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彼女の話【1】
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お父さんには逆らわず、お母さんの心のケアをする。
それが私の人生だった。
暴力というのは二つの種類がある。
一つは体を傷つける暴力で、もう一つは精神を傷つける暴力だ。
お父さんは、決して私やお母さんを外的には傷つけなかった。
だけど、私たちを見る目線が、いらだたし気に机の上を叩く人差し指が、荒々しく椅子を引く音が、さらりと紡がれる命令が、私たちに見えない傷を作っていた。
お父さんは早口で喋る人だった。
早口で、分かりにくく、私たちに自分の意図を分からせようとする人だった。聞き返したりすれば「なんだ、こんなことも分からないのか」とばかりの冷たい視線を投げかけてきて、ため息交じりに繰り返す。
小さい頃からそうやってしつけられてきた私は「お父さんには逆らってはいけない」と、潜在的に刷り込まれていた。お父さんの機嫌を取るためには、逆らわず、言うことを良く聞いて、いい子にしているのが一番だった。それが、円満に家の中で過ごすことが出来る、唯一の方法だった。
お母さんも、私と同じように過ごしていた。
そうやって私の家庭は、正常に回っていた。
表面上は、夫婦円満で聞き分けの良い娘のいる、理想的な家庭として、回っていた。
ほころびが見え始めたのは、お父さんが私の婚約者を紹介した時からだ。
『この人と結婚しなさい。家柄も学歴も確かな、しっかりした人だ』
相変わらず私に選択権はなかった。
四季宮家は代々、病院関係の人と婚姻関係を結んできた。
お母さんだって、当時付き合っていた人と半ば強引に別れさせられて、若くして優秀だったお父さんと結婚させられたと聞く。
私だけが自由に相手を選べるはずもない。
私はただ静かに「分かりました」と答えた。
※
これがきっかけでいら立ち始めたのは、お母さんだった。
『どうしてなにも言わないの?』
『なんで拒否しないの?』
『おかしいと思わないの?』
『どうして笑っていられるの?』
『私が――』
『止められない私が情けないって、あんたが止めないからこうなってるんだろって、怒りなさいよ! 責めてみなさいよ!』
お母さんはきっと、罰を求めていた。
ずっとずっと、私に対して罪悪感を抱いていたのだろう。
母親として子供を守れないことに。
あるいは、母親らしいことをできていないと、自分自身を責め続けて。
それでも一応、家庭としての体裁は取り繕われていたから、お母さんはこれまで我慢することができた。自分を説得することができた。
だけど、私の結婚に関しては、お母さんは納得できていなかったのだろう。
非常識だと思ったのだろう。
あるいは、自分の過去を重ねたのかもしれない。
それでもお父さんに歯向かうことも意見することもできなかったから、私にその矛先が向いてしまったのだと思う。
お母さんは優しい人だった。
それと同時に、とても弱い人だった。
思えばお父さんが結婚に応じたのは、お母さんが御しやすい相手だと思ったからなのかもしれない。
色々と、限界だったのだ。
ぎちぎちと嫌な音を立てて、今にも崩壊しそうな歯車の上に載っていた私たちは――ある日、あっけなくつぶれた。
なんでも、お父さんの浮気現場を見てしまったのだとか。
初めてお母さんに暴力を振るわれたのは、そのすぐ後のことだった。
『やっぱりあんな人と結婚するんじゃなかった!』
『さっさと離婚してやればよかった!』
『だけど!』『あんたがいたから離れられなかったのよ!』
『あんたなんて!』『あんたなんて――っ!』
そうしてヒステリックを起こしたお母さんは、私に矛先を向けて、突き飛ばした。
私は机の角にしたたかに腰をうちつけて、そこが酷いあざになった。
我に返って「ごめんね……ごめんね茜……」と私に泣きすがるお母さんをあやしながら。
私は、自分の人生について考えていた。
お父さんに逆らわず、お母さんのケアをする。
それが私の人生だった。
結婚した後はどうなるのだろう。
銀山さんとは、既に何回か会話を交わしたことがあった。
悪い人ではないが、私に興味はなさそうだなと思った。
今はお付き合いしている人がいると言っていたし、結婚してからもその関係を失くすつもりはなさそうだった。それに、私を見つめる銀山さんのお父様の目つきがいやらしくて、私はとても苦手だった。
この結婚の先に、幸せがないことは分かっていた。だけど反対する気は起きなかった。そのための牙を、私はとっくの昔に抜かれていて、噛みついたところで一蹴されるのも目に見えていたから。
※
学校だけが私の唯一の癒しの場だった。
私とは違って、正常な毎日を全力で謳歌しているクラスメイトを眺めているのは、とても素敵な時間だった。色んな人のことを知りたくて、私はクラス中を駆け巡って、たくさんの人と友達になった。
来世はこの子みたいな性格がいいな、この子みたいな目標が持てるといいな。そんな空想をする時間が、たまらなく好きだった。みんなの日常は私にとってはとても刺激的で、特別で、キラキラと輝いていた。
そんなある日、ふとある生徒のことが目に留まった。
クラスの中でも目立たない、物静かな子だった。誰に対しても敬語で、早口で、何かにいつもおびえているような子だった。
彼はすっと立ち上がり、教室の前ではしゃいでいる男子生徒の横を通り抜けて、窓際に置いてある花瓶を別の場所に移動させると、そのまま静かに自分の席に戻っていった。
はしゃいでいた男子生徒の肘が、もともと花瓶が置いてあった場所の上で空を切ったのは、そのすぐ後のことだった。
それから私は、彼の行動を度々見るようになった。
彼の名前も知った。藤堂真崎君。クラスの誰に聞いても、彼のことをよく知っている生徒はいなかった。
誰も彼の行動の意味を理解してはいなかった。
そもそも彼のことを認識すらしていなかった。
だけど真崎君の行動は、いつも誰かを救うことに直結していた。
誰かが傷つく未来を避けるための行動のように思えた。
今日はどんなことをするのだろう。
今日は誰を助けるのだろう。
彼の人知れない、見返りを一切求めない、優しい行動が気になって。
気づけば私は、彼を目で追っていた。
※
同時期、結婚の話はどんどんと進み始めていた。
結婚できる歳になるまでにはまだ少し余裕があったけれど、銀山家はそれより前から私と交流を持ちたいらしく、向こうの家に近い高校に引っ越さないかと提案された。
いつもの私なら、なにも思わずにただ頷いていたかもしれない。異常な現実を、何も思わずに飲み込んでいたかもしれない。
だけど、転校すると聞いた時。
何故か、誰にも知られずひっそりと誰かを助け続ける、彼の姿が脳裏をよぎったから。
私は生まれて初めて、人生にあらがうことにした。
お母さんにうまく口裏を合わせてもらい、私は晴れて「自遊病」という仮病を手にした。
お母さんの暴力はあれからずっと収まることはなくて、そのたびにお母さんは心をひどく痛めていた。
『お母さんがつけた傷が、私を守ってくれるんだよ』
『だから――自分を責めなくていいからね』
私がそう言うと、お母さんは肯定も否定もせずに、ただひたすらに泣くばかりだった。あの時の表情は、今まで見たことがないくらい複雑で、私は少し、申し訳ない気分になった。
※
私の目論見通り、転校の話は延期となった。
精神科医だった銀山さんが担当医となって、定期的に診察を受けることになった。色々な検査を受けたけど、ついぞ原因と回復の手段が見つかることはなかった。架空の病気だから、当然のことだ。
ただ、銀山さんが出してくれるお薬や紹介状は、いつも外傷に関わるものばかりで、
『自分の身体は大切にするんだよ』
と言っていたから、もしかしたら薄々、感づかれていたのかもしれない。
とにかく私は、もう少しだけ自由でいられることになった。
一年中カーディガンを着る必要があったし、タイツやストッキングを履かなくてはいけなかったし、体育の授業は欠席したし、学校の先生にはとてもとても気を使われて、ちょっと申し訳ないと思うこともあったけれど。
だけど私は自由だった。
自遊病という異端な病が、私に自由を与えてくれた。
体のことだから、お父さんにも何も言われなかった。
お母さんも何も言わなかった。
嬉しかった。
楽しかった。
何よりも、自分で手にした自由な時間が、あまりにもかけがえがなくて、尊くて、愛おしくて、私は今までよりもずっとずっと明るくなった。
そしてあの日――私は真崎君とキスをした。
それが私の人生だった。
暴力というのは二つの種類がある。
一つは体を傷つける暴力で、もう一つは精神を傷つける暴力だ。
お父さんは、決して私やお母さんを外的には傷つけなかった。
だけど、私たちを見る目線が、いらだたし気に机の上を叩く人差し指が、荒々しく椅子を引く音が、さらりと紡がれる命令が、私たちに見えない傷を作っていた。
お父さんは早口で喋る人だった。
早口で、分かりにくく、私たちに自分の意図を分からせようとする人だった。聞き返したりすれば「なんだ、こんなことも分からないのか」とばかりの冷たい視線を投げかけてきて、ため息交じりに繰り返す。
小さい頃からそうやってしつけられてきた私は「お父さんには逆らってはいけない」と、潜在的に刷り込まれていた。お父さんの機嫌を取るためには、逆らわず、言うことを良く聞いて、いい子にしているのが一番だった。それが、円満に家の中で過ごすことが出来る、唯一の方法だった。
お母さんも、私と同じように過ごしていた。
そうやって私の家庭は、正常に回っていた。
表面上は、夫婦円満で聞き分けの良い娘のいる、理想的な家庭として、回っていた。
ほころびが見え始めたのは、お父さんが私の婚約者を紹介した時からだ。
『この人と結婚しなさい。家柄も学歴も確かな、しっかりした人だ』
相変わらず私に選択権はなかった。
四季宮家は代々、病院関係の人と婚姻関係を結んできた。
お母さんだって、当時付き合っていた人と半ば強引に別れさせられて、若くして優秀だったお父さんと結婚させられたと聞く。
私だけが自由に相手を選べるはずもない。
私はただ静かに「分かりました」と答えた。
※
これがきっかけでいら立ち始めたのは、お母さんだった。
『どうしてなにも言わないの?』
『なんで拒否しないの?』
『おかしいと思わないの?』
『どうして笑っていられるの?』
『私が――』
『止められない私が情けないって、あんたが止めないからこうなってるんだろって、怒りなさいよ! 責めてみなさいよ!』
お母さんはきっと、罰を求めていた。
ずっとずっと、私に対して罪悪感を抱いていたのだろう。
母親として子供を守れないことに。
あるいは、母親らしいことをできていないと、自分自身を責め続けて。
それでも一応、家庭としての体裁は取り繕われていたから、お母さんはこれまで我慢することができた。自分を説得することができた。
だけど、私の結婚に関しては、お母さんは納得できていなかったのだろう。
非常識だと思ったのだろう。
あるいは、自分の過去を重ねたのかもしれない。
それでもお父さんに歯向かうことも意見することもできなかったから、私にその矛先が向いてしまったのだと思う。
お母さんは優しい人だった。
それと同時に、とても弱い人だった。
思えばお父さんが結婚に応じたのは、お母さんが御しやすい相手だと思ったからなのかもしれない。
色々と、限界だったのだ。
ぎちぎちと嫌な音を立てて、今にも崩壊しそうな歯車の上に載っていた私たちは――ある日、あっけなくつぶれた。
なんでも、お父さんの浮気現場を見てしまったのだとか。
初めてお母さんに暴力を振るわれたのは、そのすぐ後のことだった。
『やっぱりあんな人と結婚するんじゃなかった!』
『さっさと離婚してやればよかった!』
『だけど!』『あんたがいたから離れられなかったのよ!』
『あんたなんて!』『あんたなんて――っ!』
そうしてヒステリックを起こしたお母さんは、私に矛先を向けて、突き飛ばした。
私は机の角にしたたかに腰をうちつけて、そこが酷いあざになった。
我に返って「ごめんね……ごめんね茜……」と私に泣きすがるお母さんをあやしながら。
私は、自分の人生について考えていた。
お父さんに逆らわず、お母さんのケアをする。
それが私の人生だった。
結婚した後はどうなるのだろう。
銀山さんとは、既に何回か会話を交わしたことがあった。
悪い人ではないが、私に興味はなさそうだなと思った。
今はお付き合いしている人がいると言っていたし、結婚してからもその関係を失くすつもりはなさそうだった。それに、私を見つめる銀山さんのお父様の目つきがいやらしくて、私はとても苦手だった。
この結婚の先に、幸せがないことは分かっていた。だけど反対する気は起きなかった。そのための牙を、私はとっくの昔に抜かれていて、噛みついたところで一蹴されるのも目に見えていたから。
※
学校だけが私の唯一の癒しの場だった。
私とは違って、正常な毎日を全力で謳歌しているクラスメイトを眺めているのは、とても素敵な時間だった。色んな人のことを知りたくて、私はクラス中を駆け巡って、たくさんの人と友達になった。
来世はこの子みたいな性格がいいな、この子みたいな目標が持てるといいな。そんな空想をする時間が、たまらなく好きだった。みんなの日常は私にとってはとても刺激的で、特別で、キラキラと輝いていた。
そんなある日、ふとある生徒のことが目に留まった。
クラスの中でも目立たない、物静かな子だった。誰に対しても敬語で、早口で、何かにいつもおびえているような子だった。
彼はすっと立ち上がり、教室の前ではしゃいでいる男子生徒の横を通り抜けて、窓際に置いてある花瓶を別の場所に移動させると、そのまま静かに自分の席に戻っていった。
はしゃいでいた男子生徒の肘が、もともと花瓶が置いてあった場所の上で空を切ったのは、そのすぐ後のことだった。
それから私は、彼の行動を度々見るようになった。
彼の名前も知った。藤堂真崎君。クラスの誰に聞いても、彼のことをよく知っている生徒はいなかった。
誰も彼の行動の意味を理解してはいなかった。
そもそも彼のことを認識すらしていなかった。
だけど真崎君の行動は、いつも誰かを救うことに直結していた。
誰かが傷つく未来を避けるための行動のように思えた。
今日はどんなことをするのだろう。
今日は誰を助けるのだろう。
彼の人知れない、見返りを一切求めない、優しい行動が気になって。
気づけば私は、彼を目で追っていた。
※
同時期、結婚の話はどんどんと進み始めていた。
結婚できる歳になるまでにはまだ少し余裕があったけれど、銀山家はそれより前から私と交流を持ちたいらしく、向こうの家に近い高校に引っ越さないかと提案された。
いつもの私なら、なにも思わずにただ頷いていたかもしれない。異常な現実を、何も思わずに飲み込んでいたかもしれない。
だけど、転校すると聞いた時。
何故か、誰にも知られずひっそりと誰かを助け続ける、彼の姿が脳裏をよぎったから。
私は生まれて初めて、人生にあらがうことにした。
お母さんにうまく口裏を合わせてもらい、私は晴れて「自遊病」という仮病を手にした。
お母さんの暴力はあれからずっと収まることはなくて、そのたびにお母さんは心をひどく痛めていた。
『お母さんがつけた傷が、私を守ってくれるんだよ』
『だから――自分を責めなくていいからね』
私がそう言うと、お母さんは肯定も否定もせずに、ただひたすらに泣くばかりだった。あの時の表情は、今まで見たことがないくらい複雑で、私は少し、申し訳ない気分になった。
※
私の目論見通り、転校の話は延期となった。
精神科医だった銀山さんが担当医となって、定期的に診察を受けることになった。色々な検査を受けたけど、ついぞ原因と回復の手段が見つかることはなかった。架空の病気だから、当然のことだ。
ただ、銀山さんが出してくれるお薬や紹介状は、いつも外傷に関わるものばかりで、
『自分の身体は大切にするんだよ』
と言っていたから、もしかしたら薄々、感づかれていたのかもしれない。
とにかく私は、もう少しだけ自由でいられることになった。
一年中カーディガンを着る必要があったし、タイツやストッキングを履かなくてはいけなかったし、体育の授業は欠席したし、学校の先生にはとてもとても気を使われて、ちょっと申し訳ないと思うこともあったけれど。
だけど私は自由だった。
自遊病という異端な病が、私に自由を与えてくれた。
体のことだから、お父さんにも何も言われなかった。
お母さんも何も言わなかった。
嬉しかった。
楽しかった。
何よりも、自分で手にした自由な時間が、あまりにもかけがえがなくて、尊くて、愛おしくて、私は今までよりもずっとずっと明るくなった。
そしてあの日――私は真崎君とキスをした。
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