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11.「普通のひとがどう考えるのか忘れかけてたんじゃない?」

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 部屋に戻ってみると、今川焼きの匂いの中、トモミはまだうずくまり、固まっていた。
 サンダルを脱ぎながら、彼はその時やっと、ぬるぬると汚れた足に気付いた。
 仕方ない、と着ていたTシャツを脱ぐと、足をぬぐい、そのまま洗面所へと直行する。汚れ物を洗濯機の中に放り込むと、寝起きの顔を改めて洗う。

「……ひでえ顔」

 思わず苦笑した。それしかできなかった。正直、トモミ同様、今はこの床の上にべったりと座り込んでしまいたかった。
 だがそれはできない。少なくとも、今は。
 彼は冷たい水でもう一度顔をがしがし、と洗う。洗い晒しのタオルで思い切りぬぐう。

 しゃんとしろしゃんと!

 別のTシャツに着替えると、彼は玄関へと戻り、転がった今川焼きを一つ一つ拾った。
 彼はぱく、とその中の一つを口にした。緑の餡。うぐいすだ。

「……美味い」

 そのまま残りを口に放り込み、がつがつ、と彼はそれを噛みしめる。美味いよ、史香。確かにお前の意見は正しい。

「……先輩」
「もう、大丈夫か?」
「……まだ」
「そうか」

 言いながら彼はゆっくりと彼女に近づき、立てた膝の上をほんの軽く叩く。ゆっくり、ゆっくり、おなじリズムで。
 やがて彼女は耳から手を離した。

「……先輩…… クラセ、廊下、汚れちゃったね」
「ああ。雑巾を持ってきてくれ」

 彼は言いながら、一ヶ所に集めておいた今川焼きを取り上げた。一つ二つ……一つ踏みつぶし、一つ口にした。残っていたのは十。全部で十二。二人でも、三人でも割り切れる数。

「拭いていいの?」

 トモミは問いかける。ああ、と彼は短く答えた。



 数日後、彼はナナに思い切って話してみた。誰か女性に相談したかったのだ。
 理由は幾つかあったが、何よりも彼は、自分がトモミとの「きょうだい」な生活に慣れすぎていたことに気付いたのだ。
 都心ではルームシェアする若者も珍しくはない。だが普通は同性同士か、異性でも恋人か、三人以上の複数である。
 確かにトモミの事情もある。それが最大の理由だった。だが彼にとって大きな理由であっても、人によってはそうではない。だから。

「避けてたんだ、無意識に」

 トモミと史香が顔を合わせる事態を。
 その結果が、手痛い言葉だった。言われることは覚悟していたが、さすがに重い。

「それで、どうするつもり?」 

 ナナは容赦なく彼に問いかけた。

「まだ、考え中です」
「そう長く考える類の問題じゃあないでしょう? 二つに一つ。クラセ君がまだ、彼女と付き合っていたいというなら謝るしかないし、そうじゃなければ自然消滅」
「……謝ろうとは、したんです」
「別れるつもりは無いんだ。どっちも」

 彼はうなづいた。

「それって、虫のいい話だ、とは思わない? 史香さんもトモミちゃんも、両方なんて」
「確かにそうだとは、……思うけど」
「もしあたしが史香さんの立場だったら、やっぱり怒るわよ」

 ぴしゃりと彼女は言う。でも、と言いかけたが、彼女はそれを遮った。

「頼まれた、ってのは判るし、トモミちゃんがああいう子だ、というのも、あたしは判るわよ。けどそれは、あたしがクラセ君、あなたに特別な感情を持ってない女だから」
「……そんなに、嫌ですか?」
「嫌よ」

 すかさず彼女は言葉を投げつけた。

「ねえクラセ君、逆を考えたことはないの? 史香さんは今、一人暮らし?」
「や、お姉さんと二人って」
「それがもし、嘘で、実は同居してるのは男だったら? 女性でも、それが彼女とそう言う仲、だったら? 今の世の中、無い話じゃあないわよ?」

 う、とクラセは息を呑む。……確かに嫌だ。想像は即座に彼に解答を出す。誰か別の男と同じベッドに居る彼女。一緒に生活をしている「姉」とキスを交わす彼女。
 彼は首をふるふると振った。

「嫌でしょ」
「……嫌です」
「ほんとうに、気付かなかったの?」

 黙って彼はうなづいた。本当だ。どうして自分はそういうことを考えてもみなかったのだろう。想像力の枯渇もいいところだ。

「ねえ、あなた達、離れて暮らした方がいいんじゃない?」

 慌てて彼は問い返した。

「ナナさん? それって、俺と……」
「そう。トモミちゃん」
「だけどあいつは俺が居ないと」
「でも生活が、全くできない訳じゃあないでしょ?」
「それは」

 確かにそうだ。彼は思う。彼女はそのコンピュータの様な記憶力と演算力で、日々の雑事を処理することはできる。ただその計算外のことが起こるとパニックを起こすだけで。

「確かに問題は起こるかもしれないわ。でもとにかくトモミちゃんを外で守るはずのあなたが、取り込まれてしまってどうするの?」
「俺が?」
「そう。クラセ君、あんまりトモミちゃんの立場で考えすぎて、普通のひとがどう考えるのか、忘れかけてたんじゃない?」

 あ、と彼は目を大きく開いた。

「……そうかも…… しれない……」
「それじゃあ共倒れよ」

 ナナは両手を広げ、首を大きく振った。ウェービーな髪が、背中で大きく揺れた。

「それにトモミちゃんのためにもならない」
「あいつのためにも?」
「一生あなたが、一緒に住んでいるの? 結婚でもしない限り、それは無理でしょう?」
「……結婚……?」

 意外な単語だった。

「男女がずっと一緒に暮らしていくなら。少なくとも、世間の大多数はそうよ。ずっと、という保証が欲しいなら」
「……それはできない。俺はあいつをそういう目では見られない」
「じゃあ史香さんなら、いいの?」
「……や、まだそんな、考えたこと……」
「無いんでしょう?」

 ナナは決めつけた。そして無いのね、と止めを指す様に付け加えた。

「いいのよ別に。あたしだって別に、ノセと結婚とか、今考えてないもの。あいつとまだ、一生一緒に居よう、とか思えないもの。だけどクラセ君、あなたが一生一緒に居たいのは、もう決まってるんじゃないの?」

 彼は口をぱくぱく、と動かした。どうしても、上手く言葉が出て来なかった。一生。その言葉は重かった。
 史香の側に誰かが居る。それは嫌だった。
 だがトモミの側に、自分以外の誰かが居る図は―――

 ……考えつかなかった。



 店から出た時には、既に電車の本数も少なくなる時間だった。だがホームで待つ人々の数は多かった。ああそうか。彼は思う。今日は金曜日だ。
 季節は春。また春がやってきていた。
 年末とは違った意味で、春は宴会のシーズンだ。それが終わればゴールデンウイークだ。そしてそれが明けたら……
 そう、そんな時期だった。トモミに初めて会ったのは。その頃は、こんな暮らしをする様になるとは、これっぽっちも思っていなかった。自分だけではない。周囲の誰もが。
 故郷の家族は、彼が現在どういう暮らしをしているのか知らない。「知り合いのマンションに転がり込んだ」とは告げたが、それ以上でもそれ以下でもない。
 もしあの時、自分のパートにあいつを入れなかったら? だがそれは、しても仕方が無い仮定である。
 過ぎてしまった時間は戻せない。それに、あの時の自分が断るとも考えにくい。
 そしてあの父親。今はもう亡い父親は。
 まるで自分の死を予測していたかの様に、用意周到だった、あの父親は。
 彼は…… この様なことになることを知っていたのだろうか? そもそも、本当に彼は死んだのだろうか?
 いやいや、と彼はぶるん、と首を横に振る。確かにあの時、確認されたのだ。遺留品で……

 『だけど遺体そのものを鑑定された訳じゃない』

 彼はふと浮かんだその考えにぞく、とした。
 何故今頃、そんなことを思うのだろう?
 判ってる。自分があの頃、思い描いた未来と、今があまりにもかけ離れてしまったことに気付いてしまったからだ。確かにあの頃、自分はバンドをやりたかった。だがプロ志望になるとは思っていなかった。工業高校を出たら、高校推薦で地元の企業に勤めて、バンドは趣味でする程度だろう、と―――

 それが一体何処で。どうして俺は。

 ぐらり、と眩暈が彼を襲った。一度に、それまで考えようとしなかったことが襲いかかってきたのだ。足元が、どうしてこんなにおぼつかないんだろう。座り込んでしまおう、と思った。
 眠気が襲ってくる。駄目だ、今は。だけど眠い。妙に眠い。まずいとは思いつつ。

「ちょっと待ってよぉ!」

 ばたばたと、彼の横を少女達が駆け抜けて行く。鮮やかな、原色のかたまり。無邪気で、知識は無くても知恵はある様な。

「前の方が、後の乗り継ぎいいの!」
「だから待ってってばーっ」

 ぱたぱたぱた。かつかつかつ。倉瀬の中で、それはエレベーターに向かう史香の靴音とだぶる。待って。待ってくれ。だけど眠くて。身体を支えているのがやっとで。

「あっ! 痛ーっ!」
「あっ」

 高い、厚いかかとの靴を履いた少女の一人と、赤らんだ顔のサラリーマンがぶつかった。ホームにはアナウンス。「白線の内側にお下がり下さい……」

「どしたの」
「足くじいたーっ! ちょっと待ってーっ」

 やれやれ仕方が無いなあ、とサラリーマンはひょい、とカバンを右から左に持ち変えた。そのカバンに、軽い衝撃があったことに、彼は気付かなかった。

 ―――列車は急停止した。
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