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5.「私を? 人違いではないのか?」
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手を離せ、逃げやしない、と彼女が言ったので安岐は手を離す。
確かにこのまま力一杯掴んでいたら壊れてしまうのではないか、と思われる程華奢で柔らかな腕だった。
「私ではないはずだ。私をいちいち捕まえるような知り合いはいない」
抑揚のあまりない声が漏れる。不安定なメゾソプラノ。安岐は首を大きく横に振る。
「ううん、あんただよ」
「何故だ?」
「あんただろ? メイクは取ってるけど、さっきのギター引いてたの」
「それはそうだが」
安岐は立ち止まった彼女の前に一歩、踏み出す。
「あんたが何処の誰だか知らないけれど、俺は、さっきのバンドのギタリストを待ってたの。あんただろ?」
「ああ」
確かにそうだが、と彼女はうなづく。
「良かった」
あからさまに彼は嬉しそうな顔になる。
「……? 変な奴だ」
彼女は微かに眉根を寄せる。
「何で?」
「こういう女のギタリストを出待ちする男なんて私は初めて見た」
「そう?」
「まあ女は時々居るが…… だがお前は男だ。何処が良かったとでも言うのか?」
どうやら冗談で言っている訳ではなさそうだ、と安岐は感じる。世界史の判らない部分を指摘する生徒のように、ひどく大真面目にこのギタリストは安岐に質問しているのだ。
安岐は苦笑する。
「……だってあんた上手いし、すげえ切り裂くみたいなギターだし、恰好いいし、綺麗だし……」
「……さっきから私は不確定な二人称で呼ばれているようだが…… 私はあんた、ではない。朱夏と言う」
「朱夏?」
「朱色の夏と書くらしい」
「へえ。綺麗な名」
「名はそうかもしれんが…… つまらんことをぐだぐだと言うな」
「そう? つまらん? 俺には大事だけど」
腕組をして朱夏は本気で困った様な表情になる。
「お前の言っていることは私にはよく判らん。『恰好いい』は以前客の女の子に言われたことがあるし、ある程度理解できるが、『綺麗』は判らん。判らんものは心地よくない。だから言うな」
おかしな喋り方だな、と安岐は思う。一見理屈めいているし、言いたいことは判らなくもないが、何処かずれているような気もする。
それに初対面の男をお前呼ばわりする女というのも珍しい。
「どうして? だって朱夏は綺麗だもの。オレは綺麗なもんが好きだし」
「冗談を言うな」
彼女は語気を強める。
「『綺麗』というのは…… 私にはよく判らんが、一般的に私のような外見のことは言わない」
「一般的? 何処の一般的だか知らないけれど、でも俺はそう思ったよ」
売り言葉に買い言葉だな、と安岐は思う。だが買い言葉としてすぐに飛び出すものには本音がこもっている。
「俺は自分が朱夏の言う『一般的』かどうかは知らないけど、俺には朱夏は綺麗に見えた」
「……」
「少なくともステージの上では。朱夏はステージの上の自分が綺麗だって思ったことない?」
朱夏は目を見張った。
真っ直ぐだった眉が片方、綺麗にアーチを描く。階段の一段上に居たから、安岐とほぼ同じくらいの高さにある視線がまっすぐ彼の方に向かう。
「そのあんたの出した音か、あんた自身かは判んないけれど、さっき俺は撃ち抜かれたような気がしたんだ」
「撃ち抜かれた? 何処にも銃などなかったぞ」
「……そりゃあっちゃ困るだろ。ライヴハウスは協定で決まっている休戦地帯だ」
そこでは如何なる集団の抗争も認められない。
「そりゃ、見た瞬間なのか、音を耳にした瞬間かどうかは覚えてないけど。ただそう感じたんだ。それがあんたなのかあんたの音なのかそのへんは判らないけど」
安岐は一気にそれだけまくしたてた。大真面目にそんなことを言ったことがないので、心臓が妙にどきどきしている。
「つまりは理由ははっきりとは判らないのだな?」
「……うん」
素直に彼はうなづく。
「私は原因と結果がはっきりしないものは心地が悪い」
「だけどそう思った、というのは本当だもの」
「……」
どう言っていいのか、朱夏はとても困っている様だった。とりあえず何とかなる言葉を捜しているようにも見えた。
「……とにかく私は急ぐ」
「じゃとにかく今度会ってくれない?」
突差に安岐はそう言っていた。今朝の奴のようにすりぬけられては後悔することが目に見えている。
心臓の鼓動がどんどん速くなっている。さっき聴いたドラムの音が頭の中で繰り返される。ハイハットがうるさいほど2ビートで叩かれている。
「は?」
朱夏は問い返した。こういう反応は予想していなかった様である。
「駄目?」
彼女は数秒押し黙る。そしてやがてぼそっと言った。
「……判った」
「約束! また絶対ここに来るから」
「判ったと言っているだろう!」
怒鳴りつけてから朱夏はふと思い出したように、
「そういうお前は名はなんと言うのだ。たとえまた会うにしても何でも、呼びにくくて仕方がないではないか」
「……別にいーじゃん」
律儀と言えば律儀だな、と彼は思う。
「それは困る」
「だって俺は別に困らないもん」
「……勝手にしろ」
「安岐だよ」
くす、と彼は笑って付け加える。
「あき? ……変な名だ」
「そお?」
満足そうに笑みを浮かべると安岐は立ち去ろうとする彼女に手をひらひらと振った。
何なんだ、と早足で歩きながら朱夏はつぶやいた。
ふと立ち止まる。彼女はん、と顔をしかめる。耳を押さえ、そして頭を押さえる。
だがやがてあきらめたように、手を離し、地下鉄の階段を駆け下りていった。
確かにこのまま力一杯掴んでいたら壊れてしまうのではないか、と思われる程華奢で柔らかな腕だった。
「私ではないはずだ。私をいちいち捕まえるような知り合いはいない」
抑揚のあまりない声が漏れる。不安定なメゾソプラノ。安岐は首を大きく横に振る。
「ううん、あんただよ」
「何故だ?」
「あんただろ? メイクは取ってるけど、さっきのギター引いてたの」
「それはそうだが」
安岐は立ち止まった彼女の前に一歩、踏み出す。
「あんたが何処の誰だか知らないけれど、俺は、さっきのバンドのギタリストを待ってたの。あんただろ?」
「ああ」
確かにそうだが、と彼女はうなづく。
「良かった」
あからさまに彼は嬉しそうな顔になる。
「……? 変な奴だ」
彼女は微かに眉根を寄せる。
「何で?」
「こういう女のギタリストを出待ちする男なんて私は初めて見た」
「そう?」
「まあ女は時々居るが…… だがお前は男だ。何処が良かったとでも言うのか?」
どうやら冗談で言っている訳ではなさそうだ、と安岐は感じる。世界史の判らない部分を指摘する生徒のように、ひどく大真面目にこのギタリストは安岐に質問しているのだ。
安岐は苦笑する。
「……だってあんた上手いし、すげえ切り裂くみたいなギターだし、恰好いいし、綺麗だし……」
「……さっきから私は不確定な二人称で呼ばれているようだが…… 私はあんた、ではない。朱夏と言う」
「朱夏?」
「朱色の夏と書くらしい」
「へえ。綺麗な名」
「名はそうかもしれんが…… つまらんことをぐだぐだと言うな」
「そう? つまらん? 俺には大事だけど」
腕組をして朱夏は本気で困った様な表情になる。
「お前の言っていることは私にはよく判らん。『恰好いい』は以前客の女の子に言われたことがあるし、ある程度理解できるが、『綺麗』は判らん。判らんものは心地よくない。だから言うな」
おかしな喋り方だな、と安岐は思う。一見理屈めいているし、言いたいことは判らなくもないが、何処かずれているような気もする。
それに初対面の男をお前呼ばわりする女というのも珍しい。
「どうして? だって朱夏は綺麗だもの。オレは綺麗なもんが好きだし」
「冗談を言うな」
彼女は語気を強める。
「『綺麗』というのは…… 私にはよく判らんが、一般的に私のような外見のことは言わない」
「一般的? 何処の一般的だか知らないけれど、でも俺はそう思ったよ」
売り言葉に買い言葉だな、と安岐は思う。だが買い言葉としてすぐに飛び出すものには本音がこもっている。
「俺は自分が朱夏の言う『一般的』かどうかは知らないけど、俺には朱夏は綺麗に見えた」
「……」
「少なくともステージの上では。朱夏はステージの上の自分が綺麗だって思ったことない?」
朱夏は目を見張った。
真っ直ぐだった眉が片方、綺麗にアーチを描く。階段の一段上に居たから、安岐とほぼ同じくらいの高さにある視線がまっすぐ彼の方に向かう。
「そのあんたの出した音か、あんた自身かは判んないけれど、さっき俺は撃ち抜かれたような気がしたんだ」
「撃ち抜かれた? 何処にも銃などなかったぞ」
「……そりゃあっちゃ困るだろ。ライヴハウスは協定で決まっている休戦地帯だ」
そこでは如何なる集団の抗争も認められない。
「そりゃ、見た瞬間なのか、音を耳にした瞬間かどうかは覚えてないけど。ただそう感じたんだ。それがあんたなのかあんたの音なのかそのへんは判らないけど」
安岐は一気にそれだけまくしたてた。大真面目にそんなことを言ったことがないので、心臓が妙にどきどきしている。
「つまりは理由ははっきりとは判らないのだな?」
「……うん」
素直に彼はうなづく。
「私は原因と結果がはっきりしないものは心地が悪い」
「だけどそう思った、というのは本当だもの」
「……」
どう言っていいのか、朱夏はとても困っている様だった。とりあえず何とかなる言葉を捜しているようにも見えた。
「……とにかく私は急ぐ」
「じゃとにかく今度会ってくれない?」
突差に安岐はそう言っていた。今朝の奴のようにすりぬけられては後悔することが目に見えている。
心臓の鼓動がどんどん速くなっている。さっき聴いたドラムの音が頭の中で繰り返される。ハイハットがうるさいほど2ビートで叩かれている。
「は?」
朱夏は問い返した。こういう反応は予想していなかった様である。
「駄目?」
彼女は数秒押し黙る。そしてやがてぼそっと言った。
「……判った」
「約束! また絶対ここに来るから」
「判ったと言っているだろう!」
怒鳴りつけてから朱夏はふと思い出したように、
「そういうお前は名はなんと言うのだ。たとえまた会うにしても何でも、呼びにくくて仕方がないではないか」
「……別にいーじゃん」
律儀と言えば律儀だな、と彼は思う。
「それは困る」
「だって俺は別に困らないもん」
「……勝手にしろ」
「安岐だよ」
くす、と彼は笑って付け加える。
「あき? ……変な名だ」
「そお?」
満足そうに笑みを浮かべると安岐は立ち去ろうとする彼女に手をひらひらと振った。
何なんだ、と早足で歩きながら朱夏はつぶやいた。
ふと立ち止まる。彼女はん、と顔をしかめる。耳を押さえ、そして頭を押さえる。
だがやがてあきらめたように、手を離し、地下鉄の階段を駆け下りていった。
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