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75.吉屋信子の戦前長編小説について(30)長編のキャラとか構成というあたりから見て(2)「純文学的」作「屋根裏の二処女」
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さて、このはなしは現在結構入手しやすい。
「乙女小説コレクション」だったり、「百合」ジャンルの元祖というアレなんでプッシュする層があるのでね。
だいたい楽天ブックスでフツーに買えるくらいだ。アマゾンにはあるけど楽天では見つからないぞ! というのは山ほどあること考えれば、そーとう買いやすい部類だと思う。
んで。
「地の果まで」を書き上げた後、この作品を吉屋は書き始めたんだよな。
この作品は、吉屋千代編「年譜」によると、
>YWCA時代の寄宿舎の青春群像を題材に、ほとんど私小説に近い
物語ということにされてる。また、
>信子はこの時期の一連の長短編を『純文学的作品だった』と自ら書いている
ともある。
とりゃず近代文学を研究する人はまずこれを使えといわれている『日本近代文学大辞典』の第四巻によると、「懸賞小説で登場し通俗小説一筋」と評されている吉屋信子なんだけど、この作品と、「或る愚しき者の話」に関しては「純文学的作品」という意識があったと思う。
いや、「ただの長編小説」かな。今思うと。むしろ「通俗小説」「大衆小説」のほうが、あえて書くもの、という感覚があったとしたなら、思いのままにつらつら、という意味の小説なんだと思う。
んで構成。
私小説+美化、かな。
吉屋自身の寮生活時代の同性の恋人との関係を、「こういうふうだったら……」に変えたって感じかもしれない。
現実の関係はあかんくなった。
伝記には手紙の引用とか色々出てるんだけど、相手があまりにも現実の夫婦をなぞった関係を求めてきたからというのがあったらしい。
まあのちのち千代さんとの関係がどうよ、と言われてしまえば何だけど。入り口としては対等な関係でありたかったらしい。
「結果として」内助に千代さんが回ったという関係になった、というのとは違って、そもそも養われたい、という感情が手紙からは透けて見える。もしくは伝記の作者にそういう意図がある。
んで。
この作品は全五篇で構成されてる。
最初の一・二篇はヒロイン滝本章子さんを描くこと! のみに使われてると言っていい。というか、こういう感性があるんだ! と書きたかったんじゃないかと思う(個人の意見)。
この“章子”の名はその後「或る愚しき者の話」や、初期短編に私小説・創作問わずよく現れるんだよな。まあ「緑」もそうだけど、吉屋の公式な分身とも言える人物じゃねえかと。
一・二篇では、章子が新たにYWAに入寮するところから始まる。
彼女は屋根裏部屋に住むことなるが、ともかくそこの生活に馴染めない様子がひたすら綴られる。この時点で章子の恋人となる隣の部屋の住人“秋津さん”はまだ遠くに居る存在に過ぎない。
ちなみに当時の人の証言。現実ではYWCA。これはまあよく自分見つけたよな(自画自賛)、という本から。
*
>後年、当時の吉屋信子について、ライダーに次いで寮監になった諫山イネは、「あの方はとてもいい話をお書きになりましたが、生活や言語までが皆小説化されて人とかけ離れたやうな風でしたので、よく人に誤解されるやうなことがありました」と述べている。また、川又吉五郎は、「四谷女子学寮のライダー先生から頼まれて、舎生二○名許りのために、私は使徒行伝を土台に『初代基督教の起源及其発達』と云ふ題で十数回話したものである。あるとき渋みのある顔で眼を光らせて聴講し、歴々質問し、何か参考になる本を貸してくれと要請した一舎生は『地の果まで』の著者吉屋信子であった」と追想している。
古屋圭一『近代日本の戦争と教会』(2011.9 さんこう社 p102)
*
んでまあ、「生活や言語が皆小説化されて人とかけ離れていたやう」な姿が、章子の描写にはよく現れているんだよ。
例えば、自分が住む場所が“屋根裏”と舎監から聞いた時の彼女の反応。
*
>(屋根裏)
この一つの語彙のうちに、章子は溢れるやうな豊富な、新鮮な、そして朦朧とした幽暗と、そして(未知)に彩られた奇怪と驚異と、幼稚な臆病な好奇心と――の張り切れるほどいつぱいに盛り上げられて充満してゐるのをその一刹那から感じた。
その観念の前に(屋根裏)の語音は、非常に魅力ある巧な美しい響を伝へるものとなつた、そして美と憧憬とを含んで包む象徴的の韻を踏ませてゆくものとなつた。
譬えば、(薔薇の花)――(珊瑚樹)――(初恋)――(……)……
あゝ、若者達の多くの幻想を寄せるに、ふさはしいこのあまたの抒情詩集の中から引き抜かれた言句にも立ち勝つて更に深くつよく若い心を掻き乱す如き心憎くも幽遠な響と感じを発するものと――章子にはなつたので。
『吉屋信子全集 第七巻』(新潮社 昭和十年八月 p54-55)
*
>この様に、美しいと感じたものに対し、章子の言葉は惜しみなく尽くされる。
……文章としては読みにくい。ともかく情感たっぷりになってくると、切れ目が無いんだよ。
それを味と呼ぶか悪文と呼ぶかは読者によると思う。
第二篇四では、夜中にピアノを一人で弾く場面に丸々割かれてるんだよな。
自分を高名なピアニストに模して空想の世界に遊ぶ、そのディテイルは非常に事細かでな。
歓喜の時間を過ごす章子の姿は凄い。滅茶苦茶凄い。
けど我に返った彼女は屋根裏の部屋で一人泣く。夢と現実とのギャップが彼女を打ちのめすわけだ。
第三篇でようやく章子の他の寮生との行動が描かれる。
ようやく、だぞ!
ただやはり、周囲との感覚の違い、停車場での男達の行動に対する憤激、自己卑下感とマイナス要素が強い。
ただ、この章には“秋津さん”への憧憬と賛美がともかく美しく描かれている。彼女は屋根裏のお隣の部屋に住んでいて、無論綺麗なひと。んでもって最初の日に灯りとしての提灯で火事を起こしかけた彼女を助けて、焦げたものを持ってって始末してくれたりしてる。
あと、印象的な男勝りな人物“工藤さん”も初登場だけど、章子は彼女とは一言も言葉を交わしていない。
“秋津さん”と周囲の人々との違いは、歯楊子(歯ブラシ)を水場で落とした場面だな。
「口ざはりの優しい品」で「別れがたく悲しく」なったが、「皆のスリッパで踏むところ」に落ちたものだから、潔癖性の章子には二度と使うことができない。だが他の寮生から靴クリーム塗りのために所望されると、章子は「ものに狂うたやうに」ホースの水で穴へと流してしまおうとする。“秋津さん”はそんな章子のもとにいつの間にかやって来て、黙ってそれを手伝う。
……いや、そんなことしたら管が詰まってしまわないか、と読んだワシとしてはなあ。
それだけではない。“秋津さん”は宗教の集いの際に、「神の姿を眼の前に見たらすぐに信じる」と言って笑われた章子を「何て純な正直な方」と無条件に受け止める。
無条件にですよ。
第四篇は隣同士の二つの部屋を一つにし、片方を書斎、片方を寝室にした二人の楽しい時期の話。
……つまりだな、片方を寝室で、ってとこを論文のほうでは今一つぼかして書いたんだが、ようするに秋津さんの美しい羽二重の布団で一緒に眠ってる、っていう描写があるんだよ。
それがただ一緒に寝てるだけなのかそれ以上なのかは描かれてないけど、まあ、なあ。触れてるような描写はあるけど。
まあそんな時期なんだけど。
“工藤さん”を始めとした他の寮生数人とも連れだって外に遊びに出る描写もある。
林檎の会をするって言って、でかいバタで彫刻を作ったりだな。で、他の女子も出てくる。章子さんは格別関心もないようだけど。この時点では。
で、比較的明るく楽しい寮生活が描かれる。
クリスマスに“秋津さん”の過去の恋人で、今は人妻となっている女性が訪ねてくるまでは。
続く第五篇で、章子は“秋津さん”の過去の恋人のことで不安と嫉妬で狂いそうになってしまう。ぎゃー。
また“工藤さん”がまたいきなり亡くなってしまう。時代が時代なんで急に肺炎だので亡くなる例はあったと思う。
んで気持ちが重くなり、最終的には自分以外に“秋津さん”にまとわりつく「失敬なこの痴者」「づうづうしい水芋の人間」である“お静さん”へ暴力をふるってしまうんだわ。
……まあ要するに、章子さん自体がそもそも「工藤さん」と違って「お静さん」と名前を通称でしか覚えていないあたりで存在の軽さが当初からあったわけだな。その上でこのひとを見かけでも行動でも軽蔑しまくっていたと。
まあ結果、章子は退寮を命じられるんだわな。……女子寮で暴力沙汰、ってんじゃ当然かな。
ところがだ。
“秋津さん”は心中を望んだ過去の恋人ではなく、この章子と寮を出て生きて行く道を選んでしまうんだわ。
で、二人は揃って屋根裏部屋を出て行く。
……ご都合というか、ここで秋津さんが章子を選ぶってのは微妙だよなあ。
いや、そりゃ前に出した「片瀬心中」より前向きって言えば前向きなんだけど、相手の「呉尾きぬ」さんは「自分のした結婚は失敗だった、あなたが忘れられない、一緒に死のう」って言ってきたんだから。
まー、何にしろ、この小説は非常に読者を選ぶ作品だわ。
何より、章子というキャラ、その徹底的な受身の姿勢、コミュ障、敏感すぎ、独り言等に同調できるなら、最後まで読み通すことが可能であり、結末にも納得がいく、というか、救われると思う。
ちなみにワタシは「自分にも思い当たる」ことで同族嫌悪したんだけど。
だが最初の第一、二篇でつまづいたらまず無理だな。
言い換えれば、この作品はそれだけ吉屋の原点であり、「個性の原点」だと思う。
ちなみにワタシは本を読むときにある程度の筋がわかるようにざっくり読んで、そのあとよかったらじっくり読む、ミステリなら一度ラストを拝んでから、というタイプなんで、突き放して読んだ。
ので、この話を「研究」するのは難しいだろなと思う。客観的に見られる人はまず読み通すのが苦痛じゃないかな~と。
「乙女小説コレクション」だったり、「百合」ジャンルの元祖というアレなんでプッシュする層があるのでね。
だいたい楽天ブックスでフツーに買えるくらいだ。アマゾンにはあるけど楽天では見つからないぞ! というのは山ほどあること考えれば、そーとう買いやすい部類だと思う。
んで。
「地の果まで」を書き上げた後、この作品を吉屋は書き始めたんだよな。
この作品は、吉屋千代編「年譜」によると、
>YWCA時代の寄宿舎の青春群像を題材に、ほとんど私小説に近い
物語ということにされてる。また、
>信子はこの時期の一連の長短編を『純文学的作品だった』と自ら書いている
ともある。
とりゃず近代文学を研究する人はまずこれを使えといわれている『日本近代文学大辞典』の第四巻によると、「懸賞小説で登場し通俗小説一筋」と評されている吉屋信子なんだけど、この作品と、「或る愚しき者の話」に関しては「純文学的作品」という意識があったと思う。
いや、「ただの長編小説」かな。今思うと。むしろ「通俗小説」「大衆小説」のほうが、あえて書くもの、という感覚があったとしたなら、思いのままにつらつら、という意味の小説なんだと思う。
んで構成。
私小説+美化、かな。
吉屋自身の寮生活時代の同性の恋人との関係を、「こういうふうだったら……」に変えたって感じかもしれない。
現実の関係はあかんくなった。
伝記には手紙の引用とか色々出てるんだけど、相手があまりにも現実の夫婦をなぞった関係を求めてきたからというのがあったらしい。
まあのちのち千代さんとの関係がどうよ、と言われてしまえば何だけど。入り口としては対等な関係でありたかったらしい。
「結果として」内助に千代さんが回ったという関係になった、というのとは違って、そもそも養われたい、という感情が手紙からは透けて見える。もしくは伝記の作者にそういう意図がある。
んで。
この作品は全五篇で構成されてる。
最初の一・二篇はヒロイン滝本章子さんを描くこと! のみに使われてると言っていい。というか、こういう感性があるんだ! と書きたかったんじゃないかと思う(個人の意見)。
この“章子”の名はその後「或る愚しき者の話」や、初期短編に私小説・創作問わずよく現れるんだよな。まあ「緑」もそうだけど、吉屋の公式な分身とも言える人物じゃねえかと。
一・二篇では、章子が新たにYWAに入寮するところから始まる。
彼女は屋根裏部屋に住むことなるが、ともかくそこの生活に馴染めない様子がひたすら綴られる。この時点で章子の恋人となる隣の部屋の住人“秋津さん”はまだ遠くに居る存在に過ぎない。
ちなみに当時の人の証言。現実ではYWCA。これはまあよく自分見つけたよな(自画自賛)、という本から。
*
>後年、当時の吉屋信子について、ライダーに次いで寮監になった諫山イネは、「あの方はとてもいい話をお書きになりましたが、生活や言語までが皆小説化されて人とかけ離れたやうな風でしたので、よく人に誤解されるやうなことがありました」と述べている。また、川又吉五郎は、「四谷女子学寮のライダー先生から頼まれて、舎生二○名許りのために、私は使徒行伝を土台に『初代基督教の起源及其発達』と云ふ題で十数回話したものである。あるとき渋みのある顔で眼を光らせて聴講し、歴々質問し、何か参考になる本を貸してくれと要請した一舎生は『地の果まで』の著者吉屋信子であった」と追想している。
古屋圭一『近代日本の戦争と教会』(2011.9 さんこう社 p102)
*
んでまあ、「生活や言語が皆小説化されて人とかけ離れていたやう」な姿が、章子の描写にはよく現れているんだよ。
例えば、自分が住む場所が“屋根裏”と舎監から聞いた時の彼女の反応。
*
>(屋根裏)
この一つの語彙のうちに、章子は溢れるやうな豊富な、新鮮な、そして朦朧とした幽暗と、そして(未知)に彩られた奇怪と驚異と、幼稚な臆病な好奇心と――の張り切れるほどいつぱいに盛り上げられて充満してゐるのをその一刹那から感じた。
その観念の前に(屋根裏)の語音は、非常に魅力ある巧な美しい響を伝へるものとなつた、そして美と憧憬とを含んで包む象徴的の韻を踏ませてゆくものとなつた。
譬えば、(薔薇の花)――(珊瑚樹)――(初恋)――(……)……
あゝ、若者達の多くの幻想を寄せるに、ふさはしいこのあまたの抒情詩集の中から引き抜かれた言句にも立ち勝つて更に深くつよく若い心を掻き乱す如き心憎くも幽遠な響と感じを発するものと――章子にはなつたので。
『吉屋信子全集 第七巻』(新潮社 昭和十年八月 p54-55)
*
>この様に、美しいと感じたものに対し、章子の言葉は惜しみなく尽くされる。
……文章としては読みにくい。ともかく情感たっぷりになってくると、切れ目が無いんだよ。
それを味と呼ぶか悪文と呼ぶかは読者によると思う。
第二篇四では、夜中にピアノを一人で弾く場面に丸々割かれてるんだよな。
自分を高名なピアニストに模して空想の世界に遊ぶ、そのディテイルは非常に事細かでな。
歓喜の時間を過ごす章子の姿は凄い。滅茶苦茶凄い。
けど我に返った彼女は屋根裏の部屋で一人泣く。夢と現実とのギャップが彼女を打ちのめすわけだ。
第三篇でようやく章子の他の寮生との行動が描かれる。
ようやく、だぞ!
ただやはり、周囲との感覚の違い、停車場での男達の行動に対する憤激、自己卑下感とマイナス要素が強い。
ただ、この章には“秋津さん”への憧憬と賛美がともかく美しく描かれている。彼女は屋根裏のお隣の部屋に住んでいて、無論綺麗なひと。んでもって最初の日に灯りとしての提灯で火事を起こしかけた彼女を助けて、焦げたものを持ってって始末してくれたりしてる。
あと、印象的な男勝りな人物“工藤さん”も初登場だけど、章子は彼女とは一言も言葉を交わしていない。
“秋津さん”と周囲の人々との違いは、歯楊子(歯ブラシ)を水場で落とした場面だな。
「口ざはりの優しい品」で「別れがたく悲しく」なったが、「皆のスリッパで踏むところ」に落ちたものだから、潔癖性の章子には二度と使うことができない。だが他の寮生から靴クリーム塗りのために所望されると、章子は「ものに狂うたやうに」ホースの水で穴へと流してしまおうとする。“秋津さん”はそんな章子のもとにいつの間にかやって来て、黙ってそれを手伝う。
……いや、そんなことしたら管が詰まってしまわないか、と読んだワシとしてはなあ。
それだけではない。“秋津さん”は宗教の集いの際に、「神の姿を眼の前に見たらすぐに信じる」と言って笑われた章子を「何て純な正直な方」と無条件に受け止める。
無条件にですよ。
第四篇は隣同士の二つの部屋を一つにし、片方を書斎、片方を寝室にした二人の楽しい時期の話。
……つまりだな、片方を寝室で、ってとこを論文のほうでは今一つぼかして書いたんだが、ようするに秋津さんの美しい羽二重の布団で一緒に眠ってる、っていう描写があるんだよ。
それがただ一緒に寝てるだけなのかそれ以上なのかは描かれてないけど、まあ、なあ。触れてるような描写はあるけど。
まあそんな時期なんだけど。
“工藤さん”を始めとした他の寮生数人とも連れだって外に遊びに出る描写もある。
林檎の会をするって言って、でかいバタで彫刻を作ったりだな。で、他の女子も出てくる。章子さんは格別関心もないようだけど。この時点では。
で、比較的明るく楽しい寮生活が描かれる。
クリスマスに“秋津さん”の過去の恋人で、今は人妻となっている女性が訪ねてくるまでは。
続く第五篇で、章子は“秋津さん”の過去の恋人のことで不安と嫉妬で狂いそうになってしまう。ぎゃー。
また“工藤さん”がまたいきなり亡くなってしまう。時代が時代なんで急に肺炎だので亡くなる例はあったと思う。
んで気持ちが重くなり、最終的には自分以外に“秋津さん”にまとわりつく「失敬なこの痴者」「づうづうしい水芋の人間」である“お静さん”へ暴力をふるってしまうんだわ。
……まあ要するに、章子さん自体がそもそも「工藤さん」と違って「お静さん」と名前を通称でしか覚えていないあたりで存在の軽さが当初からあったわけだな。その上でこのひとを見かけでも行動でも軽蔑しまくっていたと。
まあ結果、章子は退寮を命じられるんだわな。……女子寮で暴力沙汰、ってんじゃ当然かな。
ところがだ。
“秋津さん”は心中を望んだ過去の恋人ではなく、この章子と寮を出て生きて行く道を選んでしまうんだわ。
で、二人は揃って屋根裏部屋を出て行く。
……ご都合というか、ここで秋津さんが章子を選ぶってのは微妙だよなあ。
いや、そりゃ前に出した「片瀬心中」より前向きって言えば前向きなんだけど、相手の「呉尾きぬ」さんは「自分のした結婚は失敗だった、あなたが忘れられない、一緒に死のう」って言ってきたんだから。
まー、何にしろ、この小説は非常に読者を選ぶ作品だわ。
何より、章子というキャラ、その徹底的な受身の姿勢、コミュ障、敏感すぎ、独り言等に同調できるなら、最後まで読み通すことが可能であり、結末にも納得がいく、というか、救われると思う。
ちなみにワタシは「自分にも思い当たる」ことで同族嫌悪したんだけど。
だが最初の第一、二篇でつまづいたらまず無理だな。
言い換えれば、この作品はそれだけ吉屋の原点であり、「個性の原点」だと思う。
ちなみにワタシは本を読むときにある程度の筋がわかるようにざっくり読んで、そのあとよかったらじっくり読む、ミステリなら一度ラストを拝んでから、というタイプなんで、突き放して読んだ。
ので、この話を「研究」するのは難しいだろなと思う。客観的に見られる人はまず読み通すのが苦痛じゃないかな~と。
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