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身代わり羊の見る夢は【3】
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水底から浮き上がるように、意識が浮上した。体の奥底で、モーターが回り出すのを感じる。休眠状態にあった感覚センサーと思考回路が覚醒し、システムが始動する。
滑らかなシーツに包み込まれている感触。閉じた瞼の向こうから、朝の光が忍び込む。
目を開ける。アイカメラは天井の落ち着いた色を捉えた。横たわったまま、辺りを見回してみる。
飼い主は居ない。広い寝台に、虚ろな寝室に、自分だけが取り残されていた。
のろのろと身を起こしたとき、気付いた。清められ夜着を着せられた、自分の体に。
シーツに手を滑らせてみる。白々しい色をしたそれは冷えきって、残り香も温もりも何もかもが既に消え失せていた。
飼い主は一体どれほど前に、この部屋を出ていったのだろう。自分を残して、自分だけをここに置き去りにして、どこへ行ったのだろう。
見回すと、ベッドサイドの小机に書き置きがあるのが目に留まった。手を伸ばして拾い上げ、目を走らせる。手書きの端正な文字が、そこには綴られていた。
『昨夜は無理をさせてすまなかった。今日はゆっくり休むといい』
そうした労りの言葉から始まる、優しい手紙だった。目覚める時に傍にいられないことへの謝罪。また夕方までには戻る、という約束。
君はとても綺麗で可愛らしかったよ。甘やかなその結びの言葉に、頬が熱くなった。見せる相手もいない場で無益な反応をする自分に気付き、呆れる。
寝台を這い出ると、腰の奥が鈍く痛んだ。以前置かれていた場所では毎日感じるのが当然だった、存在理由さえ分からぬその痛み。久しぶりに訪れたそれは、記憶の中のものよりも重く鈍く痛む気がした。
ひどく虚無的な擬制感情が、胸郭を満たしていた。ようやく役割を果たせたというのに、ようやく役立つことができたというのに。
なぜ、こんな気分になっているのか。一体何が、この胸は不満だというのか。自分でも、理解できなかった。
飼い主の寝室を出たものの、食事を用意してあるというダイニングルームに行く気にもなれなかった。けれど、与えられた部屋に戻る気にもなれない。
外に出るような気分でもない。行きたい場所も、迎え入れてくれる他の場所も、元より自分にはない。この家以外のどこにも、行く場所はない。どこにも帰れない。
窓の外を見ると、まだ陽は天頂に辿り着いてさえいなかった。飼い主の帰宅は、まだ何時間も先なのだろう。
そう考えた時、寂寥に似た擬制感情が胸を貫いた時。足が、勝手に動き出していた。
やがて立ち止まったのは、廊下の奥だった。立ち入ることを禁じられた、あの唯一の部屋の前だった。
扉に手をかけようとして、最後に僅かな躊躇を覚えた。飼い主の真剣な声と眼差しを、思い出す。
『この部屋にだけは、入らないで欲しいんだ』
飼い主自身は毎夜、この部屋に入っていく。一人きりこの部屋と向き合って、たった一人でこの部屋の空気に浸って、そして静かに「こちら側」へと戻ってくる。
この部屋はきっと、あの飼い主にとって、とても神聖な場所なのだ。他の誰にも踏み込ませてはならない、決して侵害させてはならない聖域なのだ。
そのような場所に、自分などが入っても良いものだろうか。恐れるように呟く弱気な感情を、押し殺した。
禁忌だから何だ。神聖だから、何だと言うのだ。
もしかしたら、自分は罰が欲しいのかもしれない。優しい水の檻に自分を閉じ込めている飼い主を、愛しているなどと囁いてみせながら後朝を共に迎えてさえくれないあの人間を、激しく動揺させてやりたいのかもしれない。
罰するならば、罰すればいい。自暴自棄な気分で、禁断の扉を押し開けた。
部屋の中には、自分が二体並んでいた。
「……!」
思わず立ち尽くす。二体の自分が、物も言わず見つめ返した。
その片割れは、鏡だ。数秒置いて、やっとそれに気が付いた。入口の正面に据え付けられた鏡に、自分が映っている。呆然と目を見開いて、立ち竦んでいる自分の姿。
では、もう一体は、何だ。
恐る恐る、部屋に足を踏み入れた。同時に、鏡の中の自分も歩き出す。だが、もう一体の自分は動かない。椅子に腰掛けて、ほんの微かに微笑んで、無言でこちらを見つめている。
その「自分」に近づいて、息を詰めて観察する。手を伸ばして、それに触れた。
そこにあったのは、等身大の肖像画だった。かなり古い品物だ。もしかすると、描かれてから五十年や百年ではきかないのかもしれない。骨董品と呼べそうなそれは、描かれている衣装も比例するように古めかしかった。
今から百五十年ほど前に懐古主義が一大ブームとなり、肖像画を描かせることが流行ったことは、知識として知っている。これもおそらく、その当時の品なのだろう。
だが。ならばなぜ、自分の絵が、ここに。つい最近この家に買い取られて来たばかりの自分の絵が、百五十年前には設計図としてさえ存在していなかった自分の肖像画が、どうして。
そしてなぜあの飼い主は、肖像画と鏡のほかに目を引く物のないこのような部屋に、夜毎に籠るのだ。この自分に用があるならば、ただ部屋を訪れさえすれば良いものを。
飼い主は、フィリップは、一体何を考えているのだ。
分からない。分からない。答えを与えてくれる者も、ここには居ない。
無意識に、後退りをしていたらしい。肩が壁際の本棚に触れて我に返り、反射的に視線を向ける。そして、また息を呑んだ。
その書棚には本ではなく、無数の写真立てが置かれていた。大きさも色も形も素材も様々の品々。その全ての中からは、「自分」がこちらに視線を向けていた。
困ったような顔。ぎこちない下手な笑顔。うたた寝をしている姿。その全ては確かに自分の姿でありながら、その服装や背景は、自分では決して有り得なかった。
この異様な写真は何だ。ここに写っているのは誰なのだ。この部屋は、何なのだ。
混乱し、困惑し、殆ど錯乱せんばかりになる。立っているのが、やっとだった。
ふと気がつくと、与えられた部屋で呆然と寝台に腰を下ろしていた。
どれほど前にあの異様な部屋を出たのかさえ、思い出せない。身に覚えのない「自分」に埋め尽くされた、あまりにも異常なあの部屋。
扉は元通りに閉めただろうか。ちらりと考えたが、確かめに行く勇気が持てなかった。
窓の外では、陽が随分と傾いている。飼い主はそろそろ戻る頃だろうか。そう考えた折しも、玄関の方向から物音がした。その音で我に返り、反射的に立ち上がる。
玄関へと駆けつけると、ちょうど施錠を終えた飼い主が振り返った。常のように、少し疲れた顔をして笑う。
「ただいま」
優しく微笑む飼い主が、こちらへ手を伸ばしてくる。思わず身を硬らせるが、逃げる間も無く抱きすくめられた。
「今日は傍に居てあげられず、すまなかったね。寂しくなかったかい?」
甘やかで優しい声に問われ、寸の間答えに迷う。どのように返答することが、この飼い主を喜ばせるのだろう。
だが結論が出る前に、体が動いていた。気付けば自分の腕が飼い主の背中を抱き返していて、縋るようにその肩に顔を押し付けていた。
思いがけない自分の行動に、一拍遅れて狼狽する。だが慌てて離れるより早く、甘やかな声で笑った飼い主が一層強い力で抱き返してきた。
「寂しがらせてごめんよ。明日は、ずっと君と一緒に居るから」
蕩けるように甘い声で囁かれ、頬に口付けられる。触れられた場所に熱が灯るのを、はっきりと感じた。
もう一度しっかりと抱擁してくれた飼い主が、名残惜しげに腕を解いた。優しく腕を取られ、家奥へと導かれる。
「夕飯は一緒に作ろうか。何が食べたい?」
尋ねる飼い主の、屈託のない笑顔。優しい強さで導く手の、触れた場所が焼け爛れそうなほどの温もり。愛情深いとさえ呼べそうな、親愛に満ちた振る舞いだった。
その全てが、飼い主の挙動と態度の一つ一つが、記憶との間に齟齬を引き起こす。あの異常な部屋に受けた印象と、その部屋でこの飼い主が毎晩過ごしている異様さ。その悍ましいほどの奇怪さが、この飼い主の無邪気な様子と噛み合わない。
自分は、白昼夢でも見たのだろうか。何かシステムの誤作動を起こし、ありもしない光景を見たつもりになったのだろうか。思考回路の片隅でそう考えて、だがすぐにその考えを振り払った。
あれは、確かに現実だ。あの異様な部屋は、確かに実在していたものだ。
だから、尋ねなければならない。決意して足を止めると、半歩先を歩いていた飼い主が驚いたように振り返る。怪訝そうな顔で名を呼ばれた。
「トリスタン?」
「あの部屋は、何だ」
覚悟を決めて問いをぶつける。それはあまりにも端的な言葉だったが、飼い主は正しく意図を読みとったらしかった。鳶色の目が見開かれる。
「中に、入ったのかい?」
「……」
咎めるというよりは、ただ驚いているその声。だがすぐにこの気味の悪いほどに優しい飼い主も、怒りを露にするだろう。常は穏やかなその瞳に憤りを燃やし、言い付けを破った自分を責めなじるのだろう。
その腹は決まっていた筈なのに、思わず目を伏せてしまった。それは罪悪感などではない。恐怖でもない筈だ。だが、飼い主の眼差しが変わるさまを、見ていたくもなかった。
束の間、互いに何も言わなかった。腕をやんわりと掴んだままの飼い主の手は、離れていくことも力を込めることもしなかった。だがやがて、飼い主の静かな声が聴覚機関に届いた。
「悪い子だね。トリスタン」
感情の色のない声に、肩が跳ねるのを自覚した。その声は冷ややかなわけではない。責め立てる強さを含んでもいない。平坦なその声が、却って飼い主の憤りの深さを表しているようだった。
ただ一言だけを漏らした飼い主は、また口を閉じている。許しを乞えば、それは与えられるのか。自分が必死で謝罪をしたなら、飼い主はもう一度微笑んでくれるのか。
思考回路の一部が打ち出した考えに、その思念が浮かんだことに、自分で驚愕した。許されたいなどと、微笑みかけられたいなどと、思ってはいない筈なのにと。
だが、そうすべきなのかもしれない。決して許されずとも、謝罪をすべきなのかもしれない。小さく息を吸って口を開こうとした、その時だった。
「……冗談だよ」
ひどく柔らかな声で飼い主が告げ、腕を掴んでいなかった側の手が顎に掛かった。その意外さに抵抗も忘れ、触れる手に促されるままに目を上げる。驚きに言葉も出ないまま、飼い主の瞳を見つめる。
ごく自然で優しげな微笑みを浮かべ、飼い主はこちらに視線を注いでいた。やはり穏やかで優しい声音で、宥めるように囁かれる。
「そんな顔をしないで。そろそろ、君にも教えるつもりだったんだ」
廊下で立ち話もなんだから、居間に行こうか。微笑んだ飼い主に軽く腕を引かれ、戸惑いながら頷いた。
促されるままに長椅子に腰を下ろすと、飼い主は当然のように隣に腰を下ろした。ようやく腕を離してくれたその手が、今度は手に触れて指を絡ませてくる。
言葉なく促されたように感じ、躊躇いながら飼い主の顔に視線を向けた。真っ直ぐに見返してくれた飼い主は、やはり優しく微笑んでいた。
「君には、どこから話せばいいだろうね」
穏やかな声で独り言のように呟きながら、飼い主はゆっくりとした指の動きでこちらの手の甲をなぞっている。やがて言葉が纏まったのか悪戯な指先を止めた飼い主は、笑みを深めて口を開いた。
「私のことから、まず話そうか。……私は、四百年近く生きている。不老ではないけれど、不死の宿命を背負って生まれてきた人間なんだ」
あまりに突拍子もない言葉に、耳を疑った。飼い主の鳶色の瞳を凝視する。穏やかに視線を受け止めた飼い主はただ微笑み、異様なほどの平静さで言葉を続けた。
「私は君のことを、君とまた会える日を、長い人生の中でいつも待ち続けてきた。いつも君を探しながら、時を過ごしてきた。君は君として生まれてきてくれるより前から、三百年以上も前から、ずっと私の恋人だったんだ」
「最初の君は、私が初めて出会った君は、警察官だった。私は過去に犯した罪のために君に長いこと信用してはもらえなくて、けれど最後には分かり合うことができた。一緒に過ごせた時間はあまりにも短かったけれど、深く愛し合っていたんだよ」
語る飼い主の声音は穏やかで、平静で、微風のようなのどかさで流れ続ける。紡がれる「二人の歴史」には一欠片の現実性もないというのに、飼い主の声は揺るぎない響きをしていた。その絵空事を確かな事実と、自ら体験した確たる記憶だと、飼い主は腹の底から信じ込んでいるらしかった。
「最初の君を看取って、独りで残されて、寂しさに気が狂いそうになったよ。君の後を追いたいとさえ思った。けれど君が遺してくれた約束があったから、何とか耐えられた」
飼い主の声が、僅かに濁った。寸の間だけ悲しみの翳りを帯びたその声は、しかしすぐに柔らかな甘さを取り戻す。
「必ず生まれ変わってくれると、また生まれ直して私に会いに来てくれると、最初の君が約束してくれたんだ。そして、君はそれを果たしてくれた。何度命を終えても、何度生まれ変わっても、君はまた私に会いに、帰って来てくれた」
二番目の君は違う大陸で生まれて、遠く海を越えて私のところに戻ってきてくれた。そして三番目の君は、四番目の君は。
飼い主の語る言葉が、あまりにも愛おしげなその声が、思考を上滑りしていく。確かに聞こえているそれを、悍ましいまでに異様なその内容を、理解することができない。
「今の君は、最初の君が命を閉じてしまったあの日の、ちょうど三百年後に生まれて来たそうだね。運命を感じるよ」
愛しげに微笑んだ飼い主に、優しく頬を撫でられる。その感触に、ようやく呼吸を思い出した。
ありえない。ただの妄想だ。生まれ変わりなど、不死など、ありえる筈がない。
「貴方は、狂っている」
「君のせいだよ」
声を押し出してようやくそれだけを言うことができたが、飼い主は気に留めた素振りも見せなかった。変わらず穏やかに微笑んで、蕩けるような甘さの声音で囁く。
「君が、私を狂わせたんだ」
蜜のような声で囁きながら、飼い主はまた頬に触れてきた。温かで厚い掌に頬を包まれる。思わず身を引こうとしたが、繋がれたままの手がそれを許さなかった。
「君はいつも、私を置いていく。何度も何度も、私を置いて居なくなってしまう。また必ず生まれて来てくれると知っていても、君は必ず約束を守ってくれる人だと分かっていても、堪らなく寂しかったよ」
変わらず優しく甘い、人工甘味料のような飼い主の声音。だがその声の奥底に、何か不吉で凶暴な感情を聞き取った気がした。地の底で音も立てずに燃える地獄の業火にも似た、仄暗い激情を。
「だから、ね。君がこうして死なない体で戻って来てくれて、私はとても嬉しいんだよ。君にも残念ながら『寿命』があるのは知っているけれど、以前の君達と過ごしたよりはずっと長い間、また君と一緒に暮らせるんだね」
心から幸せで堪らないとでもいうように、飼い主は小さな声を立てて笑った。けれどその幸福そうな笑声には、やはりどこか不吉で凶悪な響きがある。
「でもね。少しだけ、疲れてしまったよ。いつかまた君を見送らなければいけないことに。いつかまた君と引き裂かれて、君の帰りを独りで待たなければならないことに」
頬に添えられたままだった飼い主の手が、するりと滑り下りる。そして同じ手が、首筋に掛かるのを感じた。
「ねえ、トリスタン。一緒に死のうか」
微笑みながら、戯れるようなごく軽い力で首を絞めながら、飼い主はどこまでも甘やかな声で囁いた。優しく寂しげに微笑む瞳の底には、狂気に似た光。その異様な光に、圧倒される。
何を、馬鹿げたことを。「死ぬ」のは人間であるこの飼い主だけだ。自分はただ壊れて、廃棄されるだけだ。そう言い返したいのに、そうすべきなのに、なぜか言葉が出てこない。
緩やかに首を絞める手を振り払うことも忘れ、呆然と鳶色の瞳を見つめる。そのまま、永遠のような数瞬が流れ去った。
「……冗談だよ」
前触れもなく、飼い主はそう言って笑った。その笑みには先程までの狂的で凶暴な翳りは、どこにもない。昨日までと同じ、どこまでも穏やかで愛しげな笑顔だった。
「怖がらせて悪かったね。そんな顔をしないで」
首筋を離れてまた頬に触れた手は、その温もりは、驚くべき自然さで人造皮膚に馴染んだ。そのことに自分で驚いていると、飼い主は小さく苦笑した。
「いろんなことを一度に話したから、驚かせてしまったね。でも、心配は要らないよ。君も必ず、また思い出してくれる筈だから。今までも、ずっとそうだったから」
安心させるように微笑んだ飼い主が、ふと眉根を下げた。寸の間言葉に迷うような顔をして、そしてまた口を開く。
「……今夜も、一緒に寝てくれるかい?」
ひどく自信のなさげな様子で、飼い主に問われる。それでようやく我に返った。
考えるまでもない問い掛けだった。答えなど、決まりきっている。自分には拒絶する権利など、最初からないのだから。
「貴方が、望むなら」
初めて飼い主に抱かれた次の夜からも、異常な「二人の物語」を語られた日の夜からも、飼い主の態度が大きく変わることは全くなかった。変わらず親切で温かな態度でこの自分を遇し、無機物でしかない自分を人間のように扱おうとする。
唯一起こった変化は、ようやく飼い主がこの自分を本来の用途で使うようになったこと。けれどそれも、さほど頻繁ではない。数日おきに、時には週に一度もない程度の疎らな頻度でだけ、飼い主はこの体を抱く。
その多くない性行為の機会にさえも、飼い主は決して「無理強い」をしようとはしなかった。夕食の片付けを終えて居間で並んで座っている時間に、あるいはもっと早い時間帯に、飼い主はそっと手を取って指を絡ませてくる。自信のなさげな声音で、窺うように尋ねてくる。
『今夜、いいかな』
拒否権など初めから持たない自分は、問い掛けにただ頷くことしか知らない。それでも飼い主は必ず安堵したように微笑んで、ありがとうと囁いて、そして触れるだけのキスを寄越す。
抱かれる寝室は自分に与えられた部屋である場合もあれば、飼い主自身の寝間でそれが為される夜もある。場所がどこであれ、飼い主はいつもひたむきな優しさで、困惑させられるほどの熱心さで、この体に触れる。
数えきれないほどの、啄むような口付け。必要もないのに施される、丁寧な前戯。無意味な「恋人ごっこ」に飼い主が飽きる様子は、まだない。
乱れるシーツに縋り付く手を飼い主はいつも引き剥がして、同じ手に指を絡ませてくる。促されてしがみついた広い背中には、古傷の引き攣れが感じ取れた。
この無益そのものの遊戯を、どこまでも一方通行の疑似恋愛を、飼い主は腹の底から楽しんでいる様子に見える。心の底から愛おしいとでも言いたげな眼差しでこの自分を見つめ、ただ一度だけ覗かせた凶暴で狂的な感情は、もう全く見せない。この自分が戸惑いに似た擬制感情に悩まされていることになど、飼い主は気付いてもいないのだろう。
寝台で飼い主の熱に翻弄されるたびに、得体の知れない虚しさが募る。ひどく空虚に感じられる擬制感情が、抱かれるごとに胸郭の中に満ちていく。確かに役立ててもらえている筈でありながら、居場所のないような落ち着かない思いが付き纏って離れない。
『愛してるよ、私のトリスタン』
甘く熱く囁かれるたびに、胸が強く締め付けられるように感じる。愛おしげに口付けられるたびに、何かが突き刺さるように胸部が痛覚を訴えかける。
これは、一体どうした事なのだ。まるでファントムペインのようなこの不可解な痛みは、何ものなのだ。何度自問しても、答えは出なかった。
滑らかなシーツに包み込まれている感触。閉じた瞼の向こうから、朝の光が忍び込む。
目を開ける。アイカメラは天井の落ち着いた色を捉えた。横たわったまま、辺りを見回してみる。
飼い主は居ない。広い寝台に、虚ろな寝室に、自分だけが取り残されていた。
のろのろと身を起こしたとき、気付いた。清められ夜着を着せられた、自分の体に。
シーツに手を滑らせてみる。白々しい色をしたそれは冷えきって、残り香も温もりも何もかもが既に消え失せていた。
飼い主は一体どれほど前に、この部屋を出ていったのだろう。自分を残して、自分だけをここに置き去りにして、どこへ行ったのだろう。
見回すと、ベッドサイドの小机に書き置きがあるのが目に留まった。手を伸ばして拾い上げ、目を走らせる。手書きの端正な文字が、そこには綴られていた。
『昨夜は無理をさせてすまなかった。今日はゆっくり休むといい』
そうした労りの言葉から始まる、優しい手紙だった。目覚める時に傍にいられないことへの謝罪。また夕方までには戻る、という約束。
君はとても綺麗で可愛らしかったよ。甘やかなその結びの言葉に、頬が熱くなった。見せる相手もいない場で無益な反応をする自分に気付き、呆れる。
寝台を這い出ると、腰の奥が鈍く痛んだ。以前置かれていた場所では毎日感じるのが当然だった、存在理由さえ分からぬその痛み。久しぶりに訪れたそれは、記憶の中のものよりも重く鈍く痛む気がした。
ひどく虚無的な擬制感情が、胸郭を満たしていた。ようやく役割を果たせたというのに、ようやく役立つことができたというのに。
なぜ、こんな気分になっているのか。一体何が、この胸は不満だというのか。自分でも、理解できなかった。
飼い主の寝室を出たものの、食事を用意してあるというダイニングルームに行く気にもなれなかった。けれど、与えられた部屋に戻る気にもなれない。
外に出るような気分でもない。行きたい場所も、迎え入れてくれる他の場所も、元より自分にはない。この家以外のどこにも、行く場所はない。どこにも帰れない。
窓の外を見ると、まだ陽は天頂に辿り着いてさえいなかった。飼い主の帰宅は、まだ何時間も先なのだろう。
そう考えた時、寂寥に似た擬制感情が胸を貫いた時。足が、勝手に動き出していた。
やがて立ち止まったのは、廊下の奥だった。立ち入ることを禁じられた、あの唯一の部屋の前だった。
扉に手をかけようとして、最後に僅かな躊躇を覚えた。飼い主の真剣な声と眼差しを、思い出す。
『この部屋にだけは、入らないで欲しいんだ』
飼い主自身は毎夜、この部屋に入っていく。一人きりこの部屋と向き合って、たった一人でこの部屋の空気に浸って、そして静かに「こちら側」へと戻ってくる。
この部屋はきっと、あの飼い主にとって、とても神聖な場所なのだ。他の誰にも踏み込ませてはならない、決して侵害させてはならない聖域なのだ。
そのような場所に、自分などが入っても良いものだろうか。恐れるように呟く弱気な感情を、押し殺した。
禁忌だから何だ。神聖だから、何だと言うのだ。
もしかしたら、自分は罰が欲しいのかもしれない。優しい水の檻に自分を閉じ込めている飼い主を、愛しているなどと囁いてみせながら後朝を共に迎えてさえくれないあの人間を、激しく動揺させてやりたいのかもしれない。
罰するならば、罰すればいい。自暴自棄な気分で、禁断の扉を押し開けた。
部屋の中には、自分が二体並んでいた。
「……!」
思わず立ち尽くす。二体の自分が、物も言わず見つめ返した。
その片割れは、鏡だ。数秒置いて、やっとそれに気が付いた。入口の正面に据え付けられた鏡に、自分が映っている。呆然と目を見開いて、立ち竦んでいる自分の姿。
では、もう一体は、何だ。
恐る恐る、部屋に足を踏み入れた。同時に、鏡の中の自分も歩き出す。だが、もう一体の自分は動かない。椅子に腰掛けて、ほんの微かに微笑んで、無言でこちらを見つめている。
その「自分」に近づいて、息を詰めて観察する。手を伸ばして、それに触れた。
そこにあったのは、等身大の肖像画だった。かなり古い品物だ。もしかすると、描かれてから五十年や百年ではきかないのかもしれない。骨董品と呼べそうなそれは、描かれている衣装も比例するように古めかしかった。
今から百五十年ほど前に懐古主義が一大ブームとなり、肖像画を描かせることが流行ったことは、知識として知っている。これもおそらく、その当時の品なのだろう。
だが。ならばなぜ、自分の絵が、ここに。つい最近この家に買い取られて来たばかりの自分の絵が、百五十年前には設計図としてさえ存在していなかった自分の肖像画が、どうして。
そしてなぜあの飼い主は、肖像画と鏡のほかに目を引く物のないこのような部屋に、夜毎に籠るのだ。この自分に用があるならば、ただ部屋を訪れさえすれば良いものを。
飼い主は、フィリップは、一体何を考えているのだ。
分からない。分からない。答えを与えてくれる者も、ここには居ない。
無意識に、後退りをしていたらしい。肩が壁際の本棚に触れて我に返り、反射的に視線を向ける。そして、また息を呑んだ。
その書棚には本ではなく、無数の写真立てが置かれていた。大きさも色も形も素材も様々の品々。その全ての中からは、「自分」がこちらに視線を向けていた。
困ったような顔。ぎこちない下手な笑顔。うたた寝をしている姿。その全ては確かに自分の姿でありながら、その服装や背景は、自分では決して有り得なかった。
この異様な写真は何だ。ここに写っているのは誰なのだ。この部屋は、何なのだ。
混乱し、困惑し、殆ど錯乱せんばかりになる。立っているのが、やっとだった。
ふと気がつくと、与えられた部屋で呆然と寝台に腰を下ろしていた。
どれほど前にあの異様な部屋を出たのかさえ、思い出せない。身に覚えのない「自分」に埋め尽くされた、あまりにも異常なあの部屋。
扉は元通りに閉めただろうか。ちらりと考えたが、確かめに行く勇気が持てなかった。
窓の外では、陽が随分と傾いている。飼い主はそろそろ戻る頃だろうか。そう考えた折しも、玄関の方向から物音がした。その音で我に返り、反射的に立ち上がる。
玄関へと駆けつけると、ちょうど施錠を終えた飼い主が振り返った。常のように、少し疲れた顔をして笑う。
「ただいま」
優しく微笑む飼い主が、こちらへ手を伸ばしてくる。思わず身を硬らせるが、逃げる間も無く抱きすくめられた。
「今日は傍に居てあげられず、すまなかったね。寂しくなかったかい?」
甘やかで優しい声に問われ、寸の間答えに迷う。どのように返答することが、この飼い主を喜ばせるのだろう。
だが結論が出る前に、体が動いていた。気付けば自分の腕が飼い主の背中を抱き返していて、縋るようにその肩に顔を押し付けていた。
思いがけない自分の行動に、一拍遅れて狼狽する。だが慌てて離れるより早く、甘やかな声で笑った飼い主が一層強い力で抱き返してきた。
「寂しがらせてごめんよ。明日は、ずっと君と一緒に居るから」
蕩けるように甘い声で囁かれ、頬に口付けられる。触れられた場所に熱が灯るのを、はっきりと感じた。
もう一度しっかりと抱擁してくれた飼い主が、名残惜しげに腕を解いた。優しく腕を取られ、家奥へと導かれる。
「夕飯は一緒に作ろうか。何が食べたい?」
尋ねる飼い主の、屈託のない笑顔。優しい強さで導く手の、触れた場所が焼け爛れそうなほどの温もり。愛情深いとさえ呼べそうな、親愛に満ちた振る舞いだった。
その全てが、飼い主の挙動と態度の一つ一つが、記憶との間に齟齬を引き起こす。あの異常な部屋に受けた印象と、その部屋でこの飼い主が毎晩過ごしている異様さ。その悍ましいほどの奇怪さが、この飼い主の無邪気な様子と噛み合わない。
自分は、白昼夢でも見たのだろうか。何かシステムの誤作動を起こし、ありもしない光景を見たつもりになったのだろうか。思考回路の片隅でそう考えて、だがすぐにその考えを振り払った。
あれは、確かに現実だ。あの異様な部屋は、確かに実在していたものだ。
だから、尋ねなければならない。決意して足を止めると、半歩先を歩いていた飼い主が驚いたように振り返る。怪訝そうな顔で名を呼ばれた。
「トリスタン?」
「あの部屋は、何だ」
覚悟を決めて問いをぶつける。それはあまりにも端的な言葉だったが、飼い主は正しく意図を読みとったらしかった。鳶色の目が見開かれる。
「中に、入ったのかい?」
「……」
咎めるというよりは、ただ驚いているその声。だがすぐにこの気味の悪いほどに優しい飼い主も、怒りを露にするだろう。常は穏やかなその瞳に憤りを燃やし、言い付けを破った自分を責めなじるのだろう。
その腹は決まっていた筈なのに、思わず目を伏せてしまった。それは罪悪感などではない。恐怖でもない筈だ。だが、飼い主の眼差しが変わるさまを、見ていたくもなかった。
束の間、互いに何も言わなかった。腕をやんわりと掴んだままの飼い主の手は、離れていくことも力を込めることもしなかった。だがやがて、飼い主の静かな声が聴覚機関に届いた。
「悪い子だね。トリスタン」
感情の色のない声に、肩が跳ねるのを自覚した。その声は冷ややかなわけではない。責め立てる強さを含んでもいない。平坦なその声が、却って飼い主の憤りの深さを表しているようだった。
ただ一言だけを漏らした飼い主は、また口を閉じている。許しを乞えば、それは与えられるのか。自分が必死で謝罪をしたなら、飼い主はもう一度微笑んでくれるのか。
思考回路の一部が打ち出した考えに、その思念が浮かんだことに、自分で驚愕した。許されたいなどと、微笑みかけられたいなどと、思ってはいない筈なのにと。
だが、そうすべきなのかもしれない。決して許されずとも、謝罪をすべきなのかもしれない。小さく息を吸って口を開こうとした、その時だった。
「……冗談だよ」
ひどく柔らかな声で飼い主が告げ、腕を掴んでいなかった側の手が顎に掛かった。その意外さに抵抗も忘れ、触れる手に促されるままに目を上げる。驚きに言葉も出ないまま、飼い主の瞳を見つめる。
ごく自然で優しげな微笑みを浮かべ、飼い主はこちらに視線を注いでいた。やはり穏やかで優しい声音で、宥めるように囁かれる。
「そんな顔をしないで。そろそろ、君にも教えるつもりだったんだ」
廊下で立ち話もなんだから、居間に行こうか。微笑んだ飼い主に軽く腕を引かれ、戸惑いながら頷いた。
促されるままに長椅子に腰を下ろすと、飼い主は当然のように隣に腰を下ろした。ようやく腕を離してくれたその手が、今度は手に触れて指を絡ませてくる。
言葉なく促されたように感じ、躊躇いながら飼い主の顔に視線を向けた。真っ直ぐに見返してくれた飼い主は、やはり優しく微笑んでいた。
「君には、どこから話せばいいだろうね」
穏やかな声で独り言のように呟きながら、飼い主はゆっくりとした指の動きでこちらの手の甲をなぞっている。やがて言葉が纏まったのか悪戯な指先を止めた飼い主は、笑みを深めて口を開いた。
「私のことから、まず話そうか。……私は、四百年近く生きている。不老ではないけれど、不死の宿命を背負って生まれてきた人間なんだ」
あまりに突拍子もない言葉に、耳を疑った。飼い主の鳶色の瞳を凝視する。穏やかに視線を受け止めた飼い主はただ微笑み、異様なほどの平静さで言葉を続けた。
「私は君のことを、君とまた会える日を、長い人生の中でいつも待ち続けてきた。いつも君を探しながら、時を過ごしてきた。君は君として生まれてきてくれるより前から、三百年以上も前から、ずっと私の恋人だったんだ」
「最初の君は、私が初めて出会った君は、警察官だった。私は過去に犯した罪のために君に長いこと信用してはもらえなくて、けれど最後には分かり合うことができた。一緒に過ごせた時間はあまりにも短かったけれど、深く愛し合っていたんだよ」
語る飼い主の声音は穏やかで、平静で、微風のようなのどかさで流れ続ける。紡がれる「二人の歴史」には一欠片の現実性もないというのに、飼い主の声は揺るぎない響きをしていた。その絵空事を確かな事実と、自ら体験した確たる記憶だと、飼い主は腹の底から信じ込んでいるらしかった。
「最初の君を看取って、独りで残されて、寂しさに気が狂いそうになったよ。君の後を追いたいとさえ思った。けれど君が遺してくれた約束があったから、何とか耐えられた」
飼い主の声が、僅かに濁った。寸の間だけ悲しみの翳りを帯びたその声は、しかしすぐに柔らかな甘さを取り戻す。
「必ず生まれ変わってくれると、また生まれ直して私に会いに来てくれると、最初の君が約束してくれたんだ。そして、君はそれを果たしてくれた。何度命を終えても、何度生まれ変わっても、君はまた私に会いに、帰って来てくれた」
二番目の君は違う大陸で生まれて、遠く海を越えて私のところに戻ってきてくれた。そして三番目の君は、四番目の君は。
飼い主の語る言葉が、あまりにも愛おしげなその声が、思考を上滑りしていく。確かに聞こえているそれを、悍ましいまでに異様なその内容を、理解することができない。
「今の君は、最初の君が命を閉じてしまったあの日の、ちょうど三百年後に生まれて来たそうだね。運命を感じるよ」
愛しげに微笑んだ飼い主に、優しく頬を撫でられる。その感触に、ようやく呼吸を思い出した。
ありえない。ただの妄想だ。生まれ変わりなど、不死など、ありえる筈がない。
「貴方は、狂っている」
「君のせいだよ」
声を押し出してようやくそれだけを言うことができたが、飼い主は気に留めた素振りも見せなかった。変わらず穏やかに微笑んで、蕩けるような甘さの声音で囁く。
「君が、私を狂わせたんだ」
蜜のような声で囁きながら、飼い主はまた頬に触れてきた。温かで厚い掌に頬を包まれる。思わず身を引こうとしたが、繋がれたままの手がそれを許さなかった。
「君はいつも、私を置いていく。何度も何度も、私を置いて居なくなってしまう。また必ず生まれて来てくれると知っていても、君は必ず約束を守ってくれる人だと分かっていても、堪らなく寂しかったよ」
変わらず優しく甘い、人工甘味料のような飼い主の声音。だがその声の奥底に、何か不吉で凶暴な感情を聞き取った気がした。地の底で音も立てずに燃える地獄の業火にも似た、仄暗い激情を。
「だから、ね。君がこうして死なない体で戻って来てくれて、私はとても嬉しいんだよ。君にも残念ながら『寿命』があるのは知っているけれど、以前の君達と過ごしたよりはずっと長い間、また君と一緒に暮らせるんだね」
心から幸せで堪らないとでもいうように、飼い主は小さな声を立てて笑った。けれどその幸福そうな笑声には、やはりどこか不吉で凶悪な響きがある。
「でもね。少しだけ、疲れてしまったよ。いつかまた君を見送らなければいけないことに。いつかまた君と引き裂かれて、君の帰りを独りで待たなければならないことに」
頬に添えられたままだった飼い主の手が、するりと滑り下りる。そして同じ手が、首筋に掛かるのを感じた。
「ねえ、トリスタン。一緒に死のうか」
微笑みながら、戯れるようなごく軽い力で首を絞めながら、飼い主はどこまでも甘やかな声で囁いた。優しく寂しげに微笑む瞳の底には、狂気に似た光。その異様な光に、圧倒される。
何を、馬鹿げたことを。「死ぬ」のは人間であるこの飼い主だけだ。自分はただ壊れて、廃棄されるだけだ。そう言い返したいのに、そうすべきなのに、なぜか言葉が出てこない。
緩やかに首を絞める手を振り払うことも忘れ、呆然と鳶色の瞳を見つめる。そのまま、永遠のような数瞬が流れ去った。
「……冗談だよ」
前触れもなく、飼い主はそう言って笑った。その笑みには先程までの狂的で凶暴な翳りは、どこにもない。昨日までと同じ、どこまでも穏やかで愛しげな笑顔だった。
「怖がらせて悪かったね。そんな顔をしないで」
首筋を離れてまた頬に触れた手は、その温もりは、驚くべき自然さで人造皮膚に馴染んだ。そのことに自分で驚いていると、飼い主は小さく苦笑した。
「いろんなことを一度に話したから、驚かせてしまったね。でも、心配は要らないよ。君も必ず、また思い出してくれる筈だから。今までも、ずっとそうだったから」
安心させるように微笑んだ飼い主が、ふと眉根を下げた。寸の間言葉に迷うような顔をして、そしてまた口を開く。
「……今夜も、一緒に寝てくれるかい?」
ひどく自信のなさげな様子で、飼い主に問われる。それでようやく我に返った。
考えるまでもない問い掛けだった。答えなど、決まりきっている。自分には拒絶する権利など、最初からないのだから。
「貴方が、望むなら」
初めて飼い主に抱かれた次の夜からも、異常な「二人の物語」を語られた日の夜からも、飼い主の態度が大きく変わることは全くなかった。変わらず親切で温かな態度でこの自分を遇し、無機物でしかない自分を人間のように扱おうとする。
唯一起こった変化は、ようやく飼い主がこの自分を本来の用途で使うようになったこと。けれどそれも、さほど頻繁ではない。数日おきに、時には週に一度もない程度の疎らな頻度でだけ、飼い主はこの体を抱く。
その多くない性行為の機会にさえも、飼い主は決して「無理強い」をしようとはしなかった。夕食の片付けを終えて居間で並んで座っている時間に、あるいはもっと早い時間帯に、飼い主はそっと手を取って指を絡ませてくる。自信のなさげな声音で、窺うように尋ねてくる。
『今夜、いいかな』
拒否権など初めから持たない自分は、問い掛けにただ頷くことしか知らない。それでも飼い主は必ず安堵したように微笑んで、ありがとうと囁いて、そして触れるだけのキスを寄越す。
抱かれる寝室は自分に与えられた部屋である場合もあれば、飼い主自身の寝間でそれが為される夜もある。場所がどこであれ、飼い主はいつもひたむきな優しさで、困惑させられるほどの熱心さで、この体に触れる。
数えきれないほどの、啄むような口付け。必要もないのに施される、丁寧な前戯。無意味な「恋人ごっこ」に飼い主が飽きる様子は、まだない。
乱れるシーツに縋り付く手を飼い主はいつも引き剥がして、同じ手に指を絡ませてくる。促されてしがみついた広い背中には、古傷の引き攣れが感じ取れた。
この無益そのものの遊戯を、どこまでも一方通行の疑似恋愛を、飼い主は腹の底から楽しんでいる様子に見える。心の底から愛おしいとでも言いたげな眼差しでこの自分を見つめ、ただ一度だけ覗かせた凶暴で狂的な感情は、もう全く見せない。この自分が戸惑いに似た擬制感情に悩まされていることになど、飼い主は気付いてもいないのだろう。
寝台で飼い主の熱に翻弄されるたびに、得体の知れない虚しさが募る。ひどく空虚に感じられる擬制感情が、抱かれるごとに胸郭の中に満ちていく。確かに役立ててもらえている筈でありながら、居場所のないような落ち着かない思いが付き纏って離れない。
『愛してるよ、私のトリスタン』
甘く熱く囁かれるたびに、胸が強く締め付けられるように感じる。愛おしげに口付けられるたびに、何かが突き刺さるように胸部が痛覚を訴えかける。
これは、一体どうした事なのだ。まるでファントムペインのようなこの不可解な痛みは、何ものなのだ。何度自問しても、答えは出なかった。
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