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魔術師団研究員リズベス嬢の噂話
しおりを挟む――話さない方が良かったかしら。
リズベスは、ヒューバートの背中を見送りながら心の中でそう呟いた。ドレスの話をしてからというものの、ヒューバートは明らかに挙動不審だった。
いや、行動そのものには全く問題はないのだ。適切な距離をあけ、不必要なことは話さず、実に礼儀正しく部屋の前まで送り届けてくれた。それを不審に感じる自分の方がおかしい。
そう、すっかり慣れてしまっていたのだ。ヒューバートから縮めてくれる距離に、親し気な態度に。まるで――恋人の様に扱われる心地よさに。それに、浸っていなかった、と言ったら嘘になる。
「諦める、なんてよくも言えたものだわ」
ぱたんと閉じた扉の中で、ぽつりとそう漏らす。
こんな、ほんの少し距離が開いたと思うだけで、ぽっかりと胸に穴があいたような喪失感を味わっているのだ。
もし、本当に――噂の通りヒューバートに想い人がいて、リズベスに言った言葉が本当でなかったと判る日が来てしまったら、一体どうなってしまうのだろう。今まで思っていたように、今のこの日々だけを胸に抱いて生涯を過ごしていけるのだろうか。
ずっと育ててきた弱気なリズベスの恋心は、信じ続けた噂を否定することも、ヒューバートの言葉を信じることも未だにできていない。
それなのに、一度手にしてしまった果実は甘くて、手放したくないと望んでしまう。
自分の撒いた種だとはわかっているが、リズベスは今、ヒューバートが恨めしくて仕方がなかった。
◇
「いやあ~派手にやってますね!リズベスちゃん!」
やけにテンションの高いアデリンが部屋を訪ねてきたのは、翌日のことだった。相変わらずノックと同時に部屋の扉をあける同僚に、机から顔を上げたリズベスは苦笑を返す。
「どうしたの、随分機嫌がいいようだけど」
「どうしたもこうしたもないわよ、リズベス。あなたすっかり時の人よ」
にこやかにそう告げられて、リズベスは困惑した。何の心当たりもないが、何かしただろうか。
リズベスが首を傾げていると、アデリンの背後でもう一度扉が開いた。
「よっ、リズベス。お前さん、すっかり噂になってるぜ」
返事を待つどころか、とうとうノックさえせずに顔を出したのはロブである。その非礼を咎める気にもなれず、リズベスはため息をついた。
言うだけ無駄なのだ、この二人には。
「とりあえず、何の話かわかりませんが……お茶、淹れましょうか……」
力なくそう口にしたリズベスに、我が物顔でソファに座ったロブが鷹揚に頷く。
――一体誰の部屋なのだろう、ここは。
リズベスがそう思ったとしても、仕方のないことだと言えよう。
「――は?」
「だから、あの聖騎士団副団長がとうとう陥落した――って、噂になってるのよ」
恐らく、リズベスは過去最高に間抜けな顔をしているだろう。その彼女にむかって、アデリンはにこやかにそう繰り返した。
さっきと全く同じセリフであるが、今のリズベスにはそれを指摘する余裕もない。
「落としたのは、魔術師団の女性研究員だってさ」
にや、と愉快そうに笑いながら、ロブも続けて繰り返す。リズベスの脳内は、もうパンク寸前だった。
魔術師団の女性研究員、と大雑把にひとくくりにされたものの、元々数が少ない女性師団員のなかの研究員、といったらもうそれは数が少なくて――そして、最近一緒にいるのは、紛れもなく自分で。
「は、はぁ……!?」
思わず、貴族の令嬢らしからぬ奇声をあげてしまう。
「そ、そんなの、う、うわさ!?噂って、どこで、だって、そんなの聞いたこともない……!」
「ん~私もはっきり聞いたのは、昨日だけど」
慌てふためくリズベスとは対照的に、のんびりとした口調でアデリンが返す。
「でも、ラトクリフ副団長が最近ご執心の令嬢がいるらしい、って話はちょっと前からあったわよ」
「だって、それは――もう、だいぶ前から」
「ああ、密かに想う女性がいるってやつ?あれはもう、存在自体が眉唾ものだったじゃない」
ずっと信じ続けてきた噂を、いともたやすくひっくり返されて、リズベスは内心パニック寸前だ。
「リズベスは最近、騎士団に出入りする以外は研究室か私室に篭りっきりだったからなあ……」
うんうん、と訳知り顔で頷きあう二人にかまう余裕もなく、リズベスは必死で頭の中身を整理しはじめた。
確かに最近、というか騎士団に出入りするようになって、ヒューバートとの時間は増えている。ただ、あくまでそれは「仕事」だからだ。
騎士団棟から魔術師団棟までの送迎も、機密保持のための措置であって、特別なことではない。まぁ、ほとんど形式的なものではあるのだけれど。
もしかしたら、例の「実践」の場面を見られでもしていたのだろうか。確かにあれを見られたら、噂になるのも頷ける。ちょっと前から、というのであれば、つい先日のあの場面ではないだろう。ああ、もう一体どうして。見られてなんて、いなかったはずなのに。
ぷるぷると震えながら、必死に考えを巡らせてみるものの、思い返してみれば確かに噂になるだけのことは実際にしているのだ。それはもう、本人たちの思惑とは別に、対外的に見れば間違いなく、している。
「ああ、もう、噂なんて――」
実際本人が認めたわけでもないのに、と続けようとして、リズベスははっとした。
そうだ、リズベスが信じ続けてきた――そして今あっさりとひっくり返された――噂だって、本人は全く否定も肯定もしていない、と言われていたではないか。つまりあれも、信じるに足りないただの噂で、事実ではないのだ。
そう気づいた瞬間、リズベスの身体は燃えるように熱くなり、心臓が早鐘を打つ。噂が、ただの噂でしかなくて、信じるべきは本人の言葉だとしたら。
『俺は、本気だよ』
耳元に、ヒューバートの声が蘇る。あの言葉の方をこそ、信じるべきなのだとしたら。
「……え?」
あまりにも突然、すべてがひっくり返されてしまった。どうしよう、と呟きながら顔を真っ赤にしたリズベスが、おろおろと室内を行ったり来たりする。ロブとアデリンはその姿をしばらく眺めた後、顔を見合わせた。
「大丈夫なのか?これ」
「……大丈夫なんじゃ……ないですかね……?」
「こりゃ……噂は本当の本当に、本当だった、ってことでいいのかねえ……」
「まぁ、十中八九、そうだと思いますけどね……」
ぼそぼそ、と囁き合った二人は、もう一度リズベスの様子を確認する。今度は立ち止って、ああでもないこうでもない、とぶつぶつ呟きながら窓の外を睨みつけている。
「……なあ、本当に大丈夫か?これ」
「……たぶん」
「……任務の話、できなかったな」
「する気、あったんですか……?」
「一応な。……ま、今は無理そうだけど」
リズベスが正気を取り戻したのは、その日の夜も遅くなった時間だったという――。
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