17 / 38
第17話 母親という役目に「向いていない」。
しおりを挟む
「私も少なからずそういうところはあった。そしてあ奴もだが、……総じて皇太子を産んでしまう女は、育てるのに向かない」
「ですが乳をやるのは」
アリカは自分でも驚く程早く口を挟んだ。そしてまたそれにすかさずダリヤも手を挙げる。
「いやそれはいい。おそらくそれはいいんだ。だが」
何と言ったものか、と彼女は少し考える。この新たな皇后はおそらく自分達以上に物事を言葉通りに受け止めるのではないか、という不安がダリヤにはあった。
しかし言わない訳は行くまい。
「お主の体力は今の時期においては、疲れない母親としてたいそう便利だ。だがその時期が終わったら? お主はまた何かしら調べて、しかも身軽になったことで、あちこち自分で調べに動き出したくなるのではないか?」
「それは…… 確かに」
え、とサボンは表情を変えずに答えるアリカに驚いた。さすがにそう答えるとは想像していなかったのだ。
「それは判る。判るのだが……」
「太后さまが見捨てた様なことはしないつもりですが……」
「うん。それも判る。だが、お主の態度は母親という職に向いていないんだよ、アリカ」
むいていない、と彼女は復唱した。
「お主はおそらく、息子を手に抱いていても、気になる事象があればそちらに目が向く奴だ。それが悪いか、と言えば……」
「嬉しくはないわ」
サボンはぽつんと言った。
「そうなんですか?」
「そう、そこでそう聞くところなのよ!」
アリカは軽く視線を落とした。
「カヤを引き取ったカイはな、赤子を背負って新しく開いた旅籠屋を切り盛りしていたんだよ。まあオウミの様な手助けはあったが、奴は法師の装束のままだったからな。修行の一環として受け容れられた…… ではなく!」
飛びそうになる話の行き場所をダリヤはできるだけすぐに引き戻そうとする。
「仕事はする。だけどそれはあくまで自分と子供の生活のためだ。泣いたら客に申し訳ない、としつつもちゃんと…… ではなくとも、それなりに手をかけた。何せカイも子は作ったことはないからな。花街の出だから、子供は慣れてはいただろうが…… そして育てていれば愛着も湧く。それが当人にも伝わっていたから、今皇帝は慌てて飛び出した。だがお主の態度では、そういう愛着が生まれる様には思えないんだよ。そもそもお主、乳をやること以外に、今自分が側にいることの利点を考えていないだろう? いや、利点という観点でしか見ていないのではないか?」
サボンはその時、アリカの顔からいつも以上に表情が消えていたことに気付いた。
「そう――― そうですね。ダリヤ様は正しい。早く教えていただけてありがたいです」
目が覚めた様に、そう言うと幾度も幾度もアリカはうなづく。
「それ以上のことが必要なんですね」
「え」
「だとしたら、乳をやる時以外は乳母につけた方がいいでしょう。確かに」
「え…… それで納得がいくの? 貴女は」
「いや逆なんですよサボン」
ふるふる、とアリカはそれまでサボンが見たことの無い程に驚いた様に首を振っていた。
「私は知りませんでしたから――― 教えられません。そういう感情は。感情は学習するものです。私はそれを意識的にしてましたが、普通は違うはずです。サボンあなたが私に気付いたら笑いかけてくれた様なことが、私にはできなかったの、覚えてますか?」
あ、とサボンは思い返す。
確かに二人してほんの小さな頃から一緒だった。だがこの乳母子が感情を顔に表すことが小さな頃、あったか? 否。
それだけではない。転んで膝をすりむいた時にも、葉で手を切った時も、何の意思表示もしなかったから、あとで「血が出てる!」と焦ったことがあったではないか。
「そういうのは、本当に生まれてすぐに学習しだすものなのでしょう。よほどそういうものでない限りは。この子供は、先ほどダリヤ様が指であやしていてくれた時、ちゃんと反応していました。だったら、普通の感情を持っているはずです。ああしまった。それに思い至らなかったなんて」
そうか、とサボンは思った。
そこでアリカが悔いているのは、子供に対して可哀想とか、離されたら嫌だとか辛いとかという感情ではなく、「予想が違った」ことに対することなのだ。
「判ったな?」
「はい……」
サボンもまた、頷かずにはいられない。
「本当に、言われなくては気づけませんでした。ありがとうございます。確かに私には無理です。この子に感情は教えられません」
「うん。ちゃんとそれ用の人材もあるんだ。お主はそちらに任せればいい。乳は有効だぞ。我々の様な身体の力も含まれているからな。そこでしきたりというものを利用すればいいんだ」
「しきたり、ですか」
「女官長に『やはり乳母に任せた方がいいと思う』と一言告げれば、あっさりその様ににしてくれるさ。ずっと自分の役目がなかなか来なくて、焦れているだろう。お互いの利益は一致する。そうじゃないか?」
「そうですね」
サボンはそんな二人の会話を聞いていて、不意にリョセンに会いたい、と思った。彼にこのことをそのまま言う訳にはいかない。だけど、彼だったらどう思うだろう。沢山の母親を持っていたという彼なら。
彼は、そのどの母親にも愛情と敬意を持っているのだろうか。
自分は乳母のことがとても好きだった。自分の生まれと殆ど引き換えに母を亡くしているだけに、彼女は殆ど現実の母と同じだった。
当時のサボンを「一緒に育ててくれ」と連れてこられた時にも、子供同士としてのびのびとどちらにも愛情と厳しさの両方をくれたと思う。おそらくはマドリョンカのところの乳母よりずっと。
そうでなければ、今の生活に適応することはできなかったろう。今更の様にサボンは彼女に感謝し――― 既に故郷に帰ってしまっていることを寂しく思った。
「ですが乳をやるのは」
アリカは自分でも驚く程早く口を挟んだ。そしてまたそれにすかさずダリヤも手を挙げる。
「いやそれはいい。おそらくそれはいいんだ。だが」
何と言ったものか、と彼女は少し考える。この新たな皇后はおそらく自分達以上に物事を言葉通りに受け止めるのではないか、という不安がダリヤにはあった。
しかし言わない訳は行くまい。
「お主の体力は今の時期においては、疲れない母親としてたいそう便利だ。だがその時期が終わったら? お主はまた何かしら調べて、しかも身軽になったことで、あちこち自分で調べに動き出したくなるのではないか?」
「それは…… 確かに」
え、とサボンは表情を変えずに答えるアリカに驚いた。さすがにそう答えるとは想像していなかったのだ。
「それは判る。判るのだが……」
「太后さまが見捨てた様なことはしないつもりですが……」
「うん。それも判る。だが、お主の態度は母親という職に向いていないんだよ、アリカ」
むいていない、と彼女は復唱した。
「お主はおそらく、息子を手に抱いていても、気になる事象があればそちらに目が向く奴だ。それが悪いか、と言えば……」
「嬉しくはないわ」
サボンはぽつんと言った。
「そうなんですか?」
「そう、そこでそう聞くところなのよ!」
アリカは軽く視線を落とした。
「カヤを引き取ったカイはな、赤子を背負って新しく開いた旅籠屋を切り盛りしていたんだよ。まあオウミの様な手助けはあったが、奴は法師の装束のままだったからな。修行の一環として受け容れられた…… ではなく!」
飛びそうになる話の行き場所をダリヤはできるだけすぐに引き戻そうとする。
「仕事はする。だけどそれはあくまで自分と子供の生活のためだ。泣いたら客に申し訳ない、としつつもちゃんと…… ではなくとも、それなりに手をかけた。何せカイも子は作ったことはないからな。花街の出だから、子供は慣れてはいただろうが…… そして育てていれば愛着も湧く。それが当人にも伝わっていたから、今皇帝は慌てて飛び出した。だがお主の態度では、そういう愛着が生まれる様には思えないんだよ。そもそもお主、乳をやること以外に、今自分が側にいることの利点を考えていないだろう? いや、利点という観点でしか見ていないのではないか?」
サボンはその時、アリカの顔からいつも以上に表情が消えていたことに気付いた。
「そう――― そうですね。ダリヤ様は正しい。早く教えていただけてありがたいです」
目が覚めた様に、そう言うと幾度も幾度もアリカはうなづく。
「それ以上のことが必要なんですね」
「え」
「だとしたら、乳をやる時以外は乳母につけた方がいいでしょう。確かに」
「え…… それで納得がいくの? 貴女は」
「いや逆なんですよサボン」
ふるふる、とアリカはそれまでサボンが見たことの無い程に驚いた様に首を振っていた。
「私は知りませんでしたから――― 教えられません。そういう感情は。感情は学習するものです。私はそれを意識的にしてましたが、普通は違うはずです。サボンあなたが私に気付いたら笑いかけてくれた様なことが、私にはできなかったの、覚えてますか?」
あ、とサボンは思い返す。
確かに二人してほんの小さな頃から一緒だった。だがこの乳母子が感情を顔に表すことが小さな頃、あったか? 否。
それだけではない。転んで膝をすりむいた時にも、葉で手を切った時も、何の意思表示もしなかったから、あとで「血が出てる!」と焦ったことがあったではないか。
「そういうのは、本当に生まれてすぐに学習しだすものなのでしょう。よほどそういうものでない限りは。この子供は、先ほどダリヤ様が指であやしていてくれた時、ちゃんと反応していました。だったら、普通の感情を持っているはずです。ああしまった。それに思い至らなかったなんて」
そうか、とサボンは思った。
そこでアリカが悔いているのは、子供に対して可哀想とか、離されたら嫌だとか辛いとかという感情ではなく、「予想が違った」ことに対することなのだ。
「判ったな?」
「はい……」
サボンもまた、頷かずにはいられない。
「本当に、言われなくては気づけませんでした。ありがとうございます。確かに私には無理です。この子に感情は教えられません」
「うん。ちゃんとそれ用の人材もあるんだ。お主はそちらに任せればいい。乳は有効だぞ。我々の様な身体の力も含まれているからな。そこでしきたりというものを利用すればいいんだ」
「しきたり、ですか」
「女官長に『やはり乳母に任せた方がいいと思う』と一言告げれば、あっさりその様ににしてくれるさ。ずっと自分の役目がなかなか来なくて、焦れているだろう。お互いの利益は一致する。そうじゃないか?」
「そうですね」
サボンはそんな二人の会話を聞いていて、不意にリョセンに会いたい、と思った。彼にこのことをそのまま言う訳にはいかない。だけど、彼だったらどう思うだろう。沢山の母親を持っていたという彼なら。
彼は、そのどの母親にも愛情と敬意を持っているのだろうか。
自分は乳母のことがとても好きだった。自分の生まれと殆ど引き換えに母を亡くしているだけに、彼女は殆ど現実の母と同じだった。
当時のサボンを「一緒に育ててくれ」と連れてこられた時にも、子供同士としてのびのびとどちらにも愛情と厳しさの両方をくれたと思う。おそらくはマドリョンカのところの乳母よりずっと。
そうでなければ、今の生活に適応することはできなかったろう。今更の様にサボンは彼女に感謝し――― 既に故郷に帰ってしまっていることを寂しく思った。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。
友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」
貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。
「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」
耳を疑いそう聞き返すも、
「君も、その方が良いのだろう?」
苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。
全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。
絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。
だったのですが。
虐げられた皇女は父の愛人とその娘に復讐する
ましゅぺちーの
恋愛
大陸一の大国ライドーン帝国の皇帝が崩御した。
その皇帝の子供である第一皇女シャーロットはこの時をずっと待っていた。
シャーロットの母親は今は亡き皇后陛下で皇帝とは政略結婚だった。
皇帝は皇后を蔑ろにし身分の低い女を愛妾として囲った。
やがてその愛妾には子供が生まれた。それが第二皇女プリシラである。
愛妾は皇帝の寵愛を笠に着てやりたい放題でプリシラも両親に甘やかされて我儘に育った。
今までは皇帝の寵愛があったからこそ好きにさせていたが、これからはそうもいかない。
シャーロットは愛妾とプリシラに対する復讐を実行に移す―
一部タイトルを変更しました。
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
誰の代わりに愛されているのか知った私は優しい嘘に溺れていく
矢野りと
恋愛
彼がかつて愛した人は私の知っている人だった。
髪色、瞳の色、そして後ろ姿は私にとても似ている。
いいえ違う…、似ているのは彼女ではなく私だ。望まれて嫁いだから愛されているのかと思っていたけれども、それは間違いだと知ってしまった。
『私はただの身代わりだったのね…』
彼は変わらない。
いつも優しい言葉を紡いでくれる。
でも真実を知ってしまった私にはそれが嘘だと分かっているから…。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】言いたいことがあるなら言ってみろ、と言われたので遠慮なく言ってみた
杜野秋人
ファンタジー
社交シーズン最後の大晩餐会と舞踏会。そのさなか、第三王子が突然、婚約者である伯爵家令嬢に婚約破棄を突き付けた。
なんでも、伯爵家令嬢が婚約者の地位を笠に着て、第三王子の寵愛する子爵家令嬢を虐めていたというのだ。
婚約者は否定するも、他にも次々と証言や証人が出てきて黙り込み俯いてしまう。
勝ち誇った王子は、最後にこう宣言した。
「そなたにも言い分はあろう。私は寛大だから弁明の機会をくれてやる。言いたいことがあるなら言ってみろ」
その一言が、自らの破滅を呼ぶことになるなど、この時彼はまだ気付いていなかった⸺!
◆例によって設定ナシの即興作品です。なので主人公の伯爵家令嬢以外に固有名詞はありません。頭カラッポにしてゆるっとお楽しみ下さい。
婚約破棄ものですが恋愛はありません。もちろん元サヤもナシです。
◆全6話、約15000字程度でサラッと読めます。1日1話ずつ更新。
◆この物語はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。
◆9/29、HOTランキング入り!お読み頂きありがとうございます!
10/1、HOTランキング最高6位、人気ランキング11位、ファンタジーランキング1位!24h.pt瞬間最大11万4000pt!いずれも自己ベスト!ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる