九年セフレ

三雲久遠

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十三話

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 数週間が経ち、俺はある女に呼び出され、青山にあるフレンチの高級店に向かっていた。
剥き出しの六月の太陽が容赦なく照りつける。
こんな真昼に外出するのはいつ以来だろう。
強い日差しと人ごみに酔い、約束の店に辿り着く頃には、俺はすっかり疲れ果てていた。

 指定された店はすぐに見つかり、その瀟洒なエントランスに気後れがする。
のこのこ出てきたことを早くも後悔し始めていたが、このまますっぽかして帰ったところで逃げ切れはしまい。

 平日のランチタイムを終えた店内には、カフェを楽しむ女性のグループがちらほら見える。
レセプショニストに女の名を告げると、店の奥へ案内された。
重厚な木製の建具に囲まれた薄暗い廊下を、毛足の長い絨毯の感触を感じながら進む。
両開きの扉の向こうで俺を待ち構えていたのは、新堂の婚約者だった。

 数日前、携帯に掛かってきた登録のない番号を見たとき、何を今更、と思った。
新堂はあれきり俺の部屋に現れない。
そんな状況なのに、この俺に何を言われてもと、シラけた気分にさせられた。

 だから何度も、仕事で忙しいと断った。
何があっても、この女の顔だけは見たくない。
ところが、終始丁寧な口調ながら、女はなかなか諦めてくれない。
この調子では、自宅に押しかけて来られそうだと根負けし、会うことを承諾してしまった。

 電話で聞いた、鈴が鳴るような女性らしい声のイメージ通り、目の前の女は人形のように愛らしい。
高価なブランドものであろうシンプルなワンピースに、濃い栗色の髪が肩先で綺麗にカールして、品のいいお嬢様といった雰囲気だ。

 これが、新堂を結婚に踏み切らせた女だった。
男が十人いれば、そのうち九人はこの女を手に入れたいと思うのだろう。
そして残りの一人は、俺のようなゲイだ。

 椅子に座ると、女の背後の窓から、傾き始めた日差しがまともに目に入った。
眩しさに顔を背けた俺を見て、控えていたウェイターが、さっとブラインドを下げてくれる。
いつの間にか、明るい場所が苦手になっている。
夜に紛れて息を吐く、ヒッキーな自分を痛感する。

 紅茶が運ばれウェイターが消えた後、女は穏やかな微笑みを浮かべ、世間話を始めた。

「孝司さんの学生時代のお友達にお会いするのは、緒方さんでお二人目です。
 木田さんとおっしゃる方が、たまたまホテルのブライダルサロンにいらして……。ご存知ですか?」
「はい……」
「気の置けない男同士のご友人って、傍で会話を聞いているだけで楽しくなります。
 いいお仲間がいらして、孝司さんは幸せですね」

 まだ二十歳そこそこと聞いていたが、落ち着いた物言いや物腰はもう少し年上のそれに思える。
俺は特に相槌を打つでもなく、うつむき加減に女の声を聞いていた。

「特に緒方さんは、一番のご親友と申し上げていいのかしら。
 とても仲がおよろしくて、頻繁に会っていらっしゃいますのね。
 わたくし、緒方さんには一度お会いしたいとずっと思っておりました」

 女は綺麗に微笑んだまま、俺の反応を見ている。
やはり、探偵か何かを使って婚約者の身辺を調べたらしい。
俺の携帯番号だって、大学の同窓会名簿で調べればすぐに分かっただろう。
あの日、新堂の携帯から聞こえた声が俺だということも、すぐに探偵から報告が入ったか。

 さぁ、どんな風に切り込んでくるつもりか、俺は戦々恐々と身構える。

「……孝司さんとは、父が理事長をしている病院で出会いました」

 女は素知らぬ顔で、まずは自分の話を始めた。

「私がアルバイトで総合受付に座っていたら、たまたま孝司さんがお仕事でいらして。
 私、彼のことを一目で気に入りましたの」
 
 にっこりと笑顔を向けられ、目が合った。

「お顔はもちろん、声も話し方も、体格も何もかも、私の理想でした。
 受付で対応しながら、目が離せなくなってしまって……」

 親しげな微笑みは、この気持ちはあなたにも分かるだろうと言いたげだ。
つまりは一目惚れ。
入学して間もない頃、大学の正門で、新堂を初めて見掛けた日を思い出す。

「ああ、私は絶対にこの人と結婚する。運命の相手だと直感しました。
 すぐに父に頼んで、孝司さんの会社の常務さんにお見合いをお願いしたんです」

 一目惚れは同じでも、大病院のお嬢様はやはり違う。
絶対にあの人じゃなきゃ嫌だと、愛娘に強請られて、あたふた振り回される理事長パパの姿が頭に浮かんだ。
欲しいものを欲しいと言えるこの女を、羨ましいとは思わない。
俺にはできない、ただ、それだけだ。

「父が医療機器を購入している関係で、常務さんとは昔から家族ぐるみで懇意にしていただいております。
 私のことも子供の頃から可愛がってくださって、今回は仲人も引き受けてくださいましたの」
 
 そして、新堂にとっては、この見合い話はそういうことかと合点がいった。
役員のお声掛りで、会社の上得意先との縁談となれば、出世が約束されたのも同然だ。
二十八にもなれば、そろそろ身を固めろと周囲がうるさい。
これだけ揃った好条件、この辺で手を打つかと思ったのかもしれない。

 打算が見えると思ってしまうのは、俺の見方がひねくれているからか。
それとも、見合い結婚というものが、そもそもこういうものなのか。
意外だと思ったのは、何となくだが、新堂はもっと本気の恋をして、温かい家庭を作るのだと思っていた。
それは俺にとって、何よりも辛い現実ではあるのだが。

「孝司さんのご両親もとても喜んで下さって、早く孫の顔が見たいなんて、気の早いことを」

 うふふと笑うその眼つきに、俺ははっきり、この女の悪意を感じた。
家庭を持ち、子供を作る。
それが色恋の正当な成就であり、セックスしかない男同士など所詮は遊びだと、女の笑顔が俺を蔑んでいる。

「結婚式の日取りも、披露宴の招待客も決まりました。
 私、お友達みんなに来てねって話してあるんです」

 目の前の女は、晴れやかな笑顔を俺に向けてくる。
人生で最高の喜びに際し、おめでとうございますと言うべきなのだろうが、そんな気にはとてもなれず、女から顔を背けた。

 俺はなぜ、この女に会いに来てしまったのだろう。
何も見ない、何も聞かない。
俺と新堂だけのあの部屋に、じっと閉じ篭っていればいいものを。
普段の俺なら、絶対に会いたくないと断った。
それなのに、渋々でも会うことを承諾してしまったのはなぜだ。

 新堂の不誠実極まりない態度や、わざわざ俺のことを調べ上げ、話がしたいとしつこく迫る電話の声に、この女は愛されていないと感じた。
彼とはもう結婚しない、あなたのせいだと、罵声を浴びせられるのか。
そんな恨み言なら、俺はいくらでも聞いてやる。
愛されていない女に何を言われても、何をされても、どうということはない。
女への侮りと醜い妄執が、俺の心の奥底にあった。

 だが、どうだ。これが現実。
目の前の女は新堂と結婚する。
この事実はどうひねくり回しても、なかった事にはできそうにない。
似合わない日向の場所に這い出てきたナメクジは、今にも干からび消えていく。
やはり、あの部屋から外に出るのではなかったと、後悔の鈍い針が抉るように俺の胸を刺した。

 しばらくの沈黙の後、女の話は続く。
晴れやかな声ははっきりトーンダウンして、いよいよ本題のようだった。

「常務さんにお見合いをお願いしても、初めはなかなかお話が進みませんでした。
 おじさまは、ちょっと難しいねとおっしゃって、暗に諦めなさいと言われました。
 でも、一度でもちゃんと私に会って下さったら、きっと私を見てくれるはず。
 どなたかお付き合いされてる方がいたとしても、まだ結婚されてるわけではないのだし。
 私、おじさまに泣いて頼んだんです。
 父も横で聞いていて、しょうがない子だねって呆れてましたわ」
 
 お幸せなご令嬢の顔から表情が消え、俺を見据える。

「結婚する前に別れてくれたら、それでいいんです」

 きっぱりと言った後、女は口角を上げ、作り笑顔になった。

「もちろん、そのお相手の方にはそれなりのことをさせていただくつもりです」

 それはつまり、俺にカネを払うということか。
まさか、こんな年下の女からそんな話を持ち出されるとは思わなくて、怒りの前に驚きが先に立った。

「でも、男の方でよかった」

 ほっとしたという顔で、女は俺を見てさらに笑う。
どういう意味だと、つい彼女をぐっと睨んだ。

「だって、女性だともっとショックじゃないですか。
 既成事実を作られたりしたら、とんでもなく厄介だし。
 でも男の人なら、そんな心配はありませんもの」
 
 男なら後腐れがない、女の自分とそもそも同じ土俵に上がってはこられないのだと、女は俺を鼻で笑う。

「その男性には、それなりのことなんて必要ありませんよ。
 ずいぶん見当違いなお話のようですので、僕はこれで失礼します」
 
 こう言いきって席を立とうとしたら、彼女の鋭い一言が俺を引き留めた。

「逃げるんですか? 卑怯じゃありません?」 

 この女にすれば、今ここで新堂を諦めると俺に言わせたいのだろうが、ごめん被る。
新堂との関係が終わりつつあること、事実、そうだとしても、俺は認めるつもりはない。

  ――しばらくは、来られない。

 そりゃあそうだろう。もう結婚するんだ。
俺との関係を続けられるわけがない。

  ――また来る。

 それでも新堂は、こう言ってくれた。
もう無理なのだと分かっていても、俺は新堂を信じて待つ。
俺が待っている限り、俺たちの関係は終わらない。
一人よがりの勝手な思いだ。
だからもう、俺にごちゃごちゃ言わないでくれ。

「僕じゃなくて、新堂とふたりでよく話し合われたらどうです?」

 こう言い捨てて立ち上がったら、女は食い下がってきた。

「新婚旅行も、新居の準備も、何もかも予定通りに進んでいるわ!」
「それは結構ですね。でも俺には関係ないんで!」

 気を高ぶらせた女に、俺も捨て台詞を投げつけた。

「あなたがぐずぐず孝司さんを縛り付けてるんでしょう?
 絶対そうよ。あなたのせい。訴えたっていいんですよ」
「何言ってんだ」
「証拠だってあるのよ。電話の声! あれ、あなたですよね。
 私の携帯、自動で録音されるんです。調べたらすぐに分かるわ」
「いい加減にしてくれ……」

 録音と言われて、かっと頭に血が上った。
あの電話、聞かれただろうとは思ったが、まさか、録音されていたとは思わなかった。
これ以上関わりたくなくて、さっさと出ていこうと扉に手を伸ばしたら、「待ちなさいよ」と女も立ち上がる。

 そのとき、俺の携帯に着信があった。
鳴り響く電子音を消そうと携帯を手にしたら、ディスプレイには新堂と表示されている。
俺はつい短い声を上げた。

「え……?」

 普段、新堂が俺に電話を掛けてくるなんてことはまずない。
それなのに、どうしてこのタイミングで電話が入るんだ。

「……もしもし」

 女に背中を向け、声を抑えて電話に出た。

『緒方か? 今、どこにいる?』
「どこって……、おまえこそ」

 こんな平日の昼間に、普通なら新堂は仕事のはずだ。

『今、おまえの部屋の前。仕事か?』
「俺ン家? 何で」

 婚約者といい、新堂といい、今更俺に何がしたいのかと、むっとした声で返した。

『また来るって言っただろ。
 今日は休暇を取った。おまえ、仕事じゃないんだろ?
 今、どこだ。迎えに行くから、場所を言え』
「……」

 どうしようか迷った。
女の視線が痛いぐらいに俺の背中を射してくる。
とにかく、迎えにくるというのなら、この状況を新堂に何とかしてもらおうと腹をくくった。
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