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第29話 誰かだけが知らなかったこと

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「記録されていないだけかもしれないではないか」
「だからあくまで資料と、貴女様の証言からの推測です。私は紅梅姫も白梅君も全く個人として知らないですから、それ以上のことを思いようがありません」
「あの方々は素晴らしい主君だった!」

 イチヤは再びテーブルを叩く。

「少なくとも私に、私というものにあれだけ――― そう、武芸大会の前にも、期待しているとお声をかけて下さり、十人衆に入ってからも、何かと、心を砕いてくださり」
「臣下をいたわるのは確かに主君の役目ですが」
「それだけではない! あの方の笑顔はいつも私に向かっては優しげで」
「とてもお好きだったのですね」
「……!」
「私にはその感情は判らないから羨ましいです。ただそれは太后さまの主観です」
「主観の何が悪い」
「それは貴女さまにとってのみの紅梅姫だったのでしょう? では他の方にとっては? 世間では?」
「そうだな」

 低い女の声が、そこに割って入った。それだけではない。大量の茶と道具と菓子を乗せたワゴンを器用に押しながら、サボンが、そして。

「サボン…… その方は」
「すみません、皇帝陛下がお戻りになって」
「嫌なところに居合わせたかね。だけど、たぶん息子の新しい嫁には、あたしの証言の方が役立つんじゃないかと思ってね。不承の息子よ、ちょいとあの女のところまで連れてってくれないか」

 アリカはサボンと視線を交わす。サボンはうなづいた。このひとはここに居ていいひとだ。それ故のこの大量の茶と菓子なのだ、と。
 フヨウは慌てて椅子を調達しに走る。

「何処に椅子を置けばいいんだ? 母さん」
「話があるのは二人だ。どちらが言っているのか判るような場所に頼むよ」

 その言葉にイチヤははっとする。

「カイ、目が見えないのか」
「この歳なら当たり前さね。あんたじゃないんだ」

 よいしょ、と重そうにカイは椅子に腰を下ろす。皇帝はアリカとカイの間にやや下がった形で座る。どうぞ、とサボンはできるだけダリヤとアリカに近い位置にポットを置く。

「変わった香りだ」
「ただいまのこちらでよく呑まれております」

 アリカはそれを聞いて軽く自分の頬が緩むのを感じた。確かに最近よく呑まれてはいるが、気持ちが落ち着く効果のある茶を持ってくる辺り、この場の状況をよく判っている。
 そのうえ、投げつけたとしても拭けば済む様な水菓子の寒天寄せを用意している辺り。

「これは」

 ダリヤも問いかける。甘い寒天寄せのことはここに来たばかりの時に聞いていたが、この様な使い方をしたものを口にしたことはなかった。
 イチヤにしてみれば、この様な菓子は初めてだった。

「海辺の藩候領から献上された心太《ところてん》の臭みを、できるだけ消して菓子にできる様に改良できないか、と配膳方に頼んだ結果です。何かしらの乳や果汁でも良かったのですが、この様にそのまま寄せても美味しくなるまで、試行錯誤を重ねたものです」

 どうぞ、とアリカは勧める。

「まずはそなたが食ってみせるがいい」
「何か入っていても何もならないものを」

 ともかく、とアリカは柑橘と桃の刻んだものを寄せたものを口にする。

「また一層なめらかになりました」
「良かった。タボーさんが喜びます。ダリヤ様もどうぞ」

 サボンはそうやって匙を手にとって勧める。

「おお、つるんとして面白い。果物も甘いものを選んだな。そのために回りの寄せには甘味を薄くしているとみた」
「その通りでございます」

 サボンはさすがだ、と思わず自分の頬が緩むのを覚えた。試食には自分もずいぶん付き合ったのだ。

「太后さまも、そちらの御方もどうぞ」

 黙ってイチヤとカイは口にする。

「何だねこれは! 美味しいじゃないか。悔しいねえ。こういうのがあれば、あたしの宿屋でも皆喜んだものだ……」
「これは柔らかく作ったものですが、最近では甘く煮た豆を潰したものと組み合わせることで、固めのものを帝都内の菓子屋に競り試させております。砂糖をずいぶん使うこととなりますが、日持ちがする携行食になります」
「へえ! それはいいねえ。ああ、でも豆を甘く煮て水気を飛ばして固めるのは、あたし達の国にもあったねえ。白い豆を使った時には、それを様々な形にし、色をつけたものだ」
「桜の地方では今でもあるのでしょうか?」
「まあそうだね、向こうの街はそう壊されなかったし。商人達はともかく桜のものを広めることができればいいとばかりにがんばったからねえ」
「やはり、壊されることは無かったのですね」
「ああ? その声は新しい嫁だね。面白い声だ。そうだよ。私ゃこの子が居なくなってから一度見に行ったがね、すっかり明るい街になってた。というか、そういう民だよ、そもそもが。いちいち長々と起きたことを恨みはしない。何せ山と川と海が近い地方だ。酷いことが起きたとしても、まあ何とかなるという気持ちが大きいんだよ。それが形としての国、だとしてもね」

 そう言ってカイはイチヤの方を向いた。

「……ところであんたは何だ、あたしはずっともう、とっくの昔に知っていたと思ってたんだよ」
「何を」
「あたしが若い頃、花街に居たと言ったろう?」
「それが」
「だから、国主のお二人が相愛だということは、あたし達の間ではよく知られたことすぎて、あんたが知らなかったなんてこと、あたしは思いもしなかったんだよ」
「嘘」

 イチヤは匙を取り落とした。
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