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アンドリューとは、アテーシアの心から片時も離れることのない存在であった。
アテーシアの教育は、アンドリューの妃となる為に為されるものであったし、幼い頃に将来の伴侶と定められて、それは愛情を交わし合う間柄なのだと思っていた。
けれども、肝心のアンドリューには全然会えない。会えても何処かぎこちなく、アテーシアに満足に笑みすら見せてはくれなかった。
それがある日、小さなアテーシアの手を引いて、アンドリューが王城の図書室を案内してくれた事があった。薄暗く古い紙の匂いに満ちた空間は少し怖く感じたが、アテーシアの手を握りしめるアンドリューの手の熱さが頼もしく感じられたのを、今もはっきり憶えている。
それからも、相変わらず関係は疎遠なままで、アテーシアは自分はアンドリューに嫌われてしまったのだと思った。
十二歳の頃にはその原因に行き着いて、軍神アテーナの名を貰った自身の名前が悪いのだ、名前が強いからだと思い至った。
「アテーシア」
今は馬車の中にいて、アンドリューは向かい側の席で、長くて持て余すのか足を組んでこちらを見据えている。
「アテーシア?聴こえていないのかなあ。」
「...聴こえております。」
この場面ばかりを切り取ったなら、きっと薄情なのはアテーシアの方に見えるだろう。
けれども実際はそうではなくて、アンドリューは今朝馬車に乗ってから、ずっとアテーシアから目を離さずに、こうして意味もなく名を呼ぶのを繰り返していた。
狭い馬車の中であるのに、向かい合わせに座る二人の間には何処で見繕ったのかパーテーションが置かれて、昨日はずっとアテーシアの隣に張り付いていたアンドリューは、向かいの席からこちらへは来られない様にされている。
パーテーションを設置したのはベンジャミンで、昨晩宿泊した宿で、夜半にアテーシアの部屋に忍び込もうとしたアンドリューへの制裁であるらしかった。
寝つきの良いアテーシアは、爆睡していたから全く気が付かなかったのだが、アンドリューがベンジャミンに見つかってボンジャミンに羽交い締めにされた話しは朝餉の席で聞いた事である。
ベン・ボン兄弟を剣士としてリスペクトしているらしいアンドリューは、王太子に対して有り得ない態度で接する兄弟にも寛容である。
だから今も大人しくアテーシアと離ればなれにされて、それが不服であるのを紛らわせるのに意味もなく名を呼ぶのであった。
六年間もつれない態度であったアンドリューが、互いの思い違いや誤解が解れてからは行き成り距離を詰めて、それはベンジャミン・ボンジャミンの警戒を呼ぶ程であった。
学園に入ってからは、身バレしていないと信じきって自由に過ごすアテーシアを、きっとどこかで楽しんで見ていたのだろう。
辺境伯領でミカエルとなってアテーシアと剣の稽古に勤しむアンドリューは、ただの無位の青年でアテーシアが心を許した友であった。
湖に向かう小径を歩くのに、アテーシアが転ばぬ様に手を繋ぎ半歩先を歩くアンドリューは、今思えばあの幼い頃に王城の図書室を一緒に歩いたアンドリューを彷彿とさせた。
今もこちらを、まるで射抜くように見つめるアンドリューの青い瞳を、アテーシアもまた見つめ返す。それを面白く思ったのか、アンドリューは不敵な笑みを浮かべて悪戯を仕掛けてきた。
余程足を持て余すのか、長い足を組み替えた序でに、アンドリューがその爪先でパーテーションからこちら側へ侵入を試みた。途端に窓が叩かれそれも左右両側の窓で、右がベンジャミン、左がボンジャミンで二人同時に窓を叩いた。
近衛騎士等は幾人もいるのに、ベン・ボン二人の暴挙を誰一人止められない。御者席の隣に追いやられた護衛騎士も、何も見えない聞こえないと二人を見逃している。
懲りないアンドリューが再び侵入を試みる。今度はパーテーションを足でそっと押してきて、パーテーションごとアテーシアの陣地に分け入る戦略らしい。
そう来たか。
アテーシアは、売られた喧嘩は漏れなく回収する質であったから、アンドリューが押してきたパーテーションを爪先を伸ばしてそっと押し返した。
アテーシアが押し返せばアンドリューが再び押す。押されれば押し返す。馬車の天井から見たなら、向かい合う二人の間でパーテーションが微妙に行ったり来たりを繰り返して勝手に動いているように見えるだろう。
「ふふ」
アテーシアは、思わず笑いが漏れてしまった。アンドリューの子供じみた悪戯が可笑しかった。もっと早くお互い素直になれていたなら、こんな日常を二人で過ごしてこられたのだろう。
勿体無い事をしてしまった。
疎遠であっても慕っていたし、六年間も思慕を募らせ温めていたから、もう一度それに気付いてしまえば忘れる事は出来なくなった。
「お慕いしております」
アテーシアは、今度は素直になろうと思った。素直に言葉に出してみた。途端にパーテーションが大きくこちらに寄せられて、アンドリューがすぐ目の前に接近した。
アテーシアの顔の両側にアンドリューの腕が置かれて、こ、これは『週刊貴婦人』で読んだ小説の、所謂「壁ドン」だわとアテーシアが思った瞬間、触れるだけのキスが降って来た。
ベンジャミンとボンジャミンが左右の窓を連打する。そんなのは御構い無しなアンドリューは、次第に濃く甘やかな口付けでアテーシアを蕩かした。
アテーシアの教育は、アンドリューの妃となる為に為されるものであったし、幼い頃に将来の伴侶と定められて、それは愛情を交わし合う間柄なのだと思っていた。
けれども、肝心のアンドリューには全然会えない。会えても何処かぎこちなく、アテーシアに満足に笑みすら見せてはくれなかった。
それがある日、小さなアテーシアの手を引いて、アンドリューが王城の図書室を案内してくれた事があった。薄暗く古い紙の匂いに満ちた空間は少し怖く感じたが、アテーシアの手を握りしめるアンドリューの手の熱さが頼もしく感じられたのを、今もはっきり憶えている。
それからも、相変わらず関係は疎遠なままで、アテーシアは自分はアンドリューに嫌われてしまったのだと思った。
十二歳の頃にはその原因に行き着いて、軍神アテーナの名を貰った自身の名前が悪いのだ、名前が強いからだと思い至った。
「アテーシア」
今は馬車の中にいて、アンドリューは向かい側の席で、長くて持て余すのか足を組んでこちらを見据えている。
「アテーシア?聴こえていないのかなあ。」
「...聴こえております。」
この場面ばかりを切り取ったなら、きっと薄情なのはアテーシアの方に見えるだろう。
けれども実際はそうではなくて、アンドリューは今朝馬車に乗ってから、ずっとアテーシアから目を離さずに、こうして意味もなく名を呼ぶのを繰り返していた。
狭い馬車の中であるのに、向かい合わせに座る二人の間には何処で見繕ったのかパーテーションが置かれて、昨日はずっとアテーシアの隣に張り付いていたアンドリューは、向かいの席からこちらへは来られない様にされている。
パーテーションを設置したのはベンジャミンで、昨晩宿泊した宿で、夜半にアテーシアの部屋に忍び込もうとしたアンドリューへの制裁であるらしかった。
寝つきの良いアテーシアは、爆睡していたから全く気が付かなかったのだが、アンドリューがベンジャミンに見つかってボンジャミンに羽交い締めにされた話しは朝餉の席で聞いた事である。
ベン・ボン兄弟を剣士としてリスペクトしているらしいアンドリューは、王太子に対して有り得ない態度で接する兄弟にも寛容である。
だから今も大人しくアテーシアと離ればなれにされて、それが不服であるのを紛らわせるのに意味もなく名を呼ぶのであった。
六年間もつれない態度であったアンドリューが、互いの思い違いや誤解が解れてからは行き成り距離を詰めて、それはベンジャミン・ボンジャミンの警戒を呼ぶ程であった。
学園に入ってからは、身バレしていないと信じきって自由に過ごすアテーシアを、きっとどこかで楽しんで見ていたのだろう。
辺境伯領でミカエルとなってアテーシアと剣の稽古に勤しむアンドリューは、ただの無位の青年でアテーシアが心を許した友であった。
湖に向かう小径を歩くのに、アテーシアが転ばぬ様に手を繋ぎ半歩先を歩くアンドリューは、今思えばあの幼い頃に王城の図書室を一緒に歩いたアンドリューを彷彿とさせた。
今もこちらを、まるで射抜くように見つめるアンドリューの青い瞳を、アテーシアもまた見つめ返す。それを面白く思ったのか、アンドリューは不敵な笑みを浮かべて悪戯を仕掛けてきた。
余程足を持て余すのか、長い足を組み替えた序でに、アンドリューがその爪先でパーテーションからこちら側へ侵入を試みた。途端に窓が叩かれそれも左右両側の窓で、右がベンジャミン、左がボンジャミンで二人同時に窓を叩いた。
近衛騎士等は幾人もいるのに、ベン・ボン二人の暴挙を誰一人止められない。御者席の隣に追いやられた護衛騎士も、何も見えない聞こえないと二人を見逃している。
懲りないアンドリューが再び侵入を試みる。今度はパーテーションを足でそっと押してきて、パーテーションごとアテーシアの陣地に分け入る戦略らしい。
そう来たか。
アテーシアは、売られた喧嘩は漏れなく回収する質であったから、アンドリューが押してきたパーテーションを爪先を伸ばしてそっと押し返した。
アテーシアが押し返せばアンドリューが再び押す。押されれば押し返す。馬車の天井から見たなら、向かい合う二人の間でパーテーションが微妙に行ったり来たりを繰り返して勝手に動いているように見えるだろう。
「ふふ」
アテーシアは、思わず笑いが漏れてしまった。アンドリューの子供じみた悪戯が可笑しかった。もっと早くお互い素直になれていたなら、こんな日常を二人で過ごしてこられたのだろう。
勿体無い事をしてしまった。
疎遠であっても慕っていたし、六年間も思慕を募らせ温めていたから、もう一度それに気付いてしまえば忘れる事は出来なくなった。
「お慕いしております」
アテーシアは、今度は素直になろうと思った。素直に言葉に出してみた。途端にパーテーションが大きくこちらに寄せられて、アンドリューがすぐ目の前に接近した。
アテーシアの顔の両側にアンドリューの腕が置かれて、こ、これは『週刊貴婦人』で読んだ小説の、所謂「壁ドン」だわとアテーシアが思った瞬間、触れるだけのキスが降って来た。
ベンジャミンとボンジャミンが左右の窓を連打する。そんなのは御構い無しなアンドリューは、次第に濃く甘やかな口付けでアテーシアを蕩かした。
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