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第2話 文系の普通科中等学校の保健室の主

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 不意に頭の上から声が掛かる。

「……岩室さん…… おいあんた、いつから見てたんだよ!」
「先生、だ! 今さっきからだが。いやあ、若いって、本当にいいよなあ。はははは」

 と、二十八歳・既婚の保健室の主は眼鏡の奥の目を楽しそうに細める。

「お前、ほんっとうに一つのことしてると、注意力もへったくれもないよな、中里」

 中里は立ち上がると、露骨に眉を寄せた。

「あんまり言わないでくれよ。俺だって気にしてるんだ」
「へいへい。ところで旅行の相談か? 週末なら大歓迎だが」

 うっ、と中里は詰まった。

「少子化極まれりの、かの半世紀前の時代より、そういった関係は老若男女、奨励されてる。未婚の母も大いにOK。国の保証もある。が、平日はいかんよな、平日は」

 う、と中里は思わず退く。

「お前ら明日の授業にちゃんと間に合う様に帰って来れるのか? ちゃんと今日の外泊届けは寄宿舎に出したのか? 中里は」

 くくく、と岩室は笑った。その拍子に、後ろで一つにくくった長い髪が揺れた。
 中里には返す言葉が無かった。あいにく今日は水曜日なのだ。

「……でもまあ、他の時ならともかく、今日あたりにそれを言うのも野暮なもの、か。下手に口出すと、馬に蹴られそうだしな。やめやめ」

 ひらひら、と岩室は手を振った。

「岩室さん……」
「先生、だ! ちゃんとそこ位はきっちりしろ、中里」
「悪かったな! こっちはいつも、ちゃんと先生って呼んでるつもりなんだよ!」
「ほう、お前の口は、お前の思う通りにはならないのか」

 う、と中里は詰まる。

 そうなのだ。この保健室の主の「鋼鉄の女」は、彼がどんな言葉遣いをしようが気にしないが、そこだけは徹底させていた。

「そういう岩室さんも、チョコやプレゼント、誰かにあげたりしないのか? それとももうそんなものする歳じゃねえ?」
「先生、だ!」

 そう言って彼女は中里の頭に拳固を一つ加える。

「ふん、私とてチョコくらい買うぞ。あいにく料理の適性は全く! 無いから、手作りなど、きっぱり断念している!」

 ふん、と岩室は腰に手を当て、天を仰ぐ。その拍子に、意外と大きな胸が白衣の上に形を現した。

「そのかわり、私は完璧なデータリサーチをしてだな、一番美味そうな奴をうちのダンナにはやるのだ。そして適当に高価そうに見える安い奴は職員室の連中に義理で」
「ダンナさん?」

 よし野は意外そうな声を立てる。

「本命中の本命じゃないか。当然だろう」

 それはそうだけど。あまりにも当然なので中里も面食らった。

「人間ってのはなあ、できる範囲で努力するのが大切なんだよ。例えばお前にこんなのが作れるか? 中里」

 そう言って岩室は、机の上に置かれていた、折り紙のくす玉を放った。

「うっわー、細かい~」

 よし野はそれを手に取ると、まじまじと見つめる。それは、小さな折り紙のパーツを二十三十と組み合わせて丸くしたものだった。

「うちのダンナはそういうのが実に得意でな」
「何やってる人なわけ?」
「ま、同業と言えば同業だな。隣の理系中等で化学を教えてる。化合物の組成式とかをこうゆう組み折り紙で作るのが得意なんだ」
「へえ……」

 中里は素直に感心する。

「ま、水分子や結晶格子くらいならともかく、タバコモザイク・ウイルスやDNA模型なんか見せられた時にはさすがに私も、参った、と思ったがな」

 はあ、と二人は言うしかなかった。何せ二人とも、その類のことには滅法弱い。
 ここは文系の普通科中等学校である。芸術や体育、技術など、格別な才能がある訳でもなく、その上で文系の適性がある、もしくは理系の適性は無い、と小学校卒業適性検査で判断された者が、前期三年、後期三年の計六年間通う義務教育の学校なのだ。

「ま、それにしても二人とも、そんなでかい声で旅行の話なんぞするもんじゃないぞ。一応ここは、職員達の管理棟の前なんだからな」

 はあい、と二人はうなづくしかなかった。

「おおそうだ」

 ちょいちょい、と岩室はよし野を手招きし、何か小さなものを手渡した。そしてこそっ、と耳打ちする。途端、よし野の頬がぽっと赤くなった。
 何を言ってるんだろう、と中里は首を傾げる。

「まあ、健闘を祈るよ、二人とも」

 ははは、と笑いながら岩室は片手を挙げて、窓際から引っ込んだ。
 彼等はまたその場にしゃがみ込む。すると不意に、よし野はくすくすと笑い出した。

「……何笑ってんだよ」
「だって、いっつも岩室先生には見られちゃうなあ、って思って。ほら、哲ちゃんとはじめてキスした時とか」

 中里は立てた膝に四角い顎を乗せ、何も言わず、不機嫌そうに唇を突き出す。

「でもあたし、あの先生、好きだなあ」
「お前、嫌いな奴なんて、この世に居ないんじゃないか?」
「えー? そんなことないよぉ」

 だって。中里は内心思う。自分の様な奴に、これだけ楽しそうに、毎日毎日飽きずに、大好きだと言ってくれているのなら。

「違うよ。だって、やっぱり時々、あたし、お父さんをはねた、っていう運転手さんとか、……すごく嫌いになるもん」

 彼女はそう言って、顔をしかめる。
 だけどそこで「さん」づけしているじゃないか。

「でもそうゆう時、思っちゃうんだよ。その時そのひとにも急ぐ事情があったんだって。あたし聞いたもん。だから仕方ないよ。おかーさんだって、仕方ない、って言ったし。でも時々、……嫌いになるけど」

 それは当然だろ、と中里は思う。嫌いというより、憎む位で当然だ。
 だが彼は、口にはしなかった。ただ膝を抱える彼女の頭に大きな手を乗せ、くしゃくしゃ、とかき回す。
 するととん、と彼女は右側の中里に体重を掛けてくる。
 彼女が触れている部分から、じんわりと暖かさが染みてくる様な気がする。―――そんなはずは、無いのに。
 小さくて、可愛くて、……そして強く優しい存在。
 守れるものなら、何でもしてやりたい、と思うくらいの。

 キーン…… コーン……

 どのくらいそうしていただろう。二人の耳に、午後の予鈴が鳴る音が届いた。

「……あ、しまった! 今から体育実技!」

 よし野は慌てて飛び上がる。

「じゃあ哲ちゃん、またね!」
「おい、よし野」

 そのまま教室棟へと駆け出そうとする彼女に、彼は声を掛ける。なあに、と駆け足のまま、彼女は振り向いた。

「俺は用事があるから、お前と同じヤツには乗れないかもしれないけど、必ずその時間に、先に行ってろよ」

 料金も先払いしてるんだし、と彼は付け足した。
 判った、と彼女は手を振り、極上の笑みが彼に向けられた。
 中里もまた、手を振りながら笑いかける。
 だがやがてその表情が厳しいものになる。それは羽根よし野には、彼が決して見せたことの無いものだった。
 行ってろよ、よし野。絶対。
 遠くへ。できるだけ遠くへ。
 気付かれない様に、彼女をこの町から、自分から遠ざけなければならない。
 そうしなくては。
 歯ぎしりしながら彼は思う。
 そうしなくては、彼女は殺されるのだから―――この自分に。
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