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アンドリューは、昨日は辺境伯に案内されて領内の視察に出でいたらしい。それは騎士団も含まれており、国境を護る騎士団の稽古も視察をしたのだと言う。お陰でアテーシアはそれに随行せずとも済んだから、バレないと解ってはいても彼等の前に姿を見せずに済んで安堵した。
「お嬢様、ご安心下さい。誰も野猿紛いの小娘と公爵令嬢を間違えません。」
後ろに控えるベンジャミンが小声で言うのを、複雑な気持ちで聞き流す。ベン・ボン兄弟はアテーシアの護衛として騎士団からは抜けていた。みんながっかりしているだろう。きっと、ミカエルも。
ベン・ボン兄弟だけでなくシアも抜けてしまったことを、剣の仲間となったばかりの彼は寂しく思ってくれるだろうか。漆黒の前髪から覗く青い瞳。彼は前髪が少しばかり長かったから、いつかシアとお揃いのぱっつん前髪にしてあげよう、きっと似合うだろう、などと考えていたのを思い出す。
「考え事かな?寂しいね、君の視界に映してもらえないのは。」
だから貴方誰?!
甘さを含むアンドリューにアテーシアは怯む。
今は、アンドリューと共に領内の視察の為に移動中であった。
馬車の中にはアンドリューとアテーシアだけで、本来彼の側から離れない侍従は御者の隣にいた。ベン・ボンは騎乗して馬車に付いている。
二人きりの空間で、饒舌なアンドリューにアテーシアは未だ慣れずにいた。確かに学園で言葉を交わしたアンドリューは、王城で会う彼よりずっと砕けて口数が多く、アテーシアがやり込められる事も度々あった。
あれは、学園に身を置くことでアンドリューなりに息抜きをしていたのだろう。学生達と肩を並べて食事を摂ったり、と、そこでアテーシアは思い出す。
アンドリューの柔らかな笑み。アテーシアが六年の間、一度も向けられなかった笑みは心を許した女性に向ける類に見えた。
学生同士であるからと、周りにも生徒等がいるからと、そう言われても不信に思う近い距離。
アテーシアは、今も忘れずにいる。
生徒会室でカロライナ嬢と肩を寄せ合うアンドリューの姿。それ以上近寄っては頭がコツンとぶつかってしまうのではと思われるほど顔を寄せ合って、楽しげに笑みを浮かべていた婚約者。
彼女はアーズビー侯爵家の長子である。弟がいるから爵位は継がない。
社交に疎いアテーシアも、彼女の名は知っていた。美しい令嬢であると聞いていた。生徒会室で一度だけ見た彼女は、噂に違わぬ可憐な令嬢であった。入学したばかりであるのに、アンドリューと共に生徒会役員に選ばれた。
アテーシアがアンドリューに齎した六年とは、彼を縛りつけるだけのものであったのだろう。
そうであれば納得出来る。
アテーシアとは、成人の年齢に達した誕生日の祝いに、貴重な薔薇の花束という名目ばかりは立派な「消え物」だけを贈られる、そういう立ち位置の婚約者である。
カロライナは家格も申し分無い。そうしてアンドリューがあんな笑みを向ける程には心を許している。そういえば、アテーシアが贈られた青い薔薇の未完成品には、青色に僅かに紫が差していた。紫はカロライナの色である。彼女の濃紺の瞳は、濃い青に紫を帯びていた。
アテーシアが心配しなくとも、事態は既に水面下で進められていたのだ。アンドリューは王太子としての事業である薔薇の品種改良を、カロライナに『Queen's rose 王妃の薔薇』を贈ることを目指して進めている。
そうして共に次代を支える貴族子女らに、未来の妃としてカロライナの姿を認めさせるのに、彼女を生徒会役員に選んだと考えれば全てが綺麗に繋がった。
アテーシアが妃教育で公爵邸に籠る間も、アンドリューと彼の側近候補達は、カロライナを含めた貴族子女等と交流を図っていた筈で、全てがすとんと腑に落ちてしまったアテーシアは、愈々引き際が近いことを悟った。
そう考えれば、アテーシアが淑女学院に入学した事にしていたのは得策であった。
この婚約が解かれたなら、アンドリューの前には姿を見せるべきでは無い。それが喩え偽りの子爵令嬢であったとしても。
ごとごと揺れる馬車の中で、アテーシアは貴族学園から淑女学院へ編入する事を決めた。それからその後の事を考える。
彼処は全寮制である。
アンドリューの婚約者から外れた後は、淑女学院へ編入しよう。その時にはパトリシアを誘おう。双子の弟と同じ空間という身の置き所の無いあの場所からも、彼女を厭う家族からも、彼女の手を取り連れ去ろう。月夜の晩ではないけれど、窓辺に現れた騎士ではないけれど、この姿のままでパトリシアを拐ってしまおう。
その時には、彼女に本当の名と身分を明かそう。アテーシアと呼んでもらおう。
馬車に揺られながら、アンドリューと向かい合う二人きりの空間で、アテーシアは只管今後の事を考えていた。
これからの自身の身の振り方。パトリシアの未来。
淑女学院に編入して卒業を迎えたなら、目指すものは一つである。アテーシアには剣がある。剣で身を立てるのが、冠を被るより余程似合っている。
ベン・ボン兄弟は王都が好きだから置いて行かねばならないが、ここならきっとアテーシアを迎え入れてくれるだろう。
その時もまだミカエルはいるだろうか。
「お嬢様、ご安心下さい。誰も野猿紛いの小娘と公爵令嬢を間違えません。」
後ろに控えるベンジャミンが小声で言うのを、複雑な気持ちで聞き流す。ベン・ボン兄弟はアテーシアの護衛として騎士団からは抜けていた。みんながっかりしているだろう。きっと、ミカエルも。
ベン・ボン兄弟だけでなくシアも抜けてしまったことを、剣の仲間となったばかりの彼は寂しく思ってくれるだろうか。漆黒の前髪から覗く青い瞳。彼は前髪が少しばかり長かったから、いつかシアとお揃いのぱっつん前髪にしてあげよう、きっと似合うだろう、などと考えていたのを思い出す。
「考え事かな?寂しいね、君の視界に映してもらえないのは。」
だから貴方誰?!
甘さを含むアンドリューにアテーシアは怯む。
今は、アンドリューと共に領内の視察の為に移動中であった。
馬車の中にはアンドリューとアテーシアだけで、本来彼の側から離れない侍従は御者の隣にいた。ベン・ボンは騎乗して馬車に付いている。
二人きりの空間で、饒舌なアンドリューにアテーシアは未だ慣れずにいた。確かに学園で言葉を交わしたアンドリューは、王城で会う彼よりずっと砕けて口数が多く、アテーシアがやり込められる事も度々あった。
あれは、学園に身を置くことでアンドリューなりに息抜きをしていたのだろう。学生達と肩を並べて食事を摂ったり、と、そこでアテーシアは思い出す。
アンドリューの柔らかな笑み。アテーシアが六年の間、一度も向けられなかった笑みは心を許した女性に向ける類に見えた。
学生同士であるからと、周りにも生徒等がいるからと、そう言われても不信に思う近い距離。
アテーシアは、今も忘れずにいる。
生徒会室でカロライナ嬢と肩を寄せ合うアンドリューの姿。それ以上近寄っては頭がコツンとぶつかってしまうのではと思われるほど顔を寄せ合って、楽しげに笑みを浮かべていた婚約者。
彼女はアーズビー侯爵家の長子である。弟がいるから爵位は継がない。
社交に疎いアテーシアも、彼女の名は知っていた。美しい令嬢であると聞いていた。生徒会室で一度だけ見た彼女は、噂に違わぬ可憐な令嬢であった。入学したばかりであるのに、アンドリューと共に生徒会役員に選ばれた。
アテーシアがアンドリューに齎した六年とは、彼を縛りつけるだけのものであったのだろう。
そうであれば納得出来る。
アテーシアとは、成人の年齢に達した誕生日の祝いに、貴重な薔薇の花束という名目ばかりは立派な「消え物」だけを贈られる、そういう立ち位置の婚約者である。
カロライナは家格も申し分無い。そうしてアンドリューがあんな笑みを向ける程には心を許している。そういえば、アテーシアが贈られた青い薔薇の未完成品には、青色に僅かに紫が差していた。紫はカロライナの色である。彼女の濃紺の瞳は、濃い青に紫を帯びていた。
アテーシアが心配しなくとも、事態は既に水面下で進められていたのだ。アンドリューは王太子としての事業である薔薇の品種改良を、カロライナに『Queen's rose 王妃の薔薇』を贈ることを目指して進めている。
そうして共に次代を支える貴族子女らに、未来の妃としてカロライナの姿を認めさせるのに、彼女を生徒会役員に選んだと考えれば全てが綺麗に繋がった。
アテーシアが妃教育で公爵邸に籠る間も、アンドリューと彼の側近候補達は、カロライナを含めた貴族子女等と交流を図っていた筈で、全てがすとんと腑に落ちてしまったアテーシアは、愈々引き際が近いことを悟った。
そう考えれば、アテーシアが淑女学院に入学した事にしていたのは得策であった。
この婚約が解かれたなら、アンドリューの前には姿を見せるべきでは無い。それが喩え偽りの子爵令嬢であったとしても。
ごとごと揺れる馬車の中で、アテーシアは貴族学園から淑女学院へ編入する事を決めた。それからその後の事を考える。
彼処は全寮制である。
アンドリューの婚約者から外れた後は、淑女学院へ編入しよう。その時にはパトリシアを誘おう。双子の弟と同じ空間という身の置き所の無いあの場所からも、彼女を厭う家族からも、彼女の手を取り連れ去ろう。月夜の晩ではないけれど、窓辺に現れた騎士ではないけれど、この姿のままでパトリシアを拐ってしまおう。
その時には、彼女に本当の名と身分を明かそう。アテーシアと呼んでもらおう。
馬車に揺られながら、アンドリューと向かい合う二人きりの空間で、アテーシアは只管今後の事を考えていた。
これからの自身の身の振り方。パトリシアの未来。
淑女学院に編入して卒業を迎えたなら、目指すものは一つである。アテーシアには剣がある。剣で身を立てるのが、冠を被るより余程似合っている。
ベン・ボン兄弟は王都が好きだから置いて行かねばならないが、ここならきっとアテーシアを迎え入れてくれるだろう。
その時もまだミカエルはいるだろうか。
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