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59.苦痛を快楽と思う者

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 ふうん、とGはその子供達のやりとりを眺めながら思う。今度はここか。
 長くなりかけた前髪をかき上げると、ホウと呼ばれた子供の放り投げた財布をつまみ上げる。全くもって綺麗に切り開いたものだ。普段からナイフを常備してるのだろう。
 ホウ。その名前には覚えがある。反「MM」組織seraphの幹部の一人は、イェ・ホウと名乗った。
 それが本名かどうなのか、本人に聞いたことは無い。どうでも良かった。相手はいつも、自分と会う時には自信たっぶりで、それでいて、自分を熱くさせてくれた。
 そして、かつて自分と会ったことがあるのだと。
 ふうん、とGは再び口にしてみる。だけどまだ子供だよな、と。
 捨てられていた財布の裏地を、Gはびり、とはぎ取る。そして繊維の一本を抜いて、指で揉み潰す。甘い、南国の果物の香りが、指の摩擦熱で立ち上る。
 降り立った時、Gはこの街が、またあのユエメイの居たクーロンのコロニー群ではないか、と思った。そのくらい雰囲気が、この街は酷似している。
 にょきにょきと背ばかり高い、古い建物達。きっと植民以来、建て直すということはしていないのだろう。戦火にあったらしい所を直すこともしていない。
 所々に崩れたままのレンガ、欠けてぼろぼろと崩れる石垣、鉄筋がはみ出たコンクリートの壁が見られる。崩れたままの壁の中で、人々は平気で暮らしている。
 昔はそれこそあの「教会」と似た使われ方をしていたのだろう、淡い色の美しい塔の窓からは、野菜炒めのにおいが漂ってくる。
 そんな、壊れかけた高い建物が建ち並ぶ街の中で、人々は忙しげに立ち動いていた。
 黄昏の時間。
 何の素材だろう、そのまま触ると皮膚がつんつんとかゆくなる様な繊維を編んで作った様な手提げ袋を持った女達が、市場へと道をせかせかと歩く。裸足の足にはサンダルを履き、長い黒い髪を無造作に結っては上げている。
 同じ色の太い眉と、濃いまつげを持った彼女達は、大声で市場の店の主達と、時には笑いながら、時にはケンカにも聞こえるくらいの調子で物のやりとりをしている。
 Gはそんな通りの間を、ふらふらとすり抜ける。時には人にぶつかりもするが、そこで財布をすられる様な真似はしない。そもそも、今の彼には何も無いのだ。
 肌にまといつく熱気は、ミントのものとは違って、ひたすら湿気を含んでいる。彼はシャツの腕をまくって、できるだけ汗を発散させる。
 キュッ、と音がしたので、振り向くと、色も鮮やかな羽根を持った鳥がこちらを見ていた。近づくと、キュイ、ともう一度声を立てた。

「好かれてる様だね、お兄ちゃん」

 かごを店先に吊していたのは、小型移動式の本棚を横に置いた老人だった。ずいぶんと年季の入った丸椅子に座る彼の足には、鼠色の、何度か穴を繕った様な作業ズボン。上には白のランニングシャツ。
 そんな気候に合った恰好をしているというのに、真っ白になった髭は、ずるずると長く、胸の辺りまで伸びていた。

「そぉかな」
「どうかね、昨日の新聞でも。安くしておくよ」
「いいよ。今何も持ってないんだ」
「嘘だろう」
「いや、本当。綺麗さっぱり。俺にはこの身体だけなんだよね」

 彼はにっこりと笑う。

「それはいい度胸だ」

 老人は感心したように、髭を撫でた。

「知り合いでも居るのかね?」
「や、全然。でも何とかなるだろうさ」
「ほぉ。それはいい心がけじゃ」
「それに、いつまでここに居れるか判らないし。……ああ、おじいさん、ここいらで、ホウって子を知ってる?」
「ホウ? さて。そういう名の子供はそう珍しくは無いからな」
「珍しく、無い?」
「ありふれた名じゃて」

 Gはそうだな、と首を傾げる。彼らの会話を思い出す。

「……本好きなホウ君は?」
「本好き、かどうか知らないが、わしの店の一昨日の新聞を必ず立ち読みしている小僧なら、よぉく知ってるがね」
「ふうん。じゃあたぶんそれだろうな。でもおじいさん、そんなにそれはありふれた名前なのかな?」

 ああ、と老人はうなづき、脇に置いてあった細かい模様の入った木箱から煙管を取り出す。老人はその中から、糸状のものを取り出すと、煙管の中に詰めた。Gは目を微かに細める。

「テェン・ホウ、ミン・ホウ、レン・ホウとかそういう名はその辺に転がってるものさね。お前さん旅行者かい?」
「判ります?」
「当たり前じゃ。何年ここで人を見てきていると思う」

 Gは黙って片眉だけ上げる。
 老人は煙管に火を点ける。途端に甘い香りが広がった。ふうん、とGはうなづく。

「じゃあさ、おじいさん、一つ聞きたいんだけど」
「何じゃい」
「これは何処の奴?」

 先ほどの「裏地」を彼は差し出す。老人は眉間にしわを寄せ、彼の手の上のものをのぞき込んだ。

「……ふうん? 何でお前さん、そんなもの持ってるんだね?」
「拾ったんだ」

 老人は眉を寄せたまま、その回答だけでは納得がいかない、と言った表情をする。キュイ、と鳥が鳴く。

「その、ね。たぶんその新聞好きのホウ君が、拾って捨てたんだ」
「……あの馬鹿者が!」

 ちっ、と老人は舌打ちをする。

「お前さんはそれで、奴を追ってるとでも言うのかね? いやそんな風には見えんが」
「見えないかな?」
「お前さんは、そこまで馬鹿な顔はしとらん」
「伊達に何年もここで人を見てる訳ではないと」
「そうだ」

 ふっ、と彼は笑う。

「馬鹿だよ、俺は」

 本当に。心底正直に彼はそう口にする。まあ何でもいいが、と老人はぽん、と今現在煙管に入ってる香を足元に落とすと、Gの手から一本を引き抜き、先ほどの様に、指で丸めて煙管に入れた。

「……ふむ、かなりの上物じゃな」
「判りますかね」

 こんな風に、亜熟果香が取引されている、Gはその現場を未だ見たことは無かった。彼が知っているのは、もう少し大きな塊の類だった。
 未精製物、というものだった。
 大本は、ある惑星が原産地である植物である。それを精製して、アンプルに入った液体であったり、固形の錠剤にしたり、これまた本当に「香」の形として、一見普通に売られている無害のものと見分けのつかないものもある。
 ミントの隠れ家で見たものは、その「香」の形をしていたはずである。香壷も転がっていた。おそらくユエメイが居た娼館に漂っていたのもその類だろう。
 煙草の形をしているものもある、と聞いてはいた。ただ、見るのは初めてだったし、繊維の形に隠してあるものときては、尚更だった。

「こいつは量さえ誤らなければ、いいものじゃて。量を誤るから、皆とりつかれてしまう」
「じゃあおじいさんは」
「わしは今日今からでも、吸うなと言えば吸わずに居られる。嗜好物とはそういうものじゃ。口にして、心地よい、楽しい。しかし、それに溺れるものではない。そうなった瞬間、それは『嗜好』では無くなるのじゃ」
「では何ですか?」
「判らぬかね?」

 彼は首を横に振る。

「もっとも、苦痛を快楽と思う者にとっては、それもまた、嗜好と言うのだろうが」

 軽く、心臓が飛び跳ねるのをGは感じる。

「……まあ何でもいいが。……と言うことは、あの小僧は、下手な相手の者に手をつけてしまったということじゃな。……どうする気だね、お前さんは」
「え?」
「何が『え?』じゃ。あの子供を知ってるんじゃろ?」
「ええまあ」
「じれったいのお。まあ別にどんな性癖を持っていようが人の勝手とは良く言ったものだが」

 ……何処まで知ってこの老人は、こんな言葉を発しているのだろう? それとも自分にはそんな雰囲気が放っておいても漂っているというのだろうか。
 まあいい、と彼は自分自身に言い聞かせる。

「……俺は以前、彼に助けられたことがあるから。だからもし今度彼が危険な目に遭いそうだったら、助けてやりたい。それだけじゃいけないのかな?」
「あんたのほうが助けられた、のかね!」

 老人はふう、と口に含んだ香を吐き出す。香りが抜けていない。

「こうやっての、口の中で香りだけ楽しんで吐き出す。そうすると、習慣性のある成分は体内に蓄積されない」

 なるほど、とGはうなづく。

「で、お前さん一体あの坊主の何を知りたいのかね?」
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