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55 今までありがとう、僕は知っていた。

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 声を上げながら、僕の頭の半分は、バンドに入ってからのことを色々思い出していた。
 どうしてそんな風に、浮かぶのか、よく判らなかった。
 でも確かに、それは楽しいことだった。
 楽しいことの方が多かった。
 歌うことは楽しかった。
 メイクをして、派手な服を着て、それまでの自分とは違う自分で、人前に立つのも楽しかった。
 絶対できないって。
 そんな、人前で、自分の男に、キスしたりするなんてことは。
 夏の暑い日の、冷房の壊れたスタジオ、どうしようも無く暑くて、だらだらと汗を流しながら、それでも時々廊下に避難したりして、それでも割引にしてくれた時にはケンショーは喜んだ。
 この男は本当におかしい。
 どうしてそんなところに妙に細かいんだろ。
 オズさんの友達の紗里さんにはやっぱり結局顔を合わせることもなかったけど、料理は上手い人のようだ。
 だって、時々オズさんが集まった時に作ってくれるつまみは、結構紗里さんから教わったものだっていうもの。
 結局ナカヤマさんとは平行線のままだった。もっとちゃんと話してみたかったな。

 ……話してみたかった。

 過去形に、なってる。
 思わず、目を開ける。
 最初に彼を誘った時の様に、窓からは月の光が入り込んでいる。
 天井の板の目が見える程に。
 ああああああ、と自分の喉が発する声が他人事のようだった。
 ぐらぐらと頭を振って、慣れた、鋭い、どきどきする、そんな快感に落ちていきそうな感じを覚えながら、もう一人の僕は、その月の光と同じくらいに冷えていた。



 ゆっくりと、毛布の中から、這い出す。
 掛けられている腕をそっと外す。
 目を覚まさせてはいけない。
 明け方の弱い光が、窓から射し込んでいる。
 この部屋は、南東だから、日が昇ると一気に光が差し込んでくるだろう。
 そうすると、奴も目を覚ますかもしれない。
 ほら何だかんだ言って、こいつの何処かが真面目だから。
 でも、それまでは、起こしてはいけない。
 ぽろん、と頭の中で、ピアノの音が鳴っている。
 どうしてなのか、判らない。
 カナイのことを思い出してたせいだろうか。
 あの時のピアノの音が、耳について離れない。
 あの時のベーシストは、亡くなったというひととどういう関係だったのかは判らない。
 だけど、その音は、確かに、そのひとを思っているというのが判って。
 カナイの歌には、ケンショーのギターには、きっとコンノさんの声もそうなんだろう。
 そして僕の中には、何も無いから。
 僕は、ケンショーが、メジャーに行くというなら、もう、このバンドで歌うことは、できない。
 だって、ケンショーが必要なのは、声だから。
 きっと彼は、僕がその場所に合わないと思ったら、容赦なく、次の声を探すだろうから。
 彼は、そういうひとだから。
 のよりさんの声が頭に響く。
 仕方がないくらいに、彼は、そういう人だから。
 弱い光を頼りに、僕は流しで濡らしたタオルで軽く身体を拭くと、それを洗濯のかごに畳んで入れた。
 服を身につけると、カバンを取り出した。
 財布はある。
 スケッチブックはどうしよう。カードとか、通帳とか、そんな細々したものは、全部この中にいつも放り込んでいた。
 何か他に、大切なものなんてあっただろうか。
 大げさな荷物なんて、作れない。
 そして僕は、スケッチブックの一枚をそっと引き裂くと、その上に4Bの鉛筆で、書いた。

「さよなら」

 そう書いて、その上に付け足した。

「今まで・ありがとう」

 その紙の上に封の切ってない煙草を置く。
 僕は髪をかきあげる。
 よく眠っている奴の姿を眺める。
 楽しかったんだよ。
 僕は。
 確かに。
 あの毛布の中に戻れば、まだ暖かいのは確かなんだけど。
 今外に出れば、明け方は、とても寒いのは確かなんだけど。
 それでも。
 少しでも、あんたに、僕が相談できれば良かったのかもね。
 でも僕は、知っていたんだよ、ケンショー。
 あんたには相談したって、どうしても判らないことがあるんだって。
 あんたには、どうしても理解できないことがあるんだって。
 だから。
 音を立てないように、ゆっくりと僕はカバンだけを持って、扉を開けた。
 そしてカギを、新聞受けから中に入れた。

 扉の向こうで、かちん、と小さな音が聞こえた。
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