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しおりを挟む「――それは、もう決めた事なのかい? 」
七海の話を聞き、九条はゆっくりと顔を上げた。
七海の頼みを聞き入れ、彼を助教として大学へ迎え入れ、望みのままに研究室を構える協力をした。
それから、十年。
民間会社が手を引く事で、資金に余裕が無くなる。
これ以上の研究はこの大学では続けられない。
だから、国の研究機関へ移る――――。
「さすがに薄情だとは、思わないか? 」
九条の言葉に、七海はクッと唇を噛んだ。
「…………分かってる。君には、たくさん迷惑を掛けた――」
そして、双方黙り込み、しばらく沈黙が続く。
やがて何かを意を決したように、七海は顔を上げて、九条を正面から見た。
「だから、今度こそ君の求婚を受けようと思う」
「っ!? 」
「長く待たせてしまって……済まなかった」
そう言い、静かに頭を下げる七海。
だが九条は、無条件にその申し出を喜ぶマネはしなかった。
共に歳を取り、現在四十を超えている。
さすがに、そうそう若い頃のように、七海の言葉で単純に一喜一憂しない。
嘆息しながら、九条は口を開いた。
「それは……大学側から、もっと援助を受けたいという事か? 」
番になる事で金を出してくれるなら、研究室を移さずにここに留まると言いたいのか?
そういう打算が働いての妥協なのかと、疑う様子の九条に、七海は慌てて首を振った。
「いいや、違う! むしろ君と番う事で、大学研究室の援助を受けたなんて思われたくない。そんなの屈辱だ。オレは――娼婦なんかじゃあ、ないからな」
プライドの高い七海は、身体を売って何かを手にするという行為を厭っていた。
多くのオメガは、その性情の為に、自分一人だけでは生活が成り立たない。
だから等価交換するように、己の肉体をアルファやベータへ与える事で、生きていく場を保証してもらうのが一般的だ。
しかし、七海は――――オメガ黄金期でも、トップを謳歌した彼だけは、その状況だけは、どんな事になっても決して受け入れなかった。
オメガの地位が最下層に転落し、彼自身も落ち目になり、婚期を逃して家を追い出され。
そこまで堕とされても、七海は決して誰にも媚びなかった。
しかしA大学の理事室を訪れ、九条凛の前に立った七海は、その時生まれて初めて、恥を承知で頼み込んだのだ。
この大学に自分のポストを用意してくれ――――研究室を開設させてくれ。
必ず結果を出すから。
国と、民間会社の話も取り付けている。
これは、このA大のブランドイメージも保証する、決して損をさせない話だ。
――――そう言って、七海は九条を説得したのだ。
しかし、なかなか首を縦に振らない九条に痺れを切らした七海は、次に少し脅すような事を口にした。
このA大でダメなら、オレは海外のM州立大へ行く。
オレには、今でも『是非来てください』とあちこちから勧誘がある。
むしろ、閉鎖的な日本よりも、オレには海外が合っているかもな――――。
そこまで言うと、九条はようやく首を縦に振った。
『……分かった。君の今までの華々しい経歴をまだ覚えている者も、大学内は多いからな。それにオレの認可があれば、他の理事も反対はしないだろう。でも、だからといって不公平な贔屓はしないぞ』
『――不公平な贔屓、とは? 』
『…………私が、君に求婚している事実を逆手に取って、個人的に融通してもらおうと考えていたとしても、無駄だと言う事さ』
『っ! 』
『先程から聞いていたら、そういうニュアンスも感じているんだが……それは、私の勘違いかい? 』
『そんな事――』
『それとも……本当は、やはり進退窮まって、とうとう私の求婚を受け入れる気になったのかい? 』
この思わぬ返しに、七海は用意していた『もう一つの』セリフを引っ込めた。
少しの間の後、代わりに七海の口から出て来たのは、可愛くない強気なセリフだった。
『……侮辱するな。オレは、これからも君の求婚を受け入れるつもりはない。オレが用意してほしいのは、君の番の地位ではなく、オレの研究が続けられる場所だけだ』
『そうか――やはり、今回も私の求婚は受け入れてはもらえないのか……』
『当たり前だ! オレはオレの力で結果を出す。だからオレのラボも、他の研究室と同等の扱いで充分だっ』
それから、十年――……。
「どうして、今になって私の求婚を受けるんだ? もう用のない筈の、ここから出て行くというのに。それとも、君のラボに残っていた、オメガの同胞を大学から追い出すなと、口利きする気が? 」
「――」
「それなら余計な杞憂だよ。彼らはオメガなのに極めて優秀だ。とくに結城奏は幾つも飛び級をして、博士号も射程に入っているようじゃないか。追い出しはしないさ」
「――」
「それとも――何か他に理由があるのか? 今になって番になっても構わないなんて言い出すなんて、私は腑に落ちないよ」
九条の問いに、七海は俯きながら答えた。
「…………これで、君にようやく借りが無くなるからさ。オレは、国立生化学研究所・オメガ症免疫研究室室長だ。なかなか立派な肩書だとは思わないか? 」
「――そうだな」
「これで……オレも、君と対等になれる」
「? 」
「ずっと負い目に感じて、嫌だったんだよ。十年前、あのまま――君の求婚を受け入れて番になるのは、まるで庇護されたような身分へ落ちるような気になって」
大学のオメガの助教と、その大学のアルファの理事では――――傍から見たら、七海が嫌っている、愛人か娼婦のような関係と捉えられない。
いいや、きっと世間は、皆、そう思うだろう。
とうとうあの七海達樹が折れて、アルファの番になったかと。
そして、身体で繋ぎ止めた身分を手に入れたと――――必ず囁かれる。
他人から後ろ指差されるなんて、耐えられない。
オメガ黄金期をとうに過ぎても、未だに、七海は誇り高いオメガだった。
それに、ずっと数多の求婚を断り続けた本当の理由が、七海にはある。
とうとう、それを伝える時が来たか。
七海は細く深く息を吐くと、意を決して、それを九条へ伝えようと顔を上げた。
「あのな、九条――オレは本当は……」
だがそのセリフは、ノックもなしに、ガチャリと開いた扉によって中断された。
「――よぉ、親父。急に呼び出して何なんだよ? 」
現れた青年は、九条の息子の采である。
さすがに、九条もこの歳になるまで、誰も伴侶にしない訳にはいかない。
彼は、名門九条家を引き継ぐ使命があるのだから。
それ故、九条は25歳の時に家の命令でオメガの女体と番い、一子を儲けていた。
――――現在そのオメガとは、死別しているが。
采は、そのオメガが残した唯一の子で、今年18歳になる。高身長高学歴、モデルのように整った容姿に、凛々しい立ち姿をしている青年だ。
彼も、父親と同じアルファだった。
「親父? 」
「――」
息子を見遣り、九条は口を開く。
「――采か……早いな」
「ちょうど、こっちに用があったからな……って、オメガの七海助教じゃねーか? なに? 話し中だった? 」
采は、オメガ黄金期を知らない世代の、現代のアルファだ。
それは、尊大、不遜、傲慢。
トップエリート故の、高慢で鼻持ちならない態度。
露骨にオメガを見下す、典型的なタイプのアルファだった。
(――――こんな時に限って……)
七海は内心の舌打ちを隠しながら、冷たく笑う。
「――九条采くん。君は年長者に対する態度を改めないと……いづれお父上の顔の泥を塗る事になるよ」
「ふーん」
七海の説教など意に介さず、采は九条を見る。
「で、用って? 」
「――この七海助教が、オレと番いたいと言っている。お前はどう思う? 」
(っ!? )
まさか、この場で暴露するとは思っていなかった七海は驚愕する。
「九条っ」
「私にとっては、今更――というのが本音だが」
「っ!」
「どうしても番いになりたいと、この歳になって、やっと言う気になったんだ。君も本音を言ってくれ。対等だとか何とか、そういう上っ面の言い分はたくさんだ」
「――――確かに、それはあくまで理由の一つだ。本当は……」
「『理由の一つ』? 今になって、子供の言い訳みたいなのは御免だぞ」
つれない九条の言葉に、七海はハッとその顔を振り返る。
その眼は、どこまでも冷たく七海を見ている。
かつてのように、情熱を込めて何度も七海へ求婚を繰り返していた時の熱は、どこにも感じられない。
そこにあるのは、猜疑的な眼差しだけだ。
自分こそを見てくれ。
自分だけを愛してくれ。
九条は、情熱的に何度も求婚した。
何があっても君を愛し、どんな困難が起ころうとも必ず気を護ると誓い、恥も外聞もなく膝を折っては求婚してきた。
もう、あの頃の九条は、どこにもいない。
いつもキラキラと瞳を輝かせて、七海を一途に見つめていた男の面影は消え失せていた。
(――――遅かったのか……)
きっと、もう何を言っても、九条は七海の言う事を信じてはくれないだろう。
七海は、心臓がキュウっと締め付けられる気がした。
もう既に、とっくに九条の愛は消え失せていたのか。
…………ならば、自分はこのままこの場を去るべきだ。
本当の真実は、最早口にすべきではない。
言った所で、もう取り返しは付かないのだから。
七海は……冷静に、そう判断した。
「――――長々と、失礼した。それでは、現在のラボは来期末までに閉鎖。オレはそれをもって退職する。アレルゲン免疫研究は移すが、フェロモン研究は今まで通り神田教授が引き継ぐので、ラボの学生もそちらで。細々片付けたら、オレはここを出て行く」
「――ああ」
「今まで、お世話になりました。それでは」
七海は事務的にそう言うと、ペコリと頭を下げて身を翻す。
そして、出入り口に立つ采を、七海はゾッとする程美しい氷の眼差しで射抜いた。
「どけ」
「っ! 」
気後れして通路を空けたその前を、七海は堂々と歩き去って行く。
それはまるで、熱烈に繰り返されるカーテンコールを背にして、バラの花束を抱えたまま、舞台を退場するトップ・スターのようであった。
あまりに堂々とした美しい退場に、思わず怯んだ采であるが――。
「――やはり、どこまで行ってもあいつは本音を言ってくれないな……」
と、小さく呟いた父親のセリフに、ハッと現実に引き戻される。
「親父? 」
「――何でもない」
そうは言うが、微かにその瞳の最奥に――微妙に揺れ動く感情を敏感に感じ取り、采はギリッと唇を噛んだ。
(あのオメガ! 昔っから気に入らない!! ――あいつ、ここを出て行くとか言ってたな――さて、どうしてやろうか……)
家の命令とはいえ、正式に妻に迎えた筈の采の母親は、父親に全く顧みられなかった。
父親はずっと、七海に求婚を繰り返していた――その事実を、采は知っている。
(いつもいつも、澄ました顔しやがってっ! )
父親の心をずっと独占していた七海を、采は心底嫌って憎んでいた…………。
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