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68.吉屋信子の戦前長編小説について(23)彼女の思う母性愛というもののひずみ
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そんじゃ、何で
「愛する男の」
「子供を産んで」
「その子を愛しみ」
「幸せになる」
という、当時からわりと近年までずーっと続いてきたテンプレ的ハッピーエンドをしなかったのか、もしくはできなかったのか。
A「愛する男と結ばれて」いるが子供はできない。
B「愛する男の子供を(物語中で)持った」場合、子供とは別れることとなる。
①当人が死ぬ
②子供が死ぬ
③子供を手放す
C 子供そのものを作る気がない。
D「愛していない」男の子供を産む(愛していない男の子供だから「こそ」愛しい)。
それって何かねじれまくった傾向だよな。それを「必ず」やっていたのは何でだ?
そらな、無論作劇上の技術としての「泣かせ」は必要だよな。
けどこの時期の長篇作品群「全て」において否定というと、書き手の意志が確実に含まれているよな。
じゃあその意思は何だ? 意識してたのか? 無意識か?
ということで、当時のワタシは吉屋信子における「母性愛」「結婚」「恋愛」の記述をたどってみた。
*
「母性愛」については、戦後の毎日新聞上におけるコラムが「最新」じゃないかと思われた。
少なくとも当時探した限りでは、そこで止まってた。
昭和20年代後半、再軍備化の問題で過敏になっていた時期の『婦人公論』上の発言から、同誌と吉屋の本の不買運動にまで発展した「舌禍事件」のときに載せたものなのだな。
ちなみにこの「舌禍事件」は、論文注でこう引用してたんす。
***
『毎日新聞』昭和二十八年二月十四日「問題になった吉屋女史の発言」より
再軍備の問題がやかましくいわれているとき、婦人公論二月号の『吉田首相を囲んで』という座談会で、作家の吉屋信子さんが『自分の子供を喜んで国のタテに捧げることに誇を感じなければ……』ということをいいました。この言葉がいま『平和を願う女性の気持に反しているし、子供を生んだことのない吉屋さんには母親の気持はわからないでしょう』と問題になっています。和歌山県の婦人会では吉屋さんのこの発言について緊急会議を開き、母親三千人に署名を集め『婦人層に多くの読者を持つ流行作家の言葉がどれだけ大きく社会に影響を及ぼすか、平和を願っている母親たちの立場を考えてほしい』と厳重な抗議文を送ったといわれます。もしこの抗議に吉屋さんから回答がない時は同女史の執筆した雑誌の不買運動にまでひろがる動きがあるといわれています。そこで、どうしてこのような問題が起ったのか、吉屋さんの本当の気持はどういうところにあるのか、当の吉屋信子さんに書いていただきました。
***
まあはっきり言って、現在の朝日の天声人語で誰かの口を借りて~の手口と一緒なんす。
『婦人公論』座談会/吉田首相との対談
→『朝日新聞』天声人語における「一主婦の声」
→吉屋の『朝日』投書欄「声」における反論
→『毎日』誌上コラムでの反論
*
> (……)私はむしろ母の心を重んじたから、その母の心が動かない以上、精神のある軍隊は出来ないと断言したまでである。
またこの一主婦は子を持たぬ女は、人の子など何も思わぬと考えておられるようだが、それはあの座談会の言葉を読みちがえていられる以上に狭隘な解釈である。
広義の母性愛とは、人類愛に根ざした深く高いもの、それは女性の心の底にたれも持っているものだと思う。(……)社会には昔から今に至るまで、実の子は愛しても生さぬ仲の子を愛し得ぬ家庭悲劇が跡を絶たぬ。あまりに狭隘な母性愛が、そういう悲劇を生ずるのではなかろうか。もうそろそろ近代の日本の女性はわが子だけを愛する母性愛よりも、もう一つの人類愛に通う母性愛のあることを知っていい時だと私は思う。
「母性愛とは あなたがたは誤解している」(『毎日新聞』昭和二十八年二月十四日)
*
→「私はこう考へる」(『婦人公論』昭和二十八年四月)
→「日本はいずこにゆく」(『改造』昭和二十八年五月)
こういう流れになるのね。
まあなー。朝日のやり方は実に朝日だなあと思うんですが、吉屋信子の母性愛感もワタシ自身は全くもってタテマエ的というか、何か自分を誤魔化してる感強すぎて嫌い(個人的意見!)なんですが。
だってそうですわ。
「わが子だけ愛する」「狭隘な」母性愛
<「人類愛に深く根ざした深く高い」「広義の」母性愛
この図式をもう作品の中でもこれでもかこれでもかとばかりに言ってるのね。
例。
「母の曲」。
これは米国映画「ステラ・ダラス」が翻案となっている小説だが、「これを日本の母性愛に写して、ひとつ書くことに」した物語。
*
> 母の愛は、東西に変りなく、しかも、この作中の愚なれど、純な愛情を子に豊かに持つ母の型は、日本にこそ多く見受けらるゝものゝ如く、無理なく、日本の風俗に、母に、娘に、良人に、描き尽すことが出来たやうな気がいたします。テーマのなかばを、亜米利加の女流作家のものに採りましたが、この『母の曲』は、日本の女性の姿と生活の息吹を、また別に、一生懸命で、私は写し描く意気込みでした。
「作者の感想」(『吉屋信子選集 第十一巻』新潮社 昭和十四年十月 三百一頁)
*
ここでは「愚なれど、純な愛情」がまず地の文に以下の様に記されている。
*
> 良人の愛情はすでに我身を去つたと今は諦め切つた彼女は、妻としての愛と望みと熱を、母性愛に合併させて、たゞひと筋に桂子を嘗めるやうに愛した。(……)だが、その愛はやはり無智な本能的な盲目的な母性愛だつた。猫が児猫を嘗めまはすに似た賢からざる動物的母性愛だつた。(同 十八頁)
*
物語の展開、父の言葉等を借りて、この生みの母の示す「母性愛」を吉屋信子はどんどん否定していくのね。
*
>「うむ、だがね、桂子それは母娘の本能の愛だよ、さうした感情ばかりに、お前を委ねて置くのは、お父さんは心配なのだ。子供に、殊にお前のやうな青春期の娘には、世界で一番母の教育が大切なのだ。今感情に依らず、正しい理性で判断すれば、あの母さんにお前の教育を任せるのは、お父さんは不安でならないのだ――(……)そこでお父さんは、お前の教育と女性としての指導を、もつと適当な人格の人に任せたいと願つてゐるのだよ――」(同 九十四~五頁)
*
んで、どれだけ突き放しても自分の所へ戻ってくる娘に対して母は、「娘が大嫌いな男の元に走る」という捨て身の芝居を取る。娘は母の心には気付かず、その行動を内心なじるのみで本筋からは退場する。
まあこれは「ステラ・ダラス」も同じなんだけど。
*
> 娘の自分がどんなに母を愛してゐるか、母の為に悩んでゐるか、それも掬みとらずに、母が娘の身震ひする程嫌ひな男に、自分から惹かれて近づいて行くといふ事が只うとましく浅ましかつた。(同 二百三十四頁)
*
一方自分から身を引いた母は、自分には落ちぶれた境遇が似合いであり、姿を現さないことが使命の様に考え出す。
*
> 自分がかうして、町の屑のやうに、風に吹きまくられた隅つこに小さくなつて、綿埃を浴びながら働いてゐて、先夫の純爾や、可愛い娘の桂子の前に一切姿を現はさない事が、自分で生涯に、なし遂げる大きな仕事のやうな気がしてゐたのである。
(同 二百五十五頁)
*
いやそれ自己満足ですから!
ただの自己憐憫で快感を得ているだけでしょう!
……とは論文にさすがに! 書けなかったけど! 個人的意見ですから!
まあつづき。
そんでもって「適当な人格」である養母のお膳立てによって、見ることができた娘の花嫁姿にこう考えるわけだ。
*
>(あゝ、私の願つてゐた通りだ、桂子は、やはり高島田にお振袖を着せたかつたんだもの、そして、お婿さんはお父さんの若い時のやうな立派な人、そして、この花嫁のお母さんはあのくらゐ立派でなくちやいけない……何も彼も私の思つてゐた通りだ、たゞお母さんの役を此の私がせずに、薫さんがつとめて呉れるだけの事だ……)
(同 二百六十二頁)
*
つまり
「無智で品の無い生みの母/本能的動物的母性愛」
<「教養と品のある育ての母/理性的な母性愛」
という図式なのね。
ちなみに最初にこの「母性愛」観が堂々と出たのは「彼女の道」ね。
ヒロイン・操がこの母性愛観を述べて、その堂々たる様に感じ入った男が結婚を申し込むという展開となっている。おいおい。
*
>「左様です、自分の愛する子のために一身を犠牲にするほどの強い母の愛情、それが婦人にとつて何よりも立派なものではありませんか――」
「まあ、自分の子を烈しく愛すことが立派なんでございますつて、そんなことは、犬だつて猫だつて持つてゐる、動物本能の利己主義の現れぢやありませんの。そんなことが何故そんなに高く評価されますの?」(……)
「もし母性愛といふものを貴く認めて行きたいなら、その血肉の本能愛に閉ぢ込められ過ぎる利己主義から解放された新な広い(母性愛)でなければいけないと存じますわ。」(……)
「それは、自分の子であらうとなからうと、自分達人類の後継者としての幼い者達への深い愛情の心づかひでございます。その愛の感情こそ、ただ万物の霊長たる人間のみ持ち得る洗練された母性愛なのでございませう。」
「ふーむ、するとあなたはかうおつしやるのですな、つまり自分の腹を痛めた子であるないにかかはらず、第二の国民たる子供、我々の後継者には、すべて母性愛的愛情をそそいでやるべきだと――」
「彼女の道」(『吉屋信子全集』新潮社 昭和十年七月 二百三十九~四十頁)
*
子供は公共のもの、という考え方はまあいいんだけど、だけど何でまた、私的な動物的な部分をけなすんだ?と。
で、更に遡ると、これが渡欧した昭和三年から四年にかけてに形になったということが判るんだな。
引用長いし面倒くさいよー。
でもこういう文章書いてたんだ。当時。
*
>(……)又憎まれ口を利くやうだけど日本みたいに七人も八人も一人の母さんが子供を連れてゐるやうであつたら、こんな場合背中の赤ん坊はおされてヒーヒー泣き叫び左右の手にぶらさがつて居る子供はわんわんわめき、気の荒い職人風の男は「おい、やかましいぞッ、泣かねい子と取り替へて来いよ」なぞ人の母の心も知らで一杯機嫌で叫ぶであらう――しかし巴里には又仰山に言へば私の廻つて来た世界の国では支那を除く他、そんなに子供が大人の感情に険しく扱はれる場合は夢にもなかつた。子供を連れた母親がそんな行列の中で一寸子供を扱ひかねて居る場合なぞには、その側に居る紳士か或は子供を連れぬ女性は直ぐ手を貸し、その母親を助ける、誰でも子供のわきに立つ者はその子の保護者になつてやる、どこの誰の子か見知らぬ幼児に対して大人は常に到る処で保護者となるのだ、もうさういふ光景を見るとまつたく子供は社会人類の共有物の感じだ、社会人全体が母性愛を持つて居るのだ、日本で盛んにひと頃宣伝されたあの利己主義的な島国根性な自分の子供だけむやみと愛して母を犠牲にするやうなケチ臭い母性愛とは品と質がちがふやうである、この様に社会人に愛されて育つ子はやがて己れの社会の一員であることを自覚し社会に役立つ者とならう、子供が単に父母にのみ属してゐる時、彼は家名をあげ孝行をすること位までは考へても他人の為や世の為なんて愛情の意識はゼロとなり果て、冷たい冷たい利己主義家族主義のうき世が生じる所以――
「巴里の子供」(『異国点景』民友社 昭和五年六月 百二十八~三十頁)
*
……今からよく見てみるとこのひと日本の習慣そのものをこの時代、嫌いだったんじゃねえか。
そもそも彼女が見たパリだのヨーロッパの国々にしても、それはあくまで「外国人が見られる範囲」「おのぼりの東洋人が安心して見られる範囲」のとこなんだよな。
「子供は社会人類の共有物」という建前を掲げても、その裏にどうも、透けて見えるんだよな。
・沢山子供を抱えた「母さん」や小さな子供に対し平気で叫ぶ「男」に対する怒り
・「利己主義」「島国根性」「家族主義」「ケチ臭い」「冷たい」と貶める何か
ちなみに「日本で盛んにひと頃宣伝されたあの」母性愛、っていうのは、平塚らいてうと与謝野晶子の「母性保護論争」を念頭においた「母性愛」だと思う。
そこで論戦が行われたのは、あくまで自身で産む子供の数を人工的に調整するか否かの問題なのね。
だからそこには他人の子供が入り込む余地は無いわけだ。
だけどそもそも、「母性保護論争」の時点の吉屋に、その問題を論じるのは無理があったと思う。
つか無理。このひと潔癖症の処女童貞崇拝者だったもの。
ということで、その時代、大正十四年における個人誌『黒薔薇』において理想をストレートに打ち出した文章を挙げてみるざんす。
*
>(……)純潔といふものは第一義に於て永遠に大空に輝く星の如く人類の上に存在する世にも美しいものである、(……/永遠の処女として聖母マリアと天照大神を例にとる)この純潔無垢なる永遠の童貞に対しての憧憬と崇拝は何に起因するであらうか、これこそ人類の持つ官能の性的欲求から逃れ得ぬ羞恥感でなければならぬ、鳥や獣の与へられしままの無邪気な無心な自然の立法の振舞と異なつて、人類のそれはもつと複雑に邪悪に変態的にゆがめ来らせられてゐるのではなからうか――男性の持つ暴慢な征服感、弱き者へ無抵抗者へ思ふがままの暴王たり得る快感、一人の人間を所有し得る満足――等、等、これらは男性の露な心理を描いた彼等自らの手になりし小説、感想からうかがひ知つた一端である、然して女性にとつては、それの本源は素直にも優しい自己放棄と奉仕と愛撫への順応であるとは云へ、悲しむべき事に、そこに約束された官能の陶酔への意識に裏づけられた変態的な被支配の歓喜――言ひ代へれば自己侮辱――等々(……/これらの知識は外国の婦人の著書から得たものと釈明)がないとは言へないと言ふ――さればこそ、人間は此の一時的瞬間的にも自らの人格を下劣にしたりの、卑しく引摺りおろしたり、純粋な愛情をさへ傷けよごす憂ひのあるかへり見て恥多き暗き苛責感は、いかにもしてかかる恥をもたらす本能からの暴力から完全に抜け出て、その力に勝ちぬいた「永遠の純潔」を夢見、それに達し度く乞ひ願ふ気持が、かかる低き官能の世界から離れて遠く男性の手の一指もふれ得ざりし高く清らかに存在する一個の「純潔」の女性の観念を人格化し、それに優しく美しき女神の名を冠らせて、そを母胎として生まれ出でし力を神として人の子の救主として崇める心理は泪ぐましき人類の祖先達が不断の真善美への渇望であつたと信じる、(……)人類が真善美への完全なる人格完成への道程の一時代に今や生くる私達は、不断の努力を持つて、ここに一つの進化の過程を築き残さねばならぬ。それこそ生れ出し者の生の喜びである、かくて人類がいつの日か達せんとするその人格の完成のあらはれる日こそ、まさしく天は地におろされて、そこには曾つて過ぎし日及びがたきもの、達しがきものとして憧憬のあまり礼拝し膝まづきし「永遠の純潔」をも冠する日が来るのであらう――私はそれを人類の未来へ描く理想の一つとして信じるものである、(そんな日が来たら、人類の子孫は無くて滅亡するぢやないかと現実論者は冷かに嘲けるであらう)おお、然し、かかる美しい聖らかな日のもとに生き得る歓喜! それこそは人類が何億万年を費して血と涙と幾多の屍を踏み越えつつ、執拗なる邪悪本能の支配をついに打ち破つて、聖壇へ到達した勝利の日である、その勝利の栄冠と偉大な道徳的建国の成りし時である、もはや生殖や子孫の繁殖は、それにかかわりなき事である、其処に達しがたかりし偉大なる道徳的勝利を得て、そのまま人類は滅亡するともなほ其処に残された人類の足跡の美しさは永遠に滅びぬ不朽の力である意志である――私はかく信じる――(……)
「純潔の意義に就きて白村氏の論を駁す」
(『黒薔薇』№1 大正十四年一月 五十一~四頁)
*
大正期ロマンチック・ラブの提唱で有名な厨川白村を「駁す」この文章内で吉屋は「人類が滅亡するとも」構わないまでに「純潔/人類の理想」は「低き官能/生殖や子孫の繁殖」より尊いと強調するんだな。
つまり、
「処女性崇拝」
「生殖・男性性拒否」
なんだよ。
『黒薔薇』№2では、菊池寛の小説「羽衣」を「処女性崇拝」の面からのみ異議を唱えているのね。
吉屋は菊池の「羽衣」において、天女が娼婦の扱いを受けていることに対して「のみ」激怒したのだわ。
つまり大正年間の、まだまだ若い吉屋信子にとっては、異性との「恋愛」「結婚」ましてや母性保護論争の基本である「妊娠」「母体」を語ること自体が全くの問題外だったということですわ。
つか、毛嫌いしてたでしょ。
なんだけど。
いつの間にか、これらの激しい言葉はなりを潜め、新潮社刊の『吉屋信子全集』の予約案内内では三輪田元道から
>「良縁を求め度いと望むもの、男心を会得し度いと考へるもの、或は貞操観の向上を計り度いと祈るものに絶好の読物と深く信じて疑ひません」
講談社の野間清治から
>「女性の精神に清く正しい道徳を暗示されて居る」
といった推薦の言葉をもらう程になっている。
さてwwww
一体何処で作品は変化したんでしょうね。
ここで注目されるのが、吉屋の生涯のパートナー・門馬千代さんの言葉ですね。
*
>「信子さんは、女の人を身心共に処女のままにおいておきたいと願っているものだから、小説のなかでも、男の人とかかわらせまいとしている。でもそれでは、いつまでたっても大人の心をつかむ小説は書けないわ。公私混同は小説家として御法度よ」
吉武輝子『女人吉屋信子』(文藝春秋社 昭和五十七年十二月 二百七頁)
*
で、ワタシの推論としては~以下論文まんま。
***
パリでの光景は、吉屋に自らが元より厭う「動物的」な「利己主義的」「島国根性」な「家族主義的日本の母性愛」を否定するために好都合なものであり、「理性的でより高い母性愛」を言語化させた。そして「大人の心をつかむ小説」のための妥協案として独自の「母性愛」を多用する「ロマンチック・ラブのハッピーエンド否定」という形を作り出したのではなかろうか。
すなわち自身の作品内においては、
①対外的メッセージ
――a『結婚相手の選定の重要性』
b『妻として夫(決めた相手)への貞淑』
②本音のメッセージ
――a『適切な結婚相手がいなければ未婚のまま仕事(使命)に生きるべき』
b『自ら生んだ愛する人との子供とは幸せになれない』
という二重のメッセージを立てることが、男女恋愛を書かねばならない吉屋にとっての、ぎりぎりの自己防衛ラインだったではなかろうか。
①メッセージは当時の「良妻賢母主義」にも適っているだろう。メッセージ②aは吉屋自身が対談や座談会で必ずと言っていい程問われる「何故結婚しないのですか/これから結婚しないのですか」に対し「結婚しようと思う相手がいなかったから/結婚したい人が居たらする」と答えることに通じている。
そしてまた、その「動物的」な「利己主義的家族主義日本の母性愛」の否定をにじませているからこそ、「家族主義の発展形としての国家主義」を推進する時代においては対象外だと当局からは判断されたのではなかろうか。
***
いや今考えれば、ダブルスタンダードですよ。
生物としての女性を否定しつつ、女性が崇高だと言い続けて、実際好きだったわけだし、彼女自身の立場も「名誉男性」だったんだから。
そうなるための努力そのものには賞賛は惜しまないですがね!
実際一年に四作くらい平行して執筆していて仕事しすぎて内臓壊したり、それでも何かと取材に行ったり、何かとジャーナリズムに貶められたりはしてるんだから。それで家数軒建てて馬主にもなれるほどになったりしているんだから。
で、次で「何でそんな歪んじゃったんかいな」を探してみたわけだ。
「愛する男の」
「子供を産んで」
「その子を愛しみ」
「幸せになる」
という、当時からわりと近年までずーっと続いてきたテンプレ的ハッピーエンドをしなかったのか、もしくはできなかったのか。
A「愛する男と結ばれて」いるが子供はできない。
B「愛する男の子供を(物語中で)持った」場合、子供とは別れることとなる。
①当人が死ぬ
②子供が死ぬ
③子供を手放す
C 子供そのものを作る気がない。
D「愛していない」男の子供を産む(愛していない男の子供だから「こそ」愛しい)。
それって何かねじれまくった傾向だよな。それを「必ず」やっていたのは何でだ?
そらな、無論作劇上の技術としての「泣かせ」は必要だよな。
けどこの時期の長篇作品群「全て」において否定というと、書き手の意志が確実に含まれているよな。
じゃあその意思は何だ? 意識してたのか? 無意識か?
ということで、当時のワタシは吉屋信子における「母性愛」「結婚」「恋愛」の記述をたどってみた。
*
「母性愛」については、戦後の毎日新聞上におけるコラムが「最新」じゃないかと思われた。
少なくとも当時探した限りでは、そこで止まってた。
昭和20年代後半、再軍備化の問題で過敏になっていた時期の『婦人公論』上の発言から、同誌と吉屋の本の不買運動にまで発展した「舌禍事件」のときに載せたものなのだな。
ちなみにこの「舌禍事件」は、論文注でこう引用してたんす。
***
『毎日新聞』昭和二十八年二月十四日「問題になった吉屋女史の発言」より
再軍備の問題がやかましくいわれているとき、婦人公論二月号の『吉田首相を囲んで』という座談会で、作家の吉屋信子さんが『自分の子供を喜んで国のタテに捧げることに誇を感じなければ……』ということをいいました。この言葉がいま『平和を願う女性の気持に反しているし、子供を生んだことのない吉屋さんには母親の気持はわからないでしょう』と問題になっています。和歌山県の婦人会では吉屋さんのこの発言について緊急会議を開き、母親三千人に署名を集め『婦人層に多くの読者を持つ流行作家の言葉がどれだけ大きく社会に影響を及ぼすか、平和を願っている母親たちの立場を考えてほしい』と厳重な抗議文を送ったといわれます。もしこの抗議に吉屋さんから回答がない時は同女史の執筆した雑誌の不買運動にまでひろがる動きがあるといわれています。そこで、どうしてこのような問題が起ったのか、吉屋さんの本当の気持はどういうところにあるのか、当の吉屋信子さんに書いていただきました。
***
まあはっきり言って、現在の朝日の天声人語で誰かの口を借りて~の手口と一緒なんす。
『婦人公論』座談会/吉田首相との対談
→『朝日新聞』天声人語における「一主婦の声」
→吉屋の『朝日』投書欄「声」における反論
→『毎日』誌上コラムでの反論
*
> (……)私はむしろ母の心を重んじたから、その母の心が動かない以上、精神のある軍隊は出来ないと断言したまでである。
またこの一主婦は子を持たぬ女は、人の子など何も思わぬと考えておられるようだが、それはあの座談会の言葉を読みちがえていられる以上に狭隘な解釈である。
広義の母性愛とは、人類愛に根ざした深く高いもの、それは女性の心の底にたれも持っているものだと思う。(……)社会には昔から今に至るまで、実の子は愛しても生さぬ仲の子を愛し得ぬ家庭悲劇が跡を絶たぬ。あまりに狭隘な母性愛が、そういう悲劇を生ずるのではなかろうか。もうそろそろ近代の日本の女性はわが子だけを愛する母性愛よりも、もう一つの人類愛に通う母性愛のあることを知っていい時だと私は思う。
「母性愛とは あなたがたは誤解している」(『毎日新聞』昭和二十八年二月十四日)
*
→「私はこう考へる」(『婦人公論』昭和二十八年四月)
→「日本はいずこにゆく」(『改造』昭和二十八年五月)
こういう流れになるのね。
まあなー。朝日のやり方は実に朝日だなあと思うんですが、吉屋信子の母性愛感もワタシ自身は全くもってタテマエ的というか、何か自分を誤魔化してる感強すぎて嫌い(個人的意見!)なんですが。
だってそうですわ。
「わが子だけ愛する」「狭隘な」母性愛
<「人類愛に深く根ざした深く高い」「広義の」母性愛
この図式をもう作品の中でもこれでもかこれでもかとばかりに言ってるのね。
例。
「母の曲」。
これは米国映画「ステラ・ダラス」が翻案となっている小説だが、「これを日本の母性愛に写して、ひとつ書くことに」した物語。
*
> 母の愛は、東西に変りなく、しかも、この作中の愚なれど、純な愛情を子に豊かに持つ母の型は、日本にこそ多く見受けらるゝものゝ如く、無理なく、日本の風俗に、母に、娘に、良人に、描き尽すことが出来たやうな気がいたします。テーマのなかばを、亜米利加の女流作家のものに採りましたが、この『母の曲』は、日本の女性の姿と生活の息吹を、また別に、一生懸命で、私は写し描く意気込みでした。
「作者の感想」(『吉屋信子選集 第十一巻』新潮社 昭和十四年十月 三百一頁)
*
ここでは「愚なれど、純な愛情」がまず地の文に以下の様に記されている。
*
> 良人の愛情はすでに我身を去つたと今は諦め切つた彼女は、妻としての愛と望みと熱を、母性愛に合併させて、たゞひと筋に桂子を嘗めるやうに愛した。(……)だが、その愛はやはり無智な本能的な盲目的な母性愛だつた。猫が児猫を嘗めまはすに似た賢からざる動物的母性愛だつた。(同 十八頁)
*
物語の展開、父の言葉等を借りて、この生みの母の示す「母性愛」を吉屋信子はどんどん否定していくのね。
*
>「うむ、だがね、桂子それは母娘の本能の愛だよ、さうした感情ばかりに、お前を委ねて置くのは、お父さんは心配なのだ。子供に、殊にお前のやうな青春期の娘には、世界で一番母の教育が大切なのだ。今感情に依らず、正しい理性で判断すれば、あの母さんにお前の教育を任せるのは、お父さんは不安でならないのだ――(……)そこでお父さんは、お前の教育と女性としての指導を、もつと適当な人格の人に任せたいと願つてゐるのだよ――」(同 九十四~五頁)
*
んで、どれだけ突き放しても自分の所へ戻ってくる娘に対して母は、「娘が大嫌いな男の元に走る」という捨て身の芝居を取る。娘は母の心には気付かず、その行動を内心なじるのみで本筋からは退場する。
まあこれは「ステラ・ダラス」も同じなんだけど。
*
> 娘の自分がどんなに母を愛してゐるか、母の為に悩んでゐるか、それも掬みとらずに、母が娘の身震ひする程嫌ひな男に、自分から惹かれて近づいて行くといふ事が只うとましく浅ましかつた。(同 二百三十四頁)
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一方自分から身を引いた母は、自分には落ちぶれた境遇が似合いであり、姿を現さないことが使命の様に考え出す。
*
> 自分がかうして、町の屑のやうに、風に吹きまくられた隅つこに小さくなつて、綿埃を浴びながら働いてゐて、先夫の純爾や、可愛い娘の桂子の前に一切姿を現はさない事が、自分で生涯に、なし遂げる大きな仕事のやうな気がしてゐたのである。
(同 二百五十五頁)
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いやそれ自己満足ですから!
ただの自己憐憫で快感を得ているだけでしょう!
……とは論文にさすがに! 書けなかったけど! 個人的意見ですから!
まあつづき。
そんでもって「適当な人格」である養母のお膳立てによって、見ることができた娘の花嫁姿にこう考えるわけだ。
*
>(あゝ、私の願つてゐた通りだ、桂子は、やはり高島田にお振袖を着せたかつたんだもの、そして、お婿さんはお父さんの若い時のやうな立派な人、そして、この花嫁のお母さんはあのくらゐ立派でなくちやいけない……何も彼も私の思つてゐた通りだ、たゞお母さんの役を此の私がせずに、薫さんがつとめて呉れるだけの事だ……)
(同 二百六十二頁)
*
つまり
「無智で品の無い生みの母/本能的動物的母性愛」
<「教養と品のある育ての母/理性的な母性愛」
という図式なのね。
ちなみに最初にこの「母性愛」観が堂々と出たのは「彼女の道」ね。
ヒロイン・操がこの母性愛観を述べて、その堂々たる様に感じ入った男が結婚を申し込むという展開となっている。おいおい。
*
>「左様です、自分の愛する子のために一身を犠牲にするほどの強い母の愛情、それが婦人にとつて何よりも立派なものではありませんか――」
「まあ、自分の子を烈しく愛すことが立派なんでございますつて、そんなことは、犬だつて猫だつて持つてゐる、動物本能の利己主義の現れぢやありませんの。そんなことが何故そんなに高く評価されますの?」(……)
「もし母性愛といふものを貴く認めて行きたいなら、その血肉の本能愛に閉ぢ込められ過ぎる利己主義から解放された新な広い(母性愛)でなければいけないと存じますわ。」(……)
「それは、自分の子であらうとなからうと、自分達人類の後継者としての幼い者達への深い愛情の心づかひでございます。その愛の感情こそ、ただ万物の霊長たる人間のみ持ち得る洗練された母性愛なのでございませう。」
「ふーむ、するとあなたはかうおつしやるのですな、つまり自分の腹を痛めた子であるないにかかはらず、第二の国民たる子供、我々の後継者には、すべて母性愛的愛情をそそいでやるべきだと――」
「彼女の道」(『吉屋信子全集』新潮社 昭和十年七月 二百三十九~四十頁)
*
子供は公共のもの、という考え方はまあいいんだけど、だけど何でまた、私的な動物的な部分をけなすんだ?と。
で、更に遡ると、これが渡欧した昭和三年から四年にかけてに形になったということが判るんだな。
引用長いし面倒くさいよー。
でもこういう文章書いてたんだ。当時。
*
>(……)又憎まれ口を利くやうだけど日本みたいに七人も八人も一人の母さんが子供を連れてゐるやうであつたら、こんな場合背中の赤ん坊はおされてヒーヒー泣き叫び左右の手にぶらさがつて居る子供はわんわんわめき、気の荒い職人風の男は「おい、やかましいぞッ、泣かねい子と取り替へて来いよ」なぞ人の母の心も知らで一杯機嫌で叫ぶであらう――しかし巴里には又仰山に言へば私の廻つて来た世界の国では支那を除く他、そんなに子供が大人の感情に険しく扱はれる場合は夢にもなかつた。子供を連れた母親がそんな行列の中で一寸子供を扱ひかねて居る場合なぞには、その側に居る紳士か或は子供を連れぬ女性は直ぐ手を貸し、その母親を助ける、誰でも子供のわきに立つ者はその子の保護者になつてやる、どこの誰の子か見知らぬ幼児に対して大人は常に到る処で保護者となるのだ、もうさういふ光景を見るとまつたく子供は社会人類の共有物の感じだ、社会人全体が母性愛を持つて居るのだ、日本で盛んにひと頃宣伝されたあの利己主義的な島国根性な自分の子供だけむやみと愛して母を犠牲にするやうなケチ臭い母性愛とは品と質がちがふやうである、この様に社会人に愛されて育つ子はやがて己れの社会の一員であることを自覚し社会に役立つ者とならう、子供が単に父母にのみ属してゐる時、彼は家名をあげ孝行をすること位までは考へても他人の為や世の為なんて愛情の意識はゼロとなり果て、冷たい冷たい利己主義家族主義のうき世が生じる所以――
「巴里の子供」(『異国点景』民友社 昭和五年六月 百二十八~三十頁)
*
……今からよく見てみるとこのひと日本の習慣そのものをこの時代、嫌いだったんじゃねえか。
そもそも彼女が見たパリだのヨーロッパの国々にしても、それはあくまで「外国人が見られる範囲」「おのぼりの東洋人が安心して見られる範囲」のとこなんだよな。
「子供は社会人類の共有物」という建前を掲げても、その裏にどうも、透けて見えるんだよな。
・沢山子供を抱えた「母さん」や小さな子供に対し平気で叫ぶ「男」に対する怒り
・「利己主義」「島国根性」「家族主義」「ケチ臭い」「冷たい」と貶める何か
ちなみに「日本で盛んにひと頃宣伝されたあの」母性愛、っていうのは、平塚らいてうと与謝野晶子の「母性保護論争」を念頭においた「母性愛」だと思う。
そこで論戦が行われたのは、あくまで自身で産む子供の数を人工的に調整するか否かの問題なのね。
だからそこには他人の子供が入り込む余地は無いわけだ。
だけどそもそも、「母性保護論争」の時点の吉屋に、その問題を論じるのは無理があったと思う。
つか無理。このひと潔癖症の処女童貞崇拝者だったもの。
ということで、その時代、大正十四年における個人誌『黒薔薇』において理想をストレートに打ち出した文章を挙げてみるざんす。
*
>(……)純潔といふものは第一義に於て永遠に大空に輝く星の如く人類の上に存在する世にも美しいものである、(……/永遠の処女として聖母マリアと天照大神を例にとる)この純潔無垢なる永遠の童貞に対しての憧憬と崇拝は何に起因するであらうか、これこそ人類の持つ官能の性的欲求から逃れ得ぬ羞恥感でなければならぬ、鳥や獣の与へられしままの無邪気な無心な自然の立法の振舞と異なつて、人類のそれはもつと複雑に邪悪に変態的にゆがめ来らせられてゐるのではなからうか――男性の持つ暴慢な征服感、弱き者へ無抵抗者へ思ふがままの暴王たり得る快感、一人の人間を所有し得る満足――等、等、これらは男性の露な心理を描いた彼等自らの手になりし小説、感想からうかがひ知つた一端である、然して女性にとつては、それの本源は素直にも優しい自己放棄と奉仕と愛撫への順応であるとは云へ、悲しむべき事に、そこに約束された官能の陶酔への意識に裏づけられた変態的な被支配の歓喜――言ひ代へれば自己侮辱――等々(……/これらの知識は外国の婦人の著書から得たものと釈明)がないとは言へないと言ふ――さればこそ、人間は此の一時的瞬間的にも自らの人格を下劣にしたりの、卑しく引摺りおろしたり、純粋な愛情をさへ傷けよごす憂ひのあるかへり見て恥多き暗き苛責感は、いかにもしてかかる恥をもたらす本能からの暴力から完全に抜け出て、その力に勝ちぬいた「永遠の純潔」を夢見、それに達し度く乞ひ願ふ気持が、かかる低き官能の世界から離れて遠く男性の手の一指もふれ得ざりし高く清らかに存在する一個の「純潔」の女性の観念を人格化し、それに優しく美しき女神の名を冠らせて、そを母胎として生まれ出でし力を神として人の子の救主として崇める心理は泪ぐましき人類の祖先達が不断の真善美への渇望であつたと信じる、(……)人類が真善美への完全なる人格完成への道程の一時代に今や生くる私達は、不断の努力を持つて、ここに一つの進化の過程を築き残さねばならぬ。それこそ生れ出し者の生の喜びである、かくて人類がいつの日か達せんとするその人格の完成のあらはれる日こそ、まさしく天は地におろされて、そこには曾つて過ぎし日及びがたきもの、達しがきものとして憧憬のあまり礼拝し膝まづきし「永遠の純潔」をも冠する日が来るのであらう――私はそれを人類の未来へ描く理想の一つとして信じるものである、(そんな日が来たら、人類の子孫は無くて滅亡するぢやないかと現実論者は冷かに嘲けるであらう)おお、然し、かかる美しい聖らかな日のもとに生き得る歓喜! それこそは人類が何億万年を費して血と涙と幾多の屍を踏み越えつつ、執拗なる邪悪本能の支配をついに打ち破つて、聖壇へ到達した勝利の日である、その勝利の栄冠と偉大な道徳的建国の成りし時である、もはや生殖や子孫の繁殖は、それにかかわりなき事である、其処に達しがたかりし偉大なる道徳的勝利を得て、そのまま人類は滅亡するともなほ其処に残された人類の足跡の美しさは永遠に滅びぬ不朽の力である意志である――私はかく信じる――(……)
「純潔の意義に就きて白村氏の論を駁す」
(『黒薔薇』№1 大正十四年一月 五十一~四頁)
*
大正期ロマンチック・ラブの提唱で有名な厨川白村を「駁す」この文章内で吉屋は「人類が滅亡するとも」構わないまでに「純潔/人類の理想」は「低き官能/生殖や子孫の繁殖」より尊いと強調するんだな。
つまり、
「処女性崇拝」
「生殖・男性性拒否」
なんだよ。
『黒薔薇』№2では、菊池寛の小説「羽衣」を「処女性崇拝」の面からのみ異議を唱えているのね。
吉屋は菊池の「羽衣」において、天女が娼婦の扱いを受けていることに対して「のみ」激怒したのだわ。
つまり大正年間の、まだまだ若い吉屋信子にとっては、異性との「恋愛」「結婚」ましてや母性保護論争の基本である「妊娠」「母体」を語ること自体が全くの問題外だったということですわ。
つか、毛嫌いしてたでしょ。
なんだけど。
いつの間にか、これらの激しい言葉はなりを潜め、新潮社刊の『吉屋信子全集』の予約案内内では三輪田元道から
>「良縁を求め度いと望むもの、男心を会得し度いと考へるもの、或は貞操観の向上を計り度いと祈るものに絶好の読物と深く信じて疑ひません」
講談社の野間清治から
>「女性の精神に清く正しい道徳を暗示されて居る」
といった推薦の言葉をもらう程になっている。
さてwwww
一体何処で作品は変化したんでしょうね。
ここで注目されるのが、吉屋の生涯のパートナー・門馬千代さんの言葉ですね。
*
>「信子さんは、女の人を身心共に処女のままにおいておきたいと願っているものだから、小説のなかでも、男の人とかかわらせまいとしている。でもそれでは、いつまでたっても大人の心をつかむ小説は書けないわ。公私混同は小説家として御法度よ」
吉武輝子『女人吉屋信子』(文藝春秋社 昭和五十七年十二月 二百七頁)
*
で、ワタシの推論としては~以下論文まんま。
***
パリでの光景は、吉屋に自らが元より厭う「動物的」な「利己主義的」「島国根性」な「家族主義的日本の母性愛」を否定するために好都合なものであり、「理性的でより高い母性愛」を言語化させた。そして「大人の心をつかむ小説」のための妥協案として独自の「母性愛」を多用する「ロマンチック・ラブのハッピーエンド否定」という形を作り出したのではなかろうか。
すなわち自身の作品内においては、
①対外的メッセージ
――a『結婚相手の選定の重要性』
b『妻として夫(決めた相手)への貞淑』
②本音のメッセージ
――a『適切な結婚相手がいなければ未婚のまま仕事(使命)に生きるべき』
b『自ら生んだ愛する人との子供とは幸せになれない』
という二重のメッセージを立てることが、男女恋愛を書かねばならない吉屋にとっての、ぎりぎりの自己防衛ラインだったではなかろうか。
①メッセージは当時の「良妻賢母主義」にも適っているだろう。メッセージ②aは吉屋自身が対談や座談会で必ずと言っていい程問われる「何故結婚しないのですか/これから結婚しないのですか」に対し「結婚しようと思う相手がいなかったから/結婚したい人が居たらする」と答えることに通じている。
そしてまた、その「動物的」な「利己主義的家族主義日本の母性愛」の否定をにじませているからこそ、「家族主義の発展形としての国家主義」を推進する時代においては対象外だと当局からは判断されたのではなかろうか。
***
いや今考えれば、ダブルスタンダードですよ。
生物としての女性を否定しつつ、女性が崇高だと言い続けて、実際好きだったわけだし、彼女自身の立場も「名誉男性」だったんだから。
そうなるための努力そのものには賞賛は惜しまないですがね!
実際一年に四作くらい平行して執筆していて仕事しすぎて内臓壊したり、それでも何かと取材に行ったり、何かとジャーナリズムに貶められたりはしてるんだから。それで家数軒建てて馬主にもなれるほどになったりしているんだから。
で、次で「何でそんな歪んじゃったんかいな」を探してみたわけだ。
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