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5章-13
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「いや……いやです」
シャラは笑みを浮かべるエージャに、拒絶の言葉を突き付けた。
「どうして? スーティー家に行ければよくしてもらえるわよ? 毎日違う服を着て、美味しいものを食べて――」
「わたし、貧乏でも今の暮らしが好きです!」
心底恐ろしくなって、シャラは、ちら、と水面に目をやった。
氷が浮いている。
きっと、冷たい。
だが大運河よりは何十倍も岸が近い。
逃げ出すなら、今のうちだ。
行くしかない。
意を決して、水の中に飛び込んだ。
「――シャラ!」
水しぶきが上がったとき、自分を呼ぶ声を聞いた。
聞き覚えのある――愛おしい声。
しかし二度同じ声を聞こうとすると、途端に酷く耳が痛んだ。
耳だけではない。手も、足も、顔も、首も、切れるような冷たさに襲われる。
胸のあたりが圧迫されるような感じがし、身体が縮むような気がして、たちまち全身が苦しくなる。
氷のかけらが残る水は、意外に泥っぽくまとわりついてきた。
「シャラ!」
再び声がして、薄眼を開けたシャラの前に手の平が見えた。
シャラは懸命にもがいた。
スカートが絡む足をいっぱいに蹴りだし、めいっぱい腕を伸ばし、きっと自分を救ってくれるその手の平を、全力で目指した。
そしてある瞬間強い力に腕を引かれたとき、
「――シャラ、大丈夫か」
シャラは陸に引き上げられていた。
手を握っていたのは、ソーレイだ。
「ソーレイ君……」
「ごめん。俺、守るって言ったのに」
ソーレイは自らのコートをシャラに着せ、小さな身体を抱きしめた。
「大丈夫、だよ。助けてくれたもん。ソーレイ君……」
シャラは無理に笑おうとした。
しかし顔が引きつってうまくいかない。
奥歯もしきりにカチカチいうし、指先も震える。
水の中にいたのはほんの短い間なのに、もう芯から冷え切っていた。
ソーレイが、シャラを横抱きにして立ちあがった。
「シャラ、帰ろ。身体をあたためないと」
「……でも、エージャさんが……」
シャラは水路の先を見る。
すでにずいぶん遠くなった舟。
「大丈夫、この先で待ってるやつがいるから」
ソーレイはそう言って、シャラを抱いたまま歩き出した。
その格好はひどく恥ずかしかったけれど、下ろしてもらっても自分で歩ける気がせず、シャラは静かにソーレイの胸に頬を寄せる。
もう一度だけ振り返って、舟の上の女性を見た。
エージャは、前しか見ていなかった。
がこん、と、舟の縁が対岸にぶつかったとき、エージャは我に返った。
「――しっかりしないと本当に大運河に出るよ。キミ、死にたいの?」
エージャは長い竿のようなものを脇に放る事務官を見、急にぶるぶると震え始めた。
「ガッタ……私……」
「キミにミノリハを飲ませといた。よく効いてたみたいだね。ろくな工作もせずにシャラを連れて外に出て、『運河の向こうに家がある』って考えだけで舟に乗っちゃうんだから。ああ、言っておくけど公女はすでに全部お見通しだよ。ひどくご立腹だ」
公女の名を出した途端、びくとエージャの肩が揺れた。
彼女の目が何かを恐れるように虚空をさまよう。
「私……スーティー家に、帰らなきゃ……」
「帰るなら帰ってかまわない。ただ向こうはキミを受け入れないよ。キミは任務を失敗したんだ。帰っても消されるだけ」
「うそ……うそよ。私、ロッドバルクの公子を蹴落としたわ。ちゃんと約束を守ったの。戸籍に入れてもらえるのよ。やっと本当の家族になれるの」
「馬鹿だな。たった一枚の紙切れに名前を書いてもらって、それで満足なのかい。キミくらい魅力的な女性なら、本物の家族にしてくれる男くらいいくらでもいるのに」
やや乱暴な手つきで舟から引き降ろされ、石で作られた堤防に座りこんだエージャ。
涙目で、ガッタを見上げた。
「……あなたは、してくれないくせに」
「ああ、しないよ」
顔も見ずにガッタは言い、無人の舟を蹴った。
すうと水面を滑る、三日月形の舟。
「……私のこと、好きじゃなかった……?」
「……嫌いじゃなかったね、少なくとも昨日までは」
そこでようやく、彼はエージャの顔を見た。
甘ったるい顔立ちには少しの表情もない。
「嫌いじゃなかったから――見逃してあげるよ。どこへでも行くといい。でも僕の前にも、公女の前にも、二度と姿を見せないでね」
くるりと、事務官は背を向けた。
そしてエージャが嗚咽を漏らし始めても一度として振り返らず、彼はひたすら、屋敷の方角へと歩いたのだった。
シャラは笑みを浮かべるエージャに、拒絶の言葉を突き付けた。
「どうして? スーティー家に行ければよくしてもらえるわよ? 毎日違う服を着て、美味しいものを食べて――」
「わたし、貧乏でも今の暮らしが好きです!」
心底恐ろしくなって、シャラは、ちら、と水面に目をやった。
氷が浮いている。
きっと、冷たい。
だが大運河よりは何十倍も岸が近い。
逃げ出すなら、今のうちだ。
行くしかない。
意を決して、水の中に飛び込んだ。
「――シャラ!」
水しぶきが上がったとき、自分を呼ぶ声を聞いた。
聞き覚えのある――愛おしい声。
しかし二度同じ声を聞こうとすると、途端に酷く耳が痛んだ。
耳だけではない。手も、足も、顔も、首も、切れるような冷たさに襲われる。
胸のあたりが圧迫されるような感じがし、身体が縮むような気がして、たちまち全身が苦しくなる。
氷のかけらが残る水は、意外に泥っぽくまとわりついてきた。
「シャラ!」
再び声がして、薄眼を開けたシャラの前に手の平が見えた。
シャラは懸命にもがいた。
スカートが絡む足をいっぱいに蹴りだし、めいっぱい腕を伸ばし、きっと自分を救ってくれるその手の平を、全力で目指した。
そしてある瞬間強い力に腕を引かれたとき、
「――シャラ、大丈夫か」
シャラは陸に引き上げられていた。
手を握っていたのは、ソーレイだ。
「ソーレイ君……」
「ごめん。俺、守るって言ったのに」
ソーレイは自らのコートをシャラに着せ、小さな身体を抱きしめた。
「大丈夫、だよ。助けてくれたもん。ソーレイ君……」
シャラは無理に笑おうとした。
しかし顔が引きつってうまくいかない。
奥歯もしきりにカチカチいうし、指先も震える。
水の中にいたのはほんの短い間なのに、もう芯から冷え切っていた。
ソーレイが、シャラを横抱きにして立ちあがった。
「シャラ、帰ろ。身体をあたためないと」
「……でも、エージャさんが……」
シャラは水路の先を見る。
すでにずいぶん遠くなった舟。
「大丈夫、この先で待ってるやつがいるから」
ソーレイはそう言って、シャラを抱いたまま歩き出した。
その格好はひどく恥ずかしかったけれど、下ろしてもらっても自分で歩ける気がせず、シャラは静かにソーレイの胸に頬を寄せる。
もう一度だけ振り返って、舟の上の女性を見た。
エージャは、前しか見ていなかった。
がこん、と、舟の縁が対岸にぶつかったとき、エージャは我に返った。
「――しっかりしないと本当に大運河に出るよ。キミ、死にたいの?」
エージャは長い竿のようなものを脇に放る事務官を見、急にぶるぶると震え始めた。
「ガッタ……私……」
「キミにミノリハを飲ませといた。よく効いてたみたいだね。ろくな工作もせずにシャラを連れて外に出て、『運河の向こうに家がある』って考えだけで舟に乗っちゃうんだから。ああ、言っておくけど公女はすでに全部お見通しだよ。ひどくご立腹だ」
公女の名を出した途端、びくとエージャの肩が揺れた。
彼女の目が何かを恐れるように虚空をさまよう。
「私……スーティー家に、帰らなきゃ……」
「帰るなら帰ってかまわない。ただ向こうはキミを受け入れないよ。キミは任務を失敗したんだ。帰っても消されるだけ」
「うそ……うそよ。私、ロッドバルクの公子を蹴落としたわ。ちゃんと約束を守ったの。戸籍に入れてもらえるのよ。やっと本当の家族になれるの」
「馬鹿だな。たった一枚の紙切れに名前を書いてもらって、それで満足なのかい。キミくらい魅力的な女性なら、本物の家族にしてくれる男くらいいくらでもいるのに」
やや乱暴な手つきで舟から引き降ろされ、石で作られた堤防に座りこんだエージャ。
涙目で、ガッタを見上げた。
「……あなたは、してくれないくせに」
「ああ、しないよ」
顔も見ずにガッタは言い、無人の舟を蹴った。
すうと水面を滑る、三日月形の舟。
「……私のこと、好きじゃなかった……?」
「……嫌いじゃなかったね、少なくとも昨日までは」
そこでようやく、彼はエージャの顔を見た。
甘ったるい顔立ちには少しの表情もない。
「嫌いじゃなかったから――見逃してあげるよ。どこへでも行くといい。でも僕の前にも、公女の前にも、二度と姿を見せないでね」
くるりと、事務官は背を向けた。
そしてエージャが嗚咽を漏らし始めても一度として振り返らず、彼はひたすら、屋敷の方角へと歩いたのだった。
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