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7 貴宮、真相を話す――― 普通とは何と素晴らしい!
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「…あの、…すみません、お待たせして」
「いやいや、前触れも出さずに来たんだから仕方が無い。それに聞きたいのは少しだけなんだ」
「何でしょう」
仲忠は表情を引き締める。
「先日の話… 覚えているかい?」
「…ええ」
仲忠はそう言うと、女房を側に呼び、何やら指示をする。
やがて御簾の奥で動く気配がする。女一宮を下がらせたのだろう。身籠もっている妻には聞かせたくない話だろう。
「私はあれから、当時仲純についていたという女房に会って話をした」
「はい」
「色々聞いた… が、その女房… 衛門というのだが、彼女は君に会いに行ったと言う」
「はい」
仲忠は静かにうなづく。
「否定しないのか?」
「本当のことですから」
さらりと返す。
「彼女は最後に仲純さんに文を出したのは僕か、と聞いてきた。だから僕は違う、と答えました。それだけです」
「違うのか」
「違います。僕ではない。誓って僕ではありません」
「それでは一体…」
祐純は唇を噛む。
「ただ」
仲忠はぼそ、とつぶやく。
「心当たりはあります」
「え」
祐純は腰を浮かせた。
*
「お待たせしました」
兵衛の君が祐純の前に現れたのは、既に日が沈みつつある頃だった。
「このまま夜になってしまうのかと思ったよ」
「本当に申しわけございません。急に東宮さまがお出でで…」
「こういうことは、しばしばあるのかい?」
兵衛は黙った。口元だけにようやく笑みを作る。
どうやらしばしばある様だ、と彼は推測する。夜は夜で貴宮を召し、昼は昼で暇があれば藤壺にばかりやって来る。
「御方もなかなかそれではお疲れだろう」
兵衛はそれにも苦しそうな笑みを浮かべたまま、答えない。
「すまない。君を困らせるつもりではないのだ」
「いえ…」
彼女は口ごもり、扇で顔を半分隠す。
年は貴宮より少し上だが、声のせいか、可愛らしい印象を受ける。
「私に御用とは」
その声が、唐突に問いかける。
「御方さまでは無く私なのですか」
「…あ? ああ」
彼女はしばらく黙って祐純を眺める。それは姫君では有り得ない程の不躾な視線だった。
「―――実は、仲純が最後に受け取った文の主を探している」
はっ、と息を呑む音。
「当初は仲忠かと思った。彼は本当に仲純を好いていたし、実際、側に彼一人居れば、女性はとりあえずどっちでも、と思う気持ちも判らないでもないからね」
「そうですね。あの方は本当に素晴らしい方ですわ」
「でも彼は、できれば自分は仲純になりたかった、と言うんだよ」
「…え?」
兵衛は問い返す。
「どういう意味でしょう」
「そうだね、少し言葉が足りなかったか。仲忠は、仲純になって――― つまり、貴宮の兄になりたかった、て言うんだ」
「仲忠さまが」
兵衛は視線を床に落とす。
「それでね」
祐純は彼女から目を離さずに言う。
「仲忠のそんな言葉を聞いて、仲純はこう言ったそうだ。自分は仲忠になりたかった、と」
びく、と彼女の肩が震えた。
「ねえ兵衛の君。それは一体どういう意味だと思う?」
「…わ …私には判りかねます」
「そうかな。仲忠はね、兄として、貴宮に琴の琴を教えたかった、って言うんだ」
「まあ」
「本当に間近で教えられるあの立場は本当に羨ましかった、って。貴宮なら難しい琴の琴を、彼の手をも伝えられるのに、と残念がっていた」
「それをお聞きになったら、御方さまは大変お喜びになると思いますわ」
微かに声が震えている。
「そうだね。私もそこまで言われる貴宮が羨ましいくらいだよ。だから、仲純も彼の琴の琴の腕を羨ましがって言ったのかな?」
「…」
「それとも」
扇の後ろの唇も震える。
「彼がきょうだいではないことに」
「お止め下さい!」
ばさ。
扇が落ちる。
支えていた両手で耳を塞ぎ。
彼女はくっ、と前に倒れ込む。
祐純は慌てて腰を浮かす。その身体を支える。裳がふわりと袖に絡む。
「全て私が悪いのです…」
*
「私が仲純さまの元へと御文をお届けしました」
「御文を?」
文を、ではなく。
「はい」
「では、…」
「もうそれ以上、おっしゃらないで下さい」
兵衛はそう言ってうつむく。
「兄上、兵衛をそれ以上虐めないで下さいませ」
奥から凛とした声が聞こえて来る。
「御方さま!」
「貴宮?」
「二人とも、こちらへ」
別の女性の声がする。
「孫王さん」
「祐純さま、兵衛さん、御方さまがお呼びです。どうぞこちらへ」
二人は幾つかの几帳を廻り、貴宮の前へと進む。
座所の周囲は几帳で狭く厳しく囲われていたが、帳は下半分だけ開かれていた。
「孫王さんだけ? 今居るのは」
「ええ」
貴宮のもう一人の腹心の女房である。他の者は皆、人払いさせてあるという。
祐純は一礼して用意された円座に座る。
両側に兵衛と孫王を控えさせた彼女は、兄に正面から対峙した。
「兵衛を責めないで下さい、兄上。全ては私が悪いのです」
貴宮は淡々とそう言った。
「それでは仲純があなたのことを思っていたのは本当なのだね」
はい、と彼女ははっきり答える。
「何故彼はその様な…」
「判りません」
即座に答えは返る。
「もうずっと以前からでした。お兄様は私が裳着を済ませても、しばらくの間は楽器を教えに一緒に居ることが多かったのです。私は本当にお兄様のことは好きでした。けど」
「けど?」
祐純は問い返す。
「何時からでしょうか。その言葉の端々に、苦しそうな訴えが紛れ込んできたのは」
「御方さまは、何も悪くありません」
兵衛が口を挟む。
「それより、御方さまより年上で、仲純さまの御様子の変化も判っていて然るべきだったのに、何もしなかった私が悪いのです」
いや、と祐純は兵衛を制する。
「同母の妹を恋うて居るなどということは、考えもつかなかったのだろう。それは仕方の無いことだろう」
異母ならいいのだ。まだ。
周囲に良い顔はされないかもしれないが、禁忌とまではいかない。
しかし同じ大宮を母とする二人である。それは許されない。
「祐純さま、無礼を承知で申し上げます。御方さまは、仲純さまには、いつもいつも毅然とした態度をお取りになっておりました。…亡くなった方のことをこう申し上げるのも何ですが、…仲純さまのお言葉で、御方さまはいつもお困りでした」
「それは」
「確かに御方さま程の女性を間近に御覧になる日々があれば、心惑いが起こっても仕方が無いかと存じます。しかしそこは、心の中一つに留めておくべきでは無かったのでしょうか!…」
「もういい、兵衛」
貴宮はつふやく様に言う。
「兵衛が悪いのではない。そして私も自分にどんな落ち度があったのか判らないのです」
「それは――― あなたがあまりにも」
「高貴で美しかった、とでもおっしゃるのですか? 兄上」
そうです、とは決して言わせない様な気迫がそこにはあった。
「そんなもの!」
貴宮は立ち上がる。はっ、と女房達が息を呑む気配がする。
彼女は自らの手で、帳を一気に上げる。
姿が露わになる。
「兄上! この私の、何処が一体そうだというのですか?」
祐純も、女房二人も、貴宮の突然の行動に唖然とする。
自らの顔を露わにするなど、たとえ兄であってもある程度の歳以上ではならぬことなのだ。
祐純は彼女を真っ向が見る。
美しいとは思う。気品もある。
だがそれ以上のものは――― 感じられない。少なくとも、仲純の持った様な恋情を感じることはできない。
彼女は東宮の妻であると同時に――― 妹であるから。同じ腹から生まれた妹だから。
いくら美しくとも。
「私はそんなものではありません」
きっぱりと貴宮は言う。
「私はただ源正頼の娘として生まれただけです」
「しかしあなたの楽の才は」
「入道してしまった仲頼どのの奥方は、とても美しい方という評判でした。楽器の方も夫君に学ぶことで非常に上達したそうです。しかしそれが噂になることは滅多にございませんでした。何故でしょう?」
それは。祐純は言葉に詰まる。
「宰相どのの奥方にしたところで同じです。たまたまあの方々は、腕を疲労する機会を与えられなかった。評判になることができなかったのです。それは何故でしょう?」
「彼女達が、父上の娘ではなかったから…」
「そうです」
彼女は大きくうなづいた。
「上野の太守の宮は私の身代わりを本物と信じ込んで満足しました。私はその時、自分が自分である必要など無いのだ、と思いました」
「そんなこと」
「空しくなりました」
あ、と祐純は言葉を無くした。
「仲純のお兄様は」
言葉の調子が落ちる。
「一番私を愛してくれたのでしょう。おそらく、他の誰よりも。だけどそれは持ってはならぬ思いです。だから私は撥ね付けました。それ以外私に何ができたというのですか?」
涙が。
気が付くと、その美しい顔を涙が伝っていた。そのままその場に貴宮は崩れ落ちる。慌てて兵衛が側に寄る。
こんなことまで言わせるつもりではなかった。祐純は思う。
だがその一方で、それは彼女がずっと言いたかったことなのだろうとも。
「実は、東宮さまが、御方がずっと沈み込まれているということで心配なさっていた」
「東宮さまが」
「それは仲純のことで」
「それも… あります」
涙を袖でぬぐいながらも、彼女は気丈に返す。
「でも今の私の心配ごとはそこでは無いのです」
「では」
他に何があるというのだろう。祐純は不思議に思う。東宮からそれほど愛されているというのに。
「私はお兄様から逃げるために入内を承諾しました」
「え」
「私に求婚してきた方々の、どなたと結婚しようと、お兄様は私のことをあきらめないでしょう」
「そんなことは」
言いかけて、祐純は止まる。
同腹の妹と判っていても恋せずにはいられなかったなら、人妻であることなど何の障害であろうか。
「ですから東宮さまからのお話を受けることにしました」
あからさまに東宮にだけ文を送る様になったのは、その意志のあらわれか。
「入内の日、お兄様が気を失ったと聞いて、…亡くなられるのも嫌だったし、入内が出来なくなるのも嫌でした。だから」
「だから… 兵衛に文を送らせた?」
「ええ」
兵衛がそこで口を開く。
「阿闍梨がおいでになった時、皆さん一瞬居なくなりましたから、その時私、仲純さまの手に御文を入れて、貴宮さまのお名前を腕に書いたのです」
「それがちょうど阿闍梨の到着と」
「同時に息を吹き返されたのです」
何だ、と祐純は思う。
「だから東宮さまが実際の私に会って、失望するといい、と思ったのです。ところが」
「そうではなかった、と」
「ええ」
噂に聞いている。片時も離そうとしないと。
「いつもいつも、申しわけない気持ちで一杯でした。そんな時に、お兄様から文が来たのです。…文字はもう乱れに乱れていました。私はやはり返しには、妹だということを強調しました。お兄様にはいい加減、目を覚ましていただきたかったのです。でも…」
「それが最後の文だと」
貴宮はうなづく。
「御方さまをお責めにならないで下さいませ、祐純さま」
兵衛は祐純の前に深く頭を下げる。
「それからすぐにお亡くなりになったとお聞きになり、御方さまは御退出なさろうと東宮さまに必死でお頼みになったのです」
「止して兵衛」
貴宮は忠実な乳姉妹を制する。
「これは天罰だと思いました。お兄様の気持ちをかわすために東宮さまを利用した私への」
「それでは御方は、東宮さまのことは何とも思っておられではないのですか」
祐純は問いかける。いいえ、と貴宮は首を横に振る。
「そんなことはありません。いえ、生身の私を誰よりも知っている方として――― お慕いしております。だからこそ、…あの方の好意が、時々辛くなって―――」
その様子が不機嫌に見えてしまうのだ、と。
「全てが嫌になるのです。今こうやって東宮さまに愛されている自分が、お兄様の死の上に成り立っていると考えると…」
「そうでしたか…」
そのまま貴宮は堰を切った様に泣き崩れる。祐純は兵衛と孫王にその後を頼むと、藤壺から退出した。
*
「東宮さま」
梨壺へと向かう渡殿の途中で、扇で顔を隠した東宮が居た。それもたった一人で。
思わず控えようとしたら、いい、と手で制された。
そのまま祐純は梨壺へと導かれる。先日同様、人払いをさせたまま、差し向かいに。
「実際に気持ちを聞くのが一番だと思っての」
「だ、だからって、我々の話を…」
「さて」
ふわふわと扇を揺らす。
「わしはあれ程、あのはっきり物を言う藤壺が好きなのだがな」
「…は…」
はっきりと自己主張をするのは、およそ姫君らしい行動ではないのだが。
「まああれは憂さ晴らしなのだろうな」
「憂さ晴らし?」
「そう、憂さ晴らし。どうにもならない気持ちだが私にどうすることもできないから、苛立つのだろうな。…母上もよくそんなことがあったらしい」
「中宮さまが」
「まあそれは内緒だ」
にっ、と東宮は笑う。
「ともかくわしはもう少し様子を見よう。何と言っても、わしはあれには弱いのだ」
はっはっは、と東宮は笑った。
*
「嘘つき」
三条殿では、この日も仲忠手製の夕餉を女一宮が食べさせてもらっているところだった。
「何が嘘つき?」
はい、あーん、と仲忠は汁をすくって女一宮に差し出す。んー、と口に含み、飲み込んで「美味しい」、と感想を言う。
だがそれで誤魔化されはしない。
「あなた、祐純おじさまが東宮さまに呼ばれた時から伺ってたでしょ」
「だから何を?」
「仲純おじさまのこと!」
すると仲忠は周囲の女房に、席を外す様に言った。
「駄目駄目、そんな大きな声で言っちゃ」
「じゃあ、やっぱりそのことだったのね」
「まあね」
「さっき祐純おじさま戻ってきたんですって。晴れ晴れとした顔だった、って聞いたわ」
「なら良かった」
「あなたまだ、貴宮のことが心配なんでしょ」
「まあね。貴宮は、僕と良く似ていたから」
どういうこと? と女一宮は小首を傾げる。
「宮がこうやって僕を見てくれる様に、今近くに、生身の自分を愛してくれる人がちゃんと居るということを、貴宮にも思い出して欲しかったの」
「そうだったの。孫王が時々文をあなたに送って来るから、何だと思ってたわ」
「あ、心配した?」
「…するもんですか!」
だから僕は宮が大好きなんだ、と仲忠はふわりと彼女を抱きしめた。
夕餉はどうしたの、と女一宮は悪態をつきつつも、それでも拒みはしなかった。
*
「ただいま」
祐純はいつも様に三条殿へ戻る。
二人の子と妻が自分を迎える。
それは何って簡単で、何って大切なことなんだろう、と彼は思った。
「どうなさったの? あなた」
「いや、何でもない」
「最近少しお疲れの様だったから…」
ああ、気にしていてくれたのか、と改めて気付く。生きてそこで自分のことを純粋に気に掛けてくれるひとのことを。
今度久々に、ゆっくりとした時間を取ろう、と祐純は思った。
「いやいや、前触れも出さずに来たんだから仕方が無い。それに聞きたいのは少しだけなんだ」
「何でしょう」
仲忠は表情を引き締める。
「先日の話… 覚えているかい?」
「…ええ」
仲忠はそう言うと、女房を側に呼び、何やら指示をする。
やがて御簾の奥で動く気配がする。女一宮を下がらせたのだろう。身籠もっている妻には聞かせたくない話だろう。
「私はあれから、当時仲純についていたという女房に会って話をした」
「はい」
「色々聞いた… が、その女房… 衛門というのだが、彼女は君に会いに行ったと言う」
「はい」
仲忠は静かにうなづく。
「否定しないのか?」
「本当のことですから」
さらりと返す。
「彼女は最後に仲純さんに文を出したのは僕か、と聞いてきた。だから僕は違う、と答えました。それだけです」
「違うのか」
「違います。僕ではない。誓って僕ではありません」
「それでは一体…」
祐純は唇を噛む。
「ただ」
仲忠はぼそ、とつぶやく。
「心当たりはあります」
「え」
祐純は腰を浮かせた。
*
「お待たせしました」
兵衛の君が祐純の前に現れたのは、既に日が沈みつつある頃だった。
「このまま夜になってしまうのかと思ったよ」
「本当に申しわけございません。急に東宮さまがお出でで…」
「こういうことは、しばしばあるのかい?」
兵衛は黙った。口元だけにようやく笑みを作る。
どうやらしばしばある様だ、と彼は推測する。夜は夜で貴宮を召し、昼は昼で暇があれば藤壺にばかりやって来る。
「御方もなかなかそれではお疲れだろう」
兵衛はそれにも苦しそうな笑みを浮かべたまま、答えない。
「すまない。君を困らせるつもりではないのだ」
「いえ…」
彼女は口ごもり、扇で顔を半分隠す。
年は貴宮より少し上だが、声のせいか、可愛らしい印象を受ける。
「私に御用とは」
その声が、唐突に問いかける。
「御方さまでは無く私なのですか」
「…あ? ああ」
彼女はしばらく黙って祐純を眺める。それは姫君では有り得ない程の不躾な視線だった。
「―――実は、仲純が最後に受け取った文の主を探している」
はっ、と息を呑む音。
「当初は仲忠かと思った。彼は本当に仲純を好いていたし、実際、側に彼一人居れば、女性はとりあえずどっちでも、と思う気持ちも判らないでもないからね」
「そうですね。あの方は本当に素晴らしい方ですわ」
「でも彼は、できれば自分は仲純になりたかった、と言うんだよ」
「…え?」
兵衛は問い返す。
「どういう意味でしょう」
「そうだね、少し言葉が足りなかったか。仲忠は、仲純になって――― つまり、貴宮の兄になりたかった、て言うんだ」
「仲忠さまが」
兵衛は視線を床に落とす。
「それでね」
祐純は彼女から目を離さずに言う。
「仲忠のそんな言葉を聞いて、仲純はこう言ったそうだ。自分は仲忠になりたかった、と」
びく、と彼女の肩が震えた。
「ねえ兵衛の君。それは一体どういう意味だと思う?」
「…わ …私には判りかねます」
「そうかな。仲忠はね、兄として、貴宮に琴の琴を教えたかった、って言うんだ」
「まあ」
「本当に間近で教えられるあの立場は本当に羨ましかった、って。貴宮なら難しい琴の琴を、彼の手をも伝えられるのに、と残念がっていた」
「それをお聞きになったら、御方さまは大変お喜びになると思いますわ」
微かに声が震えている。
「そうだね。私もそこまで言われる貴宮が羨ましいくらいだよ。だから、仲純も彼の琴の琴の腕を羨ましがって言ったのかな?」
「…」
「それとも」
扇の後ろの唇も震える。
「彼がきょうだいではないことに」
「お止め下さい!」
ばさ。
扇が落ちる。
支えていた両手で耳を塞ぎ。
彼女はくっ、と前に倒れ込む。
祐純は慌てて腰を浮かす。その身体を支える。裳がふわりと袖に絡む。
「全て私が悪いのです…」
*
「私が仲純さまの元へと御文をお届けしました」
「御文を?」
文を、ではなく。
「はい」
「では、…」
「もうそれ以上、おっしゃらないで下さい」
兵衛はそう言ってうつむく。
「兄上、兵衛をそれ以上虐めないで下さいませ」
奥から凛とした声が聞こえて来る。
「御方さま!」
「貴宮?」
「二人とも、こちらへ」
別の女性の声がする。
「孫王さん」
「祐純さま、兵衛さん、御方さまがお呼びです。どうぞこちらへ」
二人は幾つかの几帳を廻り、貴宮の前へと進む。
座所の周囲は几帳で狭く厳しく囲われていたが、帳は下半分だけ開かれていた。
「孫王さんだけ? 今居るのは」
「ええ」
貴宮のもう一人の腹心の女房である。他の者は皆、人払いさせてあるという。
祐純は一礼して用意された円座に座る。
両側に兵衛と孫王を控えさせた彼女は、兄に正面から対峙した。
「兵衛を責めないで下さい、兄上。全ては私が悪いのです」
貴宮は淡々とそう言った。
「それでは仲純があなたのことを思っていたのは本当なのだね」
はい、と彼女ははっきり答える。
「何故彼はその様な…」
「判りません」
即座に答えは返る。
「もうずっと以前からでした。お兄様は私が裳着を済ませても、しばらくの間は楽器を教えに一緒に居ることが多かったのです。私は本当にお兄様のことは好きでした。けど」
「けど?」
祐純は問い返す。
「何時からでしょうか。その言葉の端々に、苦しそうな訴えが紛れ込んできたのは」
「御方さまは、何も悪くありません」
兵衛が口を挟む。
「それより、御方さまより年上で、仲純さまの御様子の変化も判っていて然るべきだったのに、何もしなかった私が悪いのです」
いや、と祐純は兵衛を制する。
「同母の妹を恋うて居るなどということは、考えもつかなかったのだろう。それは仕方の無いことだろう」
異母ならいいのだ。まだ。
周囲に良い顔はされないかもしれないが、禁忌とまではいかない。
しかし同じ大宮を母とする二人である。それは許されない。
「祐純さま、無礼を承知で申し上げます。御方さまは、仲純さまには、いつもいつも毅然とした態度をお取りになっておりました。…亡くなった方のことをこう申し上げるのも何ですが、…仲純さまのお言葉で、御方さまはいつもお困りでした」
「それは」
「確かに御方さま程の女性を間近に御覧になる日々があれば、心惑いが起こっても仕方が無いかと存じます。しかしそこは、心の中一つに留めておくべきでは無かったのでしょうか!…」
「もういい、兵衛」
貴宮はつふやく様に言う。
「兵衛が悪いのではない。そして私も自分にどんな落ち度があったのか判らないのです」
「それは――― あなたがあまりにも」
「高貴で美しかった、とでもおっしゃるのですか? 兄上」
そうです、とは決して言わせない様な気迫がそこにはあった。
「そんなもの!」
貴宮は立ち上がる。はっ、と女房達が息を呑む気配がする。
彼女は自らの手で、帳を一気に上げる。
姿が露わになる。
「兄上! この私の、何処が一体そうだというのですか?」
祐純も、女房二人も、貴宮の突然の行動に唖然とする。
自らの顔を露わにするなど、たとえ兄であってもある程度の歳以上ではならぬことなのだ。
祐純は彼女を真っ向が見る。
美しいとは思う。気品もある。
だがそれ以上のものは――― 感じられない。少なくとも、仲純の持った様な恋情を感じることはできない。
彼女は東宮の妻であると同時に――― 妹であるから。同じ腹から生まれた妹だから。
いくら美しくとも。
「私はそんなものではありません」
きっぱりと貴宮は言う。
「私はただ源正頼の娘として生まれただけです」
「しかしあなたの楽の才は」
「入道してしまった仲頼どのの奥方は、とても美しい方という評判でした。楽器の方も夫君に学ぶことで非常に上達したそうです。しかしそれが噂になることは滅多にございませんでした。何故でしょう?」
それは。祐純は言葉に詰まる。
「宰相どのの奥方にしたところで同じです。たまたまあの方々は、腕を疲労する機会を与えられなかった。評判になることができなかったのです。それは何故でしょう?」
「彼女達が、父上の娘ではなかったから…」
「そうです」
彼女は大きくうなづいた。
「上野の太守の宮は私の身代わりを本物と信じ込んで満足しました。私はその時、自分が自分である必要など無いのだ、と思いました」
「そんなこと」
「空しくなりました」
あ、と祐純は言葉を無くした。
「仲純のお兄様は」
言葉の調子が落ちる。
「一番私を愛してくれたのでしょう。おそらく、他の誰よりも。だけどそれは持ってはならぬ思いです。だから私は撥ね付けました。それ以外私に何ができたというのですか?」
涙が。
気が付くと、その美しい顔を涙が伝っていた。そのままその場に貴宮は崩れ落ちる。慌てて兵衛が側に寄る。
こんなことまで言わせるつもりではなかった。祐純は思う。
だがその一方で、それは彼女がずっと言いたかったことなのだろうとも。
「実は、東宮さまが、御方がずっと沈み込まれているということで心配なさっていた」
「東宮さまが」
「それは仲純のことで」
「それも… あります」
涙を袖でぬぐいながらも、彼女は気丈に返す。
「でも今の私の心配ごとはそこでは無いのです」
「では」
他に何があるというのだろう。祐純は不思議に思う。東宮からそれほど愛されているというのに。
「私はお兄様から逃げるために入内を承諾しました」
「え」
「私に求婚してきた方々の、どなたと結婚しようと、お兄様は私のことをあきらめないでしょう」
「そんなことは」
言いかけて、祐純は止まる。
同腹の妹と判っていても恋せずにはいられなかったなら、人妻であることなど何の障害であろうか。
「ですから東宮さまからのお話を受けることにしました」
あからさまに東宮にだけ文を送る様になったのは、その意志のあらわれか。
「入内の日、お兄様が気を失ったと聞いて、…亡くなられるのも嫌だったし、入内が出来なくなるのも嫌でした。だから」
「だから… 兵衛に文を送らせた?」
「ええ」
兵衛がそこで口を開く。
「阿闍梨がおいでになった時、皆さん一瞬居なくなりましたから、その時私、仲純さまの手に御文を入れて、貴宮さまのお名前を腕に書いたのです」
「それがちょうど阿闍梨の到着と」
「同時に息を吹き返されたのです」
何だ、と祐純は思う。
「だから東宮さまが実際の私に会って、失望するといい、と思ったのです。ところが」
「そうではなかった、と」
「ええ」
噂に聞いている。片時も離そうとしないと。
「いつもいつも、申しわけない気持ちで一杯でした。そんな時に、お兄様から文が来たのです。…文字はもう乱れに乱れていました。私はやはり返しには、妹だということを強調しました。お兄様にはいい加減、目を覚ましていただきたかったのです。でも…」
「それが最後の文だと」
貴宮はうなづく。
「御方さまをお責めにならないで下さいませ、祐純さま」
兵衛は祐純の前に深く頭を下げる。
「それからすぐにお亡くなりになったとお聞きになり、御方さまは御退出なさろうと東宮さまに必死でお頼みになったのです」
「止して兵衛」
貴宮は忠実な乳姉妹を制する。
「これは天罰だと思いました。お兄様の気持ちをかわすために東宮さまを利用した私への」
「それでは御方は、東宮さまのことは何とも思っておられではないのですか」
祐純は問いかける。いいえ、と貴宮は首を横に振る。
「そんなことはありません。いえ、生身の私を誰よりも知っている方として――― お慕いしております。だからこそ、…あの方の好意が、時々辛くなって―――」
その様子が不機嫌に見えてしまうのだ、と。
「全てが嫌になるのです。今こうやって東宮さまに愛されている自分が、お兄様の死の上に成り立っていると考えると…」
「そうでしたか…」
そのまま貴宮は堰を切った様に泣き崩れる。祐純は兵衛と孫王にその後を頼むと、藤壺から退出した。
*
「東宮さま」
梨壺へと向かう渡殿の途中で、扇で顔を隠した東宮が居た。それもたった一人で。
思わず控えようとしたら、いい、と手で制された。
そのまま祐純は梨壺へと導かれる。先日同様、人払いをさせたまま、差し向かいに。
「実際に気持ちを聞くのが一番だと思っての」
「だ、だからって、我々の話を…」
「さて」
ふわふわと扇を揺らす。
「わしはあれ程、あのはっきり物を言う藤壺が好きなのだがな」
「…は…」
はっきりと自己主張をするのは、およそ姫君らしい行動ではないのだが。
「まああれは憂さ晴らしなのだろうな」
「憂さ晴らし?」
「そう、憂さ晴らし。どうにもならない気持ちだが私にどうすることもできないから、苛立つのだろうな。…母上もよくそんなことがあったらしい」
「中宮さまが」
「まあそれは内緒だ」
にっ、と東宮は笑う。
「ともかくわしはもう少し様子を見よう。何と言っても、わしはあれには弱いのだ」
はっはっは、と東宮は笑った。
*
「嘘つき」
三条殿では、この日も仲忠手製の夕餉を女一宮が食べさせてもらっているところだった。
「何が嘘つき?」
はい、あーん、と仲忠は汁をすくって女一宮に差し出す。んー、と口に含み、飲み込んで「美味しい」、と感想を言う。
だがそれで誤魔化されはしない。
「あなた、祐純おじさまが東宮さまに呼ばれた時から伺ってたでしょ」
「だから何を?」
「仲純おじさまのこと!」
すると仲忠は周囲の女房に、席を外す様に言った。
「駄目駄目、そんな大きな声で言っちゃ」
「じゃあ、やっぱりそのことだったのね」
「まあね」
「さっき祐純おじさま戻ってきたんですって。晴れ晴れとした顔だった、って聞いたわ」
「なら良かった」
「あなたまだ、貴宮のことが心配なんでしょ」
「まあね。貴宮は、僕と良く似ていたから」
どういうこと? と女一宮は小首を傾げる。
「宮がこうやって僕を見てくれる様に、今近くに、生身の自分を愛してくれる人がちゃんと居るということを、貴宮にも思い出して欲しかったの」
「そうだったの。孫王が時々文をあなたに送って来るから、何だと思ってたわ」
「あ、心配した?」
「…するもんですか!」
だから僕は宮が大好きなんだ、と仲忠はふわりと彼女を抱きしめた。
夕餉はどうしたの、と女一宮は悪態をつきつつも、それでも拒みはしなかった。
*
「ただいま」
祐純はいつも様に三条殿へ戻る。
二人の子と妻が自分を迎える。
それは何って簡単で、何って大切なことなんだろう、と彼は思った。
「どうなさったの? あなた」
「いや、何でもない」
「最近少しお疲れの様だったから…」
ああ、気にしていてくれたのか、と改めて気付く。生きてそこで自分のことを純粋に気に掛けてくれるひとのことを。
今度久々に、ゆっくりとした時間を取ろう、と祐純は思った。
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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