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第六章
とある平民達のお話2
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それから少年マルコは、たびたび少女リアに会いに行った。
リアの両親や少女リア自身からも来ないように言われても、時には強い口調で拒絶されても、少年マルコは通い続けた。
最終的には少女リアは泣き崩れながらも、リアの父親からは「馬鹿野郎……」という言葉を投げかけられながらも、婚姻の了承を得た。
少年マルコは実際、それほど悲観はしていなかった。
様々な人から情報を集め、少女リアを有名な町医師に見せるなどして、病名を知ったという事もあった。
魔力循環不整症
人体に流れる魔力に支障を来す病気で、主に生まれつき魔力が大きい者がかかる病気なので俗に”魔術師病”と呼ばれる疾病であった。
ただ、非常に希ではあるが魔力の少ない者も発症する。
少女リアはそれに当たった。
魔力循環不整症はその名の通り、魔力の循環が乱れることによって起こる。
元々、魔力というと貴族や魔術師しか持っていないように思われがちだが、大半の平民達にも大小の違いはあれども備わって入るものだ。
そして、それは常に体内を循環している。
未だ謎の多いことだが、魔力は普段の生活に微かながら影響を与えているとされている。
例えば、力を振り絞った時に。
例えば、大けがをした時に。
例えば、流行病に晒された時に。
魔力がその身を支えると言われている。
なので、基本的に魔術師の血脈である貴族は、そういったものに強いとされている。
だが、流れが一旦乱れた時は、それがかえって仇となった。
常に体を倦怠感が襲うだけなら良い方で、頭痛や不整脈、平衡感覚の消失、さらには何もしていないのに痣が至る所に出来る。
末期には言語障害や失明……。
そして、苦しみ抜いたあげく死ぬ。
それだけ、制御の離れた魔力は恐るべきものなのだ。
とはいえだ、魔力循環不整症という病、けして難病ではない。
魔力の流れを掴み、制御するのは魔術師にとって基礎の中の基礎である。
医療魔術師であればそれこそ、半人前の者でも出来るし、例えば、魔術関係にさほど力を入れて来なかった女騎士ジェシー・レーマーであっても、手順さえ教わればやれなくはない――そんな程度のものだった。
問題は少年マルコが平民であることだ。
厳密にいえば、魔術師に知り合いがいないということである。
少年マルコの雇い主で、フレコの中堅商会を営む商人アルフレートにすらいないのだから、平民にとって魔術師とはいかに雲の上の存在なのかが分かる。
一応、平民向けの医療協会に紹介状を書いてもらう方法もある。
だが、それには金貨二百枚必要となる。
それに、実際の施術を加えたら金貨およそ六百枚、少年マルコの賃金が年間金貨三枚と考えたら、目眩がするほどの金額であった。
だがそれでも、望みはあった。
平民でも大商人と呼ばれる者の中には、年間金貨千枚の収入を得ている者もいた。
商人アルフレートはおよそ金貨二百枚、か細いものなのは確かであったが、必死になれば何とかなる、そう思わせる光であった。
少年マルコはこの事を少女リアとその両親に話した。
リアの父親は難しそうな顔で訊いていたが、最後には静かに頷いた。
少女リアとリアの母親が不安そうな顔をしていたので、少年マルコは大丈夫だというようににっこりと微笑むと二人の表情も幾分柔らかくなった。
少年マルコの事が心配で、フレコに立ち寄った彼の両親にもそのことを説明すると、大きく頷きながら、手伝うことを了承してくれた。
雇い主である商人アルフレートにも話をすると、ハッハッハと豪快に笑いながら、頑張れよと肩を叩いてくれた。
それからは、金貨六百枚を目標に全員が動き始めた。
リアの父親は木工職人としてそれなりに名の通っていたので、かなりの速度で金貨を積み重ねていった。
少年マルコの両親も訪問する度に金貨を重ねていく。
もちろん、少年マルコも必死に働いた。
商人アルフレートはそんな彼を、一人前の商人にするためにビシバシとしごいていった。
少年マルコと一緒に住み始めたリアの表情は、以前より明るくなった。
希望が満ちあふれているように思えた。
幸せな未来が続いていると、信じて疑わなかった。
疑わなかった。
だが現実はただただ残酷だった。
数年が過ぎ、少年マルコが青年と呼ばれる様になった頃から、妻リアの容態が悪くなってきた。
時に激しく嘔吐するようになり、寝台から起きることが出来ない日も増えた。
その事で焦ったのか、リアの父親はより高級な木工を作るためと上質の木材を求めて森に入り魔獣に襲われて死んだ。
それがさらに重りになったのか、妻リアの病状は悪化の一途をたどった。
嘔吐が時に吐血となった。
体中痣が現れた。
時に文字通り、血の涙を流した。
青年マルコにとって、全てが恐怖だった。
逃げ出したい、そう思う日も何度もあった。
それでも必死になって働き続けた。
にもかかわらず、金貨は四十五枚にしかならなかった。
医療魔術師の慈悲に縋ろうとも思った。
だが、医療魔術師は希少な白の魔力持ちであり、仮に平民であっても、女性であってもほとんどの場合、少なくとも一代貴族、場合によっては法服貴族として叙爵されていた。
なので、必然として手厚く守護をされていた。
特に、青年マルコのように身内が病に侵されている平民がまとわりつかないように厳しく取り締まられている。
身の程をわきまえず、直談判しようとすれば、見せしめのように折檻された。
場合によっては命を落とすこともあった。
それでいて、願いが叶うことはほぼ無い。
それは、医療魔術師として登録された者には、所定の金額以外で治療をすることが禁止されていたからだ。
逆に、医療魔術師として登録されていない者が治療行為で金品を得ることも法律で禁止されている。
少し話が脱線するのだが、例えば、”前回”のクリスティーナ・ルルシエは多くの平民を癒していたが、全て無償で行っている。
もし、一銅貨でも得ていたなら、彼女は捕らえられていたことだろう。
だが、聖女と呼ばれた彼女は一切の迷いもなく、対価を求めず人々を救い続けた。
その恐るべきほどに有り余る魔力を使ってである。
しかも、爵位や金品などで医療魔術師として登録するように言っても、彼女は首を縦に振ることはなかった。
この辺りは、医療魔術師組合の利権や国家の基盤さえ揺るがせかねない問題でもあり、多くの役職に就く者の頭を悩ませることとなった。
最終的には、時の魔術大臣が半ば泣き落としに近い形で国家機関であるオールマ学園に入ることを了承させたのであった。
話を戻そう。
それほど平民に無償で治療することには負担が大きく、また、一人二人ならともかく、キリが無くなることも分かりきった事なので、どれほど善良な医療魔術師も無償で助ける事はしない。
また、護衛をする者も、主に精神的負担を与えぬよう速やかに排除するように心がけている。
なので、その試みが成功することはほぼ無かった。
青年マルコはギリギリまでその選択をしないようにしていた。
ある日、青年マルコは商人アルフレートに呼び出された。
そして、小袋を一つ、渡された。
その中には、金貨五十枚入っていた。
青年マルコにとってはもとより、商人アルフレートにとっても大金だった。
驚愕する青年マルコに商人アルフレートは気まずそうに言った。
「すまんマルコ、うちを辞めてくれ」
青年マルコは大金を欲していた。
そんな彼が商人アルフレートの商売敵に声をかけられたら、商会に不利益になることをしてしまうかもしれない。
それでなくても、大切な上客の品物を盗んで商会に泥を塗ることになるかもしれない。
そういう不安の声をもう、商人アルフレートでは押さえ込むことが出来なくなったのだ。
その説明に、青年マルコはただ、俯いた。
事実、そのような誘惑が何度も頭に過ぎっていたからだ。
謝罪の言葉を繰り返す商人アルフレートに青年マルコは涙を流しながら首を横に振った。
ただ、追い出されても文句が言えないのに、大金を渡してくれたのだ。
「必ず返します」と何度も頭を下げた。
それからも必死に働いた。
商人アルフレートに紹介された場所で計算を使った仕事を行ったり、時には土木工事の仕事を行ったりと、朝から晩まで働き続けた。
青年マルコの両親も頑張ってくれたし、妻リアの母親も看病をしながら内職をして僅かながらの金銭を稼いだ。
それでも目標額は余りにも高く、青年マルコ達は余りにも無力だった。
妻リアの命の炎は日に日にか細くなり、ほとんど話すことすら出来なくなる。
その様子に、青年マルコの心も日に日に疲弊していった。
そんなある日のことだ。
殆ど話せなくなった妻リアだったが、珍しく青年マルコの言葉に反応し、笑みを浮かべた。
青年マルコも久しぶりに微笑みながら妻リアの寝台の脇に座ると、その頭を撫でた。
闘病のため、薄茶色の髪は細く所々抜けて禿げていた。
元々、色白だった肌は青白く痩けている。
ただ、蒼玉の瞳はあの頃のままキラキラと輝き、青年マルコを見つめていた。
ひょっとしたら、ここから好転するのかもしれない。
青年マルコがそう期待してしまうほど、その瞳は美しかった。
だが、そんな思いとは裏腹に、妻リアが発する言葉は残酷なものだった。
「マルコ……もう、いいよ」
初め、彼女が何を言っているのか分からなかった。
だが、妻リアは苦しげな声ながらもハッキリと言った。
「もう、頑張らなくて、良いよ」
「何言ってるんだ?」
青年マルコの目が熱を持ち、頬に何かが滑り落ちた。
妻リアは苦しげに、それでも笑みを浮かべて続ける。
「あり、が……とう。
わたしは……幸せ……」
「何言ってるんだ!
まだだ!
まだ大丈夫だ!」
妻リアは首を小さく横に振る。
それを否定するように、青年マルコも首を大きく振る。
「やめて、くれ。
大丈夫、大丈夫だから!」
そして、外套掛けに有る帽子を手に取ると、それを妻リアに見せる。
初めて出会った時の、あのつばの広い帽子だ。
「ほら、またこの帽子をかぶって出かけるんだろう?
最初は難しいかもしれないけど、体力が付いたら、中央公園の噴水まで行こう。
そういえば、あそこに新しい屋台が出来たんだが――」
青年マルコは話し始める。
あの場所にはあんなものがあった、とか。
あの場所にはこんなものが出来た、とか。
涙をボロボロこぼしながら、まくし立てる。
妻リアはそれを苦しげに、でも微笑みながら聞いている。
その瞳からも、滴が静かにこぼれ落ちる。
そうすると、青年マルコはますます愉快そうに話す。
そうしなければ、崩れてしまうかのように。
そうしなければ、消えてしまうかのように。
そうしなければ、終わってしまうかのように。
必死になって、言葉を紡ぐ。
もう、起こりえない未来と知りつつも、話し続ける。
(やだ、置いて行かないでくれ!)
青年マルコは心の中で絶叫した。
番を失ったあの鳥が脳裏を過ぎる。
(俺は、君がいないと生きてはいけないんだ!
頼む、頼むよぉ!)
だが、妻リアの反応が徐々に弱くなってくる。
手を握ると、体温が急激に落ちていくようだった。
それは、まるで、手のひらから零れ落ちる水のように、静かに、確実に消えていく。
(やだやだ!
やめてくれ!
俺は、俺はまだ!)
「邪魔」
突然、両脇に何かが差し込まれた。
そして、凄まじい力で寝台から離され、床に座らされた。
「はぁ?」青年マルコが見上げると、何故か騎士の格好をした男達が、がっちりと青年マルコを捕らえていた。
何故? と思う間、そこに無遠慮な足取りで人々が寝室に入ってくる。
まず目に入ったのは驚くほど美しい少女だった。
十代前半ぐらいの令嬢だろうか?
貴族然としたその少女は、容姿だけでなく立ち姿にも気品が見て取れた。
ただ、愛の女神といった慈悲に溢れる美しさというより、芝居で良く演じられる傲慢でいて気高い、敵役の令嬢といった感じであった。
そして、次に目に入ったのが、ご令嬢の隣にある白いローブであった。
それは、青年マルコが求めてやまなかった、医療魔術師の装束だった。
余りの事に、青年マルコが目を見開き固まっている間にも、話が淡々と進められる。
医療魔術師は中年ぐらいの女性で、助手らしき若い男とともに寝台の脇に立ち、妻リアに優しく話しかけた。
「奥様、もう大丈夫ですよ。
今から、治療をしますからね。
後少しだけ、頑張ってくださいね」
(治療……してくれるのか?)
青年マルコは呆然とそれを眺める。
でも、なぜ? どうして?
一瞬、商人アルフレートが呼んでくれたのかとも思ったが、それにしては当人もいない。
それに、あの令嬢の存在がよく分からなかった。
そんな、困惑する青年マルコの事など頓着せず、話は令嬢と医療魔術師の間で進んでいく。
「お嬢様、それでは魔力整形を行います。
よろしいですね」
「ええ、進めて頂戴」
医療魔術師が手をかざすと、白色の光がふわりと浮かび上がるのが見える。
「捻れが酷いですね。
奥様、痛かったら言ってくださいね。
……これは……お嬢様、鎮痛の術を使っても?」
「使って頂戴。
必要なものは確認も必要ないわ」
「畏まりました。
並行して鎮痛の魔術も使います」
その言葉に、助手の男が何かを紙に書き始めた。
(使用した魔術を書き上げているのか?)
それだけ分、請求されると考えると、背筋に冷たいものが走った。
だがむろん、止めることはしない。
不安と同時に、希望も湧き上がってきたからだ。
(助かる……のか?
リアは助かるのか?)
四半刻が過ぎたぐらいか、医療魔術師の手が止まる。
そして、満足げな笑顔を令嬢と、そして、青年マルコに向けた。
「もう大丈夫ですよ。
体力が落ちていらっしゃいますので、しばらくは安静にする必要はありますが、それさえ戻れば普通に生活できるようになります」
「そ……あ……」
青年マルコは言葉に詰まる。
そして、立ち上がると寝台に近づいた。
そこには、妻リアが眠っていた。
所々、青黒く浮かび上がっていた痣はすっかり無くなり、常に喘ぐようにしていた呼吸が信じられないほど静かだった。
もう訪れることが無いと半ば諦めていた穏やかさが、そこにはあった。
青年マルコの視界が目から溢れるそれのためにグニャリと歪んだ。
そして、「ありがとう、ございました」と医療魔術師と令嬢に深々と頭を下げた。
そんな温かな気持ちが溢れる青年マルコだったが、返ってきた声は冷淡なものだった。
「あなた、見たわね」
「え?」
少しきょとんとした感じで訊ね返すと、令嬢は少し苛立たしげに眉をしかめる。
「見たわねと聞いてるの」
「え、あ、はい!」
令嬢の突然の怒気に、青年マルコはビクッと体を振るわせた。
すると、令嬢はなにやら満足したのか、騎士に向かって指示を出した。
「じゃあ、連れてって!」
「は?」
ポカンとする青年マルコは騎士に両腕を掴まれた。
リアの両親や少女リア自身からも来ないように言われても、時には強い口調で拒絶されても、少年マルコは通い続けた。
最終的には少女リアは泣き崩れながらも、リアの父親からは「馬鹿野郎……」という言葉を投げかけられながらも、婚姻の了承を得た。
少年マルコは実際、それほど悲観はしていなかった。
様々な人から情報を集め、少女リアを有名な町医師に見せるなどして、病名を知ったという事もあった。
魔力循環不整症
人体に流れる魔力に支障を来す病気で、主に生まれつき魔力が大きい者がかかる病気なので俗に”魔術師病”と呼ばれる疾病であった。
ただ、非常に希ではあるが魔力の少ない者も発症する。
少女リアはそれに当たった。
魔力循環不整症はその名の通り、魔力の循環が乱れることによって起こる。
元々、魔力というと貴族や魔術師しか持っていないように思われがちだが、大半の平民達にも大小の違いはあれども備わって入るものだ。
そして、それは常に体内を循環している。
未だ謎の多いことだが、魔力は普段の生活に微かながら影響を与えているとされている。
例えば、力を振り絞った時に。
例えば、大けがをした時に。
例えば、流行病に晒された時に。
魔力がその身を支えると言われている。
なので、基本的に魔術師の血脈である貴族は、そういったものに強いとされている。
だが、流れが一旦乱れた時は、それがかえって仇となった。
常に体を倦怠感が襲うだけなら良い方で、頭痛や不整脈、平衡感覚の消失、さらには何もしていないのに痣が至る所に出来る。
末期には言語障害や失明……。
そして、苦しみ抜いたあげく死ぬ。
それだけ、制御の離れた魔力は恐るべきものなのだ。
とはいえだ、魔力循環不整症という病、けして難病ではない。
魔力の流れを掴み、制御するのは魔術師にとって基礎の中の基礎である。
医療魔術師であればそれこそ、半人前の者でも出来るし、例えば、魔術関係にさほど力を入れて来なかった女騎士ジェシー・レーマーであっても、手順さえ教わればやれなくはない――そんな程度のものだった。
問題は少年マルコが平民であることだ。
厳密にいえば、魔術師に知り合いがいないということである。
少年マルコの雇い主で、フレコの中堅商会を営む商人アルフレートにすらいないのだから、平民にとって魔術師とはいかに雲の上の存在なのかが分かる。
一応、平民向けの医療協会に紹介状を書いてもらう方法もある。
だが、それには金貨二百枚必要となる。
それに、実際の施術を加えたら金貨およそ六百枚、少年マルコの賃金が年間金貨三枚と考えたら、目眩がするほどの金額であった。
だがそれでも、望みはあった。
平民でも大商人と呼ばれる者の中には、年間金貨千枚の収入を得ている者もいた。
商人アルフレートはおよそ金貨二百枚、か細いものなのは確かであったが、必死になれば何とかなる、そう思わせる光であった。
少年マルコはこの事を少女リアとその両親に話した。
リアの父親は難しそうな顔で訊いていたが、最後には静かに頷いた。
少女リアとリアの母親が不安そうな顔をしていたので、少年マルコは大丈夫だというようににっこりと微笑むと二人の表情も幾分柔らかくなった。
少年マルコの事が心配で、フレコに立ち寄った彼の両親にもそのことを説明すると、大きく頷きながら、手伝うことを了承してくれた。
雇い主である商人アルフレートにも話をすると、ハッハッハと豪快に笑いながら、頑張れよと肩を叩いてくれた。
それからは、金貨六百枚を目標に全員が動き始めた。
リアの父親は木工職人としてそれなりに名の通っていたので、かなりの速度で金貨を積み重ねていった。
少年マルコの両親も訪問する度に金貨を重ねていく。
もちろん、少年マルコも必死に働いた。
商人アルフレートはそんな彼を、一人前の商人にするためにビシバシとしごいていった。
少年マルコと一緒に住み始めたリアの表情は、以前より明るくなった。
希望が満ちあふれているように思えた。
幸せな未来が続いていると、信じて疑わなかった。
疑わなかった。
だが現実はただただ残酷だった。
数年が過ぎ、少年マルコが青年と呼ばれる様になった頃から、妻リアの容態が悪くなってきた。
時に激しく嘔吐するようになり、寝台から起きることが出来ない日も増えた。
その事で焦ったのか、リアの父親はより高級な木工を作るためと上質の木材を求めて森に入り魔獣に襲われて死んだ。
それがさらに重りになったのか、妻リアの病状は悪化の一途をたどった。
嘔吐が時に吐血となった。
体中痣が現れた。
時に文字通り、血の涙を流した。
青年マルコにとって、全てが恐怖だった。
逃げ出したい、そう思う日も何度もあった。
それでも必死になって働き続けた。
にもかかわらず、金貨は四十五枚にしかならなかった。
医療魔術師の慈悲に縋ろうとも思った。
だが、医療魔術師は希少な白の魔力持ちであり、仮に平民であっても、女性であってもほとんどの場合、少なくとも一代貴族、場合によっては法服貴族として叙爵されていた。
なので、必然として手厚く守護をされていた。
特に、青年マルコのように身内が病に侵されている平民がまとわりつかないように厳しく取り締まられている。
身の程をわきまえず、直談判しようとすれば、見せしめのように折檻された。
場合によっては命を落とすこともあった。
それでいて、願いが叶うことはほぼ無い。
それは、医療魔術師として登録された者には、所定の金額以外で治療をすることが禁止されていたからだ。
逆に、医療魔術師として登録されていない者が治療行為で金品を得ることも法律で禁止されている。
少し話が脱線するのだが、例えば、”前回”のクリスティーナ・ルルシエは多くの平民を癒していたが、全て無償で行っている。
もし、一銅貨でも得ていたなら、彼女は捕らえられていたことだろう。
だが、聖女と呼ばれた彼女は一切の迷いもなく、対価を求めず人々を救い続けた。
その恐るべきほどに有り余る魔力を使ってである。
しかも、爵位や金品などで医療魔術師として登録するように言っても、彼女は首を縦に振ることはなかった。
この辺りは、医療魔術師組合の利権や国家の基盤さえ揺るがせかねない問題でもあり、多くの役職に就く者の頭を悩ませることとなった。
最終的には、時の魔術大臣が半ば泣き落としに近い形で国家機関であるオールマ学園に入ることを了承させたのであった。
話を戻そう。
それほど平民に無償で治療することには負担が大きく、また、一人二人ならともかく、キリが無くなることも分かりきった事なので、どれほど善良な医療魔術師も無償で助ける事はしない。
また、護衛をする者も、主に精神的負担を与えぬよう速やかに排除するように心がけている。
なので、その試みが成功することはほぼ無かった。
青年マルコはギリギリまでその選択をしないようにしていた。
ある日、青年マルコは商人アルフレートに呼び出された。
そして、小袋を一つ、渡された。
その中には、金貨五十枚入っていた。
青年マルコにとってはもとより、商人アルフレートにとっても大金だった。
驚愕する青年マルコに商人アルフレートは気まずそうに言った。
「すまんマルコ、うちを辞めてくれ」
青年マルコは大金を欲していた。
そんな彼が商人アルフレートの商売敵に声をかけられたら、商会に不利益になることをしてしまうかもしれない。
それでなくても、大切な上客の品物を盗んで商会に泥を塗ることになるかもしれない。
そういう不安の声をもう、商人アルフレートでは押さえ込むことが出来なくなったのだ。
その説明に、青年マルコはただ、俯いた。
事実、そのような誘惑が何度も頭に過ぎっていたからだ。
謝罪の言葉を繰り返す商人アルフレートに青年マルコは涙を流しながら首を横に振った。
ただ、追い出されても文句が言えないのに、大金を渡してくれたのだ。
「必ず返します」と何度も頭を下げた。
それからも必死に働いた。
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その様子に、青年マルコの心も日に日に疲弊していった。
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殆ど話せなくなった妻リアだったが、珍しく青年マルコの言葉に反応し、笑みを浮かべた。
青年マルコも久しぶりに微笑みながら妻リアの寝台の脇に座ると、その頭を撫でた。
闘病のため、薄茶色の髪は細く所々抜けて禿げていた。
元々、色白だった肌は青白く痩けている。
ただ、蒼玉の瞳はあの頃のままキラキラと輝き、青年マルコを見つめていた。
ひょっとしたら、ここから好転するのかもしれない。
青年マルコがそう期待してしまうほど、その瞳は美しかった。
だが、そんな思いとは裏腹に、妻リアが発する言葉は残酷なものだった。
「マルコ……もう、いいよ」
初め、彼女が何を言っているのか分からなかった。
だが、妻リアは苦しげな声ながらもハッキリと言った。
「もう、頑張らなくて、良いよ」
「何言ってるんだ?」
青年マルコの目が熱を持ち、頬に何かが滑り落ちた。
妻リアは苦しげに、それでも笑みを浮かべて続ける。
「あり、が……とう。
わたしは……幸せ……」
「何言ってるんだ!
まだだ!
まだ大丈夫だ!」
妻リアは首を小さく横に振る。
それを否定するように、青年マルコも首を大きく振る。
「やめて、くれ。
大丈夫、大丈夫だから!」
そして、外套掛けに有る帽子を手に取ると、それを妻リアに見せる。
初めて出会った時の、あのつばの広い帽子だ。
「ほら、またこの帽子をかぶって出かけるんだろう?
最初は難しいかもしれないけど、体力が付いたら、中央公園の噴水まで行こう。
そういえば、あそこに新しい屋台が出来たんだが――」
青年マルコは話し始める。
あの場所にはあんなものがあった、とか。
あの場所にはこんなものが出来た、とか。
涙をボロボロこぼしながら、まくし立てる。
妻リアはそれを苦しげに、でも微笑みながら聞いている。
その瞳からも、滴が静かにこぼれ落ちる。
そうすると、青年マルコはますます愉快そうに話す。
そうしなければ、崩れてしまうかのように。
そうしなければ、消えてしまうかのように。
そうしなければ、終わってしまうかのように。
必死になって、言葉を紡ぐ。
もう、起こりえない未来と知りつつも、話し続ける。
(やだ、置いて行かないでくれ!)
青年マルコは心の中で絶叫した。
番を失ったあの鳥が脳裏を過ぎる。
(俺は、君がいないと生きてはいけないんだ!
頼む、頼むよぉ!)
だが、妻リアの反応が徐々に弱くなってくる。
手を握ると、体温が急激に落ちていくようだった。
それは、まるで、手のひらから零れ落ちる水のように、静かに、確実に消えていく。
(やだやだ!
やめてくれ!
俺は、俺はまだ!)
「邪魔」
突然、両脇に何かが差し込まれた。
そして、凄まじい力で寝台から離され、床に座らされた。
「はぁ?」青年マルコが見上げると、何故か騎士の格好をした男達が、がっちりと青年マルコを捕らえていた。
何故? と思う間、そこに無遠慮な足取りで人々が寝室に入ってくる。
まず目に入ったのは驚くほど美しい少女だった。
十代前半ぐらいの令嬢だろうか?
貴族然としたその少女は、容姿だけでなく立ち姿にも気品が見て取れた。
ただ、愛の女神といった慈悲に溢れる美しさというより、芝居で良く演じられる傲慢でいて気高い、敵役の令嬢といった感じであった。
そして、次に目に入ったのが、ご令嬢の隣にある白いローブであった。
それは、青年マルコが求めてやまなかった、医療魔術師の装束だった。
余りの事に、青年マルコが目を見開き固まっている間にも、話が淡々と進められる。
医療魔術師は中年ぐらいの女性で、助手らしき若い男とともに寝台の脇に立ち、妻リアに優しく話しかけた。
「奥様、もう大丈夫ですよ。
今から、治療をしますからね。
後少しだけ、頑張ってくださいね」
(治療……してくれるのか?)
青年マルコは呆然とそれを眺める。
でも、なぜ? どうして?
一瞬、商人アルフレートが呼んでくれたのかとも思ったが、それにしては当人もいない。
それに、あの令嬢の存在がよく分からなかった。
そんな、困惑する青年マルコの事など頓着せず、話は令嬢と医療魔術師の間で進んでいく。
「お嬢様、それでは魔力整形を行います。
よろしいですね」
「ええ、進めて頂戴」
医療魔術師が手をかざすと、白色の光がふわりと浮かび上がるのが見える。
「捻れが酷いですね。
奥様、痛かったら言ってくださいね。
……これは……お嬢様、鎮痛の術を使っても?」
「使って頂戴。
必要なものは確認も必要ないわ」
「畏まりました。
並行して鎮痛の魔術も使います」
その言葉に、助手の男が何かを紙に書き始めた。
(使用した魔術を書き上げているのか?)
それだけ分、請求されると考えると、背筋に冷たいものが走った。
だがむろん、止めることはしない。
不安と同時に、希望も湧き上がってきたからだ。
(助かる……のか?
リアは助かるのか?)
四半刻が過ぎたぐらいか、医療魔術師の手が止まる。
そして、満足げな笑顔を令嬢と、そして、青年マルコに向けた。
「もう大丈夫ですよ。
体力が落ちていらっしゃいますので、しばらくは安静にする必要はありますが、それさえ戻れば普通に生活できるようになります」
「そ……あ……」
青年マルコは言葉に詰まる。
そして、立ち上がると寝台に近づいた。
そこには、妻リアが眠っていた。
所々、青黒く浮かび上がっていた痣はすっかり無くなり、常に喘ぐようにしていた呼吸が信じられないほど静かだった。
もう訪れることが無いと半ば諦めていた穏やかさが、そこにはあった。
青年マルコの視界が目から溢れるそれのためにグニャリと歪んだ。
そして、「ありがとう、ございました」と医療魔術師と令嬢に深々と頭を下げた。
そんな温かな気持ちが溢れる青年マルコだったが、返ってきた声は冷淡なものだった。
「あなた、見たわね」
「え?」
少しきょとんとした感じで訊ね返すと、令嬢は少し苛立たしげに眉をしかめる。
「見たわねと聞いてるの」
「え、あ、はい!」
令嬢の突然の怒気に、青年マルコはビクッと体を振るわせた。
すると、令嬢はなにやら満足したのか、騎士に向かって指示を出した。
「じゃあ、連れてって!」
「は?」
ポカンとする青年マルコは騎士に両腕を掴まれた。
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それ故に時代とともにランドロール公爵家を敬う者は減っていき、遂に王太子アストラはリシアとの婚約破棄を宣言すると共にランドロール家の爵位を剥奪する事を決定してしまう。
だが彼らは知らなかった。リシアこそが初代『要の巫女』の生まれ変わりであり、これから王国で発生する大地震を予兆し鎮めていたと言う事実を。
そして「もう私は必要ないんですよね?」と、そっと術を解き、リシアは国を後にする決意をするのだった。
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