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第十一章

婚約者の来訪

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「エリー、ずいぶんご無沙汰してしまったね。
 元気だった?」
 応接室にてエリージェ・ソードルと対面する第一王子ルードリッヒ・ハイセルが柔らかく微笑んだ。
 それを受けたエリージェ・ソードルも、嬉しそうに頬を緩ます。
「はい、殿下。
 わたくしは問題なく過ごしております。
 殿下もお元気そうでなによりです。
 モンドルはいかがでしたか?
 鷹狩りは出来ましたか?」
 第一王子ルードリッヒ・ハイセルは苦笑をしながら頭を掻いた。
「やっぱり危ないからといって、認めてもらえなかったよ。
 そりゃあ、向こうとしては外国からの客人に怪我なんかさせられないから仕方がないさ。
 ただ、オーメはかなり食い下がっていたけどね」
「……その様子が目に浮かぶようですわ」
 エリージェ・ソードルの口元にも苦いものが浮かぶ。

 オーメとは幼なじみオーメスト・リーヴスリーの事だ。

「一緒にいてくれて心強かったし、退屈もしなかったけど、ああいう時のオーメには困ったものだよ」
「リーヴスリー伯爵夫人が、リーヴスリーの血をより濃く受け継いでいると頭を抱えるだけのことはありますわね」
「参ったものだ」
と第一王子ルードリッヒ・ハイセルは愉快そうに笑った。

 エリージェ・ソードルの記憶よりもさらに若い彼ではあった。

 だけど、その黄金こがね色の瞳は”前回”在りし日と同じように女を優しく見つめる。
 エリージェ・ソードルの胸が温かく締め付けられた。

 ああ、殿下。

 わたくしがお会いしたかったお方。

 第一王子ルードリッヒ・ハイセルは話を続ける。
「でも、モンドルの鷹狩りは体験できなかったけど、なかなか有意義な時間は過ごせたよ。
 父上の課題であった、羊毛の取引の拡大も何とか及第点ぐらいには話を付けられたしね。
 それに、異国の空気も体験できて――エリー、いつか君とも一緒に行きたいよ」
「それは楽しそうですわね。
 是非ともご一緒したいです」
 エリージェ・ソードルの頬が緩む。

 異国情緒が溢れる町を、愛しい人の腕に手を絡めて散策する。

 様々なものに追われた”前回”では、想像することすら出来なかったそれに、この女の心は躍った。

(ああ、”素敵”
 そうだわ、クリスティーナの言っていた”素敵”ってこの事なんだわ)

 この女らしからぬ事に、自身の妄想にうっとりした。
 すると、第一王子ルードリッヒ・ハイセルが「ああそうだ」と眉をハの字にしながら言う。
「エリー、申し訳ないんだけど、約束していた王立植物園での散策、別の日にして貰ってもいい?」
「何かございましたか?」
とエリージェ・ソードルは小首をひねる。
「実は鷹狩りが出来なかったので、代わりに遠乗りをしようって話になったんだ。
 でも、皆の空いている日がその日しか無くて……」
「……そうですか。
 それはかまいませんが……」
と言いつつ、エリージェ・ソードルは少し訝しげに思う。

 第一王子ルードリッヒ・ハイセルの対応が余りにも稚拙だったからだ。

 エリージェ・ソードルの知る第一王子ルードリッヒ・ハイセルなら、植物園の見頃の花、予定を変えさせるエリージェ・ソードルの心情、遠乗りする利点等を加味して、丁寧に話を持って行くはずだった。
 にもかかわらず、今、目の前の彼は余りにも無防備に話を切りだした。
 だから、おかしく思ってしまったのだ。

 だがそれも仕方がなかった。

 ”前回”の第一王子ルードリッヒ・ハイセルは成人を過ぎた十七歳なのである。
 現在の十歳そこそこの彼とは経験が違いすぎた。
 この女も、その辺りに思い当たり、仕方がないかと考えた。
(ただ、このお方も将来、国の王となられるのだから、今のうちにご指摘した方がよいかしら?)
 などとも、思った。

 ?

 エリージェ・ソードルはそこで妙な違和感を感じた。
 同時に、何か言いしれぬ不安が胸の中を揺らした。
(何かしら?)
 だが、それが何なのか、明確には分からない。
 混乱するエリージェ・ソードルをそのままに、第一王子ルードリッヒ・ハイセルの話は続く。
「ねえ、思ったんだけど、王立植物園じゃなくて王宮の庭園での散策にしないかな?」
「王宮の、ですか?」
 騒ぐ胸中を必死に押さえつつ、エリージェ・ソードルは合いの手を入れる。
 第一王子ルードリッヒ・ハイセルはどことなく無邪気な笑みを浮かべた。
「うん、王宮の庭園も王立植物園なんかに負けないくらい沢山の花がそろっているよ。
 それにほら、エリーも将来、”王宮に住む”ことになるんだから、色々、紹介したいな。
 あと、母上もエリーと久しぶりにお茶をしたいとおっしゃってたし」

 ドキンと心臓がはねた。

 ”王宮に住む”――嬉しいはずなのに、高揚するはずなのに、胸を叩くのは不安だった。
 体から体温がすり抜けていくような感覚に襲われ、この女、自身の腕をさすった。
 それは表情に出ていたようで、対面する第一王子ルードリッヒ・ハイセルが訝しげに「エリー? どうしたの?」と訊ねてきた。
 だが、混乱するこの女は、それに応えることが出来ない。
 ただ、たどり着いてはならない、”それ”に、言いしれぬ恐怖を感じた。

 この方と王宮に住む……。
 それは……それは……。
 だって、わたくし、あの時……。

 脳裏に浮かんだのは、少女の後ろ姿だった。

 エリージェ・ソードルはその薄金色の頭に、火掻き棒を振り下ろした。

(違う!)

 赤髪の少年を池にたたき落とした。

(違う!)

 攻撃魔術で威嚇してくる少年を”黒い霧”で縛り上げ、踏みつけた。

(違う!)

 黄金色の瞳の少年が、女を睨みながら言い放った。
『エリー!
 これ以上すると、婚約破棄をする!』

(違う! 違う! 違う!)

 生徒会室の応接室、その中央にエリージェ・ソードルは立っていた。

 その周りには四人の少年が倒れている。

 それを見下ろす女の顔は、満面の笑みを――。


「エリー!
 しっかりして、エリー!」
 目の前に黄金色の瞳が心配そうに見つめている。
 いつの間にか、女は長いすから降り、床に両膝を着いていた。
 そんな女を、第一王子ルードリッヒ・ハイセルは抱きしめながら必死に声をかけていた。
 だが、応えられない。
 エリージェ・ソードルは応えられない。
 この女、目を見開き、ガクガクと震えた。

 エリージェ・ソードルは貴族である。

 貴族の中の貴族と言っていい。

 ゆえにこの女、弱い姿を見せない。

 ”当たり前だ”。

 貴族は守るべきものを先導し、貴族は守るべきものの誇りでなければならない。

 だからこの女は、いつだって強くあり続けた。

 強くあり続けなければ、ならなかった。


 だが、そんな女が、今、涙をこぼした。


 老執事ジン・モリタをはじめとする大切な人間が離れていった時も。
 守るべき領民から罵声を浴びても。
 理不尽な悪意に足を引かれても。

 この女はけして、けして、流さなかった”それが”……。

 頬を伝い、顎からこぼれ落ち、手を濡らした。

 まるで決壊したかのように流れ続けた。

 第一王子ルードリッヒ・ハイセルの胸の中で小さくなりながら、震えながら、こぼし続けた。

(あり得ない。
 わたくしがこの方を害するなんて、あり得ない。
 だって、この方はこの国の未来なのに……。
 何で……?
 死ぬなら、わたくしが死ねば良かったのに……)
「お嬢様!
 いかがしましたか!?
 お嬢様!」
 目の前に侍女長シンディ・モリタの顔が現れた。
 老婦人は心配そうにエリージェ・ソードルの顔をのぞき込んでいた。
 エリージェ・ソードルは目を大きく見開く。

『背筋を伸ばしなさい。
 あなたは――』

 エリージェ・ソードルは奥歯を強く噛みしめた。
 そして、静かに立ち上がる。
「エリー?
 大丈夫?」
 見上げる第一王子ルードリッヒ・ハイセルが不安そうな顔で訊ねてきた。
 エリージェ・ソードルは侍女長シンディ・モリタが差し出した手ぬぐいで目元と頬を押し当てるように拭い、それを返しながら答える。
「殿下、申し訳ございません。
 本日は体調が優れませんので、これで失礼します」
「あ、うん。
 気にしないで!」
 第一王子ルードリッヒ・ハイセルは少し安堵したように言うと、立ち上がった。
 そんな彼に、エリージェ・ソードルは向き直り、深々と頭を下げた。
「あと、大変勝手ながら申し上げます。
 婚約の件、こちらの都合で破棄させていただきます」
「……え?」
「お、お嬢様!?」
 ポカンとする第一王子ルードリッヒ・ハイセルと絶句する侍女長シンディ・モリタをそのままに、エリージェ・ソードルは応接間を出る。
 付き従う侍女ミーナ・ウォールや女騎士ジェシー・レーマーなども、状況についてこれず動揺しているようだった。

 だが、エリージェ・ソードルは静かに、自室に向かって淡々と歩く。

 途中、何人もの使用人とすれ違ったが、一様に困惑しながらも、ただ、頭を下げた。
 だから、エリージェ・ソードルは何も言わずに歩いた。
 自室の前に誰かが立っていた。

 クリスティーナだった。

 彼女は大きな本を抱えていて、エリージェ・ソードルに気づくと、嬉しそうに微笑んだ。

 だが、すぐに目を見開く。

 クリスティーナの腕から、本が滑り落ちた。

「おじょ~様?
 どうしたの?」

 そう言う少女の姿が、何故かぼやけた。

「おじょ~様!
 どうしたの!?」
 クリスティーナが駆け寄ってきて、女の体を抱きしめた。
「クリス……」

 エリージェ・ソードルは膝から床に落ちた。

 女騎士ジェシー・レーマーなどの声が聞こえてくる。
 だが、エリージェ・ソードルはクリスティーナを抱きしめると、少女の小さな肩に目元を乗せた。

 声は上げなかった。

 だけど、この女は泣いた。
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