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60.囲みは縮めよ

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 ありがとう、と礼を言う彼の背をしばらく老人は眺めていたが、やがてふう、と香の煙を吐き出し、中身を捨てた。
 やがてゆっくりと、通りの店のあちこちから、老若男女、買い物をしていた者、売る側に回っていた者が老人の周囲に集まってくる。

「……地区長、あの方は」

 魚屋の恰好をした男が、低い声でつぶやく。

「おそらくは、ここに『用事』があられたのだろうな。……と言うことは」

 集まった者建は無言でうなづく。老人はその中の一人に先ほど彼から受け取った「裏地」に模した亜熟果香を差し出す。

「出所を突き止めよ」

 は、と先ほどまで漢方薬の店番をしていた男は頭を下げた。

「我々は、どの様に動けばよろしいでしょう」

 まあ待て、と老人はおごそかな声で告げる。

「あの方が動かない限り、物事が進まない。しかし、囲みは縮めておいたほうが良かろう。マオ」
「は」
「二番地五十六のイェ・ホウの周囲を、お前とお前の配下で固めよ。それからランシャ」
「はい」

 花を売っていた娘が、ハスキイな声で答える。

「あれの姉を、先に保護しておれ」

 了解、と娘はすぐに身を翻した。
 ほんの数分のことだった。散会する彼らは、如何にも町内会の集まりか何かの様に和気あいあいとした喋りを再開していたので、通りかかる者には何が起こったのか判らない。



「二番地五十六」

 言われた番地を、Gは口の中で転がす。
 その番地の印刷されたプレートをはめてビルが、彼の目の前にあった。
 高い、ひびの入ったむき出しのコンクリートのビルは、建てられて、最低六十年は経っているだろう。これでもかとばかりに突きだした鉄製のベランダは、ペンキもはげ、さびが浮いている。
 全体のデザインはどこにもあるインターナショナル・スタイルである。入り口にちょん、と取りつけられている龍の形をした常夜灯が、それを建てた者の出を表しているかの様だった。
 ちょうど階段を下りて来る子供が居たので、彼はにっこり笑って問いかける。

「ねえ君、ホウって子を知らない? 君くらいの」
「え……」

 じっと見られた子供は顔を赤らめる。

「え、えーと、……六階の、六号室」

 どうもありがとう、と彼は再びにっこりと笑いかける。子供は赤らんだ顔が更に赤くなる。どうしたのだろうな、と彼は思う。いつもと同じ程度の作り笑いしかしていないというのに。
 何度も塗り直したであろう白い壁を横目に、彼は階段を上り始める。漢数字の三や四の文字に、何となく目が落ち着かない。文字と言うより、模様に見える。意味は判るのだが。
 しかし。
 上り始めてGはふと考える。いつもの様に、自分が降ってきた場所そのものが既に何らかのトラブルのまっただ中であるならともかく、……いきなり扉を叩いて、危険が迫っている、と言っても。
 怪しまれるのがせいぜいだろう。
 かと言って、トラブルに巻き込まれていくだろう少年をむざむざ見殺しにもできないことだし……
 考えているうちに六階に着いてしまった。少し広めの共有空間を横切ると、そこには長い廊下があった。一つの階に、一体何部屋あるというのだろう。
 外から見たあたりでは、二十ほどの窓があった。一つの窓に、一つの家族が住んでいるのだろうか。
 扉があちこち開け放ってある。不用心と言えば不用心だ。しかしこの湿気の多い街で、部屋の中に風を通さないというのは、病気を呼び込みかねない。
 そんな開け放たれた扉の一つから、殆ど奇声と言ってもいい程の声を上げて、子供達が数名、一度に飛び出してくる。
 子供のエネルギーというものはとんでもないものだ、と時々Gは思う。彼の横をすり抜けていくその勢いは、予測が立てにくい。彼は思わず立ちすくんでしまう。

「できるだけ早く戻って来いよ!」

 扉から、一つの声が飛び出す。Gははっとしてその声の方向を向いた。
 十四、五歳くらいのやせ気味な少年が、こちらを向いていた。

「誰かこの階の人に用?」

 少年は声を張り上げる。ああ、とGは相手の声とも自分の考えともなく、うなづく。

「……人を捜してるんだけど」
「誰だよ」

 少年は扉から廊下へと出てくる。白いランニングシャツに、黒い短パンを履いて。この気候だったら、それは非常に合理的な恰好だった。

「ホウって子だけど」
「……ホウってのは、結構たくさん居るんだぜ、綺麗さん」

 Gは肩をすくめる。ここでもそう言われるのか。

「イェ・ホウ」

 少年の眉がぴん、と上がる。

「君だろ?」

 途端に少年の両肩が退く。

「……だったら、何だよ。俺に何か用なの?」
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