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第17話 ディックとサァラ②
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扉を開けると、部屋の中は静かだった。だが灯りがついていない訳ではない。ディックはそろそろと中に進んでいく。
デスクに突っ伏して、彼女が眠っていた。すうすうと寝息を心地よさそうに立てて。
このまま寝かせてやったほうがいいんだろうか、と彼は一瞬考える。だがそれでは、気分のほうは切り替わらないのではないか、と思ったので、ディックは彼女の肩に手を置いた。
「……あ、お帰りなさい」
「ただいま。仕事、キリついた?」
「うん何とかね」
だが上げた顔は、少しばかり疲れ以外のものが浮かんでいた。目の下が、赤く腫れている。泣いたのだろう、と彼は思う。
「今から出られる?」
「うんすぐ支度するわ。……ああ、ひどい顔……」
鏡を手にするなり彼女はつぶやいた。そしてそれをデスクの上に戻すと、彼女はぽつんとつぶやいた。
「……ケンカしちゃったんだ」
「ん? 二人と?」
サァラはうん、とうなづく。
「……別に、まあ何ってことないことがきっかけなんだけど……」
彼女はそれから、堰を切ったように喋りだした。ディックは彼女の話を聞きながら、それでも少しは店で腹に入れておいて良かった、と思う。こうなってしまっては、すぐに外に出るという訳にはいかないだろう。
彼女のこういう態度が「いつも」だったら、自分は決してこんな根気強くないだろう、と彼は思う。彼女は弱音を吐くことが少ないから、時々押し寄せてくる疲れのようなものにひどく弱いのだ。
彼はそれを出会った頃から知っていたから、そんな時には、自分が露骨なまでに彼女に優しくなるのは知っていた。意識的にそうしていた。それがそういう時に彼女には必要だ、と知っていたから。
最初に出会ったのは、数年前。まだ彼も、ルナパァクに来てから一年と経ってはいない頃だった。「外」での記者経験が役に立っていた。その頃彼の居るDear Peaopleでは外回りをする記者が一人減ったばかりで、少しでも経験のある彼は、とにかく何処にでも出されていたものだった。
その時は、流れ込んだ身よりの無い女性達のコミュニティの取材だった。古来からあるように、そのコミュニティも、教会絡みのものだった。彼は許可をもらって、その女性ばかりの場所に足を踏み入れた。
そして8:2の割合で、疲れた顔と希望を持った顔が並ぶ中で、彼女は2の方だった。お仕着せの服を身に付け、黒い髪も、戦火から逃げる途中に切ったのか何なのか、不自然に短かったが、その下の薄青の瞳が、ひどく印象的だった。
インタビウに応じてくれた彼女は、やがてそこを出て外に職を見付けた。そのお祝いと称した夕食を一緒に摂った日から、彼等のつき合いは始まった。
そして、幾つかの季節が過ぎ、彼女が自分の仕事を手元に置いた、小さなオフィスを開きたい、と言った時に、彼等は一緒に住むことにした。
長いようで短く、短いようで、長い年月だった。
そして、つき合いだした時に、彼はサァラの中には、ぽっかりと、暗く深い穴が空いていることに気付いた。断片的にしかない過去は、彼女をひどく時々不安にさせた。だがその不安を、周囲の人には悟られないように、なるべく明るく振る舞おうとする。そんなところが、彼はとても見ていて、切なかったのだ。
「……あ、また言っちゃった…… ごめんね。お腹空いてるでしょ。すぐ服代えるから」
「いやいいよ。たまには、デリバリー頼もうか」
そう言ってディックは、ぽんぽん、と端末の一つを叩くと、スクリーンにざっとデリバリーのできる店のリストが上がった。
「何がいい?」
「そうね…… うん、ピザがいいな」
「ピザ? もっといいもの頼めよ」
「だって店じゃ大口開けて食べられないんだもの」
「俺の前じゃいいのかよ」
「だってあなたの前じゃない」
それはそうだ、と彼は思う。出会った当初は、人前で食事をするのを嫌っていたくらいの人見知りだった。本当にこうやって食べるのが正しいのか判らない、と言っていた。
足下に何も無いような、不安があるのだ、と彼女は言う。何処の星で生まれ育ったのかも判らないから、もしそれがそこでは奇妙だと思われる習慣だったとしても、それに抗弁する術がないのだ、と。
だから行動がひどく臆病になっていたのだ、と最初に一緒に食事をした時に彼女は言った。既に彼等は彼女がコミュニティから外へ仕事探しに行く時などにちょくちょく会っていた。その薄青の瞳が、不安そうに曇ることがあると、奇妙にそれを故郷の空の色に染めてやりたい、と思った。
故郷は、遠い。
そしてもう既に無いのだ。危険な文章を書いたために追われただけではない。既に、彼の居た星域は、人間の住める環境ではなくなってしまっていたのだ。
ただ、彼女と違って、彼は自発的に流れ着いたクチだったから、街に紛れ込み、居ない人間に成り代わるという技が可能だった。彼女は彼自身がそうなっていたかもしれない姿だった。
……だが結局は、どんな理屈も、関係ないのかもしれない、と時々彼は思う。
同じように流れ着いた女はたくさんいる。その中に若い、薄青の瞳の女も居ただろう。
だけど。彼は思う。自分が見付けてしまったのは、サァラなのだ。
つまりは、そういうことなのだろう、と彼は思う。
デスクに突っ伏して、彼女が眠っていた。すうすうと寝息を心地よさそうに立てて。
このまま寝かせてやったほうがいいんだろうか、と彼は一瞬考える。だがそれでは、気分のほうは切り替わらないのではないか、と思ったので、ディックは彼女の肩に手を置いた。
「……あ、お帰りなさい」
「ただいま。仕事、キリついた?」
「うん何とかね」
だが上げた顔は、少しばかり疲れ以外のものが浮かんでいた。目の下が、赤く腫れている。泣いたのだろう、と彼は思う。
「今から出られる?」
「うんすぐ支度するわ。……ああ、ひどい顔……」
鏡を手にするなり彼女はつぶやいた。そしてそれをデスクの上に戻すと、彼女はぽつんとつぶやいた。
「……ケンカしちゃったんだ」
「ん? 二人と?」
サァラはうん、とうなづく。
「……別に、まあ何ってことないことがきっかけなんだけど……」
彼女はそれから、堰を切ったように喋りだした。ディックは彼女の話を聞きながら、それでも少しは店で腹に入れておいて良かった、と思う。こうなってしまっては、すぐに外に出るという訳にはいかないだろう。
彼女のこういう態度が「いつも」だったら、自分は決してこんな根気強くないだろう、と彼は思う。彼女は弱音を吐くことが少ないから、時々押し寄せてくる疲れのようなものにひどく弱いのだ。
彼はそれを出会った頃から知っていたから、そんな時には、自分が露骨なまでに彼女に優しくなるのは知っていた。意識的にそうしていた。それがそういう時に彼女には必要だ、と知っていたから。
最初に出会ったのは、数年前。まだ彼も、ルナパァクに来てから一年と経ってはいない頃だった。「外」での記者経験が役に立っていた。その頃彼の居るDear Peaopleでは外回りをする記者が一人減ったばかりで、少しでも経験のある彼は、とにかく何処にでも出されていたものだった。
その時は、流れ込んだ身よりの無い女性達のコミュニティの取材だった。古来からあるように、そのコミュニティも、教会絡みのものだった。彼は許可をもらって、その女性ばかりの場所に足を踏み入れた。
そして8:2の割合で、疲れた顔と希望を持った顔が並ぶ中で、彼女は2の方だった。お仕着せの服を身に付け、黒い髪も、戦火から逃げる途中に切ったのか何なのか、不自然に短かったが、その下の薄青の瞳が、ひどく印象的だった。
インタビウに応じてくれた彼女は、やがてそこを出て外に職を見付けた。そのお祝いと称した夕食を一緒に摂った日から、彼等のつき合いは始まった。
そして、幾つかの季節が過ぎ、彼女が自分の仕事を手元に置いた、小さなオフィスを開きたい、と言った時に、彼等は一緒に住むことにした。
長いようで短く、短いようで、長い年月だった。
そして、つき合いだした時に、彼はサァラの中には、ぽっかりと、暗く深い穴が空いていることに気付いた。断片的にしかない過去は、彼女をひどく時々不安にさせた。だがその不安を、周囲の人には悟られないように、なるべく明るく振る舞おうとする。そんなところが、彼はとても見ていて、切なかったのだ。
「……あ、また言っちゃった…… ごめんね。お腹空いてるでしょ。すぐ服代えるから」
「いやいいよ。たまには、デリバリー頼もうか」
そう言ってディックは、ぽんぽん、と端末の一つを叩くと、スクリーンにざっとデリバリーのできる店のリストが上がった。
「何がいい?」
「そうね…… うん、ピザがいいな」
「ピザ? もっといいもの頼めよ」
「だって店じゃ大口開けて食べられないんだもの」
「俺の前じゃいいのかよ」
「だってあなたの前じゃない」
それはそうだ、と彼は思う。出会った当初は、人前で食事をするのを嫌っていたくらいの人見知りだった。本当にこうやって食べるのが正しいのか判らない、と言っていた。
足下に何も無いような、不安があるのだ、と彼女は言う。何処の星で生まれ育ったのかも判らないから、もしそれがそこでは奇妙だと思われる習慣だったとしても、それに抗弁する術がないのだ、と。
だから行動がひどく臆病になっていたのだ、と最初に一緒に食事をした時に彼女は言った。既に彼等は彼女がコミュニティから外へ仕事探しに行く時などにちょくちょく会っていた。その薄青の瞳が、不安そうに曇ることがあると、奇妙にそれを故郷の空の色に染めてやりたい、と思った。
故郷は、遠い。
そしてもう既に無いのだ。危険な文章を書いたために追われただけではない。既に、彼の居た星域は、人間の住める環境ではなくなってしまっていたのだ。
ただ、彼女と違って、彼は自発的に流れ着いたクチだったから、街に紛れ込み、居ない人間に成り代わるという技が可能だった。彼女は彼自身がそうなっていたかもしれない姿だった。
……だが結局は、どんな理屈も、関係ないのかもしれない、と時々彼は思う。
同じように流れ着いた女はたくさんいる。その中に若い、薄青の瞳の女も居ただろう。
だけど。彼は思う。自分が見付けてしまったのは、サァラなのだ。
つまりは、そういうことなのだろう、と彼は思う。
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