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第三章 ダメ夫の逆襲

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 だが理由を推理するのは、この際後だ。何としても、誤魔化さねば。しかし京亮は、私がとぼけるより先に、たたみかけるように言った。
「ごめん。ここへ運んだ時、保険証を見てしまった。カナって、ああいう字を書くんだ」
「確かにそうだけれど、でも……」
「『むつこい』、そう言ったよね」
 おぼろげな記憶が蘇ってきた。意識を失う前、私はひどい吐き気に襲われた。『むつこい』は、胃がムカムカした時に使う伊予弁だ。まさか、思わず口走ったのか……。
「覚えてないかもしれないけど……。僕の親は転勤族で、僕は小学三年の一時期を愛媛で過ごした。わからない方言もたくさんあって、困ったよ。その一つが、『むつこい』。給食で脂っこいものが出た時に、皆言ってたね」
 京亮は、懐かしそうに瞳を細めた。
「当時、大好きな女の子がいた。可愛くて頭が良くて、お父さんは政治家だったけど、全然威張るところも無くて。人に借りを作るのが大嫌いで、何でもきちっと筋を通す。一緒に過ごした時間はわずかだったけど、ずっと忘れられなかった」
 まさか、と私は思った。京亮も私のことを、そんな風に思ってくれていたなんて。しかも、忘れていなかった……。
「十三の年に、その子のお父さんにはスキャンダルが浮上し、その後亡くなった。ずいぶん心配したよ。手紙を書こうかとも思ったけれど、何をどう書こうか悩んでしまって。僕を覚えていてくれるかも、自信が無かったし……。ようやく決心が付いた頃には、彼女は愛媛を去ってしまっていた」
 否定しなければいけないのに、私は喉が固まったように何も喋れなかった。京亮が、じっと私を見つめる。
「部会で会った時から、何だか懐かしい気がしてならなかった。顔立ちは、記憶の中の君とは、まるで違うというのに。話し方に、雰囲気……。一番それを強く感じたのは、議員閲覧室で会った時だった」
「どう、して……?」
 私は、ようやく声を振り絞った。
「本を読んでいる姿」
 京亮は、簡潔に答えた。
「小学校の頃、いつも図書室で本を読んでいただろう? 校庭から、こっそり見てたんだ。読書をしている面影が、ぴったり重なった」
「……」
「ごめんね」
 京亮は、唐突に謝った。
「たった数ヶ月しか学校にいなかった僕のことなんて、覚えているわけも無いよね。それなのに、こんな風に思い出をベラベラ喋って。けど、本当に好きだったから……」
「ヘスペリジン」
 私は、ぽつりと言った。京亮が、怪訝そうにする。
「みかんの筋に含まれている物質よ。筋にも栄養があるって教えてくれたのは、あなたじゃない。だから、あの後調べた」
 京亮の目が、大きく見開かれる。堪えていた涙が、私の瞳からこぼれ落ちた。
「覚えてるわよ! 決まってるじゃない。だって私も……、あなたを好きだったんだから」
 次々とあふれ出す涙を、私は乱暴に手で拭った。
「京亮君のことが、ずっと好きだった。カッコ良くて、頭も良くて、何でも知ってて……。だから、負けたくなくて頑張って勉強した。京亮君の知らないことを、教えてあげようって」
「知らなかったよ」
 京亮は、ふっと笑った。
「ヘスペリジンか。教えてくれて、ありがとう」
「お礼を言ってもらう資格なんて無い」
 私は、かぶりを振った。
「ずっとあなたを騙してた。別人のフリをして。本当は部会の時から気付いていたのに、素知らぬフリをして……」
 いいよ、と京亮は言った。
「事情があったんだろう? ……その、お父さんの関係で」
「ええ。何が何でも、正体を隠さなくちゃいけなかったの……。だからお願い、私が『小田切華奈』だということは、秘密にしてくれる? 誰も知らないのよ。辻村先生も堀先生も、柘植さんたちも。夫と、柳内の両親でさえ」
 最後に俊明の名前を出すと、京亮の表情は曇った。
「京亮君?」
「……ああ、いや。秘密は、必ず守るよ。正体を隠したい理由は、大体想像が付くし……。ただ」
 京亮は、そこでスッと立ち上がった。その表情は、一転して強張っていた。
「会って話すのは、今日を最後にしよう。堀先生の件も、一段落したことだし。教えてもらった電話番号も、消去するから」
 私は、戸惑った。
「どうして、そんな唐突に? そりゃ、スキャンダルを気にしてくれているのはわかるけれど……」
「華奈ちゃん。いや、『三好先生』」
 京亮は、何かに耐えているかのように眉を寄せた。
「君の正体に気付く前から、僕は君に惹かれていた。俊明先生という方がいらっしゃるから、気持ちは抑えていたけれど……。そして、あの小田切華奈ちゃんだと気付いた時、僕は強い誘惑に駆られた。よほど、奪ってしまおうかと」
 京亮の口調は激しかった。私は、一瞬思った。
(俊明と別れて、京亮君と一緒になれたら、どんなにいいだろう……)
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