画中の蛾

江戸川ばた散歩

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 その時、がたん、と音が彼の耳に届いた。

「おい……何か聞こえなかったか?」
「聞こえない」

 そう言ってはるは生気の補給だか供給だか判らぬ行為を続けていたのだが、どうにも彼のよく聞こえる耳には、その音が、気になって仕方がない。

「ちょっと待て」

 彼はさすがにはるの身体を押しのけた。

「確かに、聞こえるんだぞ。何か、居るんじゃないか? 家ん中に」
「てっちゃんが忘れ物でもしたんかなぁ?」

 やれやれ、ともぶつぶつ、ともつかない口調で口の中で文句を言いながらも、はるは彼の言うとおり、家の中をのぞいてみることにして、とんとんと段差を上がった。
 磨き込まれた廊下をそのままの足取りで二人が進んでいくと、ふとはるが足を止める。 思わず彼はつまづきそうになる。

「何だよっ!」
「あれま」

 ちょいちょい、とはるは彼を手招きし、ふわふわと辺りの大気をかき集めるような動作をする。

「判ったか?」
「ああ」

 彼はやや険しい顔つきになる。それははるも同様だった。そして一つの襖の前まで行くと、勢いよくはるはそれを開けた。部屋の真ん中に敷かれた布団が、半分だけ開いている。

「やっぱり無いで…… 誰かが盗りおったな」
「ちょっと待て」

 確信を持ったように言い放つはるに、彼はふと眉間にシワを寄せ、こめかみに指を当てる。

「何や」
「んー」
「何でここなんだよ?」

 彼は布団を指す。それははるの寝床であった。
 小柄な彼が眠るだけにはずいぶんと大きなそれは部屋の真ん中に敷かれていたのだが、どうも、はるは掛け軸をこの中に置いていたような気配がある。

「何でてなぁ。そらそうやろ。美少年が無防備に寝てる間に、すけべな妖怪が忍んでこないとも限らんからな。お守りや」
「お前、言ってて恥ずかしくならないか?あがー…」
「結構伸びるな、このほっぺた」

 平然としたまま、はるは先ほどまで実に楽しそうについばんでいたところをつまんで伸ばす。だがそれは今度は長続きはしなかった。

「と、こんなことしている場合やない。何や、誰や知らんが、知らんで取っていったんなら、大変なことになるかもしれんで」
「おい、じゃ、どうすんだよっ」

 さすがにはるも、目を閉じ、腕を組んで黙り込んだ。だがそれもまた長続きせず、ぱっと顔を上げる。そしてする、と帯を解く。まさかこんな時に、と彼はやや身を引くが、そうではなかった。はるはその部屋の押入をがらりと開ける。そしてちら、と肩越しに後ろを向くと、素っ気なく言葉を投げた。

「何見てんのや。着替えするんや。出てき」

 何を今更、と彼は思ったが、冗談にしろ聞かないことには話が進みそうにないので、とりあえず先ほどはるがかき回し、その気配の通り道を明らかにした部分を追ってみた。
 どうやら、侵入者は庭から縁側を通って中に入ったらしい。
 彼は下駄を突っ掛けて庭に出る。煌々と輝く月の光の下、樹木の気配に混じって、若い男が通り抜けた気配があった。
 彼はふらりと手を上げる。腕の毛が、その方向に立ち上がる。

「判ったんか?」
「おい」
「あっち」

 洋服に着替えたはるが、玄関から靴を履いて走り出てきた。
 彼はその格好を見てまた頭を抱える。 絶対にこれはちゃんと選んできたぞ、というのが丸判りである。白いシャツに細かい格子のベスト、同じ柄のズボン、いやややニッカーボッカーに近いのだろうか、膝の辺りが張らんでいる。そして頭には更に同じ柄の鳥打ち帽。足には焦げ茶の編み上げ靴。
 ただし上着は無い。そんな格好でお前寒くはないのか、と言いたくなるのだが、腕を丸ごと向きだしにしている彼には無論言う権利はない。
 だがそれが似合っているからもうどうしようもない。はるはちら、と彼の方を向くと、短く訊ねた。
 脱力しつつ、彼は手をふらりと上げた。するとはるは彼のその手を取ると、ぎゅっと掴んで引っ張った。

「……何だよ、俺も行くのかよ?」
「当然やろ。気配がするんなら、先に追わんかい」

 ちぇ、と彼は舌打ちをする。何だって俺が、と言いたいのは山々なのだが、まあ仕方がない。
 彼は一度深呼吸をする。月は中天にあり。
 一度背をくっ、ときつく丸めると、次の瞬間、彼の背中から大きな黒い翼が飛び出した。
 それは昼間、はるが飛び出させたものとは桁が違った。昼間のそれがまるでお飾りのように思える程、それは大きく、そして力強く広がる。
 そして彼は腕に力を込め、それを大きく開いた。腕の毛が、ざっと音がするくらい勢いよく、伸びて彼の筋肉のついた腕を覆う。

「早くしろよ!」

 はるにそう言葉を投げると、彼は一度反動をつけて、空へ舞い上がった。はるはそれを下からながめ、 ぐるん、と一度大きく首を回した。
 黒い、大きな翼は、やや肌寒い大気をはらんで、大きく上下する。はるは目を細め、しばらくそれを眺めていたが、やがて、足を速めた。
 彼は侵入者の気配をたどり、はるは彼の気配をたどる。
 空を行くのは、久しぶりだった。少なくとも、あの家で、はると一緒に暮らしだしてからは、そうそう空を行くこともなかった。
 ひんやりとした大気の中、風の抵抗すら、心地よい。
 このまま遠くまで飛んでみるのも悪くないかな、と何となく彼は思う。だが、頬に当たる感覚が、 それを許さない。あの掛け軸の持つ、ちりちりとした同類項の感覚。
 無論、妖と言ったところでピンからキリまである訳である。
 彼は自分自身のことなど殆ど知らなかったが、はるが封じ込んだというのが、蛾の卵だとするなら、それがもし飛び出したら、結構とんでもないことになるだろうことくらいは予想がついていた。
 蛾である。まあ蝶であっても大した変わりはない。別段それ自体にその意志があろうと無かろうと、その封印が何かの拍子で壊れて飛び出したなら、その羽根の持つ燐粉は、結構な毒になっているだろう。一応極彩色の羽根を持つものでも、「蝶」ではなく「蛾」という認識であるならば。
 おまけに人間の「運」まで食らって育っていたなら。
 無論自分は妖なので、別に人間の世界に恩義がある訳でもないし、どうこうする義理もないのだ。それに、わざわざ人間の「運」を食らってまで生き延びようとする妖にどれだけの罪があるのだ、と言えば、そう生まれたことがいけないということになってしまうので、やや複雑な気分にならなくもない。
 のだが。
 ふわ、とやや高度を下げる。彼は目を凝らす。無論彼の目はよく見える。それが闇であっても。月明かりなら、彼には昼と変わらない。
 ……居た。
 ああこんな格好では今時分は寒いだろう、と思われるくらいの薄着で、学生らしい青年が走っていた。
 彼は大気に乗って、ゆっくりと下降する。近づく。だがどうも、前へ前へと進むことにばかり気を取られている学生には、頭上の彼に気付く余裕はないらしい。
 はあはあ、と息づかいの荒いのさえ聞こえてくる程に近づいた時、彼は一度大きく上に舞い上がり、学生の頭上を飛び越えた。
 ばさばさ、と音を立てて、彼はちょうど街灯の明かりが冷たく光る中、舞い降りた。
 学生の足が、止まる。
 街灯の明かりに、その顔が、姿が彼の目にもくっきりと判る。さほど大きくもない目が、驚きのあまり、小さいままでもまん丸くなっている。何やらにょきにょきとそれでもよく伸びたなあ、と言いたくなるような手足が、次の一歩を踏み出すべきか否か、迷っているように見えた。
 そして口は、ぱかっ、と。
 全体的に見れば、実に間抜けな格好である。だが当の本人は必死だった。手には例の掛け軸を、確かに握っている。彼は学生に向かって、ゆっくりと歩み寄る。

「な、何やお前っ!!」

 おや、と彼は思う。こいつもまたはると似た言葉を使うらしい。
 彼は毛の伸びた手をぬっと伸ばす。学生の身体がのけぞる。

「返してもらおう」

 彼はいつもよりやや低い声を出す。

「…い、嫌やっ!!」

 学生は、それでも月と街灯の光の下でも判るくらい、顔色が白くなっていた。

「そんなもの盗ったって、お前何にもならないぞ。売ったって金にもならん」

 学生は、このどう見てもばけもの以外の何ものでもない者が妙に世俗にまみれたような言葉を言うのに一瞬頭が混乱したが、だがそれでも、まだ恐怖の方が勝った。
 何せ、目の前に居るのは。
 ……人間にも似てる。黒い眉の下の瞳は、ずいぶんと大きく、きらきらとしているけど、それでも知性の光はある。口も、何やら共通語を喋ってるではないか。 腕も、手も、……毛は長い。
 長すぎると言ってもいいが、一応人間に見えなくもない。
 たが、決定的に違うものがある。
 その背には、大きな翼。こんな夜だから、細かい色の違いまでは判らないが、大まかに言えば黒。
 自分の目が狂っていなければ、それは明らかに、自分の上から舞い降りてきた。空を飛べる、異なのだ。誰かが自分を驚かそうとして飾り立てた、作り物の翼ではないのだ。
 そして尻尾。……尾てい骨という名残があるから人間もそりゃ、遠い遺伝子の昔には尻尾があったのかもしれないけど、今の今、現代のアウストラロピテクスじゃなくて、シナントロプスペキネンシスじゃなくてえーとピテカントロプス……
 理系学生の頭の中に、ばーっと知識が飛び交う。
 とにかく、これは人間じゃないんや!
 と思った瞬間、学生の身体は廻れ右をした。そして今まで必死で駆けて来た道を引き返す。俺一体何やっとんのや、と思っても仕方ない。こんなものに何かされてはかなわん。
 それを彼は、低空飛行で追いかける。いっそ走った方が早いのではないか、とこのあまり広くはない道では思うのだが、まあ相手を怖がらせるには確かにこの方が効果的なのだ。
 学生は、それでも掛け軸をしっかりと手に握ってひたすら走る。月の光が、ひどく冷たく感じる。走って、走って、身体は熱くなってるはずなのに、背筋が寒い。背後の気配。 羽根のばたつく音。
 俺が一体何をしたって言うんや!と手の中の掛け軸のことなど忘れたような叫びを内心放つ。
 と。学生は正面から、人が歩いてくるのに気付いた。やめろこっちへ来るんやない。ばけもんが居るんや……
 だが、その人影は平然として、ポケットに手を突っ込んだまま、その場に立ち止まった。

「あんた何してるんやっ!!こ、これが見えへんか?」
「あ、関西のひとや」

 学生はそののほほんとした口調に、足を止める。街灯の明かりが、そののほほんとした言葉の主を映し出す。小柄な、その姿。
 見覚えがある。格好は違う。こんなハイカラな格好はしてへんかったけど……

「悪いけどな、返してくれへんか?」

 これは、あの時あの青年と話していた!
 と。動揺のスキをついて、背後の妖はず、と学生の小脇に腕を伸ばした。その手が、掛け軸の端を握る。学生はとっさにそれを掴んだ。

「離せよっ!!」

 だが。

「げ」

 彼は学生に向かって怒鳴る。その声に学生は、思わず妖と見つめ合ってしまう。真剣な視線。その強さに、学生は思わず力が緩んだ。あ゛、と小さく声を漏らすと、その手から掛け軸は、離れていた。
 どういう具合だろう。その巻いた掛け軸にくるくると絡み付いていた紐が、その拍子に、緩んだ。
 あ、と声を立てたのは、彼と学生、同時だった。はるは、と言えば。
 その時まで半ば閉じたようだった瞳が、かっと大きく開いた。
 解かれて落ちる紐、同時にそれはやっと自由になったとばかりに、ひとりでにするすると広がる。暗い夜道に、街灯の明かりに、その掛け軸の白が、妙に浮き立った。
 と学生はその時広がったその紙の上に描かれたものを見て、思わず声を立てた。さすがにこれじゃ、金を借りる足しにはならない。

「ちょい待ち」

 あーあ、と言う声が、そばでかがむ妖から漏れたような気がした。そう言いたいのは俺や、と学生は言いたいような気持になる。
 だがそうなったら、もう。学生は、逃げることにした。足が自然に前に動こうとする。だが。
 華奢な腕が、その身体を止める。力など何も入れている様子はないのに、何って力だ。

「別にキミには何の関わりも無ければない筈やったんやけどなぁ……まあ最後まで見て行き」

 そしてその華奢な腕は、そのまま学生を近くの壁にと押しつけ、縫い止めた。

「……おい」

 低い声が、妖の口から漏れる。明らかにその声は、その華奢な腕の主に向けて発したものだ、と学生は思った。
 はるは目を大きく開けたまま、彼が目でうながす方を見据える。
 ひとりでに、それは広がったのだ。そして、そのまま、それはわさわさとその白い紙を、周囲のきらびやかな布をはためかせている。
 何かが、動いている、と学生は動けないままに、思った。
 はるは不意にその端を掴むと、何処にそんな力があったのか、掛け軸を縦に思い切り引き裂いた。
 学生の耳に、一瞬、耳が痛くなるほどの高音が響いた。何やと学生は目を細める。
 はるは真二つに分かれた掛け軸を両の手に持ち、そのまま大きく広げた。
 耳を塞いでしまいたい、と学生は、思った。いや無闇に大きい訳ではない。だがあるだろう。不意に、講義中の教授が、質の悪いチョークで思い切り黒板に線をひっかいてしまった時。
 図書館を掃除するおばちゃんが、たまたま切り忘れた爪で、雑巾と一緒にすりガラスを大きく拭いてしまった時のような。
 そんな音が、一気にその周囲を切り裂いた。
 学生は次の瞬間、目を見張った。
 自分の見ているものが信じられなかった。
 引き裂かれた掛け軸の、はるの持つ両片の間から、白くぼんやりとしたものがゆらりと現れる。
 あ! と学生が声を立てる間もなく、それは形を取り始めた。
 大きな、丸みを帯びた、三つの部分にくびれた胴体。六本の足。大きな目。きっとそれは複眼だ。まだぼんやりしているから判らないが、きっとはっきりすればつぶつぶしているはず…… その上、人間ならさしずめ額にあたる部分に、触角。ああまるで鳥の一枚羽根のようだ。
 そして羽根といえば。

「どうする?」

 羽化、だ、とその時学生は感じていた。
 極彩色というにはあまりにも毒々しい色合い。光を放つような黄色と赤が、黒、もしくは白みを帯びた茶色の中に、目のような、時には渦のような模様を描いている。じっと見つめていると、眩暈がしそうだ。
 そしてその羽根が、伸びをするように反った身体に湿り気をもって、まとわりついていたのが、ゆっくり、だが確実に広がりつつあった。
 と彼ははるに訊ねた。はるは即答する。

「濡れてるうちに、帰す」
「何処へ」
「あれの居るべき世界へ」

 お前そんなことできるのか、と彼は聞きそうになって、慌てて止めた。そうはるが言うのなら、きっとできるのだろう。彼は改めてその蛾の妖に視線を走らせた。

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