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55.冷たい手

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「―――何もあれを流すことは無かったのではないですか!?」

 声が、耳に飛び込んでくる。
 壁に叩き付けられた身体が、少し痛い。Gはそれでも、すぐに自分の気配を殺す。隣の部屋の声が、聞こえてくるのだ。
 質素な部屋だった。何かの執務室の様だった。壁にはガラス戸のついた棚が取りつけられており、その中にはずらりと情報ディスクがおさまっている。それだけではない。古典的な紙資料の「ファイル」もその横に並べられている。
 ただ、その部屋の主のものらしいデスクと、その周囲だけが、華やかだった。デスクの背後の壁には、美しい軍旗が飾られている。
 はっ、とそれを見て彼は息を呑んだ。その軍旗に彼は見覚えがあった。
 宇宙を思わせる漆黒の表面に、機械ではない、人の手による細かな刺繍が施されている。

 黒い、長い髪の、天使の。

 Gは息を呑む。見覚えがある、はずだ。

「……サッシャ」

 かすれる声で、つぶやく。
 そうだった。あの、オクラナの少女が、自分達の命を握る相手を忘れないために、と縫い取ったその姿。
 あの後、オクラナは大爆撃を受けた。

「実験としては、有効だった」

 聞き覚えのある声。彼は耳を澄ます。

「それとも貴官は、開発中のウイルスの方が良かったと思うか?」
「……い、いえ……」
「人体の影響は殆ど無い。それが貴官ら医療スタッフの共通の見解では無かったのか?」
「……」
「反論は無しか」

 短く、その人物は自分を糾弾する相手に問いかける。

「私はそのつもりで、貴官らに開発と製造を命じたはずだ」

 それを受けた時点で、同罪だ、とその言葉には含まれている。

「……しかし」
「罪悪感を感じる暇があるなら解毒薬の開発にいそしむのだな」

 は、とそのまま扉を開け、叱責されていた士官が出て行く気配がした。
 そのまま隣室から、あの言葉の主が、歩いてくる。
 こちらに、来る。
 Gは逃げよう、と一瞬思った。ここで彼に会ってどうするのだ。
 しかし身体は逃げなかった。 
 黒い、長い髪を揺らせ、アンジェラス軍の総司令は、部屋の中に入って来た。
 その視線が、彼を捉える。

「お前か」

 その瞳が、ほんの少し、驚いたかの様に見開かれた。予測していなかったのだろうか、と彼はその反応に少し戸惑う。

「髪が、短い。お前は先頃のお前では無いのだな」

 Mはそう言いながら、ゆっくりと彼の元へと歩み寄って来る。
 先頃の自分。おそらくそれは、まだ軍人だった頃の自分であり、オクラナに落ちてきた自分のことだろう。
 あれから、ずいぶんな時間が経っているというのに。

「俺は、……」
「私を恐れない、お前なのだな」
「約束を、したから」
「そうだな」
「俺は、あなたが過ちを冒した時間に飛ぶ様に、俺自身に命じた。そうして、テロワニュに飛んだ。……あれが、過ちなのか?」
「判らぬ」

 Mは短く答えた。

「それが過ちになるのかどうかは、後の歴史が決めることだ。私はその都度の、最良の手を打っているに過ぎない」
「彼らはどうなったの」
「テロワニュの住民は、ほぼ居住区全域に渡って流した亜熟果香によって、急性の中毒にかかってはいる。しかしだからと言って身体の機能が損なわれた訳ではない」
「テロワニュは、でもその時壊滅したのだろう?」
「そうだ。そして彼らには、新しく発見された惑星の開発にかかってもらう」

 Gは目を丸くした。

「……開発…… 新しい…… 惑星?」

 初耳だった。

「しかしそこは決して居住に適した気候ではない。従って当初は居住ドームを企業から購入し、そこから始めなくてはならない」
「……その大気を、コントロールできる様に」
「そうだ」
「……その中に、亜熟果香を」
「そうだ」
「……なるほど、それは有効な方法だ」

 Mはそれには答えなかった。Gは思わず両手で顔を覆う。その下の自分の顔が、歪んでいるのが判る。笑顔に似た、ひきつりが広がっているのが、判る。

「最初に奴隷の状態を抜け出したあなた方が、今度は自分達の奴隷になる人々を、作り出している訳か」

 くくく、とGは喉の奧で笑う。

「お前には、判るまい」
「ああ判らない」

 Gは首を横に振る。

「あなたがどんな思いであの軍を率いてきたのかも、他の惑星がどんな反撃をしてきたか判らない。どんな苦労が、あったのか、俺は俺の、あの頃、軍に居た、その経験程度にしか判らない。飛んで流れ着いた、惑星ごとに見てきた、そこで涙を流す人々の姿しか、知らない。でも統一するなら、それが有効な方法なのかもしれない、だけど」

 それでも、そういう方法を、あなたがたが使うべきでは無かった。Gは思う。

「あなた方は、過去を抹殺しようとしている」
「過去は、過去だ」
「第七世代の俺は、あなた方上位世代から、あの歴史を教えられなかった。隠していたんだ。あなた方は、俺達に、自分達が奴隷の身分からはい上がったことを」

 Mは黙って、Gの言葉を聞いている。

「どうして? あなたは、あの時……」

 どうしても、生き延びなくては、ならなかった。

「……彼ら、は?」

 Gはふと一つのことに、気付いた。

「あなたが、生かしたかった、あの人達は、どうしたの?」
「死んだ」

 Mは短く言った。

「死んだ?」

 思わず問い返す。答えは二度と口にされない。

「それでも、数年は、生き延びた。奴らは結局それを取り入れなかった。彼らは天使種にはならなかった。人間のまま、死んだのだ」

 淡々とした口調が、逆にGの中に突き刺さる。Mは、誰よりも、彼らに生き残って欲しかったはずだ。

「奴らは死に、私達は生き残った。生き残った我々は、それからも生き延びて行くしかなかった」

 ふっ、とその手がGに向かって伸びる。冷たい手だ、と彼は思う。
 冷たい両手が、頬をくるむ。
 彼は、目を閉じる。ああやはり、冷たいのだな。

 伝わって来る。
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