩・漢書・和書は勿論、唐土にもそうそう今では見られない宝物まで入っている様です」
まあ、と母は驚き、口に手を当てる。
「ええと、医師書、陰陽師書、人相に関する書、それに妊娠してお産する時の心得や、その手当の方法などという貴重な書も入っている様です」
「それはまた、凄いわ。父上はそんな貴重なものの在処を私には教えなかったなんて、わざわざ私を困らせようとしたのかしら……」
母は扇を開き、その陰にうつむく。
「いえ、お祖父様は賢い方だったそうですから、そんなことは無かったでしょう。何か深いお考えがあったのですよ」
「でも」
「それに母上、もし母上がこれらのものをあの頃持っていたとして、どうお使いになりましたか?」
「きついことを言うわね、仲忠。確かに私が持っていたなら、今の今まで残っていることは無かったわ。だけど、少しね……」
だったらもっと、娘のその後についても考えておいてくれても良かったのに、と思うのは彼女の我が儘だろうか。
「でも結局は全て良い方向に進んできています。あの頃があったから今がある。そうでも思わないことには、僕や母上はやって来れませんでしたし、これからも。そうでしょう? 尚侍どの」
「母をからかうのですか。でもまあ仕方ないと言えば仕方ないわ。もう過ぎたことだし。ともかくそれは開けたあなたのものだから、きちんと管理なさいね」
「判っております」
大きく仲忠はうなづいた。
*
その後、仲忠はこの文殿の保存には、自分の所領である国々の長官の中でも、土木や建築のことを心得ている者に管理を頼むことにした。
対屋一棟を割り当てて、引き受ける義務のある人々に課して、あの荒れ果てた寝殿の周囲の造営を命じた。
土の垣は二、三百人の男達に命じて、その年の内に拵えさせてしまう。
全てがあっという間のことだった。
その様にして荒廃していた京極をすっかり改めて新築すると、かつて周囲に棲んでいた者達も、当時の殿の子孫が立派になられて戻ってきた、とばかりに改めて集ってきた。
ちなみに、仲忠に蔵のことを説明したあの翁と媼は、政所に召して、布や絹などを多く与えられたそうである。
*
その様に家と町作りが進む中、仲忠は蔵の中身を時々持ち出しては、家族への贈り物としている。
「あら、いい薫り」
そうでしょう、と仲忠は一宮に向かって笑う。
「今度見つけた家の古い蔵の唐櫃に入ってたんだ。一宮、あなたに」
「あら嬉しい」
ふふ、とこれも笑顔で一宮は受け取る。
「ああいい薫り。きっと御所のあて宮もこんな薫き物は持っていないでしょうね。差し上げればどぉ?」
「またそんな意地悪を……」
仲忠はやや頼りなさげな表情になる。何かとこの妻は軽い冗談で、夫を困らせるのだ。
だがそれを夫はむしろ喜んでいることを妻は知っている。知っていて可愛い悪態をつく。
そんな様子を一宮の乳人子は不思議そうな顔で見ている。それが彼らの日常だった。
「でも私だけじゃなくて、尚侍さまにも差し上げたの?」
「それは勿論。これは我が家の香だもの。あなたと母上にだけだよ。他の誰にも渡さない」
ふふ、と一宮は笑う。
仲忠は結婚以来、一宮を本当に宝物の様に扱う。
それまでは宮中の女房達にはそれなりにお愛想も言ったし、失礼でない程度に相手もしたが、それも全く途絶えている。
周囲は妻になったのが帝の最愛の娘だから、ということで遠慮があるのだろう、と噂する。
それを聞いた彼女は、彼は「女一宮」との結婚で、それまで仕方なしにやってきた煩わしい人間関係から解放されたのではないか、と推測している。
それだけではない。彼は自分をただ大切にするのではなく、何処か甘えている様子が見られる。
彼女が我が儘を言い、それを叶えているのは仲忠である。
だがその我が儘自体、仲忠がそれを望んでいるのだろう、という見込みあってのものだ。
結果として、言いたいことをずけずけという、身分の割には風通しの良い家庭を築きつつあると言って良かった。
*
そんな二人の様子を聞いた帝が、ある日仲忠を呼び、こう言った。
「実はな、二条に私が譲位した後住もうと手入れしておいた家があるのだが、そなた、この二条院を書斎にしないか?」
突然の申し出に、無論仲忠は驚いた。
「……しかし」
「いや、そなた最近色々とあの俊蔭の残した書物とか見つけたとか。秘曲などもあるのではないか? そういうものを練習するのにいい場所だぞ。その時にはぜひ一宮にも聞かせて欲しいものだしな」
成る程、とばかりに仲忠は苦笑した。帝は本当に一宮が愛しいのだ。
「その南に、それよりは多少小さい家があるのだが、そっちを一宮に与えようと思う」
「しかし他の方々は」
女宮は一人ではない。仁寿殿女御の生んだ二宮、四宮、そして中宮腹の三宮もあるのだ。
「いやいや、それはそなたの心配することではない。私にも考えがある。女御腹の女宮達は、それぞれ然るべきところに御殿を作らせて、そこに住まわせよう」
仲忠はさすがに感謝し、拝舞して頂戴して退出した。
*
その様に仲忠にとってとんとん拍子に事が進む中、翌年の正月、一宮が懐妊していることが判った。
仲忠の喜びようときたら尋常ではなかった。
会う人会う人に言わずに居られない様で、話が出ると、皆が皆「そら来た」とい表情になる程である。
その中でも一番その被害が大きかったのは、今では同じ屋根の下に住む涼だろう。
「聞いてよ涼さん、一宮に子供ができたって! 僕の子だよ! ああ何をしてあげよう。まず生まれたらお祝いも色々あるし、いずれ袴着の時には沢山人を呼んで……」
いや皆、君が呼ばなくとも祝いに来るとは思うが、という涼の内心はこのあたり無視される。
「でも何より男か女かってのはまず大問題だよね。うーんどうしよう」
そこでやっと涼は口をはさむことができる。
「ねえ、君が最近見つけたという蔵には、そういうことを書いてある書は無いのかい?」
「ああ! そうだ!」
ぽん、と手を打つ。視線は涼ではなく、そのやや斜め上を眺めている。
「確か最初に目録を見つけた時にもも妊娠した時に読むといい書とかあったんだ。そうだそうだ、女の子を生むにはどうしたらいいのかの書もきっとあるよね。ありがと、今からちょっと京極まで行って来るよ」
そう言って、一瞬ぎゅっと涼の両手を握ると、慌ただしく仲忠は馬でもって京極へ駆けて行き、またあっという間に戻ってくる。
その様子があまりにもそれまでの彼とは大違いなので、皆唖然とする。
「仲忠さまってああいう方でしたっけ」
「いやまあ…… でも男って結婚すると変わるというし……」
*
藤壺であて宮に仕えている孫王の君も、そんな彼の様子を伝え聞いていた。
やや寂しく思いつつも、幸せそうに甲斐甲斐しく動き回る姿を嬉しく思う。
自分のものにならないなら、せめて幸せであって欲しい。彼女はそう考える女だった。
そして彼女には、この時もう一つ考え事があった。妹達の処遇だ。
「何処かにいい勤め口は無いかしら」
同僚達にもそう漏らす。
「そうね。それこそ仲忠さまにお尋ねしてはどう?」
木工の君などはそう言う。それもいいかもしれない、と彼女は思う。
身体の付き合いは無くなっても、あて宮を心配に思う者同士の付き合いはこの先もずっと続くだろう。
その縁を自分の身内の仕事に利用するのも何だとは思うが、背に腹は変えられない、という事情も確かに見逃せないのだ。
「何人居るの?」
藤壺に一宮の懐妊を伝えに来た仲忠は、孫王の君に早速相談される。
「二人です」
ふうん、と仲忠は少し考える様子を見せると。
「それじゃ、一人は僕付きの女房にしよう。もう一人は、涼さんに頼んでみるよ」
「それでいいのですか?」
「いいも何も。あなたが最近僕に疎々しいから、嫌われたのかと思ってたよ、孫王の君」
「あなた様に限ってそんなことは」
うん、と彼はうなづく。
「あなたの言った通りだったね。僕は結婚して良かった。一宮は一緒に居て楽しい。あなたに僕は甘えるばかりだったけど、あのひとは、僕がしたいと思うことをさせてくれる」
それはそれで甘えているということかもしれないけど、と仲忠は少し照れ混じりに笑う。今まで見たことの無い表情だ、と孫王の君は思う。
「お子様ができれば、もっともっと可愛がることができますわ。もしその時に私の妹が少しでも手助けになったら嬉しいですのよ」
「あなたに似ている?」
「どうでしょう」
くすくす、と彼女は笑う。
「少しおっちょこちょいな所があるかも。下の妹の方が大人しいですわ。上の妹の方がやや勝ち気ですの」
「うーん…… じゃあ、下の方を涼さんに奨めよう。上の妹さんを僕のところで女房にしよう」
ありがとうございます、と孫王の君は頭を下げた。
「でも孫王の君」
仲忠は彼女の手を取る。
「あなたはあなたで、ずっと僕と仲良くしていてくれる?」
「今までの様なおつき合いでなく、お話相手としてなら」
「充分だよ」
彼はそう言って彼女の両手をぐっと握る。
「あなたは僕の母であり姉だったんだ。……母君が僕にはくれなかったものを、僕はあなたから無理にでも貰おうとした…… 御免ね」
いいえ、と孫王の君は首を横に振る。
「私には勿体ないお言葉ですわ」
「あなたにも誰か、いいひとが通うといいんだけど」
「それは無いですわ。私はずっと、藤壺の御方様にお仕えします。それが一番私に合っているのです。あなた様もおっしゃられたでしょう? あの方の力になって欲しい、と。私はそれが今では生き甲斐なのです。あなた様が幸せを感じている今、私はただ、あの方にも幸せを味わっていただきたいのです」
ありがとう、と仲忠は彼女の手を握りしめたまま、それを額に押し当てた。
「近いうちに、二人を三条殿に寄越してくれる? 話を通しておくよ」
*
孫王の君の妹達は、すぐに三条殿に女房として迎えられた。
やや勝ち気な姉の方は仲忠付きに。
大人しい妹の方は涼の女房として。
この辺りの人選には、仲忠の意志が働いたことを、当の本人達は知る由も無い。
どちらも「孫王の君」と呼ばれたので、こののち三人が三条殿で会うことがあると、皆呼び方に実に苦労したというが、それはまた後の話である。
*
さてそんな三条殿では、もう一人懐妊した女性が居た。
今宮である。
一宮に二ヶ月遅れて彼女も妊娠に気付いた。
それはさておき、一宮に関しては、何かと甲斐甲斐しく仲忠が世話をしている。
そのせいか、彼女はさほどに気分の悪くなることもなく、割合穏やかな日々を過ごしていた。
仲忠は彼女には、蔵から出した「産経」という書物を片手に、まな板と包丁をもう片方に、食事も手づから用意していた。
周囲も感心を通り越して唖然としていた。
彼にしてみれば、母の食事を用意した以来のことで、大した問題は無い。
だが周囲から見ると驚きの連続である。
確かに最愛の奥方のためなのだろうし、「見目麗しい女の子を生んで欲しいから」という努力なのだから、と言われれば納得はできる。
だがそれでも気持ちは別なのだ。彼を良く知る人々は皆口を揃えて「仲忠は変わった……」とつぶやく。つぶやかずにはいられないのだ。
この年はともかく妊婦である一宮の側を離れず、仕事の他はひたすら彼女の側で世話をやいたり、書を読んだりして三条殿から離れることはなかった。
*
「愛されてるわねえ」
くっくっく、と現在は涼の北の方となっている今宮が扇をばたばたとはためかせながら笑う。
「それはお互い様でしょ。年末じゃなかった? あなたの方は」
「まあね」
二人はにんまりと顔を見合わせる。
「けど本当に久しぶりだわ。ねえ一宮、私何度も何度もあなたのところ、来ようと思ったのよ。でもそのたびに言われるんだから。今旦那様がいらっしゃいますので、って」
「そんなのいいからいらっしゃいよ。あのひとは止めないから」
少しせり出したお腹を休める様にゆったりと一宮は脇息にもたれている。
一方、今宮は、ようやくつわりの時期が治まったということで、床から起きられる様になったばかりらしい。
一宮と違って、彼女は常日頃、女房程度に動いていたので、回復も早かったのだろう。
「おかげで今年は宴という宴に仲忠さまが出てこない、って皆嘆いていたそうよ」
「あらそれは、あのひとがしたくてしていることだもの。私のせいじゃないもの」
ふふん、と一宮は笑う。
今宮は手の中でぽんぽんと扇を叩き、辺りを見渡す。
不思議な薫りが辺りに漂い、あちこちに古めかしい書が積まれている。書の中にはここを、というところに別の紙がはさまれている。何度も何度も繰り返し読む所なのだろう。
つまりこれが涼が噂していた「産経」なのか、と今宮は思う。
「でも祈祷とか読経とはあんまりさせて無いようね」
思わず今宮は自分のところと比較する。ええ、と一宮はうなづく。
「何かあまりあのひと、その効果を気にしていない様なのよ」
「あらら」
「あなたの方でずいぶんと沢山の僧を集めているのとは大違い。さすがにお祖父様が心配して、忘れているんじゃないか、って手配しようか、とあのひとに切り出していたわ」
「それで?」
今宮は身を乗り出す。
「考えがあるので、しばらくは好きにさせて下さいって。私もその方が静かでいいから、放っておいたけど、女房達が不思議がっちゃって」
「だってそうですよぉ」
乳人子が口を挟む。
「折角の最初のお子様ではないですか。それこそ盛大に読経の声が鳴り響く中、ご出産! というのがやはり素晴らしいではないですか」
乳人子はそう言いながら床をぱんぱんと叩く。まあまあ、と別の女房が彼女をなだめる。
「見ない顔ね」
だが何処かで見た顔だ、とも今宮は思う。
「今宮さまには、妹がお世話になっております。私はこちらで孫王と呼ばれております」
ああ、と今宮はぽん、と扇を一つ打つ。
「そう言えば似てるわね」
「はい。でも私は何と言うか早口で落ち着かないと昔から言われておりまして何処かに勤め口が無いかと言ってもお前のその早口ではどうにもならないがねなんて言われて参りまして。姉の伝で宮様にお仕えできるということが決まった時には思わず嬉しさのあまり飛び上がって踊ってしまいました。あ、でも今宮さまご安心下さい。妹のほうは大人しいですから。昔からあの子は我々三人姉妹の中でも実にいい子でいい子でいい子で」
「た、確かにうちの孫王もいい子だと思うわ」
その勢いには、今宮ですらたじたじとする。
「ありがとうございます。そのうちにそちらに挨拶に向かうからと出来ればそちらの殿さまにもよろしくお願い致します。ああ妹が何か粗相致しましたら、遠慮なくびしびしと叱ってやって下さいな」
いやそれはそなたにだろう、と女主人達は言いたかったが、そこは女主人ゆえ、黙っていた。
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