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本編
9.謝罪
しおりを挟む味気ない日々が続く。
朝起きて、支度をして、馬車で学園へ赴く。
講義を受ける。
昼食をとる。
講義を受ける。
女の子に囲まれる。或いは学生会の仕事に駆り出される。
馬車で帰宅する。
湯浴みをして、寝る。ベッドに入っても目が冴えて眠れないが、横になっていれば、身体の疲労は取れる。
毎日が味気ない。つまらない。色褪せて見える。俺の日常は、こんなにも退屈だったのだろうか。
退屈。
無味乾燥。
すべてが古惚けた絵画のようだ。色味が抜け、剥がれ落ちて、元の美しかったそれは、もうどこにもない。
壊れた、価値のないもの。それが、俺。
暗い部屋の中、カーテンの隙間から月明りが射し込む。月夜、なのか。
月。
月の精霊のような、彼女。
真っ直ぐな長い黒髪。触れたら解けて消えそうな雪肌。ちょっとでも目を逸らせば消えてしまう微かな笑み。
「…会いたい…」
声に出して呟けば、もう、どうしようもなく気持ちが溢れた。
あの娘に、会いたい。
そう言えば、あの娘に謝っていない。俺が無神経な態度でいたせいで迷惑を掛けた。その謝罪がしたい。そうだ、その為に、会おう。
でも初等部棟に俺が赴けば人目を引く。呼び出すにしても、イザベラは手引きしてくれないだろう。あの娘に会うのに、どうすれば……。
俺は思案を巡らせた。
◇
やっぱり、ここに居た。
初等部棟屋上なら、ブリュンヒルデはひとりでいるだろう。彼女とこっそり会うならここしかない。そう思った俺の読みは正しかった。
というか、去年一年間、彼女の行動を観察したお陰でもある。毎週水曜日と木曜日、天気がよければブリュンヒルデは屋上でスケッチをしている。ここから見下ろす王都の眺めを彼女は一つのモチーフとして捉え、手法を替えて描き続けている。今までは彼女の創作活動を邪魔したくなくて、この場所を訪れなかった。しかし、背に腹は替えられない。
俺が目にしたのは、初めてあったあの日を彷彿とさせるようなブリュンヒルデの後ろ姿。簡易椅子に腰かけて、真っ直ぐな黒髪を後ろで一つに結わえている。真っ直ぐに伸ばした背筋。小さな頭が遠くを見ている、かと思えば手元を見る為に俯く。右手にはたぶん、カーボンチョーク。爪の中まで真っ黒に汚れるそれを、なんの躊躇いもなく握って一心不乱にスケッチする様をよくこうしてこっそり眺めたものだ。……うん、去年もこうして眺めていた。遠くから。何度見詰めても、彼女が絵を描く様子を見るのは飽きなかった。
今となっては懐かしい気さえする。
いや、今日は謝罪の為に訪れたのだから、見惚れていないでちゃんと謝らなければ。
「ブリュンヒルデ嬢」
そう声をかけて、ワザと音を立てて歩けば、気が付いたブリュンヒルデが振り向いて俺を見遣った。
「逃げないで。そのままでいて。きちんと謝らせて欲しいんだ。俺の話、聞いてくれる?」
立ち上がろうとする彼女に、そう声を掛ければ、戸惑ったような瞳を向けられる。ごめんね、そんなに不安な顔させて。全部、俺が悪いんだけど。
簡易椅子に腰を下ろした彼女の前に、少し距離をおいて、直接床に座り込む俺。膝を抱えて、立てた膝の上に顎を乗せて上目遣いでブリュンヒルデ嬢を見上げる。こんな、媚びた顔を見せて伺っても、ブリュンヒルデ嬢は動じてくれない。ほかの子なら、間違いなく悲鳴を上げて喜んでくれるのに。ちょっと残念のような、ほっとするような。
ブリュンヒルデ嬢は、俺が謝りたい、と言ったからか、そのままでいて、とお願いしたせいか、逃げ出すような素振りは見せなかった。画板を閉じて俺に向き合い、俺が何を言い出すのか、そのつぶらなオニキスの瞳で見詰めている。
「まず。ごめんなさい。本当に申し訳なかった」
座った姿勢から、手と膝を床について頭を下げた。
「……っ!! オリヴァーさまっ! 頭をお上げくださいませっ」
「俺の考えなしの行動のせいで、君に多大な迷惑をかけた。王女殿下に責められたのだから、君の名誉に傷がつく形になった。ラインハルト殿下に取りなしてくれるようお願いしてあるから、すぐ名誉回復すると思うけど……本当に、申し訳なかった」
「…オリヴァーさま…頭を、上げてください」
彼女の優しい言葉に甘えて、元の姿勢に戻る。彼女のほっとした溜息が聞こえた。
「ただでさえ、君個人に我がロイエンタール家は恩義があるっていうのに……」
「はい? 恩義?」
「君の勇敢な行動のお陰で、イザベラは助かった。今では火傷痕なんて何も残っていない。我が家では全員、君には感謝しかしていない」
あの実直でカタブツなクラウス兄上も、俺よりブリュンヒルデの肩を持つ発言をしていた。俺だって、俺みたいないい加減な野郎より、『黒姫』を守りたいと思うよ。
「2年も経ったけど、俺からも改めてお礼を言わせて。ブリュンヒルデ嬢。君のお陰で妹は無事だった。ありがとう」
そう言って、胡坐の恰好のまま頭を下げた。顔を上げて、ブリュンヒルデを見れば、きょとんとしたオニキスの瞳があった。
「それにしても、凄いね。よく火を見て咄嗟に行動できたもんだ」
感心して言うと、彼女は躊躇いがちに答えてくれた。
「あー、はい。領地で、その……すぐ目の前で火を出した、侍女が、いまして……その、こどもの頃でしたが……その時、侍従がビックリする程早く対応してくれまして……それを覚えていたから、ですかね」
「覚えていても、そんなにすぐ動けるなんて、凄い」
「いえいえ。その、それ以来、わたくしは侍女とか、その、領地の人を守る立場の人間なのだから、と思い至りまして……常に、そうなった場合を頭の中で予想展開していた、というか……今度はもっと早く、もっとちゃんと動けるようになろうって、想定して、いまして……」
「やっぱり、君はすごいな……」
領地での出来事、と言っていたから学園に来る前だ。12歳かそこらの令嬢が、人を守る立場だと自覚したって? 自分の方が護られる立場なのに?
俺はそんな覚悟を持ったことがあっただろうか。
即答できる。―――否、ない。
毎日、面白いこと、おかしいこと、そんなことばかり追い続けていた。
あぁ。人としての格が、こうまで違うのか。
彼女の素晴らしさに感動すると同時に、己の不甲斐なさに眩暈がする。
「オリヴァーさま?」
黙り込んでしまった俺に気を使ったのか、ブリュンヒルデが心配そうな瞳を俺に向けてくれた。
「いや……俺はダメな人間だなって、最近、やっと解ったんだ。君に対してもそうだし、……いつも、考えなしで行動して、周りを傷付けてばかりだ。俺は卑怯で、最低な人間なんだ……」
口に出して言ったのは初めてだ。
それも女の子の前で、こんな弱音を吐くなんて。女の子の前では、いや、人前では、自分は苦労しているとか、悩んでいるとか、そんな負の感情を溢したことはない。そんなカッコ悪い真似、死んでもできないと思っていた。
いま俺は、自分が思うよりも相当弱っているらしい。
「わたくし、笑えないんです」
沈黙を嫌ったのか、ブリュンヒルデが突然そう言った。
「……笑えない?」
「えぇ。既にご存じでしょうが、わたくしのコンプレックスです。頭の中に、こぅ……笑うなら、こうしなければ、という理想の形があって……わたくしにはそれが、無理で……。どうしても、上手く、表情が作れなくなりました。そのせいで、周りの空気を悪くしたり、ヒルデガルド様にご心配頂いたり……。
……オリヴァー様は、わたくしなんかとは違い、周りを明るくする笑顔をお持ちです。ファンクラブの皆様も、オリヴァーさまの笑顔を待ち望んでいらっしゃいます。……だから、傷付けてばかり、だなんてこと、ありませんよ。大丈夫ですよ」
もしかして、俺、慰められている。俺が謝らなければならないのに、傷ついた彼女を慰めなければならないのに、逆に慰められている。
俺が自分は最低で、彼女は凄いって言ったから。
自分のコンプレックスを引き合いに出して、俺をちょっとでも褒めようとしてくれた……。
嬉しい!!
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