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第12話 帝、仲忠を言葉で追いつめて母を呼び出させようとする
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「そう言えば、藤壺は居ないのか?」
自分の妃達の御簾の中へ入ると、東宮はすぐさまそう問いかけた。
「せっかく右大将が仲忠を連れてきたといううのに」
「あの方がいらっしゃらないと、私とても寂しゅうございます。あの方がおいでになるのが、私にとっては今日の相撲よりずっと素晴らしいことなのに」
妃の一人、嵯峨院の女四宮がつぶやいた。
ふむ、と東宮は少し考える。
彼はやがて石や貝についたままの、生の海藻を取ると、藤壺にこう添えて送った。
「どうして今日は来ないのだ? 仁寿殿に皆揃っているというのに。
―――どうして見ようとしないのだ? あなたは海底の玉藻を採ろうと深く潜る海女の様に表に出ようとしないのだな―――
私には不思議で仕方が無い。今からでも遅く無いから出ておいで」
それを見た藤壺はこう返す。
「―――人が見る/海松《みる》ことから逃れて、海の底に隠れようとする私/藻ですが、見る目/海松布《みるめ》が障りになって潜ることもできません―――
皆様の目が怖くて」
ふうん、と東宮は返しを見てうなづく。そのまま彼はそれを女四宮にふらりと渡す。
「ほら御覧。評判ほどじゃあないよ」
彼女はどう言っていいのか迷った。その間に東宮は一人で帝の御前へと出て行ってしまった。
女四宮は手元に残った返しを眺める。
ああやっぱり素晴らしい手跡だ、と思う。そして同時にこう気付く。東宮は藤壺がこの場に居ないことを喜んでいる、と。
あくまで直感だった。この時は。
やがて仲忠が兼雅に連れられてやって来た。
仲忠は侍従の時代にもその容貌をずいぶんと褒め称えられていた。そして官位も上がった今、その頃に増して、と皆が感じていた。
一方、彼を連れてきた父右大将にしても、まるで親子には見えない。ほとんど歳の変わらない兄弟だ、と眺める皆が感じる。
正頼は他の者と舞いをしている所だったが、二人に気付くと即座に呼びかけた。
「仲忠は今日はまた、申し分も無い随身を連れているのだね。けど中将の君が、大将の父君を随身とはまあ」
仲忠は黙って軽く目を眇める。
「さてせっかく右近の大将が随身というのに、どうして左近の私がしないでいられようか」
そう言って正頼は兼雅と一緒になって、仲忠を前に押し出す。仲忠は聞こえない程度にそっとため息をつく。
「あ、仲忠さまだ」
「何処にいらしたのですか」
仲忠を探し回っていた少将達や近衛の者もそれを見ると、慌ててついて行く。
涼もその中にそっと紛れ込む。そして夕映えの光の中、物憂げな仲忠の姿はまたたまらない、とこっそり思う。
「やあ、やっと来たな」
帝は左右大将を引き連れるかの様にしてやって来る仲忠を見ると、機嫌良くそう言った。
弾正宮が立って御階《みはし》から下りて仲忠を迎える。
兵部卿宮や他の若宮、それに続き上達部や皇子達、殿上人と、その場に居るありとあらゆる人々が彼を迎えた。
「さて仲忠。宮中に居ながらそなた、どうして私が召した時に来なかったのだ?」
物憂げに首を傾げる息子に代わり、兼雅が口を挟む。
「左近衛の幄《あく》舎で、左大将どのがお盃をしきりにすすめられたのを良いことに、この不肖の息子は無闇に呑んでひどく酔っぱらってしまい、深い葎《むぐら》の下に隠れていたのでございます。草の中で笛の音が聞こえたものですから、そこを探してようやく見つけました」
「なるほど、草笛を吹いたのだな」
帝はくっ、と笑う。
「隠れんぼをしたのでしょう」
「酔っていても遊びの腕前は忘れられないものとみる。
―――大宮の中で今何も恐れる事を知らない人/仲忠は、何を恐れて誰と葎の下で臥していたのかな―――
今も人なぞ居ない様な態度ではないか」
仲忠はそれを聞いてようやく口を開く。
「―――大宮には知り人もない松虫/私は野原の葎で寝る方が気楽なのでございます。相手が居るなど以ての外」
ふうん、とそれを聞いていた東宮も口をはさむ。
「さぁて、その葎が何処なのか、私には判るけどな。
―――松虫が訪れた葎の宿では、一緒に泊まった露が物思いに耽っているだろうよ」
仲忠はあくまで表情を崩すこともなく、返す。
「―――おっしゃる野で宿ることを許されたなら、松虫/私はわざわざの葎を頼りどころとは致しません」
東宮はその歌を正頼に回す。
「―――もし松虫に宿を貸すならば、秋風に違った香の花が現れるでしょう」
正頼はそう詠むと、歌を弾正宮に回す。
「戯れ言でしょうが、懸想人の一人だった私のことも思い出してくれたのですね。
―――毎年秋になると、野辺に匂う花をよそに見ては、松虫/私は空しく旅に時を過ごすのです―――
私は悲しくて辛い、とそれだけ申し上げたいと思います」
さて、と帝は強情な仲忠を見ながら考える。
どうやったらこの青年に物を言わせることができるだろう。
仲忠はその時、帝からやや遠い席に居たのだが、近くへと呼んだ。
碁盤を持って来させ、相手をするように、と命じた。
「さて、何か賭けようか」
ぴく、と仲忠の頬が震える。
「そうだな、大事なものはよそう。ちょっとした口約束がいい。三番勝負だ」
帝はそう言うと、相手に黒石を持たせた。
仲忠はやや躊躇したが、ぱちん、と石を盤上に置いた。
帝の碁の腕はなかなかのものである。宮中の者と勝負しても、大概は勝利する。
それを仲忠が知らない訳は無い。
有利な条件で賭けを持ちかけている。帝も判っている。彼は勝てる勝負を、賭けをしたいのだ。
ただ相手は仲忠である。
彼もまた、非常に強い。気は抜けない、と帝は思っていた。
一方仲忠は。
おかしい、と見ている涼が見るほどにいい加減だった。
魂が何処かに行ったままだ、と思った。
おそらく未だに彼の心は先ほどの藤壺での遊びの中にあるのだろう、と。
思わず涼は額をはたく。何をやっているんだ、と。
彼は帝の考えが手に取る様に読めただけに、ぼぉっとしている仲忠の背をしゃんと伸ばしてやりたい気分だった。
そうこうするうちに、一番は帝が勝利した。
ふと仲忠の目が見開かれた。
涼はちら、と自分の方に向けられた視線に、思い切り顔を歪めてやった。このままだと負けるぞ、と。
その思いが通じたのか、二番は仲忠が勝利した。
だが三番で。
「あ」
思わず仲忠は声を立てた。ふ、と帝は笑った。
「あそこで打ち損なったな」
結果、一目の差で、帝の勝利となった。
「そなたらしくもない」
「いえ実力です」
「さぁて」
実に楽しい、と帝は心底感じた。仲忠がこんな風に打ち間違えることなど、滅多に無いのだ。
一番にしても、気合いが入っていないことなど、帝にはお見通しだった。
それ故にさっさと勝負をつけた。真剣にさせるために。
だから二番は負けた。これは本気だ、と嬉しくなった。
そして三番で。
「さぁて」
実に嬉しそうに帝は言う。
「約束通り、言うことを一つ聞いてもらおうかな」
「何をすれば」
「何、難しいことは無い。もっとも、この趣深い秋の夕暮れなんだもの。私がそなたに言い出すことは並々のことじゃあないよ」
「……」
「そなたももう少し気を付けて勝負をすれば良かったものを」
「自分に出来ますことならば」
「そなたに出来ないことがあるのか?」
「人間ですから、出来ないことくらいあります。しかしその時には理由を申し上げましょう」
「出来ることなら承諾するんだな」
「仰せ事を伺ってから御返事申し上げます」
成る程、と帝はやはり一筋縄ではいかないことに気付く。
仲忠の前に一つの琴が持ち出された。涼はそれを見て成る程、と思う。自分に出された琴「せいひん」だった。
「これこそ今日の口約束には相応しいことだと思うがな。胡茄《こか》の調子に合わせてある。それを変えずに音の限り繰り返し弾くのだ」
仲忠はじっと琴を眺めていたが、やがてぱっと顔を上げた。
「畏れながら、これ以外の仰せ事でしたら、死も厭いません。主上がもし『蓬莱ほうらいの不死薬、悪魔国の優曇華《うどんげ》を採りに行け』と仰られても、仲忠は出来る限り力を尽くしますが、只今の仰せ事だけは、蓬莱山や悪魔国に使いとしてお遣りになるよりも難しゅうございます」
すると帝は大声で笑った。
「二人と得難い勅使だな。だが今蓬莱の山へ不死薬採りに渡ったところで『使いに立った少年少女ですら舟の中で老い』『蓬莱の島は見えても山が見えないと嘆いて』帰るに過ぎないさ」
「……」
「機知に富む秦の始皇帝の徐福、漢の武帝の文成でも、とうとう行き着けなかったその蓬莱だぞ。今そなたがこの日本の国から、何処へ行っていいのかも判らずに不死薬を求める使いになるのは、少々面倒ではないのか?」
少々、の部分に帝は軽く力を置いた。
「それこそ子供達と同じじゃないか?」
「……」
「そうそう、それに道中、佳い女に捕まってしまうかもしれない。文成が遊仙窟に留まった様に! ああ、それだとやっぱり『二なき勅使』そっくりと言えるかな」
それに、と帝は今度はやや真面目な口調になる。
「悪魔国に優曇華を採りに行くとしたら、逆の心配事が起こるだろう」
「逆の」
「そなたは両親が心配ではないのか?」
ぐっ、と仲忠は拳を握りしめた。
「かの金剛大師が南印度から優曇華を採りに渡った理由は知っているだろう?」
はい、と仲忠は答えた。
「彼に悪意を持った当時の皇后が、隣国から親しい人々を迎えて歓待するから、と大師を送り出したのだ。しかし遠い所だ。自然と年月が経ち、親族との死に目に会えずに嘆いたという。そなたも急に親を見捨てて悪魔国に渡るとしたら、どうも少々考えの無い不孝者になるだろうな」
意地悪だなあ、とそれを聞いていた涼は思う。
仲忠にとって確かに両親は大切である。だがその一方で複雑な思いを持っているものである。少なくとも、そのたとえで使われるのは嬉しくないだろう。
「だから、私が言っているのはそんな二とない難しいことではなく、ここでちょっとそなたが知っている調べを一つ弾く様なことだ。優しいことではないか」
そうは仰いましてもね、と涼は内心ため息をつく。
ここで帝に「諾」と言ってしまったら、この先どれだけ佳いように使われるか判らない。自分同様、仲忠はそれがたまらなく嫌なのだ。
琴は自分の好きな時に、好きな様に弾きたい。彼と違って人に幻覚を見せる様な腕を持たない自分でもそう思うのだ。ましてや。
しかし帝は続ける。
「不可能な使いになど行かずに、ただこの琴を一手弾いて聴かせさえすれば、あの不死薬や優曇華を採ることに劣らないと言っているのだ」
おお、と周囲から声が上がる。それほどに、と皆が驚く。
「不死薬を口にした者は一万もの歳を生きるという。かの国の皇帝は困難な使いを遣って、そんなありもしない薬を探させた。優曇華にしたところで同じだ。人の、短い命を長らえさせようとするものだ」
ありもしない。
さらりと流した言葉だったが、そこに涼は帝の聡明さと、仲忠を言葉で責め立てることに楽しみを感じていることを感じた。
「そなたが今夜の賭けに負けて薬や優曇華を採りに行くというのを、ああそうかと言って蓬莱山や悪魔国まで勅使として立たせることは私にはちょっと出来ないことだね」
ちょっと、に力を込め、くすくす、と帝は笑う。
「私がこんなにもそなたを近くに置いて親しくなったというのに、そういう恐ろしい使いとして遠い遠い所へ旅立たせてしまったなら、私はきっと後悔するよ。ああ何であの時仲忠を行かせてしまったのだろう、可哀想に可哀想に、と。それは今生きて、そなたを育てた人々も同様だろう。両親の嘆きを見たいのか? 不死薬を求めに行く途中に死ぬ様なことがあっては本末転倒ではないか」
「……蓬莱は行くには難いところではございません。ただ、不死の薬が枯れてしまったのです」
おや、という様に帝は仲忠を見る。
「ほう。だけど今日は玉山にあるという西王母の家に居るかの様だ。西王母は不死薬を持つという。何でも願いが叶う様な気がする」
「きっと護衛には少年少女が居りますでしょう」
「海は広く風も早いというのに、それをどう止めようというのか?」
仲忠は苦笑する。
「尤もでございます。その様な使いはできません」
そしてその一方で、琴の弾けない趣も漢詩に作って帝に披露する。
「まったくぬけぬけと言うものだな」
結局自分が負けてしまうのか、と帝は悔しくなる。それでは何か琴以外では無いものか、と考える。
ふと一つのことが浮かんだ。
「ああもう仕方が無い。そなたに琴を弾かせるのは無理の様だ」
仲忠の表情が一瞬にして緩む。
「では仕方が無い。その代わり、そなたと良く似た手の者を召しだして参れ」
「似た手」
仲忠の表情が再び引き締まる。帝の思うところを即座に理解したのだろう、と涼は思う。
「そうですね、この筋の手でしたら、右近将監の松方が」
「松方の手は度々耳にする。もう少し珍しい弾き方をする者は居ないのか」
「―――心当たりはございません」
「女の中に居るだろう。思い出してみよ」
ぐっ、と仲忠は唇を噛む。やはりな、と涼はそれを見て思う。
「父方の親戚にも母方の親戚にも、女は大変少うございます。女の方で思いつく方は居りませんし、男では松方以外には」
「そうか?」
「母方の親戚には、祖父の俊蔭朝臣の琴を受け継いで弾く者もありましょう。しかしそれも、さほどのものでは…… 少なくとも仲忠の耳には入ってきません」
「まあそれはそうあろう。身分の高い殿上人で、俊蔭の才をそのまま伝えた者は居ないのか? 絶対に無いとは言えないだろう。それこそをそなた自身の代わりとするがいい。そう、できるだけ早く!」
「主上」
「そなたの手すら聴けないのに、それすら無理だと言うのか、何と悲しいことよ」
「それは」
「連れてきなさい。そなたに直接教えた筋のひとを」
もう断れそうにはなかった。
自分の妃達の御簾の中へ入ると、東宮はすぐさまそう問いかけた。
「せっかく右大将が仲忠を連れてきたといううのに」
「あの方がいらっしゃらないと、私とても寂しゅうございます。あの方がおいでになるのが、私にとっては今日の相撲よりずっと素晴らしいことなのに」
妃の一人、嵯峨院の女四宮がつぶやいた。
ふむ、と東宮は少し考える。
彼はやがて石や貝についたままの、生の海藻を取ると、藤壺にこう添えて送った。
「どうして今日は来ないのだ? 仁寿殿に皆揃っているというのに。
―――どうして見ようとしないのだ? あなたは海底の玉藻を採ろうと深く潜る海女の様に表に出ようとしないのだな―――
私には不思議で仕方が無い。今からでも遅く無いから出ておいで」
それを見た藤壺はこう返す。
「―――人が見る/海松《みる》ことから逃れて、海の底に隠れようとする私/藻ですが、見る目/海松布《みるめ》が障りになって潜ることもできません―――
皆様の目が怖くて」
ふうん、と東宮は返しを見てうなづく。そのまま彼はそれを女四宮にふらりと渡す。
「ほら御覧。評判ほどじゃあないよ」
彼女はどう言っていいのか迷った。その間に東宮は一人で帝の御前へと出て行ってしまった。
女四宮は手元に残った返しを眺める。
ああやっぱり素晴らしい手跡だ、と思う。そして同時にこう気付く。東宮は藤壺がこの場に居ないことを喜んでいる、と。
あくまで直感だった。この時は。
やがて仲忠が兼雅に連れられてやって来た。
仲忠は侍従の時代にもその容貌をずいぶんと褒め称えられていた。そして官位も上がった今、その頃に増して、と皆が感じていた。
一方、彼を連れてきた父右大将にしても、まるで親子には見えない。ほとんど歳の変わらない兄弟だ、と眺める皆が感じる。
正頼は他の者と舞いをしている所だったが、二人に気付くと即座に呼びかけた。
「仲忠は今日はまた、申し分も無い随身を連れているのだね。けど中将の君が、大将の父君を随身とはまあ」
仲忠は黙って軽く目を眇める。
「さてせっかく右近の大将が随身というのに、どうして左近の私がしないでいられようか」
そう言って正頼は兼雅と一緒になって、仲忠を前に押し出す。仲忠は聞こえない程度にそっとため息をつく。
「あ、仲忠さまだ」
「何処にいらしたのですか」
仲忠を探し回っていた少将達や近衛の者もそれを見ると、慌ててついて行く。
涼もその中にそっと紛れ込む。そして夕映えの光の中、物憂げな仲忠の姿はまたたまらない、とこっそり思う。
「やあ、やっと来たな」
帝は左右大将を引き連れるかの様にしてやって来る仲忠を見ると、機嫌良くそう言った。
弾正宮が立って御階《みはし》から下りて仲忠を迎える。
兵部卿宮や他の若宮、それに続き上達部や皇子達、殿上人と、その場に居るありとあらゆる人々が彼を迎えた。
「さて仲忠。宮中に居ながらそなた、どうして私が召した時に来なかったのだ?」
物憂げに首を傾げる息子に代わり、兼雅が口を挟む。
「左近衛の幄《あく》舎で、左大将どのがお盃をしきりにすすめられたのを良いことに、この不肖の息子は無闇に呑んでひどく酔っぱらってしまい、深い葎《むぐら》の下に隠れていたのでございます。草の中で笛の音が聞こえたものですから、そこを探してようやく見つけました」
「なるほど、草笛を吹いたのだな」
帝はくっ、と笑う。
「隠れんぼをしたのでしょう」
「酔っていても遊びの腕前は忘れられないものとみる。
―――大宮の中で今何も恐れる事を知らない人/仲忠は、何を恐れて誰と葎の下で臥していたのかな―――
今も人なぞ居ない様な態度ではないか」
仲忠はそれを聞いてようやく口を開く。
「―――大宮には知り人もない松虫/私は野原の葎で寝る方が気楽なのでございます。相手が居るなど以ての外」
ふうん、とそれを聞いていた東宮も口をはさむ。
「さぁて、その葎が何処なのか、私には判るけどな。
―――松虫が訪れた葎の宿では、一緒に泊まった露が物思いに耽っているだろうよ」
仲忠はあくまで表情を崩すこともなく、返す。
「―――おっしゃる野で宿ることを許されたなら、松虫/私はわざわざの葎を頼りどころとは致しません」
東宮はその歌を正頼に回す。
「―――もし松虫に宿を貸すならば、秋風に違った香の花が現れるでしょう」
正頼はそう詠むと、歌を弾正宮に回す。
「戯れ言でしょうが、懸想人の一人だった私のことも思い出してくれたのですね。
―――毎年秋になると、野辺に匂う花をよそに見ては、松虫/私は空しく旅に時を過ごすのです―――
私は悲しくて辛い、とそれだけ申し上げたいと思います」
さて、と帝は強情な仲忠を見ながら考える。
どうやったらこの青年に物を言わせることができるだろう。
仲忠はその時、帝からやや遠い席に居たのだが、近くへと呼んだ。
碁盤を持って来させ、相手をするように、と命じた。
「さて、何か賭けようか」
ぴく、と仲忠の頬が震える。
「そうだな、大事なものはよそう。ちょっとした口約束がいい。三番勝負だ」
帝はそう言うと、相手に黒石を持たせた。
仲忠はやや躊躇したが、ぱちん、と石を盤上に置いた。
帝の碁の腕はなかなかのものである。宮中の者と勝負しても、大概は勝利する。
それを仲忠が知らない訳は無い。
有利な条件で賭けを持ちかけている。帝も判っている。彼は勝てる勝負を、賭けをしたいのだ。
ただ相手は仲忠である。
彼もまた、非常に強い。気は抜けない、と帝は思っていた。
一方仲忠は。
おかしい、と見ている涼が見るほどにいい加減だった。
魂が何処かに行ったままだ、と思った。
おそらく未だに彼の心は先ほどの藤壺での遊びの中にあるのだろう、と。
思わず涼は額をはたく。何をやっているんだ、と。
彼は帝の考えが手に取る様に読めただけに、ぼぉっとしている仲忠の背をしゃんと伸ばしてやりたい気分だった。
そうこうするうちに、一番は帝が勝利した。
ふと仲忠の目が見開かれた。
涼はちら、と自分の方に向けられた視線に、思い切り顔を歪めてやった。このままだと負けるぞ、と。
その思いが通じたのか、二番は仲忠が勝利した。
だが三番で。
「あ」
思わず仲忠は声を立てた。ふ、と帝は笑った。
「あそこで打ち損なったな」
結果、一目の差で、帝の勝利となった。
「そなたらしくもない」
「いえ実力です」
「さぁて」
実に楽しい、と帝は心底感じた。仲忠がこんな風に打ち間違えることなど、滅多に無いのだ。
一番にしても、気合いが入っていないことなど、帝にはお見通しだった。
それ故にさっさと勝負をつけた。真剣にさせるために。
だから二番は負けた。これは本気だ、と嬉しくなった。
そして三番で。
「さぁて」
実に嬉しそうに帝は言う。
「約束通り、言うことを一つ聞いてもらおうかな」
「何をすれば」
「何、難しいことは無い。もっとも、この趣深い秋の夕暮れなんだもの。私がそなたに言い出すことは並々のことじゃあないよ」
「……」
「そなたももう少し気を付けて勝負をすれば良かったものを」
「自分に出来ますことならば」
「そなたに出来ないことがあるのか?」
「人間ですから、出来ないことくらいあります。しかしその時には理由を申し上げましょう」
「出来ることなら承諾するんだな」
「仰せ事を伺ってから御返事申し上げます」
成る程、と帝はやはり一筋縄ではいかないことに気付く。
仲忠の前に一つの琴が持ち出された。涼はそれを見て成る程、と思う。自分に出された琴「せいひん」だった。
「これこそ今日の口約束には相応しいことだと思うがな。胡茄《こか》の調子に合わせてある。それを変えずに音の限り繰り返し弾くのだ」
仲忠はじっと琴を眺めていたが、やがてぱっと顔を上げた。
「畏れながら、これ以外の仰せ事でしたら、死も厭いません。主上がもし『蓬莱ほうらいの不死薬、悪魔国の優曇華《うどんげ》を採りに行け』と仰られても、仲忠は出来る限り力を尽くしますが、只今の仰せ事だけは、蓬莱山や悪魔国に使いとしてお遣りになるよりも難しゅうございます」
すると帝は大声で笑った。
「二人と得難い勅使だな。だが今蓬莱の山へ不死薬採りに渡ったところで『使いに立った少年少女ですら舟の中で老い』『蓬莱の島は見えても山が見えないと嘆いて』帰るに過ぎないさ」
「……」
「機知に富む秦の始皇帝の徐福、漢の武帝の文成でも、とうとう行き着けなかったその蓬莱だぞ。今そなたがこの日本の国から、何処へ行っていいのかも判らずに不死薬を求める使いになるのは、少々面倒ではないのか?」
少々、の部分に帝は軽く力を置いた。
「それこそ子供達と同じじゃないか?」
「……」
「そうそう、それに道中、佳い女に捕まってしまうかもしれない。文成が遊仙窟に留まった様に! ああ、それだとやっぱり『二なき勅使』そっくりと言えるかな」
それに、と帝は今度はやや真面目な口調になる。
「悪魔国に優曇華を採りに行くとしたら、逆の心配事が起こるだろう」
「逆の」
「そなたは両親が心配ではないのか?」
ぐっ、と仲忠は拳を握りしめた。
「かの金剛大師が南印度から優曇華を採りに渡った理由は知っているだろう?」
はい、と仲忠は答えた。
「彼に悪意を持った当時の皇后が、隣国から親しい人々を迎えて歓待するから、と大師を送り出したのだ。しかし遠い所だ。自然と年月が経ち、親族との死に目に会えずに嘆いたという。そなたも急に親を見捨てて悪魔国に渡るとしたら、どうも少々考えの無い不孝者になるだろうな」
意地悪だなあ、とそれを聞いていた涼は思う。
仲忠にとって確かに両親は大切である。だがその一方で複雑な思いを持っているものである。少なくとも、そのたとえで使われるのは嬉しくないだろう。
「だから、私が言っているのはそんな二とない難しいことではなく、ここでちょっとそなたが知っている調べを一つ弾く様なことだ。優しいことではないか」
そうは仰いましてもね、と涼は内心ため息をつく。
ここで帝に「諾」と言ってしまったら、この先どれだけ佳いように使われるか判らない。自分同様、仲忠はそれがたまらなく嫌なのだ。
琴は自分の好きな時に、好きな様に弾きたい。彼と違って人に幻覚を見せる様な腕を持たない自分でもそう思うのだ。ましてや。
しかし帝は続ける。
「不可能な使いになど行かずに、ただこの琴を一手弾いて聴かせさえすれば、あの不死薬や優曇華を採ることに劣らないと言っているのだ」
おお、と周囲から声が上がる。それほどに、と皆が驚く。
「不死薬を口にした者は一万もの歳を生きるという。かの国の皇帝は困難な使いを遣って、そんなありもしない薬を探させた。優曇華にしたところで同じだ。人の、短い命を長らえさせようとするものだ」
ありもしない。
さらりと流した言葉だったが、そこに涼は帝の聡明さと、仲忠を言葉で責め立てることに楽しみを感じていることを感じた。
「そなたが今夜の賭けに負けて薬や優曇華を採りに行くというのを、ああそうかと言って蓬莱山や悪魔国まで勅使として立たせることは私にはちょっと出来ないことだね」
ちょっと、に力を込め、くすくす、と帝は笑う。
「私がこんなにもそなたを近くに置いて親しくなったというのに、そういう恐ろしい使いとして遠い遠い所へ旅立たせてしまったなら、私はきっと後悔するよ。ああ何であの時仲忠を行かせてしまったのだろう、可哀想に可哀想に、と。それは今生きて、そなたを育てた人々も同様だろう。両親の嘆きを見たいのか? 不死薬を求めに行く途中に死ぬ様なことがあっては本末転倒ではないか」
「……蓬莱は行くには難いところではございません。ただ、不死の薬が枯れてしまったのです」
おや、という様に帝は仲忠を見る。
「ほう。だけど今日は玉山にあるという西王母の家に居るかの様だ。西王母は不死薬を持つという。何でも願いが叶う様な気がする」
「きっと護衛には少年少女が居りますでしょう」
「海は広く風も早いというのに、それをどう止めようというのか?」
仲忠は苦笑する。
「尤もでございます。その様な使いはできません」
そしてその一方で、琴の弾けない趣も漢詩に作って帝に披露する。
「まったくぬけぬけと言うものだな」
結局自分が負けてしまうのか、と帝は悔しくなる。それでは何か琴以外では無いものか、と考える。
ふと一つのことが浮かんだ。
「ああもう仕方が無い。そなたに琴を弾かせるのは無理の様だ」
仲忠の表情が一瞬にして緩む。
「では仕方が無い。その代わり、そなたと良く似た手の者を召しだして参れ」
「似た手」
仲忠の表情が再び引き締まる。帝の思うところを即座に理解したのだろう、と涼は思う。
「そうですね、この筋の手でしたら、右近将監の松方が」
「松方の手は度々耳にする。もう少し珍しい弾き方をする者は居ないのか」
「―――心当たりはございません」
「女の中に居るだろう。思い出してみよ」
ぐっ、と仲忠は唇を噛む。やはりな、と涼はそれを見て思う。
「父方の親戚にも母方の親戚にも、女は大変少うございます。女の方で思いつく方は居りませんし、男では松方以外には」
「そうか?」
「母方の親戚には、祖父の俊蔭朝臣の琴を受け継いで弾く者もありましょう。しかしそれも、さほどのものでは…… 少なくとも仲忠の耳には入ってきません」
「まあそれはそうあろう。身分の高い殿上人で、俊蔭の才をそのまま伝えた者は居ないのか? 絶対に無いとは言えないだろう。それこそをそなた自身の代わりとするがいい。そう、できるだけ早く!」
「主上」
「そなたの手すら聴けないのに、それすら無理だと言うのか、何と悲しいことよ」
「それは」
「連れてきなさい。そなたに直接教えた筋のひとを」
もう断れそうにはなかった。
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武士も町人も、不器用にしか生きられない男と女。男が呻吟し女が慟哭する・・・
剣が舞い落花が散り・・・時代小説の愉しみ
幕末博徒伝
雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
江戸時代、五街道の内の一つ、甲州街道が整備され、宿場町として賑わった勝沼は、天領、つまり、徳川幕府の直轄地として代官所が置かれていた。この頃、江戸幕府の財政は厳しく、役人の数も少なかったので、年貢の徴収だけで手がいっぱいになり、治安までは手が回らなかった。その為、近隣在所から無宿人、博徒、浪人などが流れ込み、無政府状態になっていた。これは、無頼の徒が活躍する任侠物語。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
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私の露出…
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