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幕間3

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 母さんは、本が好きな人だった。
 本をたくさん買う人ではなかったけれど、毎月一冊は本屋さんで買って、それを大事に大事に読む人だった。

「本屋さんの匂いが好きなのよね」

 と、幼い僕の手を引いて、本屋さんに入る母さんの後姿を、よく覚えている。
 当時の僕には、本屋さんに置いてある本の大半は難しすぎたし、本棚はとても大きくて、ただただ圧倒されるばかりだった。
 きょろきょろと辺りを見渡す僕に、母さんはよく

「ふふ、何を探してるの? 何か読みたいの?」

 と笑って聞いてきた。その度に僕は、黙って首を横に振って、母さんのあとに付いて行った。

 不思議な事に、僕は本を読むことがなかった。
 それよりもゲームやスポーツの方が楽しかったし、文章を目で追うのはひどく頭をつかうので肩が凝った。
 母さんも、僕に本を読むように強要することは無かった。趣味は人それぞれと、割り切る人だったのかもしれない。母さんの買った本だけが、少しずつ本棚に増えていって、僕はそれを眺めているのが実は好きだった。
 だけど高校に入ったばかりの頃、母さんが交通事故で亡くなって、それ以来、我が家から本の匂いははたと消えた。
 父さんも、本を読む人ではなかった。そもそも仕事で忙しく、中々家に帰って来ることもない人だったから、正確には本を読んでいるのを見たことがない、というのが正しいのだけれど。

 母さんが死んでから、父さんは前よりも家によくいるようになった。
 同時に、僕への束縛も強くなった。
 部活の選択、大学の進路、将来への展望。
 あらゆることが父さんの手で決められて、僕はそれがひどく息苦しかった。
 父さんが、僕を真っ当な人間に育ててくれようとしていることは、分かっていた。
 僕に似て不器用な父さんは――いや、僕が父さんに似ているというのが、正しいのだけれど――言葉の選択があまりうまくなかったし、たまに何を考えているのか、分からないこともあるのだけれど、それでも僕のためを思ってくれていることは、流石に気付いていた。

 だけど、それでも。すれ違いというのは、起こるもので。

 致命的だったのは、高校の時。
 高校最後の学園祭、僕のクラスは出し物で劇をやった。
 季節は秋、受験シーズンはすぐ目の前まで迫っていたけれど、高校最後の思い出を作ろうと、僕たちはクラス一丸となって一生懸命劇を作り上げた。
 たくさん練習をした。たくさんの小道具を作った。
 何度もぶつかって、時にはケンカもした。
 だけど最後には、過去一番の発表をして、高い評価を得ることができた。

 学園祭が終わり、受験前の最後の模試。
 僕が志望校に受かる可能性は、限りなく低いという結果が出た。
 それを見た父さんは

「劇なんてくだらないことをやっている間に、勉強すればよかったんだ」

 と、言った。

 父さんの意見はもっともだ。
 高校最後の文化祭、受験を間近に控えた時期、多くのクラスは簡単に準備ができて、勉強にも時間が十分にさけるように調整していた。
 劇は準備をするものも、覚えなくてはいけないセリフも動作も多い。準備期間中、勉強に当てることができた時間は、ほぼ皆無といっても良かった。
 確かに、あの時間を勉強に当てることができていれば、もう少し僕の成績は上がったかもしれない。
 志望校に受かる可能性が、少しでも上がったかもしれない。
 でも、あの時の達成感や、喜びや、様々な経験は、確かに僕の中に残るはずで。
 それを……その頑張りを、あたかも無駄だったみたいに、どうでもいいことのように言う発言を、僕は――

「修、ちゃんと考えろ。人生は一度しかない。何が自分にとって大切か、いついかなる時も見極めろ」

 僕は、ただ。
 黙ることしかできなかった。


 ちゃんと考えろ、という言葉は、僕にはひどく相性が悪いように思えた。
 不器用で、猪突猛進で、頭にかっと血が上ったが最後、思慮が足りないままに行動を始めてしまう。
 それはいけないことなのだと、分かってる。
 父さんの言葉で、僕はいやというくらいにそれを理解させられた。
 でも、二十年近くで凝り固まった僕の習性は、そう簡単に変わる訳もなくて。
 どうすればいいかと考えた末に、僕は、自分からあまり行動しないようになっていた。
 部活にも入らなかった。サークルにも入らなかった。
 学園祭にも積極的には参加せず、ただ漫然と、毎日を過ごすことにした。

 そんなある日、僕はふらりと水月書店に立ち寄った。
 懐かしかった。
 独特の本の香りがして、小さいころ母さんに連れられて入った本屋さんの情景がフラッシュバックした。

『本屋さんの匂いが好きなのよね』

 分かる気がした。いや、僕が好きなのは、単純にあの頃を思い出して懐かしくなるから……小さい頃は別に、何とも思わなかった。
 幼いころの記憶を辿るように、本棚の間を一歩、一歩と進んでいるうちに

「ふふ、何かお探しですか?」

 僕に声をかけてくれたのが、翼さんだった。


 そして僕は、水月書店でのバイトを決意する。
 大学に入学してから、初めて自分の意志での決断だった。
 僕を奮起させてくれた翼さんと、翼さんが選んでくれた本には、感謝してもし切れない。

「おはようございまーす!」

 だから僕は今日も元気よく、バックヤードに入った。
 休憩室でエプロンを付けて、今日の仕事内容を、ホワイトボードに張り付けられたスケジュール表で確認して――

「あれ?」

 ふと、翼さんの勤務プレートに目が行った。
 勤務プレートは、基本的に「勤務中」「休み」「帰宅」のどれかが、書店員の名前の横に貼りつけられるようになっている。正社員の場合は、外回りをすることもあるので「直帰」「外出中」が張られることもある。

 そして、翼さんの横には毎日「勤務中」が貼られている。
 噂によると、大学院を休学して、ここに通い詰めているらしい。
 どんな理由があって、ソムリエの仕事に全力を注いでいるのか、深い話は、まだ聞いたことがなかったけれど――
 ともかく、翼さんの名前の横に「勤務中」と「帰宅」以外のプレートが張られることなんてなかった。
 なのに今日は……

「翼さん、休みなんだ。珍しいな……」

 翼さんだって人間だ。風邪を引くことだってあるだろうし、体調が優れない日だってあるだろう。
 早く良くなればいいけど、などと考えていると、後ろから弥生さんが、ぬっ、とあらわれた。

「あ、おはようございます。弥生さん。翼さん、お休みなんて珍しいですね」

 僕の言葉に、しかし弥生さんはすぐには返事をしなかった。
 数拍、奇妙な間が空いて、僕は問う。

「あの、弥生さん? なにかあったんですか?」
「……いや、なに。いつかは来るだろうと思っていた齟齬だ」
「そご?」
「ふー……少し早い気もするが。お前には話しておくか」

 いつもと違う弥生さんの雰囲気に、思わず居住まいを正す。
 弥生さんは顎の辺りにおりた髪に触れながら、とつとつと、言った。


「翼が、ソムリエをやめるかもしれん」


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