34 / 78
33.やせた子供
しおりを挟む
湿った空気が鼻をついた。
「……痛ってぇ……」
つぶやきながら彼は、じっとりとした地面に両手をついて身体を起こす。重い。ひどく重かった。地面の水気が服に染み込んできていて気持ち悪いというのに、重力に逆らって手足を動かすのが、どうにも辛い。
この重さには、覚えがあった。
滅多なことでは出てこない、あの能力が発動した後のものだ。
そうだ。
彼はかさかさに乾いた声でつぶやく。
確か、あの時、炎に包まれたはずだったのに。
そのままその場に居たら、確実に自分に待っていたのは「死」である。あの時、身体は紅茶に仕込まれた薬物のせいで動くのもままならなかった。
それでも、気が付いた今、そこが天国ではなく、どうしようもなく現実でいうことが目に痛い。
ビルの谷間。光は遠かった。
一体ここは何処なのだろう、と彼は思う。立ち上がった身体をもたれさせている壁の生々しい冷たさは、むき出しのコンクリート。見上げると、遙か向こうに、微かに青空と、入道雲に似たものが見える。
そうかそれでも今は昼間なのか。
遠すぎて、ここまで光が射し込んでも来ない。高い高い、壁。
べたべたと窓が壁には張り付いていて、その一つ一つから小さな張り出しがのぞき、色鮮やかな洗濯物がひらひらと揺れる。
だったらここは、人の住むビルなのか。
まだすぐには動きたくはなかった。無意識の能力は、体力をこれでもかとばかりに奪う。立ち上がるのも億劫だったが、立ち上がらないことには、何もできない。動かなくては。ここにじっとしている訳にはいかなかった。
まず、ここが何時の時代の何処なのか、を探して……
経験が彼の思考を動かし出す。
しかし。
「ひっ!」
彼は思わず、心臓と身体をひくつかせた。
足に、柔らかい何かが絡みついている。
何故今まで気付かなかったのか。自分の消耗ぶりに彼は苦笑いする。
払おうとして足元を見て、彼はその手を止めた。
「君……?」
子供だった。
やせた子供が、身体ごと自分の足に絡みついているのだ。
払うために向けた手が、そっと、その肩に触れる。びく、と子供の肩は反射的に動いた。
だがすぐにその動きは止まった。止まっただけではない。不意にその顔が、上がった。彼を真っ正面から見据えた。
「……」
かすれた声。耳に飛び込む頃には言葉にはならない。湿った空気の中に消えていく。だが唇の動きは判る。大きく、はっきりと、一つの言葉をつづる。路地の、薄暗い光の中でも、彼の目には、判った。
た・す・け・て。
骨ばかりになったやせた手が、そう言いながら彼の顔へと伸びようとする。Gはその手を取った。握りしめた。
ふとその時、ふわりと甘い香りが漂うのに彼は気付いた。
子供の指先から、首筋から、その香りは立ち上ってくる。まるでそこに香水の原液をかぶったかの様だった。
ただし彼が知っているその香りは、水ではない。
亜熟果香、と名がついている。
およそ、こんな子供には似合わない、そして、子供からその香りがするなら……
「……何処でこの香りをつけたの?」
Gは子供に問いかける。答えは無かった。抱え上げた首が力無くだらり、と後ろに倒れる。息はある。力尽きただけだろう、と彼は判断した。
そっとその子供を抱え上げる。軽い。自分も細いとは言われることがよくあるが、それとは違う意味の、やせた身体が手の中にはあった。
自分の身体とて、まだ回復している訳ではないのだが。
そういうところがお前は甘いよね。
同僚の、言葉が頭の中に再生される。
甘いよな。彼は内心つぶやく。
だけど、目の前で震えながら気を失う子供を、どうして見捨てられよう?
*
ふう、と確保した安ホテルの一室で、彼はようやく一息入れる。
固い椅子に座り、これだけはやけに高い天井を見ると、人の顔と牛が戦っている様な染みが一面に広がっている。
天井は高いくせに、部屋は狭い。
人一人がただ寝るためだけに取る様な宿である。子供だから、と渋い顔をされながらも店主は二人で泊まり込むことを了承した。正直、懐の中の金が何処まで通用するのか、判らないのだ。
空間はともかく、時間を飛んでしまった場合、カードは役には立たない。それこそ同じ年内に居るのではない限り、そのカードを使えるという保証は全くない。
現金にしたところで、先日の惑星ミントで下ろした分の札の発行年月日が、今現在居るこの時間より向こう側だったら、使ったことで危険になる可能性もあるのだ。
いずれにせよ、この場所と時間がはっきりするまでは、そうそう動きが取れない。
それに、こうやって飛んだことが、実はまたMの予測範囲内のことなのかもしれない。そう思うと、下手な動きは余計に取れない。
う…… ん、と子供が寝返りを打つ。その声に彼はふと我に返る。
「……痛ってぇ……」
つぶやきながら彼は、じっとりとした地面に両手をついて身体を起こす。重い。ひどく重かった。地面の水気が服に染み込んできていて気持ち悪いというのに、重力に逆らって手足を動かすのが、どうにも辛い。
この重さには、覚えがあった。
滅多なことでは出てこない、あの能力が発動した後のものだ。
そうだ。
彼はかさかさに乾いた声でつぶやく。
確か、あの時、炎に包まれたはずだったのに。
そのままその場に居たら、確実に自分に待っていたのは「死」である。あの時、身体は紅茶に仕込まれた薬物のせいで動くのもままならなかった。
それでも、気が付いた今、そこが天国ではなく、どうしようもなく現実でいうことが目に痛い。
ビルの谷間。光は遠かった。
一体ここは何処なのだろう、と彼は思う。立ち上がった身体をもたれさせている壁の生々しい冷たさは、むき出しのコンクリート。見上げると、遙か向こうに、微かに青空と、入道雲に似たものが見える。
そうかそれでも今は昼間なのか。
遠すぎて、ここまで光が射し込んでも来ない。高い高い、壁。
べたべたと窓が壁には張り付いていて、その一つ一つから小さな張り出しがのぞき、色鮮やかな洗濯物がひらひらと揺れる。
だったらここは、人の住むビルなのか。
まだすぐには動きたくはなかった。無意識の能力は、体力をこれでもかとばかりに奪う。立ち上がるのも億劫だったが、立ち上がらないことには、何もできない。動かなくては。ここにじっとしている訳にはいかなかった。
まず、ここが何時の時代の何処なのか、を探して……
経験が彼の思考を動かし出す。
しかし。
「ひっ!」
彼は思わず、心臓と身体をひくつかせた。
足に、柔らかい何かが絡みついている。
何故今まで気付かなかったのか。自分の消耗ぶりに彼は苦笑いする。
払おうとして足元を見て、彼はその手を止めた。
「君……?」
子供だった。
やせた子供が、身体ごと自分の足に絡みついているのだ。
払うために向けた手が、そっと、その肩に触れる。びく、と子供の肩は反射的に動いた。
だがすぐにその動きは止まった。止まっただけではない。不意にその顔が、上がった。彼を真っ正面から見据えた。
「……」
かすれた声。耳に飛び込む頃には言葉にはならない。湿った空気の中に消えていく。だが唇の動きは判る。大きく、はっきりと、一つの言葉をつづる。路地の、薄暗い光の中でも、彼の目には、判った。
た・す・け・て。
骨ばかりになったやせた手が、そう言いながら彼の顔へと伸びようとする。Gはその手を取った。握りしめた。
ふとその時、ふわりと甘い香りが漂うのに彼は気付いた。
子供の指先から、首筋から、その香りは立ち上ってくる。まるでそこに香水の原液をかぶったかの様だった。
ただし彼が知っているその香りは、水ではない。
亜熟果香、と名がついている。
およそ、こんな子供には似合わない、そして、子供からその香りがするなら……
「……何処でこの香りをつけたの?」
Gは子供に問いかける。答えは無かった。抱え上げた首が力無くだらり、と後ろに倒れる。息はある。力尽きただけだろう、と彼は判断した。
そっとその子供を抱え上げる。軽い。自分も細いとは言われることがよくあるが、それとは違う意味の、やせた身体が手の中にはあった。
自分の身体とて、まだ回復している訳ではないのだが。
そういうところがお前は甘いよね。
同僚の、言葉が頭の中に再生される。
甘いよな。彼は内心つぶやく。
だけど、目の前で震えながら気を失う子供を、どうして見捨てられよう?
*
ふう、と確保した安ホテルの一室で、彼はようやく一息入れる。
固い椅子に座り、これだけはやけに高い天井を見ると、人の顔と牛が戦っている様な染みが一面に広がっている。
天井は高いくせに、部屋は狭い。
人一人がただ寝るためだけに取る様な宿である。子供だから、と渋い顔をされながらも店主は二人で泊まり込むことを了承した。正直、懐の中の金が何処まで通用するのか、判らないのだ。
空間はともかく、時間を飛んでしまった場合、カードは役には立たない。それこそ同じ年内に居るのではない限り、そのカードを使えるという保証は全くない。
現金にしたところで、先日の惑星ミントで下ろした分の札の発行年月日が、今現在居るこの時間より向こう側だったら、使ったことで危険になる可能性もあるのだ。
いずれにせよ、この場所と時間がはっきりするまでは、そうそう動きが取れない。
それに、こうやって飛んだことが、実はまたMの予測範囲内のことなのかもしれない。そう思うと、下手な動きは余計に取れない。
う…… ん、と子供が寝返りを打つ。その声に彼はふと我に返る。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
壁穴奴隷No.19 麻袋の男
猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。
麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は?
シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。
前編・後編+後日談の全3話
SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。
※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。
※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました
東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。
攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる!
そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。
忘却の艦隊
KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。
大型輸送艦は工作艦を兼ねた。
総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。
残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。
輸送任務の最先任士官は大佐。
新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる