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第17話その1 あて宮を憎みそうな涼、彼女を可哀想だという仲忠
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そんな三月のことである。
「藤花の宴」
涼は思わず相手の言葉を繰り返していた。
「そう」
東宮はそう言って笑った。
「そう言えば、もうそういう季節ですね」
「何だ、天下の風流人が、花の季節も忘れていたなど」
「色々と昨年から忙しく慌ただしく、何かと心騒がしく、つい忘れてしまいがちなことも増えてしまい」
「なるほど。それは確かにな。きっと私もその慌ただしさの中の一つに過ぎないのだろうな」
「そしてまた、藤壺の方のご懐妊、おめでとうございます。たいそう喜ばしいことで」
「喜んでくれるか」
「はい」
藤壺の方―――あて宮。
確かに友人の運命を狂わせた女と考えると面白くはない。
元少将の仲頼はあれからずっと水尾《みずのお》で一人の僧として慎ましく暮らしている。
似合わない、似合わないぞ、と涼は会いに行く度に感じる。
本人がどれだけ「自分は今の生活の方が煩わしいことなく、幸せだ」と言ったところで、涼は納得できない。
彼は居るだけでその場がぱっと明るくなった。
仲忠を弟の様に扱って、何かと頼りなさそうなところをあれこれと心配そうに見ているところが可笑しくも微笑ましかった。
彼にはこの華やかな宮中が相応しかった。なのに。
今ではほんの少しの供を連れているだけで、食べるものも本当に満足にあるのだろうか、と心配になってしまう。
無論自分は友人のためには援助は惜しまない気でいる。訪ねるたびに、何かしらのものを携えて行く。
それは仲忠も同様だった。
行正は――― 自分達ほどには仲頼の元を訪れようとはしない。
おそらく自分達以上に、彼は仲頼の出家を悲しんでいるだろう。惜しんでいるだろう。悔しいと思っているだろう。
元々あからさまに笑顔を見せる様な男ではなかったが、友人の出家以来、その傾向はより顕著になった。
「兄弟の契りを結んでいたって言うから」
仲忠は言う。
そのくらい親密だったからこそ、自分に何も言わずに出家してしまったことが許せないのだろう、と涼は推測する。
もっとも行正はそんな素振りを外側からは伺わせない。
伺わせない様に――― 出仕の回数が減った。現在は友人である正頼の五郎顕純《あきずみ》のところに入り浸っているという。
「仕方ないよね」
そういう仲忠自身、やはり兄弟の契りを結んだという仲純を亡くしているのだが―――
そう、仲純の死に関しても不審な点は多い。
仲忠は常々自分に、故人があて宮に恋していたのではないか、ということをほのめかしていた。
異母妹に恋する例は昔から散々言われているし、誉められたものではないが、全く許されてない訳でもない。
しかし同母となると、それは遙か昔から禁忌とされていることである。
それなのに恋してしまったのだろうか。
「そういうこともあるかもしれませんよ」
仲忠は言う。
「だって母君が同じってことを知らなかったらどう?」
そんな時に出会った二人が恋に落ちたらどうにもならない、と仲忠は寝物語に言ったことがある。
「どんな相手同士だって、身体が呼んだらそれには逆らえないんだよ」
でもね、と仲忠はその時続けた。
「あて宮にとっては兄上は兄上でしかない。あて宮は女だから、自分からどうこうできない」
「気持ちを伝えることも?」
「僕等より女房達に囲まれすぎている彼女達にそんなことができると思う?」
それはそうだ、と涼もその時は納得した。
女、特に姫君にはいつも視線がまとわりつく。
自分達男は、いざとなったらいきなり走り出したり、馬で駆け出してしまえば何処かで一人になることもできる。
そこで行きずりの女に恋することもできる。これほどの身分があるにしてもだ。
だが女は。姫君は。
「僕はね、涼さん。あて宮はとても可哀想なひとだと思うんだ」
それはまた、とその言葉の意味を問いかけた。
「よくは判らない。だけどあのひとはいつも叫んでた」
「叫んで?」
「涼さんには聞こえなかった?」
「姫君だろう?」
「やっぱり聞こえてなかったんだ」
そう言ってくすくす、と彼は笑った。
判らなかった。彼の言う意味が。
仲忠はいつもあて宮に関しては「好きだけど、何よりもその琴の音」と主張していた。
その姿勢は見事なまでに一貫し、それ故に彼女の入内の時にも懸想人の中では真っ先に御祝いをしたくらいである。
しかしそれでは、彼女は仲忠にとって実のところ何なのだろうか。
涼はずっとその意味を知りたかった。
あて宮自身には、すっかり興味を失っていた。
むしろ友人達を狂わせた女として、憎む気持ちすら心の隅には存在している。
しかしその一方で、自分がずっと楽しく文を交わす「女房」の姉である。
やはりここは喜んでおくべきだろうと彼は思う。
「せっかく藤壺が再び懐妊したことでもあるし、皆でそれを祝ってくれると私も非常に嬉しい」
東宮は楽しそうに言った。
「それは宜しゅうございます。そう言えば、一昨年の春には、私の吹上の屋敷でもやはり藤の宴を致しました」
「名高い吹上の藤はたいそう素晴らしいだろうな。いや、それよりその折には皆素晴らしい演奏をしたというではないか」
なるほど、と涼は思った。
確かにあの時は、自分と一緒に仲忠と行正と仲頼、それに仲頼の部下の中にも優れた奏者が多かった。
「どうだろう。そなたが誘えば、その時の奏者達も皆やってくるのではないか?」
「東宮様の仰せにどうして逆らいましょう」
「判らないぞ。仲忠なぞ、帝ですら手を焼くと仰られている」
「では私が勧めたところで」
「そなたなら大丈夫だろう」
「そうでしょうか」
「そうだろう」
ふふふ、と東宮は口の端を上げて笑う。
性格だろうか。東宮はいつも自信に満ちあふれている。
血筋の上では自分の甥にあたるのだが、実感がまるで湧かない。
もっとも、温厚な帝ともやや異なる。どちらかというと、その強引さは自分の父である嵯峨院の方に近いのではないか、と涼は時々感じる。
「今となっては仲純も仲頼も仕方が無いが、行正や、それに何と言っても仲忠を呼んでもらいたいものだ」
「私も是非、彼の演奏を聞きたいものです」
「何だ、仲が良いのに、そういう機会も無いのか?」
ははは、と東宮は笑う。
「そういう訳ではございませんが」
「まあいい。藤壺と合奏というなら、必ずあれも食いついてくるだろう」
「御方さまと」
「そなたともさせてみたいものだ。普段あれもさほどに弾きたがらない。とは言え、全く無視もできないらしく、箏でそれなりの演奏はする。…おおそうだ」
ぽん、と東宮は扇で脇息を叩く。
「仲忠はまず琴は弾かないだろうから、箏の琴がいい」
「箏なら、確かに」
琴は駄目、と彼は良く涼に言う。判っているでしょう、と。
そう、判っている。彼の出す音は危険だ。あの神泉苑での演奏。
皆が幻覚を見ている間、自分が正気を保っていられたのは、音に慣れていたせい。
いや、仲忠の音と合わせていたせいだ、と涼は判っている。
*
「だから琴は駄目」
その話をしていた時も、仲忠は頑なに拒んでいた。
「特に僕の音は駄目だよ。僕の中のどろどろとした心がそのまま出てしまう」
「君の? そんなもの何処にもなさそうだけど」
「僕は汚いよ」
言い捨てた。
「時々琴を教えてくれた母上を憎みたくなるくらい」
「あれほどの素晴らしい手なのに?」
少なくとも自分は、師匠である弥行を尊敬はしても、憎んだことはない。
「重いんだ」
「重い?」
「それにどうしてそれしか僕にできなかったんだ、って思ってしまう自分が嫌で」
「母上は、素晴らしい琴を伝えてくれたじゃないか」
「でもそれだけだよ。生きて行くための術は何もあのひとは持っていなかった。仕方が無いことだと判っていても、時々、無性に胸の中がざわざわと騒ぐんだ」
それは自分が種松達に感じるのと似た感情だろうか、と涼は考えた。
否。
それとは種類が違う。涼はすぐに答えを出した。
種松夫妻は確かに自分を「主君」の様に見ていた。
だがそれ以外には、きちんと年長者として、自分を保護し、大事にし、生きて行くための様々なことを教えてくれた。
祖父祖母、と思うにつけてもの水くささは感じる。
彼らは彼らなりの精一杯をくれた。涼は満足している。
だが仲忠は。
「行正の方が判る?」
「かもしれない。でも行正さんは、唐に連れ去られるまでは、両親の元で幸せに育ってたでしょ」
「それはそうだけど」
「彼は少し世間に出るのが早すぎて、それがたまたま普通でない場所で、ちょっと過酷な旅路で、戻ってみたらそこにあったのは両親の美しい思い出だけ」
「充分悲劇だと思うが」
「だけど全て失ってしまっているから、彼はそれに縛られることもない」
「君は」
涼は仲忠の髪を掻き上げながら問いかけた。
「自分が一番不幸だと思っている?」
「まっさか」
仲忠はあっさりと首を横に振った。
「本当に不幸なのは、今市中で家も食べるものも無く、漂うしかない貧しい人たち。死んでしまう人達。知ってるでしょ涼さん、そういう人達は、病気が流行ったら最初にやられるんだよ。力も出ないから。僕はそんな中から今の場所に居るだけでも、充分幸運」
「でも」
その時の涼は追求を続けた。
「君は本当にそう思っている?」
「思っているよ」
「うんそれはそれでいい。建前だとも思わない。だけど君の中で、自分がとても不幸だと思っているところが無い?」
仲忠の瞳が大きく開いた。
「それでも母上が、もっと自分を琴だけでなく、普通の母上の様に可愛がってくれたら、と思っていない?」
「涼さん」
声が震えた。
「君はふわふわと私を口説きながら、そういつも訴えているだろ。琴ではない、もっとわかりやすい、自分が世間で見たことのある様な形で可愛がられたかった、って。ぎゅっと抱きしめられたかったって」
「……涼さん」
「だけど、母上にはその方法が判らなかったんだね」
仲忠は首を横に振る。
「違う、それは母上のせいじゃあない。あのひとには、琴を伝えることしかできなかった。本当に、琴しかできなかったんだ。琴だけは、天人が下りてきたかと思われる様な、でも琴だけな、そういうひとなんだ。―――本当の姫君だったから」
「そう、君の母上のせいじゃあない」
涼はうなづいた。
「君の母上が、姫君暮らししかしなかった、それで家が貧しくなってしまったのは、既に亡くなった君の祖父君や、逃げた雇人達、皆既に居ない者達のせいだろう」
涼は聞いている。
仲忠の祖父、清原俊蔭は、娘に「天の掟があると言うならば、国母にも女御にもなろう。無いというならば賎しい者の妻にでもなるがいい」と言い残したという。
確かにそれはそれで気骨のある言葉だったろう。
だが娘にしてみれば。
そしてそれが、仲忠の気持ちにまで陰を落としているのならば。
涼は多少なりともこの伝説の琴の名手を恨まずには居られない。
主人が居なくなったらさっさとあるものをとって出ていった雇人達。
彼らを一概に恨む訳にはいかない。彼らには彼らの生活がある。
何もできない姫君一人の元にただ衷心だけで仕える者は滅多にいないだろう、と涼は思う。自分の所に居るもの達だって、没落すればどういう行動をとるものやら。
「悪いと言い切れるものが見つからない」
仲忠の言葉の中は、俊蔭の姿が無い。一番憎みやすい者が彼の中には無いのだ。
「君は母上を責められない。でも気持ちはそう割り切れるものではないだろう」
「貧しかった頃は良かったんだ」
仲忠は吐き捨てた。
そしてほんのりと笑った。
「生きて行くことに夢中で、そんなことを考える余裕もなかった。僕が持って行く食べ物を母上が喜んでくれるだけで良かったんだ。母上の笑顔だけで、僕は満たされた。だって母上は僕だけのものだったから。だけど父上が僕等を見つけだしてから」
ああ。涼は気付く。そういう問題もあったのか。
「今までの償いとばかりに僕等に甘い父上を、そして男としては甘えかかってくる父上を、時々鬱陶しいと思いながらも、凄く愛してるんだ。誰よりも。馬鹿なひとと思いながらも、僕よりずっと、必要としているんだ」
抱きしめられないなら、抱きしめる。彼はそれまでそうしてきた。
だけどそれすらも誰かにとって代わられてしまったら。
気持ちの行き場は。
涼は仲忠を抱きしめる手に力を込めた。
「君は」
天井をふり仰ぐ。
「早く身を固めた方がいい。君には誰か優しい女の人の手が必要だ」
「うん、判ってる。孫王の君にもそう言われた」
「孫王の君」
「うん、あて宮のところの女房で、……上野宮の大君」
そして一呼吸置くと。
「僕が最初に好きになった女性」
「藤花の宴」
涼は思わず相手の言葉を繰り返していた。
「そう」
東宮はそう言って笑った。
「そう言えば、もうそういう季節ですね」
「何だ、天下の風流人が、花の季節も忘れていたなど」
「色々と昨年から忙しく慌ただしく、何かと心騒がしく、つい忘れてしまいがちなことも増えてしまい」
「なるほど。それは確かにな。きっと私もその慌ただしさの中の一つに過ぎないのだろうな」
「そしてまた、藤壺の方のご懐妊、おめでとうございます。たいそう喜ばしいことで」
「喜んでくれるか」
「はい」
藤壺の方―――あて宮。
確かに友人の運命を狂わせた女と考えると面白くはない。
元少将の仲頼はあれからずっと水尾《みずのお》で一人の僧として慎ましく暮らしている。
似合わない、似合わないぞ、と涼は会いに行く度に感じる。
本人がどれだけ「自分は今の生活の方が煩わしいことなく、幸せだ」と言ったところで、涼は納得できない。
彼は居るだけでその場がぱっと明るくなった。
仲忠を弟の様に扱って、何かと頼りなさそうなところをあれこれと心配そうに見ているところが可笑しくも微笑ましかった。
彼にはこの華やかな宮中が相応しかった。なのに。
今ではほんの少しの供を連れているだけで、食べるものも本当に満足にあるのだろうか、と心配になってしまう。
無論自分は友人のためには援助は惜しまない気でいる。訪ねるたびに、何かしらのものを携えて行く。
それは仲忠も同様だった。
行正は――― 自分達ほどには仲頼の元を訪れようとはしない。
おそらく自分達以上に、彼は仲頼の出家を悲しんでいるだろう。惜しんでいるだろう。悔しいと思っているだろう。
元々あからさまに笑顔を見せる様な男ではなかったが、友人の出家以来、その傾向はより顕著になった。
「兄弟の契りを結んでいたって言うから」
仲忠は言う。
そのくらい親密だったからこそ、自分に何も言わずに出家してしまったことが許せないのだろう、と涼は推測する。
もっとも行正はそんな素振りを外側からは伺わせない。
伺わせない様に――― 出仕の回数が減った。現在は友人である正頼の五郎顕純《あきずみ》のところに入り浸っているという。
「仕方ないよね」
そういう仲忠自身、やはり兄弟の契りを結んだという仲純を亡くしているのだが―――
そう、仲純の死に関しても不審な点は多い。
仲忠は常々自分に、故人があて宮に恋していたのではないか、ということをほのめかしていた。
異母妹に恋する例は昔から散々言われているし、誉められたものではないが、全く許されてない訳でもない。
しかし同母となると、それは遙か昔から禁忌とされていることである。
それなのに恋してしまったのだろうか。
「そういうこともあるかもしれませんよ」
仲忠は言う。
「だって母君が同じってことを知らなかったらどう?」
そんな時に出会った二人が恋に落ちたらどうにもならない、と仲忠は寝物語に言ったことがある。
「どんな相手同士だって、身体が呼んだらそれには逆らえないんだよ」
でもね、と仲忠はその時続けた。
「あて宮にとっては兄上は兄上でしかない。あて宮は女だから、自分からどうこうできない」
「気持ちを伝えることも?」
「僕等より女房達に囲まれすぎている彼女達にそんなことができると思う?」
それはそうだ、と涼もその時は納得した。
女、特に姫君にはいつも視線がまとわりつく。
自分達男は、いざとなったらいきなり走り出したり、馬で駆け出してしまえば何処かで一人になることもできる。
そこで行きずりの女に恋することもできる。これほどの身分があるにしてもだ。
だが女は。姫君は。
「僕はね、涼さん。あて宮はとても可哀想なひとだと思うんだ」
それはまた、とその言葉の意味を問いかけた。
「よくは判らない。だけどあのひとはいつも叫んでた」
「叫んで?」
「涼さんには聞こえなかった?」
「姫君だろう?」
「やっぱり聞こえてなかったんだ」
そう言ってくすくす、と彼は笑った。
判らなかった。彼の言う意味が。
仲忠はいつもあて宮に関しては「好きだけど、何よりもその琴の音」と主張していた。
その姿勢は見事なまでに一貫し、それ故に彼女の入内の時にも懸想人の中では真っ先に御祝いをしたくらいである。
しかしそれでは、彼女は仲忠にとって実のところ何なのだろうか。
涼はずっとその意味を知りたかった。
あて宮自身には、すっかり興味を失っていた。
むしろ友人達を狂わせた女として、憎む気持ちすら心の隅には存在している。
しかしその一方で、自分がずっと楽しく文を交わす「女房」の姉である。
やはりここは喜んでおくべきだろうと彼は思う。
「せっかく藤壺が再び懐妊したことでもあるし、皆でそれを祝ってくれると私も非常に嬉しい」
東宮は楽しそうに言った。
「それは宜しゅうございます。そう言えば、一昨年の春には、私の吹上の屋敷でもやはり藤の宴を致しました」
「名高い吹上の藤はたいそう素晴らしいだろうな。いや、それよりその折には皆素晴らしい演奏をしたというではないか」
なるほど、と涼は思った。
確かにあの時は、自分と一緒に仲忠と行正と仲頼、それに仲頼の部下の中にも優れた奏者が多かった。
「どうだろう。そなたが誘えば、その時の奏者達も皆やってくるのではないか?」
「東宮様の仰せにどうして逆らいましょう」
「判らないぞ。仲忠なぞ、帝ですら手を焼くと仰られている」
「では私が勧めたところで」
「そなたなら大丈夫だろう」
「そうでしょうか」
「そうだろう」
ふふふ、と東宮は口の端を上げて笑う。
性格だろうか。東宮はいつも自信に満ちあふれている。
血筋の上では自分の甥にあたるのだが、実感がまるで湧かない。
もっとも、温厚な帝ともやや異なる。どちらかというと、その強引さは自分の父である嵯峨院の方に近いのではないか、と涼は時々感じる。
「今となっては仲純も仲頼も仕方が無いが、行正や、それに何と言っても仲忠を呼んでもらいたいものだ」
「私も是非、彼の演奏を聞きたいものです」
「何だ、仲が良いのに、そういう機会も無いのか?」
ははは、と東宮は笑う。
「そういう訳ではございませんが」
「まあいい。藤壺と合奏というなら、必ずあれも食いついてくるだろう」
「御方さまと」
「そなたともさせてみたいものだ。普段あれもさほどに弾きたがらない。とは言え、全く無視もできないらしく、箏でそれなりの演奏はする。…おおそうだ」
ぽん、と東宮は扇で脇息を叩く。
「仲忠はまず琴は弾かないだろうから、箏の琴がいい」
「箏なら、確かに」
琴は駄目、と彼は良く涼に言う。判っているでしょう、と。
そう、判っている。彼の出す音は危険だ。あの神泉苑での演奏。
皆が幻覚を見ている間、自分が正気を保っていられたのは、音に慣れていたせい。
いや、仲忠の音と合わせていたせいだ、と涼は判っている。
*
「だから琴は駄目」
その話をしていた時も、仲忠は頑なに拒んでいた。
「特に僕の音は駄目だよ。僕の中のどろどろとした心がそのまま出てしまう」
「君の? そんなもの何処にもなさそうだけど」
「僕は汚いよ」
言い捨てた。
「時々琴を教えてくれた母上を憎みたくなるくらい」
「あれほどの素晴らしい手なのに?」
少なくとも自分は、師匠である弥行を尊敬はしても、憎んだことはない。
「重いんだ」
「重い?」
「それにどうしてそれしか僕にできなかったんだ、って思ってしまう自分が嫌で」
「母上は、素晴らしい琴を伝えてくれたじゃないか」
「でもそれだけだよ。生きて行くための術は何もあのひとは持っていなかった。仕方が無いことだと判っていても、時々、無性に胸の中がざわざわと騒ぐんだ」
それは自分が種松達に感じるのと似た感情だろうか、と涼は考えた。
否。
それとは種類が違う。涼はすぐに答えを出した。
種松夫妻は確かに自分を「主君」の様に見ていた。
だがそれ以外には、きちんと年長者として、自分を保護し、大事にし、生きて行くための様々なことを教えてくれた。
祖父祖母、と思うにつけてもの水くささは感じる。
彼らは彼らなりの精一杯をくれた。涼は満足している。
だが仲忠は。
「行正の方が判る?」
「かもしれない。でも行正さんは、唐に連れ去られるまでは、両親の元で幸せに育ってたでしょ」
「それはそうだけど」
「彼は少し世間に出るのが早すぎて、それがたまたま普通でない場所で、ちょっと過酷な旅路で、戻ってみたらそこにあったのは両親の美しい思い出だけ」
「充分悲劇だと思うが」
「だけど全て失ってしまっているから、彼はそれに縛られることもない」
「君は」
涼は仲忠の髪を掻き上げながら問いかけた。
「自分が一番不幸だと思っている?」
「まっさか」
仲忠はあっさりと首を横に振った。
「本当に不幸なのは、今市中で家も食べるものも無く、漂うしかない貧しい人たち。死んでしまう人達。知ってるでしょ涼さん、そういう人達は、病気が流行ったら最初にやられるんだよ。力も出ないから。僕はそんな中から今の場所に居るだけでも、充分幸運」
「でも」
その時の涼は追求を続けた。
「君は本当にそう思っている?」
「思っているよ」
「うんそれはそれでいい。建前だとも思わない。だけど君の中で、自分がとても不幸だと思っているところが無い?」
仲忠の瞳が大きく開いた。
「それでも母上が、もっと自分を琴だけでなく、普通の母上の様に可愛がってくれたら、と思っていない?」
「涼さん」
声が震えた。
「君はふわふわと私を口説きながら、そういつも訴えているだろ。琴ではない、もっとわかりやすい、自分が世間で見たことのある様な形で可愛がられたかった、って。ぎゅっと抱きしめられたかったって」
「……涼さん」
「だけど、母上にはその方法が判らなかったんだね」
仲忠は首を横に振る。
「違う、それは母上のせいじゃあない。あのひとには、琴を伝えることしかできなかった。本当に、琴しかできなかったんだ。琴だけは、天人が下りてきたかと思われる様な、でも琴だけな、そういうひとなんだ。―――本当の姫君だったから」
「そう、君の母上のせいじゃあない」
涼はうなづいた。
「君の母上が、姫君暮らししかしなかった、それで家が貧しくなってしまったのは、既に亡くなった君の祖父君や、逃げた雇人達、皆既に居ない者達のせいだろう」
涼は聞いている。
仲忠の祖父、清原俊蔭は、娘に「天の掟があると言うならば、国母にも女御にもなろう。無いというならば賎しい者の妻にでもなるがいい」と言い残したという。
確かにそれはそれで気骨のある言葉だったろう。
だが娘にしてみれば。
そしてそれが、仲忠の気持ちにまで陰を落としているのならば。
涼は多少なりともこの伝説の琴の名手を恨まずには居られない。
主人が居なくなったらさっさとあるものをとって出ていった雇人達。
彼らを一概に恨む訳にはいかない。彼らには彼らの生活がある。
何もできない姫君一人の元にただ衷心だけで仕える者は滅多にいないだろう、と涼は思う。自分の所に居るもの達だって、没落すればどういう行動をとるものやら。
「悪いと言い切れるものが見つからない」
仲忠の言葉の中は、俊蔭の姿が無い。一番憎みやすい者が彼の中には無いのだ。
「君は母上を責められない。でも気持ちはそう割り切れるものではないだろう」
「貧しかった頃は良かったんだ」
仲忠は吐き捨てた。
そしてほんのりと笑った。
「生きて行くことに夢中で、そんなことを考える余裕もなかった。僕が持って行く食べ物を母上が喜んでくれるだけで良かったんだ。母上の笑顔だけで、僕は満たされた。だって母上は僕だけのものだったから。だけど父上が僕等を見つけだしてから」
ああ。涼は気付く。そういう問題もあったのか。
「今までの償いとばかりに僕等に甘い父上を、そして男としては甘えかかってくる父上を、時々鬱陶しいと思いながらも、凄く愛してるんだ。誰よりも。馬鹿なひとと思いながらも、僕よりずっと、必要としているんだ」
抱きしめられないなら、抱きしめる。彼はそれまでそうしてきた。
だけどそれすらも誰かにとって代わられてしまったら。
気持ちの行き場は。
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天井をふり仰ぐ。
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福島正則、池田照政(輝政)、井伊直政、本田忠勝、細川忠興、山内一豊、藤堂高虎、京極高知、黒田長政……名だたる猛将・名将の大軍勢を前に、織田秀信はたったの一国一城のみで相対する。
「魔王」の血を受け継ぐ青年は何を望み、何を得るのか。
血に、時代に、翻弄され続けた織田秀信の、静かなる戦いの物語。
※史実をベースにしておりますが、この物語は創作です。
※時代考証については正確ではないので齟齬が生じている部分も含みます。また、口調についても現代に寄せておりますのでご了承ください。
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